文禄、慶長の役で黒田勢は黒田三左衛門,母里太兵衛、そして後藤又兵衛の3人が日替わりで先手をつとめている。この朝鮮遠征中の又兵衛のエピソードを2つ。 . . . 本文を読む
千 利休(1522-1591)堺の魚問屋、田中与平衛の子として生まれ、織田信長に取り立てられ、天下一の茶頭となる。信長の没後も秀吉の茶頭となり引き続き政治の世界でも影響を及ぼす。次第に内政、外交、軍事にも影響を及ぼすようになる。大阪城を訪れた大友宗麟が豊臣秀長から[内々の事は宋易(利休)に広儀のことは私に] と耳打ちされたエピソードは有名である。この利休も秀吉の逆鱗にふれ切腹命令がでたあと、前田利家などの大名が除名嘆願した。一言の弁明もなく利休は70歳で切腹、その首は京都一条戻橋でさらされる。 . . . 本文を読む
1590年秀吉は天下統一の総仕上げとして関東の北条氏をせめた。周囲を囲まれた北条方は籠城か降伏かで議論が分かれ延々と議論したが結論がでなかった。これが今に言う小田原評定である。 . . . 本文を読む
河村名古屋市長が大河ドラマにいちゃもんをつけました。それは尾張出身の豊臣秀吉と三河出身の徳川家康が標準語をしゃべっとるのはおかしいじゃないかというものです。八重の桜にしても花子とアンにしても地元の方言をしゃべっとるのに名古屋だけはなぜ標準語でしゃべらにゃいかんのだというのが言い分です。来年の大河[花燃ゆ]、再来年の[真田丸]では十分配慮してチョというのが言い分です。 . . . 本文を読む
軍師官兵衛はいよいよ物語は九州に移ります。私の故郷中津ではそれなりに盛り上がっていますが、本音は官兵衛を恨んでいます。今までのところ大河では官兵衛を人情の厚い男として、えがかれていますが、実は残酷な男なのです。地元の豪族(宇都宮一族)をなぶり殺したのです。 . . . 本文を読む
大友宗麟(1530-1587)16世紀の半ばの九州は九州北中部6か国の守護職を兼ねる大友宗麟と南部を支配する島津貴久とで2分していたが、1577年,薩摩の北日向に攻めで全面戦争状態になる。大友氏は1586年(天正14年)大阪に出向き、秀吉に助けを求める。それを受け3月に秀吉の九州攻めが始まり、5月には島津軍は秀吉に降伏したが、5月23日大友宗麟、津久見で死去、58歳であった。 . . . 本文を読む
摂津国(大阪)高槻城の城主である右近は幼少のころ洗礼を受けた熱烈なキリシタン大名である。洗礼名はジュスト(正義の人の意味)。熱心なキリシタンで官兵衛に受礼を進め、入信させたとされる。本能寺の変以後は秀吉に仕え、山崎の合戦では先陣をつとめる。千利休の高弟でもある。九州征伐に従軍していた天正15年、秀吉が突然禁教令を発して、キリスト教を禁止する。領地をとるか、信仰をとるかと迫られ、迷うことなくキリスト教をとり、領地を没収される。最後は江戸幕府によりフィリピンのマニラにながされる。なお、官兵衛は領土をとる。 . . . 本文を読む
夏の果物といえばスイカですが、最近はずいぶん食べなくなったようです。そのスイカですが日本で本格的に栽培されるようにになったのは大正時代になってからです。江戸時代までは下々の人が食べる下賤な食べ物であった。 . . . 本文を読む
明智光秀ほどなどの多いい男はいない.美濃の名族.明智氏の嫡流に生まれ諸国を武者修行。越前の朝倉義景の客将となる。この地に流浪してきた第15代足利義明の知遇を得て、信長に義明を周旋したことにより、破格の待遇で信長にめしかかえられる。これは江戸時代に作られた物語であって、出生の地も誕生日も父親の名前も不明です。謎があるから歴史は面白い。 . . . 本文を読む
天正10年(1582)4月,織田勢(羽柴秀吉、加藤清正、黒田官兵衛、蜂須賀小六)3万と百姓で長さ3.5キロの堤防を12日で築き、水攻めにする。梅雨期に増水した足守川の水が氾濫して高松城は水没する。堤防の幅は底辺が8メートル、高さは7メートルぐらいであったと推定される。 . . . 本文を読む