文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

Top 10 real-time searches 2023/8/8, 23:11

2023年08月08日 23時12分04秒 | 全般

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再発信!憲法「constitution」は、直訳すれば「体質」という意味だ。つまり、憲法は国の体質であって…

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"stupendous Japan" (Economy and Commerce, second volume) differs from China and Korea.

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Tome's daughter shouted. Mother, Mr. Miyagawa has returned! 

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They must realize that the days when they can live only by following U.S. sovereignty are over

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「俺、死んだらホタルになって帰ってくるよ」。翌日の夜、大きな一匹のホタルが食堂内まで入ってきた。トメの娘が叫んだ。「お母さん、宮川さんが帰ってきたわよ!」。

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Top 10 real-time searches 2023/8/8, 19:27

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トップページ

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中国留学生らが白いペンキで全部塗りつぶして、習近平の社会主義核心価値観のスローガンの上書きした、しかも「イギリスを占領した!」と自慢して

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岸田政権が救えなかった資金難の国立博物館を日本国民が救った。

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岸田首相に問いたい 何故 同期の安倍晋三氏の暗殺の真相を 究明をしないのでしょうか? 不思議で仕方がございません

 

 

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再発信!江戸時代の日本における商業の空前の繁栄と発達の様子、同時代の中国清朝と半島の

2023年08月08日 22時25分01秒 | 全般

本章が検索妨害の犯罪に遭っていた。
その手口は以下の通り、全く関係の無い章を参照させるものだった。

参照元ページ
https://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/7effb8ff6dc7408570d7113f157831eb
https://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/m/201810
再発信する。

google社や、ブログサイト運営会社は、この犯罪者を刑事告訴して厳罰に処さなければならない。
インターネットは人類史上最大、最速の図書館である。
この空間を清浄に維持する義務があなたたちにはある。

以下は月刊誌Hanada9月号に掲載されている石平氏の連載コラムからである。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。

中国・朝鮮と違う「とてつもない日本」(経済・商業編《中》)

前回は、江戸時代の日本における商業の空前の繁栄と発達の様子、同時代の中国清朝と半島の朝鮮王朝における商業未発達の貧相な実態を見た。
では、このような「天と地の差」を生み出した要因は一体何か。 
今回はまず、日本について考察してみたい。 
江戸時代の日本における商業の発達と繁栄の理由の一つは、当時の幕藩体制にあったのではないか、と筆者は考えている。
幕藩体制の下では、各藩の武士階層とその家族らが消費者として城下町に定住するため、生活物資を提供する商人たちが当然のことながらその城下町に集ってくる。
そして商人たちは武士と同様に城下町に住み着き、先祖代々の商いを営み、各藩の下で商業を発達させていった。 
ただ、各藩の城下町に住む武士やその家族たちの生活物資のすべてを藩内の農業や手工業だけでは産出できない。
そのため、各地からの輸送などで藩を超えた広域な流通網が発達していった。 
なかでも日本最大の城下町・江戸には、旗本や御家人だけでなく、参勤交代制度の下で、全国の大名とその家族も江戸に住み、その家臣団の多くも江戸に滞在したため、常に巨大な消費の需要があった。
それに応じて、日本全国から消費物資が運搬され、売買された。
まさに、江戸は全国一の大商業都市として繁栄したのである。 
一方、幕藩体制の下で各藩は経済的には独立経営体であるから、いかにして藩の財政の安定を保ち、かつ豊かにしていくかが、藩政の重要な課題の一つだった。
だが、そのために藩の領地を増やすようなことは当然できず、藩内の農地の生産高を飛躍的に増大させることも簡単には叶わない。
各藩にとって財政をより豊かにするための手段は、付加価値の高い換金作物の生産を増やすか、商業を発達させるしかない。
そのどちらにも商人たちの力を必要とする。
そのため、全国の大半の藩で商業と商人が藩政による保護の対象となり、自治権や自主経営権をある程度享受できた。 
もちろん、江戸時代全体の政治権力との関係性を見れば、商人は身分的には武士階層の下におかれていて、幕府や大名からの政治的統制を受ける立場であった。
しかし実際、江戸や大坂、各藩の城下町において、商人たちの属する町人社会は実質上、町人の自治によって運営されていた。 
江戸の場合、町年寄や町名主ら町役人が江戸府内の自治を行い、町法という規則を定め、住民から町入用(自治会費か地方税に相当)を徴収し、自治のために用いている。 
町人を統制するための幕府機関としては町奉行所が設置されてはいるが、最盛期の江戸は人口百万人の大都市で、対する町奉行所の専属役人は三百人に満たない。
江戸という大都市を「管理する」幕府の権力機関が、この程度の少人数で運営されていたことにまずもって驚くが、この事実からしても、町人の持つ自治権の大きさが窺えよう。
江戸だけでなく、大坂や京都の町人たちもそれと同様の、あるいはそれ以上の自治権を享受していた。 
商人たちにしても、身分上は武士の下に位置づけられていたにもかかわらず、実際には武士による政治権力の支配の外にあった。
時には、政治権力を凌駕するような力さえ持ち合わせていた。 
たとえば、両替商として金融業を牛耳る豪商の場合はとくにそうであった。
江戸時代の後期になると、慢性的な財政難に悩まされている朝廷も幕府も各大名も、揃って大坂や京都の両替商に莫大な借金をしていたことはよく知られているが、この一例から見ても、武士の政治権力は商人の世界を支配するものでなかったことがよく分かろう。
武士階層が商人に対して本当の支配者となっていたとすれば、支配されている商人たちに頭を下げて借金することはまずない。
政治的権力を行使した収奪が可能なはずだからである。 
実態はむしろその逆だろう。
一般的に言えば、お金を借りる側よりも、お金を貸すほうの立場が強くなるのが普通である。
実際、幕末辺りになると、借金に借金を重ねて両替商に首を押さえられた大名や、さらなる借金のために両替商に泣きつく大名があとを絶たなかった。
世はまさに、彼ら「商人の世」になった感がある。 
このように江戸時代の商人たちは、幕藩体制の下で確たる自治権と、政治権力に左右されない安定した地位を保ち、経営を自主的に行って商業を持続的に発達させて商品経済の空前の繁栄を作り出している。
江戸時代の文明と文化の全般の繁栄は、まさにそのうえに成り立っていたと考えられる。 
では、同時代の中国清朝と半島の朝鮮王朝において、商人たちはどのような社会的立場に置かれ、いつたいどのような境遇にいたのだろうか。
次回はその点を詳述する。

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gooの運営会社であるNTTレゾナントを合併したdocomoは、このような犯罪を繰り返している人物に対して厳罰を与えなければならない。

2023年08月08日 22時04分52秒 | 全般

7/31の深夜から、検索結果改竄が外れて、本来に近いものに戻っていた。
これは、昨日、8/6の早朝まで継続されていた。
犯罪者が、例えば、4泊6日のハワイ旅行にでも出ていたからであると思われる。

GW前後にも同様だった。
当時は、証拠写真を撮っていなかったので、今回は撮っておいた。
gooの運営会社であるNTTレゾナントを合併したdocomoに対して、百聞は一見に如かず、の、歴然たる証拠として提出し、2011年6月から、このような犯罪を繰り返している人物に対して何らかの処置を下してもらうためである。

この人物は、真摯な読者と知人たちはご存じの犯罪者である。

7/31

8/1

8/1

8/1

8/2

8/3

検索結果を改ざんしている犯罪者が、愛媛銀行から1.5億円の大金を詐取した事件で、実刑判決を受け収監されていた刑務所から出所して、甚だしく犯罪行為を行いだすまでは、
「文明のターンテーブル」は、毎日、平均3万件前後の検索数と3千人前後の訪問者数でした。
それが冒頭の検索結果改ざんが始まった途端に激減。
今日まで、旧NTTレゾナントに対して、何度か、検証、是正、及び、この犯罪者の排除をお願いはしましたが、全く改善されませんでした。
今回、docomoが吸収合併したと知り、今度こそは、この犯罪行為にピリオドを打って頂きたい。

本年のGW時にも、今回と同様だったのですが、証拠写真を撮り忘れていました。
今回は、7/31深夜から8/6午前までの結果を撮影しています。

docomoなら、この犯罪者の手口は解明できるはずです。

 

8/6

8/3

8/4

8/5

8/5

8/4

8/3

8/6

8/6

8/8

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Top 10 real-time searches 2023/8/8, 19:27

2023年08月08日 19時40分22秒 | 全般

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滋賀県三日月知事と50名以上の交流団…中共の反日教育の代表的な施設で献花…恥さらし。

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こんなのはやっていましたか   僕は一度も 聞いた事も したこともありません

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"stupendous Japan" (Economy and Commerce, second volume) differs from China and Korea.

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再発信!憲法「constitution」は、直訳すれば「体質」という意味だ。つまり、憲法は国の体質であって…

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江戸時代の日本における商業の空前の繁栄と発達の様子、同時代の中国清朝と半島の朝鮮王朝における商業未発達の貧相な実態

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They must realize that the days when they can live only by following U.S. sovereignty are over

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Erneut senden! China hat bereits für fast alle seine Hauptakteure Honigfallen…

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Tome's daughter shouted. Mother, Mr. Miyagawa has returned! 

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再発信!危機感を持った米政府は日米構造協議で日本に圧力をかけ、*これで小泉純一郎は日本の活性化には…

 

 

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中国留学生らが白いペンキで全部塗りつぶして、習近平の社会主義核心価値観のスローガンの上書きした、しかも「イギリスを占領した!」と自慢して

2023年08月08日 18時42分30秒 | 全般


東雲くによし(Kuniyoshi Shinonome)
@sonkoubun
狂気速報
イギリスロンドンの有名な芸術の壁を、芸術専攻の中国留学生らが白いペンキで全部塗りつぶして、習近平の社会主義核心価値観のスローガンの上書きした、しかも「イギリスを占領した!」と自慢してSNSで在英中国人に「聖地巡礼」を呼びかけた

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岸田政権が救えなかった資金難の国立博物館を日本国民が救った。

2023年08月08日 18時39分03秒 | 全般

城之内みな

@7Znv478Zu8TnSWj

岸田政権が救えなかった資金難の国立博物館を日本国民が救った。

 

引用ツイート

かはく【国立科学博物館公式】

@museum_kahaku

クラウドファンディング目標金額達成しました
 多くのみなさまにご支援いただいて、本日目標金額を達成しました。
本当にありがとうございます。
篠田館長と真鍋副館長より、みなさまへ、御礼のメッセージをお届けします。

 

 

 

 

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岸田首相に問いたい 何故 同期の安倍晋三氏の暗殺の真相を 究明をしないのでしょうか? 不思議で仕方がございません

2023年08月08日 18時32分38秒 | 全般

たけママ
@takeyamamama
岸田首相に問いたい
何故 同期の安倍晋三氏の暗殺の真相を 究明をしないのでしょうか?
不思議で仕方がございません
2022年7月8日 聴衆の面前で 令和の時代に 暗殺されたのでございます
直接治療された医師の会見と 奈良県の法医学の発表
それだけでも違和感しか ございません

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"stupendous Japan" (Economy and Commerce, second volume) differs from China and Korea.

2023年08月08日 17時47分33秒 | 全般

The following is from Mr. Sekihei's serial column in the September issue of the monthly magazine Hanada.
It is a must-read not only for Japanese citizens but for people worldwide.

"stupendous Japan" (Economy and Commerce, second volume) differs from China and Korea.
Last time, I looked at the unprecedented prosperity and development of commerce in Japan during the Edo period and the poor reality of underdeveloped marketing in the Qing dynasty of China and the Korean dynasty of the peninsula simultaneously.
So, what factor created such a "gap between heaven and earth"?  
This time, I would like to consider Japan first.  
One of the reasons for the development and prosperity of commerce in Japan during the Edo period was the shogunate system at that time.
Under the shogunate system, the samurai class of each domain and their families settled in the castle towns as consumers, so merchants who provided daily necessities naturally gathered in the castle towns.
Merchants, like samurai, settled in castle towns, engaged in ancestral trade, and developed commerce under each domain.  
However, it is impossible to produce all the daily necessities for the samurai and their families living in the castle towns of each domain through agriculture and handicrafts within the territories alone.
As a result, a wide-area distribution network that transcended domains was developed, such as transportation from various places.  
Among them, Edo, Japan's largest castle town, was not only Hatamoto and Gokenin, but under the Sankin-kōtai system, feudal lords from all over the country and their families also lived in Edo, and many of their vassals also stayed in Edo.
There was a demand for high consumption.
Accordingly, consumer goods were transported and traded from all over Japan.
Indeed, Edo prospered as the largest commercial city in Japan.  
On the other hand, under the shogunate system, each domain was economically independent, so one of the critical issues of the domain administration was how to maintain the financial stability of the field and make it rich.
However, it was naturally impossible to increase the domain's territory for that purpose, and it took work to achieve a dramatic increase in agricultural land production within the field.
For each domain, the only way to make their finances richer was to increase the production of high-value-added cash crops or to develop commerce.
Both require the power of merchants.
As a result, commerce and merchants in most domains across the country were subject to protection by domain administration. They enjoyed a certain degree of autonomy and the right to operate independently.  
Of course, looking at the relationship with political power in the Edo period as a whole, merchants were placed under the samurai class. 
They were in a position to be politically controlled by the shogunate and feudal lords.
In reality, however, in Edo, Osaka, and the castle towns of each domain, the townspeople society to which merchants belonged was practically managed by the autonomy of the townspeople.  
In the case of Edo, town officials such as the head of town officials and town officials exercised self-government within Edo Prefecture, established rules called the town law, collected town tax (equivalent to community association fees or local taxes) from residents, they are using for the autonomy.
Although the town magistrate's office was established as an institution of the shogunate to control the townspeople, Edo was a large city with a population of one million people at its peak, and the town magistrate's office had less than 300 full-time officials.
Surprisingly, the shogunate's authority, which "manages" the big city of Edo, was managed by such a small number of people. Still, even from this fact, we can see the significant autonomy that the townspeople have. 
Not only in Edo but also in Osaka and Kyoto, townspeople enjoyed similar or even greater autonomy.  
Even the merchants were outside the political power of the samurai, although they were socially ranked under the samurai.
At times, they even possessed powers that surpassed political power.  
For example, this was especially true for wealthy merchants who dominated the financial industry as money changers.
It is well known that in the latter half of the Edo period, the imperial court, the bakufu, and the daimyo, all suffering from chronic financial difficulties, owed vast amounts of money to money changers in Osaka and Kyoto. This example clearly shows that the samurai's political power did not dominate the world of merchants.
If the samurai class were the absolute rulers of the merchants, they would hardly bow their heads and borrow money from the merchants under their control.
It should be possible to confiscate by exercising political power.  
The reality is the opposite.
Generally, the lender's position is usually more potent than the borrower's.
In fact, around the end of the Edo period, there was no end to the number of daimyo who were forced to put their heads down by money changers because of debt after debt and daimyo who cried out to money changers for more debt.
There is a feeling that the world has become a world of merchants.  
In this way, merchants in the Edo period maintained solid autonomy under the shogunate system and a stable position unaffected by political power. They manage their business independently, develop commerce continuously, and create unprecedented prosperity in the commodity economy.
It is believed that the prosperity of civilization and culture in general in the Edo period was based on this.  
What was the social position of the merchants in the Qing dynasty of China and the Korean dynasty of the Korean peninsula, and what was their situation?
I will elaborate on this point next time.

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Tome's daughter shouted. Mother, Mr. Miyagawa has returned! 

2023年08月08日 17時42分26秒 | 全般


Kumiko Takeuchi
@takeuchikumiffy
As a Kamikaze pilot, Saburo Miyagawa, announced Tome Torihama. 
When I die, I'll come back as a firefly.
Añjali Mudrā.

Quoted tweet


Takashi Hayasaka.
@dig_nonfiction
On the day before going on a suicide mission, Saburo Miyagawa, a member of a suicide squadron, said to Tome Torihama, the owner of a diner, as he watched fireflies flying by: "I'll come back as a firefly when I die.
The next night, a giant firefly came into the diner.
Tome's daughter shouted.
Mother, Mr. Miyagawa has returned! 
Tome and his comrades-in-arms all sobbed.

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「俺、死んだらホタルになって帰ってくるよ」。翌日の夜、大きな一匹のホタルが食堂内まで入ってきた。トメの娘が叫んだ。「お母さん、宮川さんが帰ってきたわよ!」。

2023年08月08日 17時31分48秒 | 全般


竹内久美子
@takeuchikumiffy
ホタルになって帰ってくると、鳥濱トメさんに予告。 合掌。

引用ツイート


早坂隆
@dig_nonfiction
特攻隊員の宮川三郎は出撃前日、飛び交うホタルを眺めながら食堂の女主人である鳥濱トメに言った。
「俺、死んだらホタルになって帰ってくるよ」。
翌日の夜、大きな一匹のホタルが食堂内まで入ってきた。
トメの娘が叫んだ。
「お母さん、宮川さんが帰ってきたわよ!」。
トメや戦友らは皆でむせび泣いた。


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They must realize that the days when they can live only by following U.S. sovereignty are over

2023年08月08日 17時27分08秒 | 全般

Tetsuhide Yamaoka.
@jcn92977110
Good move.
The Kishida administration and the LDP are the puppet government and political party of a vassal state that pushed policies fiercely opposed in the U.S. by order of the U.S. ambassador.
They must realize that the days when they can live only by following U.S. sovereignty are over, or they will perish.

Quoted tweets
Yuta Nakanishi, neurosurgeon, Suita City Councilor
@yutansansei
The Suita City Council in Osaka Prefecture has passed an "Opinion Calling for the Careful Application of the LGBT Understanding Promotion Act" with a majority of votes in favor!
The letter of opinion includes the concerns about this bill, which I explained in my personal question!
The concerns regarding the LGBT Understanding and Promotion Act have been appropriately communicated to the public. There are concerns that it may disrespect the wishes of those involved, provide false or excessive education to children whose identities have not yet been established, and adversely affect the position of women due to norms that call for the prohibition of discrimination. 
We hope that correct information will be shared, including the current global situation in which there is already a movement to change direction in the United States and other countries.
We will continue our efforts to protect the rights of the people concerned, children and women, as well as the healthy growth of children.
Thank you for your continued support.

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米国本国で猛反発を喰らっている政策を米国大使の命令でゴリ押しした岸田政権と自民党は属国傀儡政権と政党だ。

2023年08月08日 17時15分07秒 | 全般

山岡鉄秀
@jcn92977110
いい動きだ。
米国本国で猛反発を喰らっている政策を米国大使の命令でゴリ押しした岸田政権と自民党は属国傀儡政権と政党だ。
宗主国に付き従うだけで生きられる時代は終わったことに気が付かねば滅びるだけだ。

引用ツイート


中西 勇太 脳外科医 吹田市議会議員
@yutansansei
大阪府の吹田市議会で 『LGBT理解増進法の慎重な運用を求める意見書』 が賛成多数で可決致しました!!
意見書の中身には、私の個人質問でもご説明致しました、この法案において懸念される事項を盛り込んで頂いております!
今回のLGBT理解増進法に関する懸念点が国民に正しく周知され、 当事者の想いを逆に蔑ろとしたり、アイデンティティが確立していない子どもに誤ったまたは行き過ぎた教育が行われたり、差別禁止を求めた規範により逆に女性の立場を傷つけたりする懸念点や、既に米国などで方向転換する動きも見られているという現在の世界情勢も含めた正しい情報共有がされること。
そして、当事者の方々、子どもたち、女性の権利と、子どもたちの健やかな成長を守ることにつながるよう引き続き努力して参りたいと考えております。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

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再発信!憲法「constitution」は、直訳すれば「体質」という意味だ。つまり、憲法は国の体質であって…

2023年08月08日 17時09分58秒 | 全般

憲法「constitution」は、直訳すれば「体質」という意味だ。つまり、憲法は国の体質であって、昔、「国体」と訳していたのが正しい。国の体質が変われば、憲法は時代に合わせて変化してもいいのだ。 
2019/06/02

本章は検索妨害の犯罪に遭っていた。
インターネットは人類史上最大の、かつ最速の図書館である。
インターネットで世界有数の企業になった御社には、インターネットを清浄に維持する義務があります。
この検索妨害はgooを通してなされている。
gooの運営会社及び、検索会社は本件の犯罪者を特定し、刑事告訴して厳罰に処してください。

再発信します。

以下は前章の続きである。
明治憲法と新憲法 
成文憲法を最初に作った国はアメリカである。
ヨーロッパからやってきた人たちが自由を求めて作ったものだが、いざ作ってみたら「言論の自由」や「宗教の自由」を書き忘れていた。
そんな欠陥だらけの憲法だから常に改正を続けている。 
戦後のドイツ憲法も同じで、常に変化している。
つまり完璧なものなどないということだし、変わらなければ憲法は生きていないのと同じなのである。 
憲法「constitution」は、直訳すれば「体質」という意味だ。
つまり、憲法は国の体質であって、昔、「国体」と訳していたのが正しい。
国の体質が変われば、憲法は時代に合わせて変化してもいいのだ。 
イギリスにはちゃんと書かれた憲法、「written constitution」というものはない。
立憲君主国でありながら、理想的なのは憲法を作らないという選択だったのだ。
しかし、「constitutional」(憲法的・国体的)と言われる法律はある。 
イギリスでは重要法案が通ったりすると、「あの法律はconstitutionalだ」と言う。
体質にかかわるほどの法律であるという意味だ。
そして新しい法律ができ、それが古いものと矛盾すると古いものが自然と無効になる。
それほどシステムは簡単だ。 
戦前の英和大辞典を引くと、「constitution」の項目には「written constitution」と「unwritten constitution」と書かれている。
つまり、「書いた憲法=成文憲法」と「書かない憲法=非成文憲法」である。
イギリスは書かない憲法を選択した。
アメリカは独立したことを世界に示さなければならないために憲法を書いた、つまり成文化した。
革命を起こしたフランスも同様に文字にした。
すると、書くとわかりやすくて都合がよいということで立憲運動が起こり、それが日本にも入ってきたのである。 
日本も明治憲法を作った時は、憲法が国の体質にかかわることであると十分に認識していた。
のちに初代首相となる伊藤博文が憲法調査に向かったが、自分が若い頃に訪ねたイギリスには憲法がない。
幕府、が頼ったフランスは共和国なので参考にならない。
アメリカも共和国だからこれもだめだ。 
そこで伊藤博文はウィーンへ向かう。
ウィーンはハプスプルグ家の時代だったので、伝統的な君主を戴いた憲法があった。
伊藤はウィーン大学のシュタイン教授に憲法を学び、胸の晴れる思いをして喜びの手紙を書いている。 
その後、伊藤博文はベルリンに行き、ドイツ帝国を建設した鉄血宰相ビスマルクに会った。
ビスマルクは伊藤の話を聞いて、日本にはドイツ帝国憲法は参考にならないだろうと言う。
ドイツ帝国はいくつもの王国を抱えた国だから、日本とは事情が異なるのだ。
そして、代々天皇がいる国であるならば、代々王様がいるプロイセン(注1)憲法が参考になるだろうとアドバイスした。 
そして伊藤博文は、ベルリン大学教授のグナイストという大学者からプロイセン憲法を逐条講義してもらうことになった。
グナイストという人は面白い人で、ローマ法を学び、ドイツの官僚機構にもタッチしたが、世界で初めてイギリス憲政史を書いた人でもある。
まだイギリスにもそういう通史がなかった時代だった。
これが、伊藤博文が明治憲法を作る元になったのだが、グナイストの名は伏せられていた。
ところが、昭和9年(1934)に伊藤博文の秘書だった伊東巳代治が亡くなったあとに書斎を整理したら、伊藤博文が受けたグナイストの講義録が出てきた。
これは出版されたものの、すでにシナ事変が始まっていたため出版禁止になったという経緯がある。
その一冊を私は持っているので、明治憲法の「天皇は陸海軍を統帥す」というようなものの基礎になったのはプロイセン憲法だということを述べたが、戦後これについて触れたのは私が初めてだ、と小堀桂一郎氏が言ってくださった。 
伊藤博文が明治憲法を作る時に一番苦労したのは、日本の国の体質、つまり国体(constitution)と世界の常識を合わせることだった。
だが、皇室に関してはどうしても世界の常識に合わせることができなかったので憲法には入れず、皇室典範を作った。
これは皇室の家法であるとし、憲法とは関係ないとしたのである。
まさに綱渡りのような見事さで伊藤は道を開いた。 
だから日本国憲法を作る時、東大の宮澤悛義教授でさえも、最初は明治憲法の改正でいいと言っていたのである。
しかし、マッカーサーがそれにしびれをきらした。 
このあたりのやりとりについては、『白洲次郎 占領を背負った男』(北康利著、講談社刊)に詳しく読みやすい形で書かれている。 
そしてそのあとはここまで述べてきたように、敗戦利得者の憲法学者によって、占領政策基本法がいまでも大手を振って歩く国になってしまっているのである。 
ちなみに指摘しておけば、天皇の地位については、明治の帝国憲法でも占領下の新憲法でも変わっていない。
ポツダム宣言を受諾する時、鈴木貫太郎内閣は「天皇の国法上の地位を変更する要求を含まざるもので諒解する」ということを述べていたが、これは実現した。
というのは、帝国憲法においても法律を作るのは天皇でなく議会であった。
議会が作った法律の発布に天皇の名前と玉璽が使われたのである。 
これは現在でも同じで、法律は議会が作り、その議会の開会や法律の発布には天皇の権威が関与する。
天皇を日本国民の、つまり日本統合の「象徴」と考えることは明治時代から普通であり、新渡戸稲造の『武士道』にも用いられている表現である。
天皇に対する国民の反乱など、フランス革命みたいなものは日本ではなかったのであり、「天皇vs国民」の対立ではなく、常に「政府(幕府)vs国民」であった。
この点について、竹田恒泰氏が明快に論じておられる。
竹田氏は皇族の血筋の方であり、皇族関係者が天皇に関することを論述されるにはタブー的な縛りもあったと思うが、敢えて真実を述べられたことを多としたい。 
天皇・皇室に関することで占領軍が根本的に変更したのは「憲法」においてではなく、「皇室典範」に関してであった。「皇室典範」は前に述べたように、「皇室の家法」であって憲法とは関係ないと明言したのは、「皇室典範」を成文化した責任者の伊藤博文であった。
ところが、占領軍は「皇室典範」を「憲法」の下位法規にしてしまったのである。  
(注1)プロイセン ドイツ北東部を占め、1701年、ブランデンブルク選帝俟フリードリヒ三世(プロイセン国王フリードリヒ一世)を王としてプロイセン王国が成立。
ドイツで最も強大な王国に成長し、普仏戦争の結果、ドイツ帝国を成立させてその中核となった。 
第一次世界大戦後にはドイツ共和国の一州となり、第二次世界大戦後は「ドイツ軍国主義と反動の先鋒」として州としても解体された。英語名はプロシア。

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再発信!憲法「constitution」は、直訳すれば「体質」という意味だ。つまり、憲法は国の体質であって…

2023年08月08日 16時58分32秒 | 全般

憲法「constitution」は、直訳すれば「体質」という意味だ。つまり、憲法は国の体質であって、昔、「国体」と訳していたのが正しい。国の体質が変われば、憲法は時代に合わせて変化してもいいのだ。 
2019/06/02

本章は検索妨害の犯罪に遭っていた。
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再発信します。

以下は前章の続きである。
明治憲法と新憲法 
成文憲法を最初に作った国はアメリカである。
ヨーロッパからやってきた人たちが自由を求めて作ったものだが、いざ作ってみたら「言論の自由」や「宗教の自由」を書き忘れていた。
そんな欠陥だらけの憲法だから常に改正を続けている。 
戦後のドイツ憲法も同じで、常に変化している。
つまり完璧なものなどないということだし、変わらなければ憲法は生きていないのと同じなのである。 
憲法「constitution」は、直訳すれば「体質」という意味だ。
つまり、憲法は国の体質であって、昔、「国体」と訳していたのが正しい。
国の体質が変われば、憲法は時代に合わせて変化してもいいのだ。 
イギリスにはちゃんと書かれた憲法、「written constitution」というものはない。
立憲君主国でありながら、理想的なのは憲法を作らないという選択だったのだ。
しかし、「constitutional」(憲法的・国体的)と言われる法律はある。 
イギリスでは重要法案が通ったりすると、「あの法律はconstitutionalだ」と言う。
体質にかかわるほどの法律であるという意味だ。
そして新しい法律ができ、それが古いものと矛盾すると古いものが自然と無効になる。
それほどシステムは簡単だ。 
戦前の英和大辞典を引くと、「constitution」の項目には「written constitution」と「unwritten constitution」と書かれている。
つまり、「書いた憲法=成文憲法」と「書かない憲法=非成文憲法」である。
イギリスは書かない憲法を選択した。
アメリカは独立したことを世界に示さなければならないために憲法を書いた、つまり成文化した。
革命を起こしたフランスも同様に文字にした。
すると、書くとわかりやすくて都合がよいということで立憲運動が起こり、それが日本にも入ってきたのである。 
日本も明治憲法を作った時は、憲法が国の体質にかかわることであると十分に認識していた。
のちに初代首相となる伊藤博文が憲法調査に向かったが、自分が若い頃に訪ねたイギリスには憲法がない。
幕府、が頼ったフランスは共和国なので参考にならない。
アメリカも共和国だからこれもだめだ。 
そこで伊藤博文はウィーンへ向かう。
ウィーンはハプスプルグ家の時代だったので、伝統的な君主を戴いた憲法があった。
伊藤はウィーン大学のシュタイン教授に憲法を学び、胸の晴れる思いをして喜びの手紙を書いている。 
その後、伊藤博文はベルリンに行き、ドイツ帝国を建設した鉄血宰相ビスマルクに会った。
ビスマルクは伊藤の話を聞いて、日本にはドイツ帝国憲法は参考にならないだろうと言う。
ドイツ帝国はいくつもの王国を抱えた国だから、日本とは事情が異なるのだ。
そして、代々天皇がいる国であるならば、代々王様がいるプロイセン(注1)憲法が参考になるだろうとアドバイスした。 
そして伊藤博文は、ベルリン大学教授のグナイストという大学者からプロイセン憲法を逐条講義してもらうことになった。
グナイストという人は面白い人で、ローマ法を学び、ドイツの官僚機構にもタッチしたが、世界で初めてイギリス憲政史を書いた人でもある。
まだイギリスにもそういう通史がなかった時代だった。
これが、伊藤博文が明治憲法を作る元になったのだが、グナイストの名は伏せられていた。
ところ。が、昭和9年(1934)に伊藤博文の秘書だった伊東巳代治が亡くなったあとに書斎を整理したら、伊藤博文が受けたグナイストの講義録が出てきた。
これは出版されたものの、すでにシナ事変が始まっていたため出版禁止になったという経緯がある。
その一冊を私は持っているので、明治憲法の「天皇は陸海軍を統帥す」というようなものの基礎になったのはプロイセン憲法だということを述べたが、戦後これについて触れたのは私が初めてだ、と小堀桂一郎氏が言ってくださった。 
伊藤博文が明治憲法を作る時に一番苦労したのは、日本の国の体質、つまり国体(constitution)と世界の常識を合わせることだった。
だが、皇室に関してはどうしても世界の常識に合わせることができなかったので憲法には入れず、皇室典範を作った。
これは皇室の家法であるとし、憲法とは関係ないとしたのである。
まさに綱渡りのような見事さで伊藤は道を開いた。 
だから日本国憲法を作る時、東大の宮澤悛義教授でさえも、最初は明治憲法の改正でいいと言っていたのである。
しかし、マッカーサーがそれにしびれをきらした。 
このあたりのやりとりについては、『白洲次郎 占領を背負った男』(北康利著、講談社刊)に詳しく読みやすい形で書かれている。 
そしてそのあとはここまで述べてきたように、敗戦利得者の憲法学者によって、占領政策基本法がいまでも大手を振って歩く国になってしまっているのである。 
ちなみに指摘しておけば、天皇の地位については、明治の帝国憲法でも占領下の新憲法でも変わっていない。
ポツダム宣言を受諾する時、鈴木貫太郎内閣は「天皇の国法上の地位を変更する要求を含まざるもので諒解する」ということを述べていたが、これは実現した。
というのは、帝国憲法においても法律を作るのは天皇でなく議会であった。
議会が作った法律の発布に天皇の名前と玉璽が使われたのである。 
これは現在でも同じで、法律は議会が作り、その議会の開会や法律の発布には天皇の権威が関与する。
天皇を日本国民の、つまり日本統合の「象徴」と考えることは明治時代から普通であり、新渡戸稲造の『武士道』にも用いられている表現である。
天皇に対する国民の反乱など、フランス革命みたいなものは日本ではなかったのであり、「天皇vs国民」の対立ではなく、常に「政府(幕府)vs国民」であった。
この点について、竹田恒泰氏が明快に論じておられる。
竹田氏は皇族の血筋の方であり、皇族関係者が天皇に関することを論述されるにはタブー的な縛りもあったと思うが、敢えて真実を述べられたことを多としたい。 
天皇・皇室に関することで占領軍が根本的に変更したのは「憲法」においてではなく、「皇室典範」に関してであった。「皇室典範」は前に述べたように、「皇室の家法」であって憲法とは関係ないと明言したのは、「皇室典範」を成文化した責任者の伊藤博文であった。
ところが、占領軍は「皇室典範」を「憲法」の下位法規にしてしまったのである。  
(注1)プロイセン ドイツ北東部を占め、1701年、ブランデンブルク選帝俟フリードリヒ三世(プロイセン国王フリードリヒ一世)を王としてプロイセン王国が成立。
ドイツで最も強大な王国に成長し、普仏戦争の結果、ドイツ帝国を成立させてその中核となった。 
第一次世界大戦後にはドイツ共和国の一州となり、第二次世界大戦後は「ドイツ軍国主義と反動の先鋒」として州としても解体された。英語名はプロシア。

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再発信!「物語」を紡ぎたかったために恩師の戦死という大嘘をついたのだろうが、歴史歪曲が過ぎる

2023年08月08日 16時57分02秒 | 全般

「物語」を紡ぎたかったために恩師の戦死という大嘘をついたのだろうが、歴史歪曲が過ぎる
2020/12/15

本章は検索妨害の犯罪に遭っていた。
インターネットは人類史上最大の、かつ最速の図書館である。
インターネットで世界有数の企業になった御社には、インターネットを清浄に維持する義務があります。
この検索妨害はgooを通してなされている。
gooの運営会社及び、検索会社は本件の犯罪者を特定し、刑事告訴して厳罰に処してください。

再発信します。

2020-10-20に発信した章。
産経新聞の記事からである。
NHKさん、大嘘はダメです
論説委員長乾正人
実在の人物をモデルに、映画やドラマをつくるのは、実に難しい。 
史実通りにつくれば、物語が複雑になりすぎて面白みがなくなり、事実関係をはしょりすぎれば、何がなんだか分からなくなる。 
かといって、フィクションを錦の御旗として、史実にはないこと(つまり、捏造された物語)をドラマの中核に据えれば、結果として事情を知らない大多数の視聴者を騙し、間違った歴史観を植え付けることになる。 
作曲家の古関裕而をモデルにしたNHK朝の連続テレビ小説「エール」は、残念ながら後者に属する。
NHKは、戦時中に古関が作曲した「露営の歌」や「暁に祈る」、「若鷲の歌」といった軍歌をなぜかタブー視し、長らく放送しなかった。
「エール」では、この禁を破って、今ではあまり歌われなくなった「ビルマ派遣軍の歌」まで放送した。
その姿勢は評価したいが、インパール作戦の最前線で再会した小学校時代の恩師が、銃撃戦で戦死する場面をドラマの山場に据えたのは、まったくもっていただけない。
古関が昭和19年に慰問のため作家の火野葦平らとビルマ(現ミャンマー)の首都ラングーンを訪問したのは事実だが、戦況悪化のため前線には行っていない。 
第一、恩師のモデルである遠藤喜美治先生は、インパール作戦で戦死していないどころか、戦後も教育現場の第一線に立たれ、昭和46年に80歳の天寿を全うしている。 
では、なぜNHKはこんな大墟をついたのか。  
「軍歌の覇王」と称された古関は、終戦後まもなくから活動を再開し、「鐘の鵑る丘」や「長崎の鐘」、「イヨマンテの夜」など戦時中と変わらぬ勢いでヒット曲を連発した。 
古関は自伝「鐘よ鳴り響け」で、一連の軍歌について「国民のために少しでも役に立てたことは良かったと思う」と書いている。
ドラマ制作者は、「戦争協カヘの深い反省が、戦後の活躍につながった」という「物語」を紡ぎたかったために恩師の戦死という大嘘をついたのだろうが、歴史歪曲が過ぎる。
戦時中と同じく、また嘘を垂れ流すのですか、NHKさん。

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