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堀越はわずか入社5年(昭和7年)で7式艦上戦闘機の設計を任されたが、失敗。
その後、昭和9年に海軍から三菱と中島飛行機に全金属製の飛行機の試作命令が下った。その性能要求は最高速度350キロ以上、5000メートルまでの到達時間が6.5分以内、7.7ミリ機銃×2を装備、燃料200リッター搭載であった。設計主任の堀越はリベットの頭を削るなどして、空気抵抗を減らし、見事この要求にこたえた。堀越の出世作であった。昭和11年8月に96式艦上戦闘機と名付けられたこの飛行機は最高速度450キロ、高度5000メートルまで、5.54分、と欧米諸国の戦闘機を上回る高性能であった。1000機生産された96式はゼロ戦が登場するまでわが国の主力戦闘機であった。
〇ゼロ戦の開発ー96式の後継機として昭和12年に開発が始まる。三菱では堀越を主務官として開発が始まり、超超ジュラルミンの採用などで軽量化した機体が昭和13年3月16日に試作1号機が、10月に試作2号機が、12月に試作3号機が完成している。なお2号機は急降下テスト中に空中分解している。その後昭和15年5月からゼロ戦11型が量産されました。このときのエンジンは中島製。
ゼロ戦エピソード
海軍の戦闘機は3年を限度に新規に開発されるのが通例であったが、ゼロ戦の後継機開発できず、1万430機のゼロ戦が生産されることになる。ゼロ戦は三菱製(3880機)と中島飛行機製(6545機)が有り、中島製のゼロ戦のほうが生産台数が多いい。ゼロ戦が活躍したのは1942年の前半までで、その後は苦戦をしいられる。最大の原因はエンジンの出力不足とオクタン価の低い燃料の使用であった。高出力エンジンの開発に失敗したゼロ戦は防御を犠牲にして軽量化をはかったことが、ゼロ戦の悲劇につながったのである。
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