昨年の8月以来、朝日の購読を止めて、産経新聞の購読に切り替えた友人が、今日の産経も良いよ、と言った。
以下は、私も良いと思った記事の中の一つ、3ページからである。
筆者は、裏千家前家元 千 玄室。
最近はなぜか海軍時代の夢をよく見る。
おおかた明け方近い頃で、仲間と何かとしゃべったりしている。
仲間の顔はおぼろげながら特攻で逝った人たちである。
そして夢から覚めれば70年も生き残った思いがなぜか忸怩たるものになる。
本来なら特攻で沖縄近海の海底に沈んだ1人になるのだが、転属命令で松山の航空隊へ飛ばされたのが生に繋がった。
江戸時代初期の禅僧至道無難の歌に「生きながら死人になりてなりはてて思いのままにするわざぞよき」とあるが、「死人になりはてる」ことの教示である。
是非、順逆、憎愛、悲喜など二元的なものの中に生きる人間だからこそ清浄無垢になれということである。
大変難しいがとにかく「いらぬことを思うなよ」であろう。
生と死これは生まれた時から運命づけられたもので、死ぬ時がくれば死ぬとは分かっていても死にきれるものでない。
この辺りに人間として生きることに執着する生臭さがある。
また『臨済録』という教えの中に「随処に主となれば立処皆真なり」とある。
日々の生活ではさまざまなことで振り回される。
そしてそれにとらわれて悲しんだり腹を立てたり、本当に喜び溢れることは少ない。
坂を登れば一息つく暇もなく次の坂がある。
登りきれば坂を下らねぱならない。
晴れと思えば雨になり、風に吹かれ身をすくめる。
ある人が禅師に「私も年々年をとりましたが、いざお迎えがきたらどんな覚悟をしたらよろしいか」と質問した。
それに対し禅師は「そんな覚悟などと得たり顔をしてはならん。
死ぬ時は死ぬんだから従えばよい」と応じた。
良寛和尚も「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候」といとも簡単にいわれている。
俗人にはなかなか理解できぬこと。
しかし少なくともそれに近い思いは持てる。
すなわち常日頃からものごとにこだわらないことが「立処皆真」ということである。
私も高齢になってようやく自分自身を見直すことができるようになった。
すなわち「なるようにしかならない」。
それは人事を尽くして天命を待つであろうか。
禅の修行をなしてきたとはいえ、座禅三昧でも無の境地などに達することは並々ならぬ努力をしなければなれるものではない。
人間として後悔やら何やかやにぶつかった時、初めて何かが分かる。
この何かが悟りといえるのではないか。
それで得た経験を次のステップで生かすことができれば、その悟りは本物であるといえる。
「ああ、あの時こうしておいたら、いやこうした方がよかった」などと悩む時に悟りが働くのである。
それより日頃から素直に生きて、生活を大切に勤めあげることが必要である。
一日の勤めが終わり、夜具の中に横たわった時は、その日が本当に幸せであったかどうかを反省できる最もよい時なのである。
「一日良ければ明日の活力」、私は若い時に父からこんな言葉を聞いた。
一日良かったなあと思うことが大切だと。
生きていることはそれほど厳しいことなのである。
(せん げんしつ)