コロナ感染拡大防止のため外出自粛が呼びかけられている今だから、過去作品をWeb公開
『せば・す・ちゃん』
監督・・・齋藤新・齋藤さやか
制作 自主映画制作工房スタジオゆんふぁ
完成日 2010年8月
時間 20分
[映画祭・コンテスト 入選・受賞]
小津安二郎記念蓼科高原映画祭 第9回短編映画コンクール(2010) 入賞
神戸アートビレッジセンター EIZO FES Part15 (2011) 入選
SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2011 最終25作品ノミネート
長岡アジア映画祭 第13回長岡インディーズムービーコンペティション (2011) 最終審査10作品ノミネート
[INTRODUCTION]
通勤のため利用する駅でいつも見かける対面ホームの女性。駅備え付けの連絡ノートを介して男はその女性との距離が縮まっていくのを感じる
台詞なし。音楽極少。熱い芝居も凝ったカメラワークもなく、ただモンタージュだけで物語を紡いでいった作品。
寡黙で滑稽で悲しい田舎の駅の一週間の物語。
[出演]
奥村壮介・・・ 百瀬学
近見更紗・・・太田貴志子
[スタッフ]
脚本・・・齋藤新
撮影、編集・・・齋藤新
音楽・・・齋藤新/齋藤さやか
アシスタント・・・横山恵/恵里佳
せばすちゃんデザイン・・・齋藤さやか
せばすちゃんの書き込み・・・横山恵
---------
【制作経緯】
2009年に松本映画祭プロジェクト様の主催で映画制作のワークショップの講師を務めることになった。
初めて映画を撮る人のとっかかりとしての教室だった。
俳優が知り合いにいる人は少ないだろうし、出演者への演技の付け方なんて自分もよくわからんし。
だから演技に頼らない映画制作を学んでもらうのがよいだろうと考えた。
そこでワークショップで説明したのは「とにかくモンタージュ」だった。
台詞がなくても演技がなくても伝えられるのが映画だと、私の愛読書の定本映画術ヒッチコック・トリュフォーをもとに色々とパワポを作っていくうちに・・・自分でもそういう映画を撮りたくなった。
そのため映画のテーマは、「台詞なし、演技なし」だった。
それで思いついたのはさかのぼること約10年前にぽしゃった短編企画だった。
10年前、それは私の松本で初めてとる映画になるはずだった。
対向式ホームの駅で、線路を挟んでいつも見かける名前も知らないあの女性に対して妄想を抱いていく男の話。
カメラを知り合いにお願いし、会社の同僚女性に出演をお願いし、私自身も出演して、実際に撮り始めた。その時も演技経験ない方のために台詞のほぼない脚本だった。
その時は松本電鉄上高地線の駅をロケ地に撮り進めた。
しかしクランクアップはしなかった。出演してくれた女性と映画と関係ない理由で喧嘩してなんか雰囲気が悪くなってしまった。その後仲直りはしたのだが、その頃はその方が妊娠しており続きを撮るのはあきらめた。
そのホンならこの「台詞なし、演技なし」企画にはうってつけだった。
それをベースにわずかにあった台詞も全部削って、結末もキャラ設定も大幅に改訂した。
【ロケ地と物語】
この映画はキャストよりもロケ地から探した。
上高地線よりもっと田舎っぽい雰囲気。
複線化区間で、時々特急が通過する駅。そして対向式ホームであること。駅舎があって簡易的な駐車場があること。
その条件を求めて、長野県では中央西線と呼ばれる、中央本線の塩尻以西の区間に駅を探しに行った。
そして最初の候補は塩尻から2駅の日出塩という駅だった。ロケハンしたときはいい感じに雰囲気ある駅舎があって、すべての条件を持たしていた。
それでタイトルを「日出塩デュオ」として脚本を書き進めた。
ある程度書き進めて改めてロケ地の写真を撮りに行ってみると・・・駅舎がなくなっていた。なんてことだ。
そこで急遽ロケ地を変更。塩尻から1駅の「洗馬(せば)」に変えた。
洗馬ももともとロケ地候補だったのだが、日出塩の方が利用客が少なそうで撮りやすそうと思ったのだ。
舞台を「洗馬」に変えたことで、新たなアイデアが沸き上がった。勝手に作ったゆるキャラ「洗馬すちゃん」を物語のキーに添えることで物語が引き締まった気がした。
【キャスティング】
次はキャストだった。
女性役にはいつも映画のスタッフとして参加していただいていたキシコさんに頼んだ。木曽在住なので洗馬での撮影というのも参加しやすいだろうということと、あと少し申し訳ないけど自分としてはモンタージュを試してみたかった。だから演技に関してはずぶの素人をつかいたかった。
主人公役は前作「夢中櫻舞」で悪役ゲオルクを演じた昭和東映ヒーロー風演技が持ち味のズバットにお願いした。演技なしの映画に役者をオファーするのも申し訳なかったが、この場合は駅や電車内での撮影で何も臆さない度胸のある奴がほしかった。(キシコもその意味の度胸はあった)
とはいえ、中盤の電車内で見せたズバットのにんまり顔は、彼の渾身の演技で、何度見ても笑ってしまう。
【制作の思い出】
撮影クルーはキャスト含めて6人という超小規模撮影。
台詞なしルールはいろいろなところに工夫を強いられ、表現を考えるのは楽しかった。
例えば、春夏秋冬いつもルーティーンのように駅に通っている女性を表現するため、夏らしさ、秋らしさ、冬らしさを出すための工夫(色紙でつくった枯葉を散らすとか)を考えるのは、高校のころの学園祭の準備でもしているような楽しさがあった。
苦労と言えば、劇中で使う電車の走行シーンを撮るために、私は一人でカメラと三脚をかついで、こう書いても伝わらないだろうが、木曽平沢から日出塩まで3駅分の線路沿いの道を歩いて様々なアングルから走行する電車を撮ったのだ。
3駅と言っても池袋~高田馬場なんかとはわけが違う。木曽山中の駅間はめちゃめちゃ距離があり、間にはコンビニはおろか民家も数えるほどしかなく、人間よりも猿とか蛇とかカモシカとかの野生動物の方によく遭遇するのだ。
でもおかげで、いい電車の絵が沢山とれた。
【作品の評価】
映画はいくつかのコンペで評価された。
落選した映画祭からは「ストーリーはよくわかったが、もっと役者に表情があってもいいと思った」という批評もあった。
演技無し、表情無し、それでも物語が伝わることが本作の目的だったので、その批評は、観客の意見としては的確かもしれないが、私としてはむしろ狙った通りと思いまったく反省はしていない。
ただしこれの次作「罪と罰と自由」でめちゃくちゃ演技演技した映画を撮りたくなったのは、「せば・す・ちゃん」の反動である。
それでも「せば・す・ちゃん」は小津安次郎記念蓼科高原映画祭に3度目の入選を果たし、しかも第3位に相当する「入賞」までいただいた。
その時の審査員長の伊藤俊也監督の評は以下の通り
「これといって思い出せないし、思い違いかもしれないが、伝言メモへの書き込みが、皮肉な思い違いを生じさせるという話は、これまでに使われたような気がしてしようがない(もし、そうでなければ、見事なアイデアを作者たちは考え出したというべきで、平にご容赦願いたい。)とはいえ、ここで主人公の男と、駅で毎日見かける女との、間に入り込む影の登場人物が、無人駅(洗馬)の一定時間にしか姿を現さない中年男子駅員(洗馬・す・ちゃん)だったというトリックが絶妙である。仕掛けは先ず台詞を排除したところにある。台詞が存在したら、月曜日から丹念に積み重ねて少しずつ男を女に接近させていくミスリードの過程が一度に吹き飛んでしまう可能性があるからだ。そして台詞の欠如を補ってなお雄弁なのが、警報機の音と電車の往来である。それだけに都合良く電車が按配されるのは気になった。普段は男の乗る電車の方が先に出るのに、女がキイホルダーを落とす場面では女の電車が先に出る。同じウィークデイのタイムテーブルが乱れているということになる。まあ、これは意地の悪いけちのつけようではある。だが女の表情を読み取らせまいとしてか(一度だけ、携帯を見た女が不如意げな表情を見せる。いわば作為として男への隙を見せたということであろう)、年頃の女性が持つ華やぎさえ封じてしまったのは、男の日に日に高まっていく期待と高揚の表情をいまひとつ欠くのと同様、最後のオチの効果を損じた。」
ちなみにこの時の映画祭で古本恭一監督と初めて会う。古本さんも「ワタシノイエ」という作品で入選を果たしていた。その4年後に小坂本町1丁目映画祭で古本さんと再会し、そこから長編2作品のコラボにつながる。
また「せば・す・ちゃん」は私としては初めて長野県以外の映画祭でも評価された作品となった。
神戸アートビレッジセンターにて行われたEIZO FESに入選した。その映画祭はグランプリなど賞を選ばないものだった。色々なジャンルの作品をチョイスしていた印象で「せば・す・ちゃん」は無言コメディ代表だったのだろうか。
他にもいつも落選だった映画祭にあと一歩のところまでいったり、個人的にはとても手ごたえを感じた作品だった。
で、今もモンタージュこそ映画だという思いは変わらない。長回しよりモンタージュの方が好きだ。(だから「1917」より「パラサイト」の方が好きだ)
とはいえ演技の熱量で圧倒する映画もやはり心を打つので、両者の間を狙うような映画を模索している。
『せば・す・ちゃん』
監督・・・齋藤新・齋藤さやか
制作 自主映画制作工房スタジオゆんふぁ
完成日 2010年8月
時間 20分
[映画祭・コンテスト 入選・受賞]
小津安二郎記念蓼科高原映画祭 第9回短編映画コンクール(2010) 入賞
神戸アートビレッジセンター EIZO FES Part15 (2011) 入選
SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2011 最終25作品ノミネート
長岡アジア映画祭 第13回長岡インディーズムービーコンペティション (2011) 最終審査10作品ノミネート
[INTRODUCTION]
通勤のため利用する駅でいつも見かける対面ホームの女性。駅備え付けの連絡ノートを介して男はその女性との距離が縮まっていくのを感じる
台詞なし。音楽極少。熱い芝居も凝ったカメラワークもなく、ただモンタージュだけで物語を紡いでいった作品。
寡黙で滑稽で悲しい田舎の駅の一週間の物語。
[出演]
奥村壮介・・・ 百瀬学
近見更紗・・・太田貴志子
[スタッフ]
脚本・・・齋藤新
撮影、編集・・・齋藤新
音楽・・・齋藤新/齋藤さやか
アシスタント・・・横山恵/恵里佳
せばすちゃんデザイン・・・齋藤さやか
せばすちゃんの書き込み・・・横山恵
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【制作経緯】
2009年に松本映画祭プロジェクト様の主催で映画制作のワークショップの講師を務めることになった。
初めて映画を撮る人のとっかかりとしての教室だった。
俳優が知り合いにいる人は少ないだろうし、出演者への演技の付け方なんて自分もよくわからんし。
だから演技に頼らない映画制作を学んでもらうのがよいだろうと考えた。
そこでワークショップで説明したのは「とにかくモンタージュ」だった。
台詞がなくても演技がなくても伝えられるのが映画だと、私の愛読書の定本映画術ヒッチコック・トリュフォーをもとに色々とパワポを作っていくうちに・・・自分でもそういう映画を撮りたくなった。
そのため映画のテーマは、「台詞なし、演技なし」だった。
それで思いついたのはさかのぼること約10年前にぽしゃった短編企画だった。
10年前、それは私の松本で初めてとる映画になるはずだった。
対向式ホームの駅で、線路を挟んでいつも見かける名前も知らないあの女性に対して妄想を抱いていく男の話。
カメラを知り合いにお願いし、会社の同僚女性に出演をお願いし、私自身も出演して、実際に撮り始めた。その時も演技経験ない方のために台詞のほぼない脚本だった。
その時は松本電鉄上高地線の駅をロケ地に撮り進めた。
しかしクランクアップはしなかった。出演してくれた女性と映画と関係ない理由で喧嘩してなんか雰囲気が悪くなってしまった。その後仲直りはしたのだが、その頃はその方が妊娠しており続きを撮るのはあきらめた。
そのホンならこの「台詞なし、演技なし」企画にはうってつけだった。
それをベースにわずかにあった台詞も全部削って、結末もキャラ設定も大幅に改訂した。
【ロケ地と物語】
この映画はキャストよりもロケ地から探した。
上高地線よりもっと田舎っぽい雰囲気。
複線化区間で、時々特急が通過する駅。そして対向式ホームであること。駅舎があって簡易的な駐車場があること。
その条件を求めて、長野県では中央西線と呼ばれる、中央本線の塩尻以西の区間に駅を探しに行った。
そして最初の候補は塩尻から2駅の日出塩という駅だった。ロケハンしたときはいい感じに雰囲気ある駅舎があって、すべての条件を持たしていた。
それでタイトルを「日出塩デュオ」として脚本を書き進めた。
ある程度書き進めて改めてロケ地の写真を撮りに行ってみると・・・駅舎がなくなっていた。なんてことだ。
そこで急遽ロケ地を変更。塩尻から1駅の「洗馬(せば)」に変えた。
洗馬ももともとロケ地候補だったのだが、日出塩の方が利用客が少なそうで撮りやすそうと思ったのだ。
舞台を「洗馬」に変えたことで、新たなアイデアが沸き上がった。勝手に作ったゆるキャラ「洗馬すちゃん」を物語のキーに添えることで物語が引き締まった気がした。
【キャスティング】
次はキャストだった。
女性役にはいつも映画のスタッフとして参加していただいていたキシコさんに頼んだ。木曽在住なので洗馬での撮影というのも参加しやすいだろうということと、あと少し申し訳ないけど自分としてはモンタージュを試してみたかった。だから演技に関してはずぶの素人をつかいたかった。
主人公役は前作「夢中櫻舞」で悪役ゲオルクを演じた昭和東映ヒーロー風演技が持ち味のズバットにお願いした。演技なしの映画に役者をオファーするのも申し訳なかったが、この場合は駅や電車内での撮影で何も臆さない度胸のある奴がほしかった。(キシコもその意味の度胸はあった)
とはいえ、中盤の電車内で見せたズバットのにんまり顔は、彼の渾身の演技で、何度見ても笑ってしまう。
【制作の思い出】
撮影クルーはキャスト含めて6人という超小規模撮影。
台詞なしルールはいろいろなところに工夫を強いられ、表現を考えるのは楽しかった。
例えば、春夏秋冬いつもルーティーンのように駅に通っている女性を表現するため、夏らしさ、秋らしさ、冬らしさを出すための工夫(色紙でつくった枯葉を散らすとか)を考えるのは、高校のころの学園祭の準備でもしているような楽しさがあった。
苦労と言えば、劇中で使う電車の走行シーンを撮るために、私は一人でカメラと三脚をかついで、こう書いても伝わらないだろうが、木曽平沢から日出塩まで3駅分の線路沿いの道を歩いて様々なアングルから走行する電車を撮ったのだ。
3駅と言っても池袋~高田馬場なんかとはわけが違う。木曽山中の駅間はめちゃめちゃ距離があり、間にはコンビニはおろか民家も数えるほどしかなく、人間よりも猿とか蛇とかカモシカとかの野生動物の方によく遭遇するのだ。
でもおかげで、いい電車の絵が沢山とれた。
【作品の評価】
映画はいくつかのコンペで評価された。
落選した映画祭からは「ストーリーはよくわかったが、もっと役者に表情があってもいいと思った」という批評もあった。
演技無し、表情無し、それでも物語が伝わることが本作の目的だったので、その批評は、観客の意見としては的確かもしれないが、私としてはむしろ狙った通りと思いまったく反省はしていない。
ただしこれの次作「罪と罰と自由」でめちゃくちゃ演技演技した映画を撮りたくなったのは、「せば・す・ちゃん」の反動である。
それでも「せば・す・ちゃん」は小津安次郎記念蓼科高原映画祭に3度目の入選を果たし、しかも第3位に相当する「入賞」までいただいた。
その時の審査員長の伊藤俊也監督の評は以下の通り
「これといって思い出せないし、思い違いかもしれないが、伝言メモへの書き込みが、皮肉な思い違いを生じさせるという話は、これまでに使われたような気がしてしようがない(もし、そうでなければ、見事なアイデアを作者たちは考え出したというべきで、平にご容赦願いたい。)とはいえ、ここで主人公の男と、駅で毎日見かける女との、間に入り込む影の登場人物が、無人駅(洗馬)の一定時間にしか姿を現さない中年男子駅員(洗馬・す・ちゃん)だったというトリックが絶妙である。仕掛けは先ず台詞を排除したところにある。台詞が存在したら、月曜日から丹念に積み重ねて少しずつ男を女に接近させていくミスリードの過程が一度に吹き飛んでしまう可能性があるからだ。そして台詞の欠如を補ってなお雄弁なのが、警報機の音と電車の往来である。それだけに都合良く電車が按配されるのは気になった。普段は男の乗る電車の方が先に出るのに、女がキイホルダーを落とす場面では女の電車が先に出る。同じウィークデイのタイムテーブルが乱れているということになる。まあ、これは意地の悪いけちのつけようではある。だが女の表情を読み取らせまいとしてか(一度だけ、携帯を見た女が不如意げな表情を見せる。いわば作為として男への隙を見せたということであろう)、年頃の女性が持つ華やぎさえ封じてしまったのは、男の日に日に高まっていく期待と高揚の表情をいまひとつ欠くのと同様、最後のオチの効果を損じた。」
ちなみにこの時の映画祭で古本恭一監督と初めて会う。古本さんも「ワタシノイエ」という作品で入選を果たしていた。その4年後に小坂本町1丁目映画祭で古本さんと再会し、そこから長編2作品のコラボにつながる。
また「せば・す・ちゃん」は私としては初めて長野県以外の映画祭でも評価された作品となった。
神戸アートビレッジセンターにて行われたEIZO FESに入選した。その映画祭はグランプリなど賞を選ばないものだった。色々なジャンルの作品をチョイスしていた印象で「せば・す・ちゃん」は無言コメディ代表だったのだろうか。
他にもいつも落選だった映画祭にあと一歩のところまでいったり、個人的にはとても手ごたえを感じた作品だった。
で、今もモンタージュこそ映画だという思いは変わらない。長回しよりモンタージュの方が好きだ。(だから「1917」より「パラサイト」の方が好きだ)
とはいえ演技の熱量で圧倒する映画もやはり心を打つので、両者の間を狙うような映画を模索している。