文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

で、独はフォン・ゼークトを支那に送り込んで軍事教練と最新の兵器を与えて上海の日本人租界を襲わせた

2021年01月06日 19時17分22秒 | 全般
以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之が2020/12/31に出版した最新刊からである。
日本国民全員のみならず世界中の人たちが必読である。
特に、朝日新聞という自分達の国を世界に向かって貶める事に快感をもっているだけではなく、その為なら、どんな捏造でも行う、先進諸国の何処にもない愚劣な新聞で生計を立てている人間達と、これを購読している人間達。
わけても、ドイツに学べ、と言って来た所謂学者達。
この新聞の反日記事を利用して反日記事を書き続けて来た南ドイツ新聞で生計を立てている人間達。
この新聞等を購読し、毎年、年末に、ジョン・ラーベが捏造した南京大虐殺物語を、恒例行事として放映しているテレビ局で生計を立てている人間達、
結果として、反日思想を持っているというドイツ国民の約半数。
米国の、韓国の代理人であるアレクシス・ダデン等の学者と称する人間達は必読である。
世界最高の本であると言っても過言ではない。
p18-p29
メルケルはドイツ人には珍しく恥を知っていた
次はイタ公抜きでやろうぜとドイツ人が日本人に言った。 
この前はアホを入れたから失敗した、畏敬し合う実力派の俺たちだけならうまくいくほどの意味で使われる。 
しかしこれはまったく真実ではない。
確かにイタリア人は度し難い。
大戦途中でこけたのはしょうがないとして、戦後、この国は昔から連合国みたいな顔して日本から戦時賠償を取っていった。 
イタリア人に阿漕の理由を聞いたら「ファシズムを倒すのに貢献したから」とか。
では本家のドイツから何ぼの賠償金を取ったか。
答えは「取ってません」。 
ドイツは侵略戦争のほかに「ユダヤ人種を悉(ことごと)く抹殺する歴史に前例のない犯罪」(ワイツゼッカー元大統領)をやった。
実はイタリアもそれに手を貸し8000人のユダヤ人を殺した。
トロツキーの言葉「Life is beautiful」をタイトルにしたロベルト・ベリーニの映画がそれを描いている。 
オランダも同じ。
アンネ以下10万人を抹殺した共犯者だ。
だからユダヤ人、ホロコーストが暄(かまびす)しい中で侵略戦争だけを区切ってドイツに賠償を要求しにくい。
それで日本にたかってきた。
イタリアはオランダ並みに醜かった。 
しかし、それでもドイツよりは遥かにましだ。
ドイツは「できる非白人のユダヤ人」を憎むのと同じ理由で「できる日本人」を憎んできた。
第一次大戦で手塩にかけた青島を日本に取られたのもずっと癪の種だった。 で、どう日本を叩くか。
入れ知恵したのは米国で、彼らがやったインディアンみな殺し作戦をモデルにした。
清教徒に七面鳥を恵んだワンパノアグ族には強いピークォート族をぶつけ、勝ったピークォートはモヒカンにいい武器を与えて潰させた。 
それと同じ手法で蒋介石を支援し、支那人を強くして日本と戦わせよう。 で、独はフォン・ゼークトを支那に送り込んで軍事教練と最新の兵器を与えて上海の日本人租界を襲わせた。
第二次上海事変のことだ。 
日本人はナチのヘルメットを被った支那軍に驚いたが、中身は支那人だったので10倍の相手でもやっつけられた。
蒋の軍隊が蹴散らかされると独シーメンス社のジョン・ラーベが出てきて「南京で日本軍は大虐殺した」と嘘を並べた。
そんな悪さをやりながらドイツはソ連を極東に足止めさせるために日独防共協定を結ぼうと言い寄った。
日本は日ソ中立条約を結んでドイツに乗せられるのだけは避けた。
上海、南京の仇をとったと思えばいい。 
ヒトラーは頭にきた。
日本人を「文化の模倣者」と『我が闘争』で腐し、英軍の根拠地シンガポールが落ちると「独軍20個師団を送って黄色い連中を追っ払いたい」(ゲッベルスの日記)と本音を漏らした。 
戦後のドイツ人がヒトラー的な人種意識を改めたとは聞いていない。
国民総がかりでやったユダヤ人抹殺すらナチがやったことだと言い抜けて恥じない輩だ。 
ブラントはワルシャワのゲットーで謝罪したが、それはワイツゼッカーと同じ「ナチがやったユダヤ人迫害」を詫びたもので「ドイツ国民もナチの被害者だった」とかいって、ポーランドへの侵略については謝罪も賠償もしなかった。
そんなドイツからメルケルが来た。
今のドイツは支那支援のゼークトの時代に似ている。
「でも誤解しないで」と言いに来た。 
彼女はドイツ人には珍しく恥を知っている。
先の戦争について日本に偉そうに言える立場にないことも知っていた。
ただ待ち構えていた日本人、とりわけ朝日新聞の渡辺雅隆は小賢しかった。
この男はメルケルを大歓迎して講演させ、その礼に朝日の自虐史観に頷かせようとした。
「安倍はお宅のラーベが言った南京大虐殺も20万慰安婦も認めない。悪い安倍を叱ってやってください」と。 
対してメルケルはドイツの今日があるのは「隣のフランスの寛大さのおかげ」と答えた。
支那が白人側について日本を裏切り、今また歴史を歪めて日本を中傷するのは異様だという意味だ。
渡辺の下衆な目論みは外れた。 
民主党の岡田克也も同じ。
40分の会見時間の30分を歴史問題に使ってメルケルに日本批判を語らせようとした。
会見後に「メルケルは慰安婦問題をきちんと解決しろとおっしやった」と胸を張った。 
その報道にメルケルは「言っていません」。
外国に批判させて政局にする。御注進報道は朝日だけじゃあない、民主党もやるのだ。 
ちなみに岡田の実家、イオンは支那産の危険食品を「生産者はイオンです」とあたかも国産のように装って売ってきた。 
御曹司以下、嘘に抵抗を感じないところが怖い。

ドイツは「できる非白人のユダヤ人」を憎むのと同じ理由で「できる日本人」を憎んできた。

2021年01月06日 19時14分59秒 | 全般
以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之が2020/12/31に出版した最新刊からである。
日本国民全員のみならず世界中の人たちが必読である。
特に、朝日新聞という自分達の国を世界に向かって貶める事に快感をもっているだけではなく、その為なら、どんな捏造でも行う、先進諸国の何処にもない愚劣な新聞で生計を立てている人間達と、これを購読している人間達。
わけても、ドイツに学べ、と言って来た所謂学者達。
この新聞の反日記事を利用して反日記事を書き続けて来た南ドイツ新聞で生計を立てている人間達。
この新聞等を購読し、毎年、年末に、ジョン・ラーベが捏造した南京大虐殺物語を、恒例行事として放映しているテレビ局で生計を立てている人間達、
結果として、反日思想を持っているというドイツ国民の約半数。
米国の、韓国の代理人であるアレクシス・ダデン等の学者と称する人間達は必読である。
世界最高の本であると言っても過言ではない。
p18-p29
メルケルはドイツ人には珍しく恥を知っていた
次はイタ公抜きでやろうぜとドイツ人が日本人に言った。 
この前はアホを入れたから失敗した、畏敬し合う実力派の俺たちだけならうまくいくほどの意味で使われる。 
しかしこれはまったく真実ではない。
確かにイタリア人は度し難い。
大戦途中でこけたのはしょうがないとして、戦後、この国は昔から連合国みたいな顔して日本から戦時賠償を取っていった。 
イタリア人に阿漕の理由を聞いたら「ファシズムを倒すのに貢献したから」とか。
では本家のドイツから何ぼの賠償金を取ったか。
答えは「取ってません」。 
ドイツは侵略戦争のほかに「ユダヤ人種を悉(ことごと)く抹殺する歴史に前例のない犯罪」(ワイツゼッカー元大統領)をやった。
実はイタリアもそれに手を貸し8000人のユダヤ人を殺した。
トロツキーの言葉「Life is beautiful」をタイトルにしたロベルト・ベリーニの映画がそれを描いている。 
オランダも同じ。
アンネ以下10万人を抹殺した共犯者だ。
だからユダヤ人、ホロコーストが暄(かまびす)しい中で侵略戦争だけを区切ってドイツに賠償を要求しにくい。
それで日本にたかってきた。
イタリアはオランダ並みに醜かった。 
しかし、それでもドイツよりは遥かにましだ。
ドイツは「できる非白人のユダヤ人」を憎むのと同じ理由で「できる日本人」を憎んできた。
第一次大戦で手塩にかけた青島を日本に取られたのもずっと癪の種だった。 で、どう日本を叩くか。
入れ知恵したのは米国で、彼らがやったインディアンみな殺し作戦をモデルにした。
清教徒に七面鳥を恵んだワンパノアグ族には強いピークォート族をぶつけ、勝ったピークォートはモヒカンにいい武器を与えて潰させた。 
それと同じ手法で蒋介石を支援し、支那人を強くして日本と戦わせよう。 で、独はフォン・ゼークトを支那に送り込んで軍事教練と最新の兵器を与えて上海の日本人租界を襲わせた。
第二次上海事変のことだ。 
日本人はナチのヘルメットを被った支那軍に驚いたが、中身は支那人だったので10倍の相手でもやっつけられた。
蒋の軍隊が蹴散らかされると独シーメンス社のジョン・ラーベが出てきて「南京で日本軍は大虐殺した」と嘘を並べた。
そんな悪さをやりながらドイツはソ連を極東に足止めさせるために日独防共協定を結ぼうと言い寄った。
日本は日ソ中立条約を結んでドイツに乗せられるのだけは避けた。
上海、南京の仇をとったと思えばいい。 
ヒトラーは頭にきた。
日本人を「文化の模倣者」と『我が闘争』で腐し、英軍の根拠地シンガポールが落ちると「独軍20個師団を送って黄色い連中を追っ払いたい」(ゲッベルスの日記)と本音を漏らした。 
戦後のドイツ人がヒトラー的な人種意識を改めたとは聞いていない。
国民総がかりでやったユダヤ人抹殺すらナチがやったことだと言い抜けて恥じない輩だ。 
ブラントはワルシャワのゲットーで謝罪したが、それはワイツゼッカーと同じ「ナチがやったユダヤ人迫害」を詫びたもので「ドイツ国民もナチの被害者だった」とかいって、ポーランドへの侵略については謝罪も賠償もしなかった。
そんなドイツからメルケルが来た。
今のドイツは支那支援のゼークトの時代に似ている。
「でも誤解しないで」と言いに来た。 
彼女はドイツ人には珍しく恥を知っている。
先の戦争について日本に偉そうに言える立場にないことも知っていた。
ただ待ち構えていた日本人、とりわけ朝日新聞の渡辺雅隆は小賢しかった。
この男はメルケルを大歓迎して講演させ、その礼に朝日の自虐史観に頷かせようとした。
「安倍はお宅のラーベが言った南京大虐殺も20万慰安婦も認めない。悪い安倍を叱ってやってください」と。 
対してメルケルはドイツの今日があるのは「隣のフランスの寛大さのおかげ」と答えた。
支那が白人側について日本を裏切り、今また歴史を歪めて日本を中傷するのは異様だという意味だ。
渡辺の下衆な目論みは外れた。 
民主党の岡田克也も同じ。
40分の会見時間の30分を歴史問題に使ってメルケルに日本批判を語らせようとした。
会見後に「メルケルは慰安婦問題をきちんと解決しろとおっしやった」と胸を張った。 
その報道にメルケルは「言っていません」。
外国に批判させて政局にする。御注進報道は朝日だけじゃあない、民主党もやるのだ。 
ちなみに岡田の実家、イオンは支那産の危険食品を「生産者はイオンです」とあたかも国産のように装って売ってきた。 
御曹司以下、嘘に抵抗を感じないところが怖い。


過去に目を閉ざしているのはドイツ人のほうだ 

2021年01月06日 18時57分01秒 | 全般
以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之が2020/12/31に出版した最新刊からである。
日本国民全員のみならず世界中の人たちが必読である。
特に、朝日新聞という自分達の国を世界に向かって貶める事に快感をもっているだけではなく、その為なら、どんな捏造でも行う、先進諸国の何処にもない愚劣な新聞で生計を立てている人間達と、これを購読している人間達。
わけても、ドイツに学べ、と言って来た所謂学者達。
この新聞の反日記事を利用して反日記事を書き続けて来た南ドイツ新聞で生計を立てている人間達。
この新聞等を購読し、毎年、年末に、ジョン・ラーベが捏造した南京大虐殺物語を、恒例行事として放映しているテレビ局で生計を立てている人間達、
結果として、反日思想を持っているというドイツ国民の約半数。
米国の、韓国の代理人であるアレクシス・ダデン等の学者と称する人間達は必読である。
世界最高の本であると言っても過言ではない。
p18-p29
過去に目を閉ざしているのはドイツ人のほうだ 
ドイツ人は先の戦争で我々は優秀なゲルマン民族だと言った。
言うのは勝手だ。
支那人だって偉大な漢民族だと言っているくらいだ。 
ただそれをよその民族に強制するとなるともはや犯罪だ。
スラブ系のポーランドに侵攻すると「劣等なお前たちに学問は要らない」と決めた。
数は500まで数えられればいい。
文字も自分の名を書ければいい。
だから小学校4年で終わりにさせた。 
ポーランドは19世紀、ロシアに支配され、同じように、高等学問が禁じられたが、それでもキュリー夫人は高校まで行けた。
ドイツはロシアより傲慢だった。
その傲慢さで「劣ったユダヤ人は死んだ方がいい」とあのホロコーストをやった。 
しかし歴史書を見るとドイツ人は別にそんな理由もなしにユダヤ人を殺してきた。
13世紀にはザクセンハウゼンにいたユダヤ人を皆殺しにし、14世紀にはフランクフルトなどで何万人も火炙りにした。
ドイツ人は傲慢なうえに自分がやったことはすぐ忘れる。
実にいい加減だ。 
先日、統一ドイツ初代大統領のワイツゼッカーが死んだ。
馬鹿な朝日新聞は彼の「過去に口を閉ざす者は現在にも盲目となる」という85年演説を取り上げ、過去を直視しない日本を腐して喜んでいた。 
しかしワイツゼッカーもいい加減な男だ。
あたかもドイツ民族が先の戦争で周辺諸国を侵略し、ユダヤ人を最終処理した大罪に向き合って謝罪をしてきたかの如く語っている。 
ところがよく吟味するとドイツ人自身、「ユダヤ人の最終処理」にしぶしぶ賠償はしているものの、その責任はヒトラーとナチにあって「我々ドイツ国民が謝罪すべき筋にない」と言う。 
ドイツの過去を見れば、ヒトラーがいなくてもドイツ人はユダヤ人を虐殺してきたくせに。 
先の侵略戦争も「それはナチがやったこと」とドイツ人はいう。
だから戦争責任はないし、賠償義務もないと開き直り、日本から二度も賠償を取った阿漕なオランダにすらドイツは1マルクの戦時賠償もしていない。 
過去に目を閉ざしているのはドイツ国民自身だ。
今度、ギリシャがドイツに戦時賠償22兆円を要求した。
ギリシャは実際、無効な債券を買わされたりしてそれくらいの被害に遭っている。
侵略者ドイツ人がどう嘘をつくか、これは結構な見ものではないか。


朝日が念ずる日本の無力化は米国も支那も韓国も、そして暗殺好きの北朝鮮も心から望んでいる。

2021年01月06日 18時44分51秒 | 全般
以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之が2020/12/31に出版した最新刊からである。
日本国民全員のみならず世界中の人たちが必読である。
特に、朝日新聞という自分達の国を世界に向かって貶める事に快感をもっているだけではなく、その為なら、どんな捏造でも行う、先進諸国の何処にもない愚劣な新聞で生計を立てている人間達と、これを購読している人間達。
この新聞の反日記事を利用して反日記事を書き続けて来た南ドイツ新聞で生計を立てている人間達。
この新聞等を購読し、毎年、年末に、ジョン・ラーベが捏造した南京大虐殺物語を、恒例行事として放映しているテレビ局で生計を立てている人間達、
結果として、反日思想を持っているというドイツ国民の約半数。
米国の、韓国の代理人であるアレクシス・ダデン等の学者と称する人間達は必読である。
世界最高の本であると言っても過言ではない。
まえがき
北朝鮮が初めてミサイルを撃ったとき、日本側は初めて懲罰めいた措置をとった。
新潟港に入っていた万景峰号の入港禁止措置だ。 
これは痛手だ。
この船は日本に覚醒剤と偽ドルを持ち込み帰るときは、パチンコマネーからミサイルや核開発に必要な電子機器、京大の先生ら原子力の頭脳も運び出してきた。 
一便欠航でも数十億円のロスになる。
それが「もう二度と来るな」だ。
朝総連はびっくりだった。 
で、何か起きたか。
こういう騒動が起きるとなぜか即座に「朝総連新潟本部に銃弾入りの脅迫の手紙が送りつけられた」(朝日新聞)とかの騒動が起きる。
北の横暴に怒った右翼が脅しをかけた、銃弾を送り付け、本気度を見せたと朝日が解説する。 
日本政府の制裁は銃弾を送り付ける短絡右翼と変わらない。
大人の判断をすべきだと分別ぶった論評も加える。
テレビの知恵のないコメンテーターも朝日の解説を参考に「極右と同じでいいのか」とやる。
でも少し冷静に考えれば、短絡右翼、つまり余り知恵のない輩がなぜ「総連新潟本部に手紙」なのか。
知恵のある人でもそんなオフィスの存在も、まして宛先の名称も知らない。
短絡右翼はまさか総連に電話して新潟に万景峰号関連の施設はありますか、住所を教えてくださいと聞いたのだろうか。 
そう考えれば、このタイミングいい「右翼からの手紙」がどうも怪しい。
総連の自作自演で、親しい朝日が協力した「やらせ構図」が見えてくる。 30年前、朝日の阪神支局を赤報隊が襲って記者2人を殺傷した事件があった。
朝日の偏向に怒った右翼の犯行とされた。 
しかし本当の右翼、例えば野村秋介は河野一郎邸を焼いたときも家人を避難させてから火を放ち、逃げも隠れもしなかった。    
右翼は卑怯な闇討ちはしない。
いや街宣で騒ぐ右翼だっていると朝日は言うが、その大方は日本人ではない。日本人もまして日本人右翼も騒音は好まない。 
野村秋介は最後に朝日新聞社長の中江利忠に抗議に行った。
中江は植村隆と吉見義明の嘘を書かせ、日本を貶めた張本人だ。 
そんな卑劣漢を前に野村は終始、穏やかな口調で憂国を語り、中江を諭し、そして自決した。
中江は吉田清治の嘘がバレたとき朝日の人間としては珍しく素直に詫びた。
少しは真人問になった。                   
そう見ると阪神支局襲撃は卑劣さ、陰湿さから見て「右翼の犯行」に疑問符がつく。
では誰が何のためにやったか。 
マッカーサーは昭和天皇の誕生日にA級戦犯を起訴し、皇太子だった平成上皇の誕生日に処刑した。
「日本国の処刑」に当たるマッカーサー憲法草案は2月22日のワシントンの誕生日に閣議決定させ、明治天皇の誕生日に公布させた。
6か月後の5月3日に発布になるが、この日だけは何の因縁の日でもない。 護憲の朝日は前から5月3日を「日本の処刑の日」にしたかった。
その日に軍国主義と残忍・日本を髣髴させる記念すべき悪行が起きてほしいと祈念してきた。 
そしたらその思いそのままに赤報隊が5月3日に護憲の朝日を襲った。
以来、朝日は毎年、亡くなった小尻記者をだしに憲法の日に過去の日本を罵り、呪う紙面を作り続けた。 
朝日が念ずる日本の無力化は米国も支那も韓国も、そして暗殺好きの北朝鮮も心から望んでいる。
朝日の思いを忖度し、あるいは相談して協力した可能性は捨てきれない。 
それを指摘した一人が国松孝次警察庁長官だった。
彼は「右翼の犯行と限定せずに捜査する」と言った。
途端に狙撃され、そっちの方の捜査は止まった。
朝日が思う通りになった。 
物事は多くの場合、見かけとは違う。
中略。
本書は「正論」巻頭のコラムをまとめたものだが、見かけの後ろにある「意図」を見抜く手伝いができれば幸せだ。               
高山正之
 

以下はリアルタイムのベスト10である。pm 4:10

2021年01月06日 16時08分56秒 | 全般

1

外地近代化「朝鮮・満洲」の原点…高い志と、迸る情熱を傾けて近代化に尽くした日本人の物語

2

Taiwan: A Japanese Story - The Truth about the Ruling Era.

3

Taiwan: A Japanese Story - The Truth about the Ruling Era.

4

以下はリアルタイムのベスト10である。2020/1/6, am 10:45

5

Taiwan: A Japanese Story - The Truth about the Ruling Era.

6

Taiwan: Eine japanische Geschichte - Die Wahrheit über die herrschende Ära.

7

Taiwan: A Japanese Story - The Truth about the Ruling Era.

8

ไต้หวัน: เรื่องราวของญี่ปุ่น - ความจริงเกี่ยวกับยุคการปกครอง

9

Taiwan: En japansk historie - Sandheden om den herskende æra.

10

que es equivalente a China, lo que demuestra que el virus de Wuhan no ocurre naturalmente

 

 


台灣:一個日本故事-執政時代的真相。

2021年01月06日 15時45分30秒 | 全般
以下摘自今天的產經新聞第21期,該系列文章的標題為“台灣:日本故事-統治時代的真相”。
這不僅是日本人民的必讀,也是世界人民的必讀。
外國土地現代化的起源:韓國和滿洲
我寫過關於日本人的文章,這些人在日本佔領期間(1895-1945年)在台灣懷著崇高的志向和熱情奔波致力於現代化。
他寫過關於日本人的文章,他們熱切地追求自己的夢想,並熱情洋溢。
是化學家從阿里山的一棵大樹上發現了舉世聞名的。
棒球教練帶領他的混合種族球隊在夏季甲子園錦標賽中獲得亞軍。
它是在“壞瘟疫島”上與傳染病作鬥爭的醫生。
是一位建築師,他設計了幾件現代傑作。
他們中的任何一個都不是一件容易的事。
當台灣開始統治時,距江戶時代不到30年,當時人們都穿著破衣爛衫。
對於“日本的淪陷的帝國”來說,這是一個有點沉重的項目,它第一次要管理一個外國。
事實證明,它遭到了抗日武裝的抵抗,造成了許多人員傷亡。
在第一場戰鬥中,日軍派遣約50,000名士兵時,由於瘧疾造成的病死人數(約4,500人)比戰爭中死亡的人數(約160人)高得多。 ..
武裝力量的游擊抵抗繼續困擾著日本。
此外,該國沉迷於大量的鴉片。
缺乏法治意識,無法維持公共秩序的社會。
鐵路,公路,港口,學校,醫院,基礎設施的開發幾乎從零開始。
沒有足夠的錢。
它甚至將日本政府在抗日戰爭中的賠償金(超過3億日元)都用於軍事開支。
隨著日俄戰爭(1904-05)的臨近,日本政府的金庫變得越來越薄。
從普通帳戶支付給台灣國庫的錢逐年減少,到1905年日俄戰爭結束時,它最終減少為“零”。
統治十年後,它迫使台灣的財政變得“獨立”。
西方列強一定一直在警惕地等待這一情況的發生。
“亞洲人不可能現代化。” “如果日本舉手,我們將承擔其餘的責任。”
實際上,在日本佔領初期,日本帝國飲食計劃是將土地出售給法國人。
但是,日本人沒有放棄。
在台灣第四任總督的領導下,小玉健太郎五代新平於1931年擔任民政局局長(後成為民政局局長)。西方列強以“參考”而非“模仿”的方式使台灣現代化的觀點。
他建立了基礎設施,促進了農業,商業和工業發展,並根據當地條件豐富了當地人口。
他還改善了教育和衛生條件,建立了法律和秩序體系。
應該指出的是,後藤的人力資源開發非常出色。
僅舉幾例,稻佐稻佐奈(製糖廠),長谷川健介(鐵路),河井下郎(林業)和高木友惠(衛生)都是促成台灣現代化的眾多人。
後藤本人是1939年離開台灣後成為滿洲鐵路的第一任總統的人,也是投身關東,滿洲和朝鮮統治的人之一。
後藤的“得力助手”中村佳人(Nakamura Yoshikoto)負責台灣的土地測量和其他事務,然後支持後藤作為滿洲鐵路公司的副總裁(後任總裁)管理滿洲。
甚至在後來的幾年裡,野村一郎(Ichiro Nomura)還是台灣總督辦公樓建造時的維修部負責人。
展示實踐能力
不僅僅是人力資源。
日本執政台灣的方法成為處理關東,滿洲和韓國執政的典範。
我們現代化了因土匪而過的荒野,以及由於儒家的古老傳統而遭受政治腐敗和社會停滯的土地。
日本人為什麼能夠做到這一點?
我認為這是“無私”,勤奮,道德和高水平的實踐能力(閱讀,寫作和算盤)的精神,這種精神達到了普通市民的水平。
讓我舉一個例子。
在日本開始吞併韓國之前(1910-45年),當大國進入漢城(慶城,現在是韓國首爾)時,與位於市中心附近的其他國家相比,日本的情況低。
但是,日本人辛勤耕to,開發了很少有人居住的泥濘沼澤地,並以此為基礎創建了名為“本町”和“明治町”的市區。
由於儒家價值觀而被視為低下的韓國商人完全是無奈的。
朝鮮的傳統商業區,例如鐘路區,正在逐漸消亡,年輕的韓國人正漂流到時尚前沿的日本地區。
景城市的人口迅速增長,在1942年已超過111萬。
我不知道年輕的韓國人是否知道日本人開發的城市周圍地區現在是首爾最繁榮的地區之一。
比日本先進
由於日本人在管理和管理外國土地上比在國家強國上付出更多的努力,因此在某些情況下,“外國土地比國內土地要早(日本)。
例如,關東省日本租賃區(現為中國)在大連的電話早於東京或大阪就成為了直撥電話線(無需通過分支交換局)。
當日本內陸的大多數廁所是大連和新京(長春)的“金庫馬桶”廁所時,滿洲國的首都主要是沖水馬桶。
原因是它迅速建立了污水處理系統。
戰後,出生於滿洲並遣返日本的“滿洲人”被稱為“侵略者之子”和其他無端的虐待行為。
但是當滿洲人看到日本的生活時,他們笑了笑,說:“好吧,他們說話就像在做得很好,但是滿洲人的生活要好得多。
日本政府通過從一般賬戶提供資金作為國庫的補充,繼續支持外界的財政。
唯一沒有得到這筆錢的國家是台灣,台灣在其統治的頭十年內就變成了“盈餘”。
直到戰爭結束,朝鮮一直處於虧損狀態,並被日本“奪走”。
當然,管理外國土地不是一副“漂亮的圖畫。
日本對台灣,滿洲和韓國的現代化符合其在軍事,外交和經濟事務中的國家利益。
省略
但是還是。
我們應該對繼續構成“一切惡魔都是日本”並要求不公正的金錢的“虛構的故事”的國家作出適當的反應,並對繼續鼓勵它們的一些日本人作出回應。
日本人真誠地面對台灣統治的故事,這是外國土地現代化的“起源”,可以說是對不合理要求的“回應”。
(編輯吉田喜宏)


台湾:一个日本故事-执政时代的真相。

2021年01月06日 15時44分10秒 | 全般
以下摘自今天的产经新闻第21期,该系列文章的标题为“台湾:日本故事-统治时代的真相”。
这不仅是日本人民的必读,也是世界人民的必读。
外国土地现代化的起源:韩国和满洲
我写过关于日本人的文章,这些人在日本占领期间(1895-1945年)在台湾怀着崇高的志向和热情奔波致力于现代化。
他写过关于日本人的文章,他们热切地追求自己的梦想,并热情洋溢。
是从阿里山的一棵大树上发现举世闻名的化学家。
棒球教练带领他的混合种族球队在夏季甲子园锦标赛中获得亚军。
它是在“坏瘟疫岛”上与传染病作斗争的医生。
是一位建筑师,他设计了几件现代杰作。
他们中的任何一个都不是一件容易的事。
当台湾开始统治时,距江户时代不到30年,当时人们都穿着破衣烂衫。
对于“日本的沦陷的帝国”来说,这是一个有点沉重的项目,它第一次要管理一个外国。
事实证明,它遭到了抗日武装的抵抗,造成了许多人员伤亡。
在第一场战斗中,日军派遣约50,000名士兵时,由于疟疾造成的病死人数(约4,500人)比战争中死亡的人数(约160人)高得多。 ..
武装力量的游击抵抗继续困扰着日本。
此外,该国沉迷于大量的鸦片。
缺乏法治意识且无法维持公共秩序的社会。
铁路,公路,港口,学校,医院,基础设施的开发几乎从零开始。
没有足够的钱。
它甚至将日本政府在抗日战争中的赔偿金(超过3亿日元)都用于军事开支。
随着日俄战争(1904-05)的临近,日本政府的金库变得越来越薄。
从普通帐户支付给台湾国库的钱逐年减少,到1905年日俄战争结束时,它最终减少为“零”。
统治十年后,它迫使台湾的财政变得“独立”。
西方列强一定一直在警惕地等待这一情况的发生。
“亚洲人不可能现代化。” “如果日本举手,我们将承担其余的责任。”
实际上,在日本占领初期,日本帝国饮食计划是将土地出售给法国人。
但是,日本人没有放弃。
在台湾第四任总督的领导下,小玉健太郎五代新平于1931年担任民政局局长(后成为民政局局长)。西方大国以“参考”而非“模仿”的方式使台湾现代化的观点。
他建立了基础设施,促进了农业,商业和工业发展,并根据当地条件丰富了当地人口。
他还改善了教育和卫生条件,建立了法律和秩序体系。
应该指出的是,后藤的人力资源开发非常出色。
仅举几例,稻佐稻佐奈(制糖厂),长谷川健介(铁路),河井下郎(林业)和高木友惠(卫生)都是促成台湾现代化的众多人。
后藤本人是1939年离开台湾后成为满洲铁路的第一任总统的人,也是投身关东,满洲和朝鲜统治的人之一。
后藤的“得力助手”中村佳人(Nakamura Yoshikoto)负责台湾的土地测量和其他事务,然后支持后藤作为满洲铁路公司的副总裁(后任总裁)管理满洲。
甚至在后来的几年里,野村一郎(Ichiro Nomura)还是台湾总督办公楼建造时的维修部负责人。
展示实践能力
不仅仅是人力资源。
日本执政台湾的方法成为处理关东,满洲和韩国执政的典范。
我们现代化了因土匪而过的荒野,以及由于儒家的古老传统而遭受政治腐败和社会停滞的土地。
日本人为什么能够做到这一点?
我认为这是“无私”,勤奋,道德和高水平的实践能力(阅读,写作和算盘)的精神,这种精神达到了普通市民的水平。
让我举一个例子。
在日本开始吞并韩国之前(1910-45年),当大国进入汉城(庆城,现在是韩国首尔)时,与位于市中心附近的其他国家相比,日本的情况低。
但是,日本人辛勤耕to,开发了很少有人居住的泥泞沼泽地,并以此为基础创建了名为“本町”和“明治町”的市区。
由于儒家价值观而被视为低下的韩国商人完全是无奈的。
朝鲜的传统商业区,例如钟路,逐渐消失了,年轻的韩国人正流向时尚前沿的日本地区。
景城市的人口迅速增长,在1942年已超过111万。
我不知道年轻的韩国人是否知道日本人开发的城市周围地区现在是首尔最繁荣的地区之一。
比日本先进
由于日本人在管理和管理外国土地上比在国家强国上付出更多的努力,因此在某些情况下,“外国土地比国内土地要早(日本)。
例如,关东省日本租赁区(现为中国)在大连的电话早于东京或大阪就成为了直拨电话线(无需通过分支交换局)。
当日本内陆的大多数厕所是大连和长春的新井(长春)的“地下厕所”厕所时,满洲国的首都主要是冲水的。
原因是它迅速建立了污水处理系统。
战后,出生于满洲并遣返日本的“满洲人”被称为“侵略者之子”和其他无端的虐待行为。
但是当满洲人看到日本的生活时,他们笑了笑,说:“好吧,他们说话的感觉就像他们过得不错,但是满洲的生活要好得多。
日本政府通过从一般账户提供资金作为国库的补充,继续支持外界的财政。
唯一没有得到这笔钱的国家是台湾,台湾在其统治的头十年内就变成了“盈余”。
直到战争结束,朝鲜一直处于亏损状态,并被日本“夺走”。
当然,管理外国土地并不是一副“漂亮的图画。
日本对台湾,满洲和韩国的现代化符合其在军事,外交和经济事务中的国家利益。
省略
但是还是。
我们应该对继续构成“一切恶魔都是日本”并要求不公正的金钱的“虚构的故事”的国家,以及继续鼓励它们的一些日本人作出回应。
日本人真诚地面对台湾统治的故事,这是外国土地现代化的“起源”,可以说是对不合理要求的“回应”。
(编辑吉田喜宏)


대만 : 일본 이야기-통치 시대에 대한 진실.

2021年01月06日 15時42分15秒 | 全般
다음은 오늘 산케이 신문에서 "대만 : 일본 이야기-통치 시대에 대한 진실"이라는 제목의 기사 시리즈의 21 부에서 발췌 한 것입니다.
일본인뿐 아니라 전 세계인도 꼭 읽어야 할 책입니다.
타국 근대화의 기원 : 한국과 만주
나는 일제 강점기 (1895-1945) 동안 대만에서 높은 열망과 분출하는 열정으로 근대화에 전념 한 일본인에 대해 썼습니다.
그는 높은 열망과 넘치는 열정으로 근대화에 전념 한 일본인에 대해 썼습니다.
알리 산의 거대한 나무에서 세계적으로 유명한 발견을 한 것은 화학자입니다.
야구 코치는 혼혈 팀을 여름 고시엔 토너먼트에서 2 위로 이끌었습니다.
"나쁜 역병의 섬"에서 전염병에 맞서 싸운 의사입니다.
여러 현대 걸작을 디자인 한 건축가입니다.
그들 중 누구도 쉬운 일이 아니었을 것입니다.
대만의 통치가 시작되었을 때 사람들이 촌 마게를 입었던에도 시대가 끝나고 30 년이 채되지 않았습니다.
처음으로 외국을 통치하는 "후진 일본 제국"에게는 다소 부담스러운 프로젝트였습니다.
결과적으로 반 일군의 저항에 맞서 많은 사상자가 발생했습니다.
첫 번째 전투에서 일본군이 약 5 만 명의 병사를 보냈을 때, 전쟁에서 사망 한 사람들 (약 160 명)보다 말라리아로 인한 병든 사망자가 압도적으로 많았습니다 (약 4,500 명). ..
군대의 게릴라 저항은 계속해서 일본을 괴롭 혔습니다.
게다가이 나라는 다량의 아편에 중독되었습니다.
법치 의식이 부족하고 공공 질서를 유지할 수없는 사회.
철도, 도로, 항구, 학교, 병원, 인프라 개발은 거의 처음부터 시작되었습니다.
돈으로는 충분하지 않습니다.
중일 전쟁에 대한 일본 정부의 보상금 (3 억엔 이상)까지 군비로 주로 사용했다.
러일 전쟁 (1904-05)이 다가옴에 따라 일본 정부의 금고는 좁아졌습니다.
일반 회계에서 대만 국고로 지급 된 금액은 해마다 줄어들었고 1905 년 러일 전쟁이 끝났을 때 마침내 "0"으로 줄어들었다.
통치 10 년 후, 대만의 재정은 "독립적"이되도록 강요했습니다.
이 일이 일어나기 위해 서구 열강은 경계를 늦추지 않았을 것입니다.
'아시아 인이 현대화 할 수있는 방법은 없습니다.' ‘일본이 손을 내밀면 나머지는 우리가하겠습니다.’
사실, 일제 강점기 초기에 일제 국회의 제안은 그 땅을 프랑스에 팔 겠다는 것이었다.
그러나 일본인은 포기하지 않았습니다.
제 4 대 대만 총독 코다마 겐타로 (Kodama Gentaro, Goto Shinpei)가 1931 년에 민사 국 사무국 장 (이후 민사 국 사무국 장이 됨)이되면서 임무를 맡았습니다. 서구 열강의 방법을 "모방"이 아닌 "참조"로 사용하여 대만을 현대화하는 것입니다.
그는 인프라를 구축하고 농업, 상업 및 산업을 장려하고 지역 조건에 따라 지역 인구를 풍요롭게했습니다.
그는 또한 교육과 위생을 개선하고 법과 질서 시스템을 만들었습니다.
Goto의 인적 자원 개발이 뛰어났다는 점에 주목해야합니다.
몇 가지를 언급하자면, Inazo Nitobe (설탕 정제소), Kinsuke Hasegawa (철도), Shitaro Kawai (임업), Tomoe Takagi (위생)는 대만의 근대화에 기여한 많은 사람들 중 하나였습니다.
1939 년 대만을 떠난 후 만주 철도의 초대 대통령이 된 고토 자신은 관동과 만주와 한국의 통치에 몸을 던진 사람들 중 하나였습니다.
고토의 "오른 손잡이"나카무라 요시코 토는 대만에서 토지 측량 및 기타 문제를 담당했으며, 그 후 만주 철도 부사장 (이후 사장)으로 고토의 만주 관리를 지원했습니다.
말년에도 대만 지사 사무실 건물이 건설 될 때 수리 과장을 지낸 노무라 이치로가 한국 지사 사무실 건물 설계에 참여했습니다.
실무 능력 발휘
인적 자원 만이 아니 었습니다.
대만 통치에 대한 일본의 접근 방식은 관동과 만주, 한국 통치를 다루는 모범 사례가되었습니다.
우리는 유교의 오랜 전통으로 인해 정치적 부패와 사회적 침체로 고통받는 도적들과 땅에 넘쳐나는 황야를 현대화했습니다.
일본인이 이것을 달성 할 수 있었던 이유는 무엇입니까?
평범한 시민 집단에 이르기까지 '이기심', 근면, 윤리, 높은 수준의 실천력 (읽기, 쓰기, 주판)의 정신이라고 생각합니다.
한 가지 예를 들어 보겠습니다.
일본의 한국 합병 (1910-45)을 시작하기 전, 강대국이 한성 (경성, 현재 서울, 한국)으로 이전했을 때 일본의 상황은 도심 근처에있는 다른 국가에 비해 낮았습니다.
그러나 일본인은 사람들이 거의 살지 않는 진흙 투성이의 늪지대를 개발하기 위해 열심히 노력하여 "혼 마치"와 "메이지 마치"라는 이름의 번화가를 만들기위한 거점으로 사용했습니다.
유교 적 가치로 인해 하찮게 여겨지는 한국 상인들은 완전히 무력했다.
종로와 같은 조선의 전통 상업지가 점차 쇠퇴하고, 한국 젊은이들은 패션의 최전선 인 일본 지역으로 표류하고 있었다.
빠른 속도로 도시화되고있는 경성의 인구는 1942 년 111 만 명을 넘어 섰다.
일본인이 개발 한 도시 주변 지역이 현재 서울에서 가장 번영하는 지역 중 하나라는 사실을 한국 젊은이들이 알고 있는지 궁금합니다.
일본보다 앞선
일본이 국력보다 외국 토지를 관리하고 관리하는 데 더 많은 노력을 기울인 결과“외국이 국내 (일본)보다 더 이른 경우가있다.
예를 들어, 일본 간토 지방 (현재 중국)의 임대 지역에있는 다롄의 전화는 도쿄 나 오사카보다 일찍 (지점 교환을 거치지 않고) 직통 전화선이되었습니다.
일본 내부의 대부분의 화장실이 다롄과 신징 (장춘)의 '볼트 화장실'화장실이었을 때 만주국의 수도는 주로 수세식이었습니다.
그 이유는 하수도를 빠르게 구축했기 때문입니다.
전쟁이 끝난 후 만주에서 태어나 일본으로 송환 된 "만주인"은 "침략자의 자녀"및 기타 부당한 학대라고 불렸다.
그러나 만주인들은 일본의 삶이 어떠했는지보고 웃으며 말했다. "잘하고있는 것처럼 말하지만 만주 생활은 훨씬 낫다.
일본 정부는 국고에 대한 보충 금으로 일반 회계의 자금을 제공함으로써 외부 세계의 재정을 계속 지원했습니다.
이 돈을받지 못한 유일한 나라는 대만이 통치 한 지 10 년 만에 "잉여"상태가되었습니다.
한국은 전쟁이 끝날 때까지 적자에 머물렀고 일본에 의해 "탈락"되었습니다.
물론 외국 땅을 다스리는 것은 "예쁜 그림"이 아닙니다.
일본의 대만, 만주, 한국의 근대화는 군사, 외교, 경제 문제에 대한 국익과 일치했습니다.
생략
하지만 여전히.
우리는 "모든 악은 일본"이라는 "가상 이야기"를 계속 구성하고 정당하지 않은 돈을 요구하는 국가들과 그들을 계속해서 격려하는 일본인들에게 적절하게 대응해야합니다.
외국 땅 근대화의 '원점'이었던 대만 통치에 진지하게 맞닥뜨린 일본인의 이야기는 부당한 요구에 대한 '대응'이 될 수있다.
(편집자 키타 요시히로)


Тайвань: японская история - правда о правящей эпохе.

2021年01月06日 15時40分42秒 | 全般
Следующее - из 21-й части серии статей в сегодняшнем Sankei Shimbun под названием «Тайвань: японская история - правда о правящей эпохе».
Его необходимо прочитать не только японцам, но и людям всего мира.
Истоки модернизации чужих земель: Корея и Маньчжурия
Я писал о японцах, которые посвятили себя модернизации с высокими устремлениями и страстью на Тайване во время японской оккупации (1895-1945).
Он писал о японцах, которые посвятили себя модернизации с большими устремлениями и безграничным энтузиазмом.
Это химик, который сделал всемирно известное открытие из гигантского дерева в Алишане.
Тренер по бейсболу привел свою команду по смешанной гонке к финишу вторым на летнем турнире по Кошиен.
Это врач, который боролся с инфекционными заболеваниями на "Острове Плохой Чумы".
Это архитектор, спроектировавший несколько современных шедевров.
Любой из них не был бы легкой работой.
Когда началось правление Тайваня, прошло менее 30 лет после окончания периода Эдо, когда люди носили чонмаге.
Это был довольно обременительный проект для «запоздалой Японской империи» - впервые править чужой страной.
Как выяснилось позже, он встретил сопротивление антияпонских вооруженных сил, в результате чего было много жертв.
В этом первом сражении, когда японская армия послала около 50 000 солдат, из-за малярии умерло намного больше больных (около 4500 человек), чем погибло на войне (около 160 человек). ..
Партизанское сопротивление вооруженных сил продолжало преследовать Японию.
Кроме того, страна пристрастилась к большому количеству опиума.
Общество, лишенное чувства верховенства закона и не способное поддерживать общественный порядок.
Железные дороги, дороги, порты, школы, больницы, развитие инфраструктуры начинались практически с нуля.
Денег никогда не хватит.
В основном он использовал даже компенсационные деньги правительства Японии за китайско-японскую войну (более 300 миллионов японских иен) на военные расходы.
С приближением русско-японской войны (1904-05) казна японского правительства истощилась.
Сумма денег, уплачиваемая в тайваньскую казну с общего счета, год за годом сокращалась, а к 1905 году, когда закончилась русско-японская война, окончательно уменьшилась до «нуля».
За десять лет своего правления он заставил финансы Тайваня стать «независимыми».
Западные державы, должно быть, зорко ждали этого.
«Азиаты не могут модернизироваться». «Если Япония поднимет руки, мы заберем все остальное».
Фактически, в первые дни японской оккупации, предложение японского императорского сейма заключалось в продаже земли французам.
Однако японцы не сдавались.
Под руководством четвертого генерал-губернатора Тайваня Кодамы Гентаро эту задачу взял на себя Гото Синпей, который в 1931 году стал генеральным директором Бюро по гражданским вопросам (позже - Генеральным директором Бюро по гражданским вопросам). модернизации Тайваня с использованием методов западных держав в качестве «эталона», а не «имитации».
Он построил инфраструктуру, продвигал сельское хозяйство, торговлю и промышленность, а также обогащал местное население в соответствии с местными условиями.
Он также улучшил образование и санитарию и создал систему правопорядка.
Следует отметить, что развитие человеческих ресурсов Гото было выдающимся.
Чтобы упомянуть некоторых, Инадзо Нитобе (сахарный завод), Кинсуке Хасэгава (железная дорога), Ситаро Кавай (лесное хозяйство) и Томоэ Такаги (санитария) были среди многих людей, которые внесли свой вклад в модернизацию Тайваня.
Сам Гото, который стал первым президентом Маньчжурской железной дороги после того, как покинул Тайвань в 1939 году, был среди тех, кто бросился в управление Канто, Маньчжурии и Кореи.
Накамура Ёсикото, «правая рука» Гото, отвечал за геодезию и другие вопросы на Тайване, а затем поддерживал управление Гото в Маньчжурии в качестве вице-президента (позже президента) Manchuria Railways.
Даже в более поздние годы Ичиро Номура, который был главой ремонтного отдела при строительстве здания канцелярии губернатора Тайваня, участвовал в проектировании здания канцелярии губернатора Кореи.
Демонстрация практических способностей
Это были не просто человеческие ресурсы.
Подход Японии к управлению Тайванем стал образцом для управления Канто, Маньчжурией и Кореей.
Мы модернизировали пустыню, захваченную бандитами, и землю, страдающую от политической коррупции и социальной стагнации из-за давних традиций конфуцианства.
Почему японцы смогли это сделать?
Я думаю, что это был дух «самоотверженности», трудолюбия, этики и высокого уровня практических способностей (чтение, письмо и счеты) вплоть до группы простых граждан.
Приведу один пример.
До начала японской аннексии Кореи (1910-45), когда державы переместились в Хансон (Кёнсон, ныне Сеул, Корея), условия в Японии были низкими по сравнению с другими странами, расположенными недалеко от центра города.
Тем не менее, японцы упорно трудились, чтобы развить мутный, болотистую землю, где жило несколько людей, и использовали его в качестве базы для создания центра города под названием «Honmachi» и «Meiji-мачи.»
Корейские купцы, которых считали низшими из-за своих конфуцианских ценностей, были совершенно беспомощны.
Традиционные торговые районы Чосон, такие как Чонно, постепенно вымирали, и молодые корейцы перемещались в японские регионы, которые были в авангарде моды.
Население Кёнсона, которое быстро урбанизировалось, в 1942 году составляло более 1,11 миллиона человек.
Интересно, знают ли молодые корейцы, что территория вокруг города, застроенная японцами, сейчас является одним из самых процветающих регионов Сеула.
Более продвинутый, чем в Японии
В результате того, что японцы прилагали больше усилий для управления и управления чужими землями, чем для национальной державы, есть случаи, когда «чужие земли были раньше, чем внутренние земли (Япония).
Например, телефон в Даляне в арендованном японцами районе провинции Канто (ныне Китай) стал прямой линией (без подключения к телефонной станции) раньше, чем в Токио или Осаке.
В то время как большинство уборных во внутренней Японии были туалетами-хранилищами в Даляне и Синьцзине (Чанчунь), в столице Маньчжоу-Го было в основном смыв.
Причина в том, что здесь быстро построили канализацию.
После войны «маньчжурцев», родившихся в Маньчжурии и репатриированных в Японию, называли «детьми оккупантов» и другими неспровоцированными злоупотреблениями.
Но когда маньчжуры увидели, на что была похожа жизнь в Японии, они усмехнулись и сказали: «Ну, они говорят, как будто у них все хорошо, но жизнь в Маньчжурии намного лучше.
Правительство Японии продолжало поддерживать финансы внешнего мира, предоставляя деньги с общего счета в качестве дополнения к национальной казне.
Единственной страной, которая не получила этих денег, был Тайвань, который превратился в «излишек» в течение первых десяти лет своего правления.
Корея оставалась в проигрыше до конца войны и была «выведена» Японией.
Конечно, управление чужими землями - не самая приятная картина.
Модернизация Японией Тайваня, Маньчжурии и Кореи соответствовала ее национальным интересам в военных, дипломатических и экономических делах.
Упущение
Но все равно.
Мы должны адекватно отреагировать на страны, которые продолжают выдумывать «выдуманные истории» о том, что «все зло - это Япония» и требуют неоправданных денег, а также на некоторых японцев, которые продолжают их поощрять.
История японцев, которые искренне столкнулись с тайваньским правлением, которое было «истоком» модернизации чужих земель, может быть «ответом» на необоснованные требования.
(Редактор Ёсихиро Кита)


Taiwan: Kisah Jepun - Kebenaran mengenai Era Raja.

2021年01月06日 15時39分10秒 | 全般
Berikut ini adalah dari ansuran ke-21 dari siri artikel di Sankei Shimbun hari ini yang bertajuk "Taiwan: A Japanese Story - The Truth about the Ruling Era.
Ia mesti dibaca bukan hanya untuk orang Jepun tetapi juga untuk orang di seluruh dunia.
Asal Pemodenan Tanah Asing: Korea dan Manchuria
Saya telah menulis mengenai orang-orang Jepun yang mengabdikan diri kepada pemodenan dengan aspirasi tinggi dan semangat terpancar di Taiwan semasa pendudukan Jepun (1895-1945).
Dia telah menulis mengenai orang Jepun yang mengabdikan diri kepada pemodenan dengan aspirasi tinggi dan semangat yang meluap-luap.
Ahli kimia inilah yang membuat penemuan terkenal di dunia dari pokok gergasi di Alishan.
Seorang jurulatih besbol memimpin pasukan perlumbaan campurannya ke tempat kedua di kejohanan Koshien musim panas.
Ini adalah doktor yang memerangi penyakit berjangkit di "Bad Plague Island.
Ini adalah arkitek yang merancang beberapa karya moden.
Salah satu dari mereka tidak akan menjadi pekerjaan yang mudah.
Ketika pemerintahan Taiwan bermula, itu kurang dari 30 tahun setelah berakhirnya zaman Edo, ketika orang memakai chonmage.
Ini adalah projek yang agak membebankan "kerajaan terlambat Jepun" untuk memerintah negara asing untuk pertama kalinya.
Ternyata, ia mendapat tentangan dari angkatan bersenjata anti-Jepun, yang mengakibatkan banyak korban jiwa.
Dalam pertempuran pertama ini, ketika tentera Jepun menghantar kira-kira 50,000 askar, terdapat lebih banyak kematian yang sakit (kira-kira 4,500 orang) akibat malaria daripada mereka yang mati dalam perang (kira-kira 160 orang). ..
Tentangan gerila angkatan bersenjata terus melanda Jepun.
Selain itu, negara ini ketagih dengan sejumlah besar candu.
Masyarakat yang tidak memiliki rasa kedaulatan undang-undang dan tidak dapat menjaga ketenteraman awam.
Jalan kereta api, jalan raya, pelabuhan, sekolah, hospital, pembangunan infrastruktur, bermula hampir dari awal.
Jumlah wang tidak akan mencukupi.
Ia kebanyakannya menggunakan wang pampasan pemerintah Jepun untuk Perang China-Jepun (lebih dari 300 juta yen Jepun) untuk perbelanjaan ketenteraan.
Dengan Perang Rusia-Jepun (1904-05) semakin hampir, wang kerajaan Jepun semakin tipis.
Jumlah wang yang dibayarkan ke perbendaharaan Taiwan dari akaun umum dikurangkan tahun demi tahun, dan pada tahun 1905, ketika Perang Russo-Jepun berakhir, akhirnya berkurang menjadi "sifar.
Sepuluh tahun sejak pemerintahannya, ia memaksa kewangan Taiwan menjadi "merdeka.
Kuasa Barat pasti telah menunggu dengan penuh perhatian agar perkara ini berlaku.
"Tidak mungkin orang Asia dapat memodenkan." "Sekiranya Jepun menjatuhkan tangannya, kami akan mengambil yang lain."
Sebenarnya, pada masa awal penjajahan Jepun, cadangan Diet Imperial Jepun adalah untuk menjual tanah itu kepada orang Perancis.
Namun, orang Jepun tidak berputus asa.
Di bawah kepimpinan Gabenor Jeneral keempat Taiwan, Kodama Gentaro, Goto Shinpei, yang menjadi Ketua Pengarah Biro Hal Ehwal Sivil (kemudian menjadi Ketua Pengarah Biro Hal Ehwal Sivil) pada tahun 1931, mengambil tugas memodenkan Taiwan dengan menggunakan kaedah kuasa Barat sebagai "rujukan" tetapi bukan "tiruan.
Dia membangun infrastruktur, mempromosikan pertanian, perdagangan, dan industri, dan memperkaya penduduk setempat mengikuti kondisi setempat.
Dia juga meningkatkan pendidikan dan sanitasi dan menciptakan sistem undang-undang dan ketertiban.
Perlu diperhatikan bahawa pembangunan sumber manusia Goto luar biasa.
Untuk menyebut beberapa, Inazo Nitobe (kilang gula), Kinsuke Hasegawa (jalan kereta api), Shitaro Kawai (perhutanan), dan Tomoe Takagi (sanitasi) adalah antara banyak orang yang menyumbang kepada pemodenan Taiwan.
Goto sendiri, yang menjadi presiden pertama Kereta Api Manchuria setelah meninggalkan Taiwan pada tahun 1939, adalah antara mereka yang melemparkan diri ke dalam pemerintahan Kanto dan Manchuria dan pemerintahan Korea.
Nakamura Yoshikoto, "orang kanan" Goto bertanggungjawab terhadap tinjauan tanah dan hal-hal lain di Taiwan, dan kemudian menyokong pengurusan Goto Manchuria sebagai naib presiden (kemudian presiden) Manchuria Railways.
Bahkan pada tahun-tahun kemudian, Ichiro Nomura, yang merupakan ketua Bahagian Pembaikan ketika bangunan Pejabat Gabenor Taiwan dibina, terlibat dalam merancang bangunan Pejabat Gabenor Korea.
Menunjukkan kemampuan praktikal
Bukan hanya sumber manusia.
Pendekatan Jepun untuk memerintah Taiwan menjadi contoh model untuk menangani Kanto dan Manchuria dan pemerintahan Korea.
Kami memodenkan hutan belantara yang dikuasai oleh penyamun dan tanah yang menderita korupsi politik dan kebuntuan sosial kerana tradisi lama Confucianisme.
Mengapa orang Jepun dapat mencapai ini?
Saya rasa itu adalah semangat "tidak mementingkan diri sendiri", ketekunan, etika, dan tahap kemampuan praktikal yang tinggi (membaca, menulis, dan sempoa) hingga ke kelompok rakyat biasa.
Mari saya berikan satu contoh.
Sebelum memulakan aneksasi Jepun ke Korea (1910-45), ketika kekuasaan berpindah ke Hanseong (Gyeongseong, sekarang Seoul, Korea), keadaan di Jepun rendah berbanding negara-negara lain yang terletak berhampiran pusat bandar.
Namun, orang Jepun bekerja keras untuk mengembangkan tanah yang berlumpur dan rawa di mana beberapa orang tinggal dan menggunakannya sebagai pangkalan untuk mewujudkan kawasan pusat bandar bernama "Honmachi" dan "Meiji-machi."
Pedagang Korea, yang dianggap rendah kerana nilai-nilai Confucian mereka, sama sekali tidak berdaya.
Kawasan komersial tradisional di Joseon, seperti Jongno, secara beransur-ansur mati, dan orang-orang Korea muda beralih ke wilayah Jepun, yang berada di barisan hadapan fesyen.
Penduduk Gyeongseong, yang melakukan urbanisasi pada kadar yang cepat, melebihi 1.11 juta pada tahun 1942.
Saya tertanya-tanya apakah anak muda Korea tahu bahawa kawasan di sekitar bandar yang dikembangkan oleh orang Jepun sekarang menjadi salah satu wilayah paling makmur di Seoul.
Lebih maju daripada di Jepun
Sebagai hasil dari orang Jepun melakukan lebih banyak usaha untuk mengatur dan mengurus tanah asing daripada yang mereka lakukan menjadi kekuatan nasional, ada kasus di mana "tanah asing lebih awal daripada tanah domestik (Jepang).
Sebagai contoh, telefon di Dalian di wilayah sewaan Jepun di Wilayah Kanto (sekarang China) menjadi talian dail terus (tanpa melalui pertukaran cawangan) lebih awal daripada di Tokyo atau Osaka.
Ketika kebanyakan jamban di pendalaman Jepun adalah tandas 'tandas tandas' di Dalian, dan Xinjing (Changchun), ibukota Manchukuo terutama menyiram.
Sebabnya ialah dengan cepat membina sistem kumbahan.
Selepas perang, "Manchurians" yang lahir di Manchuria dan dipulangkan ke Jepun dipanggil "anak-anak penjajah" dan penyalahgunaan lain yang tidak diprovokasi.
Tetapi ketika orang Manchuria melihat bagaimana kehidupan di Jepun, mereka menyeringai dan berkata, "Baiklah, mereka bercakap seperti mereka berjalan dengan baik, tetapi kehidupan di Manchuria jauh lebih baik.
Kerajaan Jepun terus menyokong kewangan dunia luar dengan memberikan wang dari akaun umum sebagai tambahan kepada perbendaharaan negara.
Satu-satunya negara yang tidak menerima wang ini adalah Taiwan, yang berubah menjadi "lebihan" dalam sepuluh tahun pertama pemerintahannya.
Korea kekal merah hingga akhir perang dan "dibawa keluar" oleh Jepun.
Sudah tentu, memerintah tanah asing bukanlah "gambaran yang indah.
Pemodenan Jepun terhadap Taiwan, Manchuria, dan Korea sesuai dengan kepentingan nasionalnya dalam hal ketenteraan, diplomatik, dan ekonomi.
Peninggalan
Tapi masih.
Kita harus memberi respons yang memadai kepada negara-negara yang terus menyusun "cerita khayalan" bahawa "semua kejahatan adalah Jepun" dan menuntut wang yang tidak wajar, serta kepada beberapa orang Jepun yang terus mendorong mereka.
Kisah orang Jepun yang dengan tulus menghadapi pemerintahan Taiwan, yang merupakan "asal" pemodenan tanah asing, dapat menjadi "tindak balas" terhadap tuntutan yang tidak masuk akal.
(Editor Yoshihiro Kita)


Taiwan: Uma História Japonesa - A Verdade sobre a Era Governante.

2021年01月06日 15時37分23秒 | 全般
O que segue é da vigésima primeira edição de uma série de artigos do Sankei Shimbun de hoje, intitulada "Taiwan: Uma História Japonesa - A Verdade sobre a Era Governante.
É uma leitura obrigatória não apenas para os japoneses, mas também para pessoas de todo o mundo.
A Origem da Modernização de Terras Estrangeiras: Coréia e Manchúria
Já escrevi sobre japoneses que se dedicaram à modernização com grandes aspirações e paixão fervorosa em Taiwan durante a ocupação japonesa (1895-1945).
Ele escreveu sobre os japoneses que se dedicaram à modernização com grandes aspirações e entusiasmo transbordante.
É o químico que fez uma descoberta mundialmente famosa de uma árvore gigante em Alishan.
Um técnico de beisebol levou sua equipe de corrida mista ao segundo lugar no torneio de verão de Koshien.
É um médico que lutou contra doenças infecciosas na "Ilha da Praga Bad.
É um arquiteto que projetou várias obras-primas modernas.
Qualquer um deles não teria sido um trabalho fácil.
Quando o governo de Taiwan começou, era menos de 30 anos após o fim do período Edo, quando as pessoas usavam chonmage.
Foi um projeto um tanto pesado para o "atrasado império do Japão" governar uma nação estrangeira pela primeira vez.
No final das contas, ele encontrou resistência das forças armadas anti-japonesas, resultando em muitas baixas.
Nesta primeira batalha, quando o exército japonês enviou cerca de 50.000 soldados, houve esmagadoramente mais mortes por doença (cerca de 4.500 pessoas) devido à malária do que aqueles que morreram na guerra (cerca de 160 pessoas). ..
A resistência guerrilheira das forças armadas continuou a atormentar o Japão.
Além disso, o país estava viciado em uma grande quantidade de ópio.
Uma sociedade que não possui o sentido do Estado de Direito e é incapaz de manter a ordem pública.
Ferrovias, estradas, portos, escolas, hospitais, desenvolvimento de infraestrutura começaram quase do zero.
Nenhuma quantia de dinheiro será suficiente.
Usou principalmente até mesmo o dinheiro de compensação do governo japonês para a Guerra Sino-Japonesa (mais de 300 milhões de ienes japoneses) para despesas militares.
Com a Guerra Russo-Japonesa (1904-05) se aproximando, os cofres do governo japonês estão se esgotando.
A quantia de dinheiro paga ao tesouro de Taiwan pela conta geral foi reduzida ano após ano, e em 1905, quando a Guerra Russo-Japonesa terminou, ela finalmente foi reduzida a "zero.
Dez anos em seu governo, forçou as finanças de Taiwan a se tornarem "independentes.
As potências ocidentais devem ter esperado vigilantemente que isso acontecesse.
"Não há como os asiáticos se modernizarem." 'Se o Japão levantar as mãos, nós ficaremos com o resto.'
Na verdade, nos primeiros dias da ocupação japonesa, uma proposta da Dieta Imperial Japonesa era vender a terra aos franceses.
No entanto, os japoneses não desistiram.
Sob a liderança do quarto governador-geral de Taiwan, Kodama Gentaro, Goto Shinpei, que se tornou o diretor-geral do Gabinete de Assuntos Civis (posteriormente se tornaria o Diretor-Geral do Gabinete de Assuntos Civis) em 1931, assumiu a tarefa de modernizar Taiwan usando os métodos das potências ocidentais como "referência", mas não "imitação.
Ele construiu infraestrutura, promoveu a agricultura, o comércio e a indústria e enriqueceu a população local de acordo com as condições locais.
Ele também melhorou a educação e o saneamento e criou um sistema de lei e ordem.
Deve-se observar que o desenvolvimento de recursos humanos de Goto foi excelente.
Para citar alguns, Inazo Nitobe (refinaria de açúcar), Kinsuke Hasegawa (ferrovia), Shitaro Kawai (silvicultura) e Tomoe Takagi (saneamento) estavam entre as muitas pessoas que contribuíram para a modernização de Taiwan.
O próprio Goto, que se tornou o primeiro presidente da Ferrovia Manchuriana depois de deixar Taiwan em 1939, estava entre os que se lançaram à administração de Kanto e da Manchúria e ao governo da Coréia.
Nakamura Yoshikoto, o "braço direito" de Goto, estava encarregado de levantamentos de terras e outros assuntos em Taiwan, e então apoiou a gestão de Goto na Manchúria como vice-presidente (mais tarde presidente) da Manchuria Railways.
Mesmo nos últimos anos, Ichiro Nomura, que era chefe da Seção de Reparos quando o prédio do Gabinete do Governador de Taiwan foi construído, estava envolvido no projeto do prédio do Gabinete do Governador da Coreia.
Demonstrando habilidade prática
Não eram apenas recursos humanos.
A abordagem do Japão para governar Taiwan tornou-se um caso modelo para lidar com Kanto e Manchúria e o governo da Coréia.
Modernizamos a selva invadida por bandidos e a terra sofrendo de corrupção política e estagnação social devido à velha tradição do confucionismo.
Por que os japoneses conseguiram isso?
Acho que foi o espírito de "abnegação", diligência, ética e o alto nível de habilidade prática (leitura, escrita e ábaco) até o grupo de cidadãos comuns.
Deixe-me dar um exemplo.
Antes de iniciar a anexação japonesa da Coreia (1910-45), quando as potências se mudaram para Hanseong (Gyeongseong, agora Seul, Coreia), as condições no Japão eram baixas em comparação com outros países localizados perto do centro da cidade.
No entanto, os japoneses trabalharam muito para desenvolver a terra lamacenta e pantanosa onde poucas pessoas viviam e a usaram como base para criar a área central chamada "Honmachi" e "Meiji-machi".
Os mercadores coreanos, considerados humildes devido aos seus valores confucionistas, estavam totalmente desamparados.
As áreas comerciais tradicionais de Joseon, como Jongno, foram desaparecendo gradualmente, e os jovens coreanos foram migrando para as regiões japonesas, que estavam na vanguarda da moda.
A população de Gyeongseong, que estava se urbanizando em um ritmo rápido, era de mais de 1,11 milhão em 1942.
Eu me pergunto se os jovens coreanos sabem que a área ao redor da cidade desenvolvida pelos japoneses é agora uma das regiões mais prósperas de Seul.
Mais avançado que no Japão
Como resultado dos japoneses colocarem mais esforço em governar e administrar terras estrangeiras do que em uma potência nacional, há casos em que "as terras estrangeiras eram anteriores às domésticas (Japão).
Por exemplo, o telefone em Dalian, na área alugada no Japão da província de Kanto (agora China), tornou-se uma linha de discagem direta (sem passar por uma central telefônica) mais cedo do que em Tóquio ou Osaka.
Quando a maioria das latrinas no interior do Japão eram vasos sanitários de 'abóbadas' em Dalian e Xinjing (Changchun), a capital de Manchukuo era principalmente com descarga.
A razão para isso foi que rapidamente construiu sistemas de esgoto.
Depois da guerra, os "manchurianos" nascidos na Manchúria e repatriados para o Japão foram chamados de "filhos dos invasores" e outros abusos não provocados.
Mas quando os manchus viram como era a vida no Japão, sorriram e disseram: "Bem, eles falam como se estivessem indo bem, mas a vida na Manchúria é muito melhor.
O governo japonês continuou a apoiar as finanças do mundo externo, fornecendo dinheiro da conta geral como suplemento ao tesouro nacional.
O único país que não recebeu esse dinheiro foi Taiwan, que se tornou um "superávit" nos primeiros dez anos de governo.
A Coréia permaneceu no vermelho até o final da guerra e foi "eliminada" pelo Japão.
Claro, governar terras estrangeiras não é uma "bela imagem.
A modernização de Taiwan, Manchúria e Coréia pelo Japão estava de acordo com seus interesses nacionais em assuntos militares, diplomáticos e econômicos.
Omissão
Mas ainda.
Devemos responder adequadamente aos países que continuam a inventar "histórias imaginárias" de que "todo o mal é o Japão" e exigir dinheiro injustificado, bem como a alguns japoneses que continuam a incentivá-los.
A história dos japoneses que enfrentaram sinceramente o domínio taiwanês, que foi a "origem" da modernização de terras estrangeiras, pode ser uma "resposta" às demandas irracionais.
(Editor Yoshihiro Kita)


Tajwan: japońska historia - prawda o epoce rządzenia.

2021年01月06日 15時35分50秒 | 全般
Poniższy tekst pochodzi z 21. części serii artykułów w dzisiejszej Sankei Shimbun, zatytułowanej „Tajwan: japońska historia - prawda o rządzącej erze.
To lektura obowiązkowa nie tylko dla Japończyków, ale także dla ludzi na całym świecie.
Geneza modernizacji obcych krajów: Korei i Mandżurii
Pisałem o Japończykach, którzy z dużymi aspiracjami i tryskającą pasją poświęcili się modernizacji na Tajwanie w okresie okupacji japońskiej (1895-1945).
Pisał o Japończykach, którzy poświęcili się modernizacji z dużymi aspiracjami i przepełnionym entuzjazmem.
To chemik dokonał słynnego na całym świecie odkrycia z gigantycznego drzewa w Alishan.
Trener baseballu poprowadził swoją drużynę mieszaną do drugiego miejsca w letnim turnieju Koshien.
To lekarz, który walczył z chorobami zakaźnymi na „Bad Plague Island”.
To architekt, który zaprojektował kilka współczesnych arcydzieł.
Każdy z nich nie byłby łatwym zadaniem.
Kiedy zaczęły się rządy Tajwanu, minęło mniej niż 30 lat po zakończeniu okresu Edo, kiedy ludzie nosili chonmage.
Rządzenie obcym narodem po raz pierwszy było dla „spóźnionego imperium Japonii” nieco uciążliwym projektem.
Jak się okazało, spotkał się z oporem ze strony sił zbrojnych antyjapońskich, co spowodowało wiele ofiar.
W tej pierwszej bitwie, kiedy armia japońska wysłała około 50 000 żołnierzy, z powodu malarii zginęło zdecydowanie więcej chorych (około 4500 osób) niż tych, którzy zginęli na wojnie (około 160 osób). ..
Partyzancki opór sił zbrojnych nadal nękał Japonię.
Poza tym kraj był uzależniony od dużej ilości opium.
Społeczeństwo, któremu brakuje poczucia praworządności i nie jest w stanie utrzymać porządku publicznego.
Koleje, drogi, porty, szkoły, szpitale, rozwój infrastruktury zaczęły się niemal od zera.
Żadna ilość pieniędzy nigdy nie wystarczy.
W większości wykorzystywał nawet pieniądze z odszkodowań rządu japońskiego za wojnę chińsko-japońską (ponad 300 milionów jenów) na wydatki wojskowe.
Wraz ze zbliżającą się wojną rosyjsko-japońską (1904-05), skarbiec rządu japońskiego jest nadwyrężony.
Kwota pieniędzy wpłacana do skarbu Tajwanu z konta głównego była z roku na rok zmniejszana, a do 1905 r., Kiedy zakończyła się wojna rosyjsko-japońska, ostatecznie spadła do „zera”.
Dziesięć lat po rozpoczęciu rządów zmusił finanse Tajwanu do uzyskania „niezależności”.
Mocarstwa zachodnie musiały czujnie czekać, aż tak się stanie.
„Nie ma sposobu, aby Azjaci mogli się modernizować”. „Jeśli Japonia podniesie ręce, zajmiemy się resztą”.
W rzeczywistości na początku japońskiej okupacji propozycja japońskiej sejmu cesarskiego polegała na sprzedaży ziemi Francuzom.
Jednak Japończycy się nie poddali.
Pod przewodnictwem czwartego gubernatora generalnego Tajwanu, Kodamy Gentaro, Goto Shinpei, który został Dyrektorem Generalnym Biura Spraw Obywatelskich (później został Dyrektorem Generalnym Biura Spraw Obywatelskich) w 1931 r. modernizacji Tajwanu przy użyciu metod mocarstw zachodnich jako „odniesienia”, ale nie „naśladownictwa”.
Zbudował infrastrukturę, promował rolnictwo, handel i przemysł oraz wzbogacał miejscową ludność zgodnie z lokalnymi warunkami.
Poprawił także edukację i warunki sanitarne oraz stworzył system prawa i porządku.
Należy zauważyć, że rozwój zasobów ludzkich Goto był znakomity.
Aby wymienić tylko kilka, Inazo Nitobe (cukrownia), Kinsuke Hasegawa (kolej), Shitaro Kawai (leśnictwo) i Tomoe Takagi (urządzenia sanitarne) należeli do wielu osób, które przyczyniły się do modernizacji Tajwanu.
Sam Goto, który został pierwszym prezesem Kolei Mandżurskiej po opuszczeniu Tajwanu w 1939 r., Był jednym z tych, którzy rzucili się w administrację Kanto i Mandżurii oraz rządów Korei.
Nakamura Yoshikoto, „prawa ręka” Goto, był odpowiedzialny za badania terenu i inne sprawy na Tajwanie, a następnie wspierał kierownictwo Goto w Mandżurii jako wiceprezes (później prezes) Kolei Mandżurskich.
Nawet w późniejszych latach Ichiro Nomura, który był szefem Sekcji Remontowej podczas budowy budynku Gubernatora Tajwanu, był zaangażowany w projektowanie budynku Biura Gubernatora Korei.
Wykazanie umiejętności praktycznych
Nie chodziło tylko o zasoby ludzkie.
Podejście Japonii do rządzenia Tajwanem stało się wzorcową sprawą dla Kanto, Mandżurii i Korei.
Zmodernizowaliśmy pustkowia opanowane przez bandytów i ziemię dotkniętą korupcją polityczną i stagnacją społeczną z powodu starej tradycji konfucjanizmu.
Dlaczego Japończykom udało się to osiągnąć?
Myślę, że był to duch „bezinteresowności”, pracowitości, etyki i wysokiego poziomu umiejętności praktycznych (czytanie, pisanie i liczydło) aż do grupy zwykłych obywateli.
Podam jeden przykład.
Przed przystąpieniem do japońskiej aneksji Korei (1910-45), kiedy to mocarstwa przeniosły się do Hanseong (Gyeongseong, obecnie Seul, Korea), warunki w Japonii były niskie w porównaniu z innymi krajami położonymi w pobliżu centrum miasta.
Jednak Japończycy ciężko pracowali, aby zagospodarować błotnistą, bagnistą ziemię, na której mieszkało niewielu ludzi, i wykorzystali ją jako bazę do stworzenia obszaru śródmieścia nazwanego „Honmachi” i „Meiji-machi”.
Kupcy koreańscy, których uważano za pokornych ze względu na swoje wartości konfucjańskie, byli całkowicie bezradni.
Tradycyjne obszary handlowe Joseon, takie jak Jongno, stopniowo wymierały, a młodzi Koreańczycy dryfowali do regionów Japonii, które były w czołówce mody.
Populacja Gyeongseong, która urbanizuje się w szybkim tempie, w 1942 r. Wynosiła ponad 1,11 mln.
Zastanawiam się, czy młodzi Koreańczycy wiedzą, że obszar wokół miasta rozwinięty przez Japończyków jest obecnie jednym z najlepiej prosperujących regionów Seulu.
Bardziej zaawansowany niż w Japonii
W wyniku tego, że Japończycy włożyli więcej wysiłku w rządzenie i zarządzanie obcymi ziemiami niż w potęgę narodową, zdarzają się przypadki, gdy „obce ziemie były wcześniejsze niż ziemie domowe (Japonia).
Na przykład telefon w Dalian w dzierżawionym przez Japonię obszarze prowincji Kanto (obecnie Chiny) stał się linią bezpośrednią (bez przechodzenia przez centralę telefoniczną) wcześniej niż w Tokio czy Osace.
Kiedy większość latryn w głębi Japonii była toaletami „podziemnymi” w Dalian i Xinjing (Changchun), stolica Mandżukuo była głównie spłukana.
Powodem tego było szybkie budowanie kanalizacji.
Po wojnie „Mandżurczyków” urodzonych w Mandżurii i repatriowanych do Japonii nazywano „dziećmi najeźdźców” i innymi niesprowokowanymi nadużyciami.
Ale kiedy Mandżurczycy zobaczyli, jak wygląda życie w Japonii, uśmiechnęli się i powiedzieli: „Cóż, mówią, jakby mieli się dobrze, ale życie w Mandżurii jest znacznie lepsze.
Rząd Japonii nadal wspierał finanse świata zewnętrznego, dostarczając pieniądze z konta głównego jako uzupełnienie do skarbu państwa.
Jedynym krajem, który nie otrzymał tych pieniędzy, był Tajwan, który zamienił się w „nadwyżkę” w ciągu pierwszych dziesięciu lat panowania.
Korea pozostała na minusie do końca wojny i została „wyciągnięta” przez Japonię.
Oczywiście rządzenie obcymi krajami nie jest „ładnym obrazkiem”.
Modernizacja Tajwanu, Mandżurii i Korei przez Japonię była zgodna z jej narodowymi interesami w sprawach wojskowych, dyplomatycznych i gospodarczych.
Pominięcie
Ale nadal.
Powinniśmy odpowiednio odpowiedzieć krajom, które nadal tworzą „wyimaginowane historie”, że „całe zło jest Japonia” i żądać nieuzasadnionych pieniędzy, a także niektórym Japończykom, którzy nadal je zachęcają.
Historia Japończyków, którzy szczerze stawili czoła rządom Tajwanu, będącym „źródłem” modernizacji obcych krajów, może być „odpowiedzią” na nieuzasadnione żądania.
(Redaktor Yoshihiro Kita)


Đài Loan: Câu chuyện Nhật Bản - Sự thật về kỷ nguyên thống trị.

2021年01月06日 15時33分32秒 | 全般
Sau đây là phần thứ 21 của một loạt các bài báo trên tờ Sankei Shimbun ngày nay có tiêu đề "Đài Loan: Câu chuyện Nhật Bản - Sự thật về Kỷ nguyên cai trị.
Đây là cuốn sách phải đọc không chỉ đối với người dân Nhật Bản mà còn đối với mọi người trên thế giới.
Nguồn gốc của quá trình hiện đại hóa đất nước ngoài: Triều Tiên và Mãn Châu
Tôi đã viết về những người Nhật Bản đã cống hiến hết mình cho công cuộc hiện đại hóa với khát vọng cao cả và niềm đam mê cháy bỏng ở Đài Loan trong thời kỳ Nhật Bản chiếm đóng (1895-1945).
Ông đã viết về những người Nhật Bản đã cống hiến hết mình cho công cuộc hiện đại hóa với khát vọng cao cả và nhiệt huyết tràn đầy.
Đó là nhà hóa học đã thực hiện một khám phá nổi tiếng thế giới từ một cái cây khổng lồ ở Alishan.
Một huấn luyện viên bóng chày đã dẫn dắt đội đua hỗn hợp của mình về đích ở vị trí thứ hai trong giải đấu Koshien mùa hè.
Đó là một bác sĩ đã chiến đấu với các căn bệnh truyền nhiễm trên "Bad Plague Island.
Đó là một kiến trúc sư đã thiết kế một số kiệt tác hiện đại.
Bất kỳ một trong số họ sẽ không phải là một công việc dễ dàng.
Khi sự cai trị của Đài Loan bắt đầu, chỉ chưa đầy 30 năm sau khi kết thúc thời kỳ Edo, khi mọi người mặc chonmage.
Đó là một dự án hơi nặng nề đối với "đế chế muộn màng của Nhật Bản" lần đầu tiên cai trị một quốc gia nước ngoài.
Hóa ra, nó đã vấp phải sự kháng cự của các lực lượng vũ trang chống Nhật, dẫn đến nhiều thương vong.
Trong trận chiến đầu tiên này, khi quân đội Nhật gửi khoảng 50.000 binh sĩ, số người chết vì bệnh (khoảng 4.500 người) vì bệnh sốt rét nhiều hơn số người chết trong chiến tranh (khoảng 160 người). ..
Cuộc kháng chiến du kích của các lực lượng vũ trang tiếp tục hoành hành Nhật Bản.
Bên cạnh đó, đất nước này còn nghiện một lượng lớn thuốc phiện.
Một xã hội thiếu ý thức về pháp quyền và không thể duy trì trật tự công cộng.
Đường sắt, đường bộ, bến cảng, trường học, bệnh viện, phát triển cơ sở hạ tầng, bắt đầu gần như từ đầu.
Không bao giờ có đủ tiền.
Nó chủ yếu sử dụng tiền bồi thường của chính phủ Nhật Bản cho Chiến tranh Trung-Nhật (hơn 300 triệu yên Nhật) cho chi phí quân sự.
Với Chiến tranh Nga-Nhật (1904-05) đang đến gần, ngân khố của chính phủ Nhật Bản ngày càng mỏng đi.
Số tiền nộp vào ngân khố của Đài Loan từ tài khoản chung đã giảm dần năm này qua năm khác, và đến năm 1905, khi Chiến tranh Nga-Nhật kết thúc, nó cuối cùng đã giảm xuống "không.
Sau 10 năm cai trị, nó đã buộc nền tài chính của Đài Loan phải "độc lập.
Các cường quốc phương Tây hẳn đã cảnh giác chờ đợi điều này xảy ra.
'Không có cách nào người châu Á có thể hiện đại hóa.' 'Nếu Nhật Bản giơ tay, chúng tôi sẽ giành phần còn lại.'
Trên thực tế, trong những ngày đầu Nhật Bản chiếm đóng, một đề xuất của Chế độ ăn uống của Đế quốc Nhật Bản là bán đất cho người Pháp.
Tuy nhiên, người Nhật không bỏ cuộc.
Dưới sự lãnh đạo của Toàn quyền thứ tư của Đài Loan, Kodama Gentaro, Goto Shinpei, người trở thành Cục trưởng Cục Nội vụ (sau này trở thành Cục trưởng Cục Nội vụ) vào năm 1931, nhận nhiệm vụ hiện đại hóa Đài Loan bằng cách sử dụng các phương pháp của các cường quốc phương Tây là "tham khảo" chứ không phải "bắt chước.
Ông đã xây dựng cơ sở hạ tầng, thúc đẩy nông nghiệp, thương mại và công nghiệp, và làm giàu cho người dân địa phương theo các điều kiện địa phương.
Ông cũng cải thiện giáo dục, vệ sinh môi trường và tạo ra một hệ thống luật lệ và trật tự.
Cần lưu ý rằng sự phát triển nguồn nhân lực của Goto rất nổi bật.
Có thể kể đến Inazo Nitobe (nhà máy lọc đường), Kinsuke Hasegawa (đường sắt), Shitaro Kawai (lâm nghiệp) và Tomoe Takagi (vệ sinh) là một trong số rất nhiều người đã góp phần vào quá trình hiện đại hóa Đài Loan.
Bản thân Goto, người trở thành chủ tịch đầu tiên của Đường sắt Mãn Châu sau khi rời Đài Loan vào năm 1939, là một trong số những người đã dấn thân vào chính quyền của Kanto và Mãn Châu và sự cai trị của Triều Tiên.
Nakamura Yoshikoto, "cánh tay phải" của Goto, phụ trách khảo sát đất đai và các vấn đề khác ở Đài Loan, sau đó hỗ trợ việc quản lý Mãn Châu của Goto với tư cách là phó chủ tịch (sau này là chủ tịch) của Đường sắt Mãn Châu.
Ngay cả trong những năm sau đó, Ichiro Nomura, người đứng đầu Bộ phận sửa chữa khi tòa nhà Văn phòng Thống đốc Đài Loan được xây dựng, đã tham gia thiết kế tòa nhà Văn phòng Thống đốc Hàn Quốc.
Thể hiện khả năng thực tế
Đó không chỉ là nguồn nhân lực.
Cách tiếp cận của Nhật Bản đối với việc quản lý Đài Loan đã trở thành một trường hợp điển hình cho việc xử lý Kanto và Mãn Châu và sự quản lý của Hàn Quốc.
Chúng ta hiện đại hóa vùng đất hoang vu bị kẻ cướp tàn phá và đất đai bị băng hoại chính trị và đình trệ xã hội do truyền thống cũ của Nho giáo.
Tại sao người Nhật có thể làm được điều này?
Tôi nghĩ đó là tinh thần "quên mình", siêng năng, đạo đức và khả năng thực hành cao (đọc, viết và bàn tính) của một nhóm công dân bình thường.
Hãy để tôi cung cấp cho bạn một ví dụ.
Trước khi Nhật Bản thôn tính Hàn Quốc (1910-45), khi các cường quốc chuyển đến Hanseong (Gyeongseong, nay là Seoul, Hàn Quốc), điều kiện ở Nhật Bản rất thấp so với các nước khác nằm gần trung tâm thành phố.
Tuy nhiên, người Nhật đã làm việc chăm chỉ để phát triển vùng đất lầy lội, sình lầy nơi ít người sinh sống và sử dụng nó làm cơ sở để tạo ra khu vực trung tâm thành phố mang tên "Honmachi" và "Meiji-machi."
Các thương gia Hàn Quốc, những người bị coi là thấp kém do các giá trị Nho giáo của họ, đã hoàn toàn bất lực.
Các khu thương mại truyền thống của Joseon, chẳng hạn như Jongno, đang dần chết đi, và những người trẻ tuổi Hàn Quốc đang chuyển sang các khu vực Nhật Bản, nơi đi đầu về thời trang.
Dân số của Gyeongseong, nơi đang đô thị hóa với tốc độ nhanh chóng, vào năm 1942 là hơn 1,11 triệu người.
Không biết các bạn trẻ Hàn Quốc có biết rằng khu vực xung quanh thành phố do người Nhật phát triển hiện là một trong những khu vực thịnh vượng nhất của Seoul.
Cao cấp hơn ở Nhật Bản
Do người Nhật nỗ lực cai trị và quản lý các vùng đất nước ngoài nhiều hơn so với việc họ trở thành một cường quốc quốc gia, nên có những trường hợp “đất nước ngoài có sớm hơn đất nội địa (Nhật Bản).
Ví dụ, điện thoại ở Đại Liên trong khu vực cho thuê của Nhật Bản thuộc tỉnh Kanto (nay là Trung Quốc) đã trở thành đường dây quay số trực tiếp (không qua tổng đài chi nhánh) sớm hơn ở Tokyo hay Osaka.
Khi hầu hết các nhà vệ sinh ở nội địa Nhật Bản là nhà vệ sinh 'hầm cầu' ở Đại Liên và Tân Kinh (Trường Xuân), thì thủ phủ của Manchukuo chủ yếu là nhà vệ sinh bằng nước.
Lý do cho điều này là nó đã nhanh chóng xây dựng hệ thống thoát nước thải.
Sau chiến tranh, những "người Mãn Châu" sinh ra ở Mãn Châu và hồi hương về Nhật Bản bị gọi là "con của những kẻ xâm lược" và những hành vi ngược đãi vô cớ khác.
Nhưng khi người Mãn Châu nhìn thấy cuộc sống ở Nhật Bản như thế nào, họ cười toe toét và nói: “Chà, họ nói như thể họ đang làm tốt, nhưng cuộc sống ở Mãn Châu còn tốt hơn nhiều.
Chính phủ Nhật Bản tiếp tục hỗ trợ tài chính của thế giới bên ngoài bằng cách cung cấp tiền từ tài khoản chung như một nguồn bổ sung cho ngân khố quốc gia.
Quốc gia duy nhất không nhận được khoản tiền này là Đài Loan, quốc gia đã trở thành "thặng dư" trong vòng mười năm đầu cầm quyền.
Triều Tiên vẫn chìm trong sắc đỏ cho đến khi kết thúc chiến tranh và bị Nhật Bản "hạ gục".
Tất nhiên, quản lý các vùng đất nước ngoài không phải là một "bức tranh đẹp.
Việc Nhật Bản hiện đại hóa Đài Loan, Mãn Châu và Triều Tiên phù hợp với lợi ích quốc gia của nước này trong các vấn đề quân sự, ngoại giao và kinh tế.
Bỏ xót
Nhưng vẫn.
Chúng ta nên đáp trả thỏa đáng những quốc gia tiếp tục bịa ra "những câu chuyện tưởng tượng" rằng "tất cả những điều xấu xa là Nhật Bản" và đòi tiền phi lý, cũng như một số người Nhật tiếp tục khuyến khích họ.
Câu chuyện về người Nhật chân thành đối mặt với sự cai trị của Đài Loan, vốn là "nguồn gốc" của công cuộc hiện đại hóa các vùng đất nước ngoài, có thể là một "phản ứng" trước những đòi hỏi phi lý.
(Chủ biên Yoshihiro Kita)


Тайван: Японска история - Истината за управляващата ера.

2021年01月06日 15時31分46秒 | 全般
Следващото е от 21-ва част от поредица статии в днешния Санкей Шимбун, озаглавени „Тайван: Японска история - истината за управляващата ера.
Това е задължително четиво не само за японците, но и за хората по целия свят.
Произходът на модернизацията на чуждите земи: Корея и Манджурия
Писах за японци, отдали се на модернизация с високи стремежи и бликаща страст в Тайван по време на японската окупация (1895-1945).
Той е писал за японците, които са се посветили на модернизацията с високи стремежи и преливащ ентусиазъм.
Именно химикът е направил световноизвестно откритие от гигантско дърво в Алишан.
Треньор по бейзбол изведе отбора си на смесено състезание до второ място в летния турнир Кошиен.
Това е лекар, който се е борил с инфекциозни болести на „Островът на лошата чума.
Това е архитект, който е проектирал няколко модерни шедьовъра.
Всеки от тях не би бил лесна работа.
Когато управлението на Тайван започна, минаха по-малко от 30 години след края на периода на Едо, когато хората носеха чанмаж.
Това беше донякъде обременителен проект за „закъснялата империя на Япония“ за управление на чужда държава за първи път.
Както се оказа, тя беше срещната с съпротива от страна на анти-японските въоръжени сили, което доведе до много жертви.
В тази първа битка, когато японската армия изпрати около 50 000 войници, имаше преобладаващо повече смъртни случаи (около 4500 души) поради малария, отколкото тези, които са загинали във войната (около 160 души). ..
Партизанската съпротива на въоръжените сили продължава да тормози Япония.
Освен това страната беше пристрастена към голямо количество опиум.
Общество, което няма чувство за върховенство на закона и не е в състояние да поддържа обществения ред.
Железопътните пътища, пътищата, пристанищата, училищата, болниците, развитието на инфраструктурата започнаха почти от нулата.
Никакви пари никога няма да са достатъчни.
Той използва най-вече дори компенсационните пари на японското правителство за китайско-японската война (над 300 милиона японски йени) за военни разходи.
С наближаването на Руско-японската война (1904-05) касата на японското правителство е опъната.
Сумата на парите, внесена в хазната на Тайван от общата сметка, се намаляваше година след година, а до 1905 г., когато Руско-японската война приключи, накрая се намали до „нула.
След десет години управлението му принуди финансите на Тайван да станат „независими“.
Западните сили трябва да са чакали зорко това да се случи.
"Няма начин азиатците да се модернизират." "Ако Япония вдигне ръце, ние ще вземем останалото."
Всъщност в ранните дни на японската окупация предложението на японския императорски диета беше да се продаде земята на французите.
Японците обаче не се предадоха.
Под ръководството на четвъртия генерал-губернатор на Тайван, Кодама Гентаро, Гото Шинпей, който стана генерален директор на Бюрото по граждански въпроси (по-късно да стане генерален директор на Бюрото по граждански въпроси), пое задачата за модернизиране на Тайван чрез използване на методите на западните сили като "референтен", но не и "имитация.
Той изгражда инфраструктура, насърчава селското стопанство, търговията и промишлеността и обогатява местното население в съответствие с местните условия.
Освен това той подобри образованието и санитарните условия и създаде система за законност и ред.
Трябва да се отбележи, че развитието на човешките ресурси на Goto беше изключително.
За да споменем няколко, Inazo Nitobe (захарна рафинерия), Kinsuke Hasegawa (железопътна линия), Shitaro Kawai (горско стопанство) и Tomoe Takagi (санитария) бяха сред многото хора, допринесли за модернизирането на Тайван.
Самият Гото, който стана първият президент на манджурската железница, след като напусна Тайван през 1939 г., беше сред онези, които се хвърлиха в администрацията на Канто и Манджурия и управлението на Корея.
Накамура Йошикото, „дясната ръка“ на Гото, отговаряше за проучванията на земята и други въпроси в Тайван, а след това подкрепяше управлението на Гото в Манджурия като вицепрезидент (по-късно президент) на железниците на Манджурия.
Дори и в по-късните години Ичиро Номура, който беше началник на Ремонтната секция, когато беше построена сградата на Тайванския губернатор, участваше в проектирането на сградата на Корейския губернаторски офис.
Демонстриране на практически способности
Не бяха само човешки ресурси.
Подходът на Япония към управлението на Тайван се превърна в пример за работа с Канто и Манджурия и управлението на Корея.
Ние модернизирахме пустинята, обзета от бандити, и земята, страдаща от политическа корупция и социална стагнация поради старата традиция на конфуцианството.
Защо японците успяха да постигнат това?
Мисля, че това беше духът на "безкористност", трудолюбие, етика и високото ниво на практически умения (четене, писане и сметки) до групата на обикновените граждани.
Позволете ми да ви дам един пример.
Преди започването на японската анексия на Корея (1910-45), когато силите се преместиха в Hanseong (Gyeongseong, сега Сеул, Корея), условията в Япония бяха ниски в сравнение с други страни, разположени в близост до центъра на града.
Японците обаче са работили усилено за разработването на калната, блатиста земя, където са живели малко хора, и са я използвали като основа за създаване на центъра на града, наречен "Хонмачи" и "Мейджи-мачи".
Корейските търговци, които се смятаха за ниски поради техните конфуциански ценности, бяха напълно безпомощни.
Традиционните търговски зони на Joseon, като Jongno, постепенно изчезват и младите корейци се носят в японските региони, които бяха в челните редици на модата.
Населението на Gyeongseong, което се урбанизира с бързи темпове, беше над 1,11 милиона през 1942 година.
Чудя се дали младите корейци знаят, че районът около града, развит от японците, сега е един от най-проспериращите региони на Сеул.
По-напреднали, отколкото в Япония
В резултат на това, че японците влагат повече усилия в управлението и управлението на чужди земи, отколкото в национална сила, има случаи, когато „чуждите земи са били по-рано от вътрешните земи (Япония).
Например телефонът в Далиан в наетия от Япония район на провинция Канто (сега Китай) се превърна в директна линия за набиране (без да преминава през обмен на клон) по-рано, отколкото в Токио или Осака.
Когато повечето тоалетни във вътрешността на Япония бяха „тоалетни на трезори“ в Далиан и Синдзин (Чанчун), столицата на Манджукуо беше главно на нивото.
Причината за това беше, че бързо изгради канализационни системи.
След войната „манджурци“, родени в Манджурия и репатрирани в Япония, бяха наричани „деца на нашествениците“ и други непровокирани злоупотреби.
Но когато манджурците видяха какъв е животът в Япония, те се ухилиха и казаха: „Е, те говорят така, сякаш се справят добре, но животът в Манджурия е много по-добър.
Японското правителство продължи да подкрепя финансите на външния свят, като предоставя пари от общата сметка като допълнение към националната хазна.
Единствената държава, която не получи тези пари, беше Тайван, който се превърна в „излишък“ през първите десет години от управлението си.
Корея остана на червено до края на войната и беше „извадена“ от Япония.
Разбира се, управлението на чужди земи не е „хубава картина.
Модернизацията на Япония на Тайван, Манджурия и Корея съответства на националните й интереси във военните, дипломатическите и икономическите дела.
Пропуск
Но все пак.
Трябва да отговорим адекватно на страните, които продължават да измислят „въображаеми истории“, че „цялото зло е Япония“ и да изискват неоправдани пари, както и на някои японци, които продължават да ги насърчават.
Историята на японците, искрено изправени пред тайванското управление, което е „произходът“ на модернизацията на чуждите земи, може да бъде „отговор“ на неразумните искания.
(Редактор Йошихиро Кита)


Taiwan: Une histoire japonaise - La vérité sur l'ère du pouvoir.

2021年01月06日 15時29分51秒 | 全般
Ce qui suit est tiré du 21e épisode d'une série d'articles dans le Sankei Shimbun d'aujourd'hui intitulé "Taiwan: une histoire japonaise - La vérité sur l'ère du pouvoir.
C'est une lecture incontournable non seulement pour les Japonais, mais aussi pour les gens du monde entier.
L'origine de la modernisation des terres étrangères: la Corée et la Mandchourie
J'ai écrit sur les Japonais qui se sont consacrés à la modernisation avec de grandes aspirations et une passion débordante à Taiwan pendant l'occupation japonaise (1895-1945).
Il a écrit sur les Japonais qui se sont consacrés à la modernisation avec de grandes aspirations et un enthousiasme débordant.
C'est le chimiste qui a fait une découverte mondialement connue à partir d'un arbre géant à Alishan.
Un entraîneur de baseball a mené son équipe de race mixte à une deuxième place lors du tournoi d'été de Koshien.
C'est un médecin qui a combattu les maladies infectieuses sur "Bad Plague Island.
C'est un architecte qui a conçu plusieurs chefs-d'œuvre modernes.
Aucun d'entre eux n'aurait été une tâche facile.
Lorsque le règne de Taiwan a commencé, c'était moins de 30 ans après la fin de la période Edo, lorsque les gens portaient le chonmage.
C'était un projet quelque peu pesant pour «l'empire tardif du Japon» de gouverner une nation étrangère pour la première fois.
Il s'est avéré qu'il s'est heurté à la résistance des forces armées anti-japonaises, faisant de nombreuses victimes.
Dans cette première bataille, lorsque l'armée japonaise a envoyé environ 50 000 soldats, il y a eu massivement plus de morts malades (environ 4 500 personnes) à cause du paludisme que ceux qui sont morts pendant la guerre (environ 160 personnes). ..
La résistance de guérilla des forces armées a continué de sévir au Japon.
En outre, le pays était accro à une grande quantité d'opium.
Une société qui n'a pas le sens de l'état de droit et qui est incapable de maintenir l'ordre public.
Les chemins de fer, les routes, les ports, les écoles, les hôpitaux, le développement des infrastructures, sont partis de zéro.
Aucune somme d'argent ne suffira jamais.
Il a surtout utilisé même l'argent de compensation du gouvernement japonais pour la guerre sino-japonaise (plus de 300 millions de yens japonais) pour les dépenses militaires.
À l'approche de la guerre russo-japonaise (1904-05), les coffres du gouvernement japonais sont étirés.
Le montant d'argent versé au Trésor de Taiwan à partir du compte général a été réduit d'année en année et, en 1905, lorsque la guerre russo-japonaise a pris fin, il a finalement été ramené à «zéro».
Dix ans après son règne, il a forcé les finances de Taiwan à devenir «indépendantes».
Les puissances occidentales ont dû attendre avec vigilance que cela se produise.
«Il n'y a aucun moyen pour les Asiatiques de se moderniser. «Si le Japon lève les mains, nous prendrons le reste.
En fait, dans les premiers jours de l'occupation japonaise, une proposition de la Diète impériale japonaise était de vendre la terre aux Français.
Cependant, les Japonais n'ont pas abandonné.
Sous la direction du quatrième gouverneur général de Taïwan, Kodama Gentaro, Goto Shinpei, qui devint le directeur général du Bureau des affaires civiles (qui deviendra plus tard le directeur général du Bureau des affaires civiles) en 1931, a pris la tâche de moderniser Taiwan en utilisant les méthodes des puissances occidentales comme «référence» mais non comme «imitation».
Il a construit des infrastructures, promu l'agriculture, le commerce et l'industrie, et enrichi la population locale en suivant les conditions locales.
Il a également amélioré l'éducation et l'assainissement et créé un système de loi et d'ordre.
Il convient de noter que le développement des ressources humaines de Goto a été exceptionnel.
Pour n'en citer que quelques-uns, Inazo Nitobe (raffinerie de sucre), Kinsuke Hasegawa (chemin de fer), Shitaro Kawai (foresterie) et Tomoe Takagi (assainissement) font partie des nombreuses personnes qui ont contribué à la modernisation de Taiwan.
Goto lui-même, qui est devenu le premier président du chemin de fer mandchourien après avoir quitté Taiwan en 1939, faisait partie de ceux qui se sont jetés dans l'administration du Kanto et de la Mandchourie et du règne de la Corée.
Nakamura Yoshikoto, le «bras droit» de Goto, était en charge des arpentages et autres questions à Taiwan, puis a soutenu la direction de Goto de la Mandchourie en tant que vice-président (plus tard président) des chemins de fer de Mandchourie.
Même dans les dernières années, Ichiro Nomura, qui était chef de la section de réparation lors de la construction du bureau du gouverneur de Taiwan, a été impliqué dans la conception du bâtiment du bureau du gouverneur de Corée.
Démontrer des capacités pratiques
Ce n'était pas seulement des ressources humaines.
L'approche du Japon pour gouverner Taiwan est devenue un cas modèle pour gérer le Kanto, la Mandchourie et la Corée.
Nous avons modernisé le désert envahi par les bandits et les terres souffrant de corruption politique et de stagnation sociale en raison de la vieille tradition du confucianisme.
Pourquoi les Japonais ont-ils pu accomplir cela?
Je pense que c'était l'esprit «d'altruisme», de diligence, d'éthique et de haut niveau de capacité pratique (lecture, écriture et boulier) jusqu'au groupe de citoyens ordinaires.
Laissez-moi vous donner un exemple.
Avant de commencer l'annexion japonaise de la Corée (1910-45), lorsque les puissances se sont installées à Hanseong (Gyeongseong, aujourd'hui Séoul, Corée), les conditions au Japon étaient faibles par rapport à d'autres pays situés près du centre-ville.
Cependant, les Japonais ont travaillé dur pour développer la terre boueuse et marécageuse où peu de gens vivaient et l'ont utilisé comme base pour créer le centre-ville nommé «Honmachi» et «Meiji-machi».
Les marchands coréens, considérés comme modestes en raison de leurs valeurs confucéennes, étaient totalement impuissants.
Les zones commerciales traditionnelles de Joseon, comme Jongno, s'éteignent progressivement et les jeunes Coréens dérivent vers les régions japonaises, qui sont à la pointe de la mode.
La population de Gyeongseong, qui s'urbanisait à un rythme rapide, dépassait 1,11 million d'habitants en 1942.
Je me demande si les jeunes Coréens savent que la zone autour de la ville développée par les Japonais est aujourd'hui l'une des régions les plus prospères de Séoul.
Plus avancé qu'au Japon
Du fait que les Japonais ont mis plus d'efforts pour gouverner et gérer les terres étrangères qu'ils ne l'ont fait dans une puissance nationale, il y a des cas où «les terres étrangères étaient antérieures aux terres nationales (Japon).
Par exemple, le téléphone à Dalian dans la zone louée japonaise de la province de Kanto (aujourd'hui la Chine) est devenu une ligne de numérotation directe (sans passer par un central) plus tôt qu'à Tokyo ou Osaka.
Lorsque la plupart des latrines de l'intérieur du Japon étaient des toilettes «à voûte» à Dalian et à Xinjing (Changchun), la capitale du Mandchoukouo était principalement à chasse d'eau.
La raison en était qu'elle a rapidement construit des systèmes d'égouts.
Après la guerre, les "Mandchouriens" nés en Mandchourie et rapatriés au Japon ont été appelés "enfants des envahisseurs" et d'autres abus non provoqués.
Mais quand les Mandchouriens ont vu à quoi ressemblait la vie au Japon, ils ont souri et ont dit: «Eh bien, ils parlent comme s'ils allaient bien, mais la vie en Mandchourie est bien meilleure.
Le gouvernement japonais a continué à soutenir les finances du monde extérieur en fournissant de l'argent du compte général en complément du trésor national.
Le seul pays qui n'a pas reçu cet argent était Taiwan, qui s'est transformé en «excédent» dans les dix premières années de son règne.
La Corée est restée dans le rouge jusqu'à la fin de la guerre et a été «éliminée» par le Japon.
Bien entendu, gouverner des terres étrangères n'est pas une «jolie image».
La modernisation de Taiwan, de la Mandchourie et de la Corée par le Japon était conforme à ses intérêts nationaux dans les affaires militaires, diplomatiques et économiques.
Omission
Mais reste.
Nous devons répondre adéquatement aux pays qui continuent d'inventer des «histoires imaginaires» selon lesquelles «tout mal est le Japon» et exigent de l'argent injustifié, ainsi qu'à certains Japonais qui continuent de les encourager.
L'histoire des Japonais qui ont sincèrement affronté la domination taïwanaise, qui était «l'origine» de la modernisation des terres étrangères, peut être une «réponse» aux demandes déraisonnables.
(Editeur Yoshihiro Kita)