文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

Top 10 real-time searches 2023/8/27, 21:15

2023年08月27日 21時15分34秒 | 全般

1

文明のターンテーブルThe Turntable of Civilizationの人気記事 2023/8/27

2

日別記事一覧

3

Resend!It is said that the Chinese always lie and deceive others.

4

R5 08/23【ゲスト:島田 洋一】百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第187回

5

記事一覧

6

日別記事一覧

7

再発信!「文明のターンテーブル」が私の暮らしであり、私の暮らしが、「文明のターンテーブル」であるのは、私の中に松陰の魂が在るからである

8

Top 10 real-time searches 2023/8/27, 11:49.

9

再発信!見上げてごらん夜の星を(坂本九)

10

再発信!唄は船頭さんの心意気

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Resend!It is said that the Chinese always lie and deceive others.

2023年08月27日 19時53分54秒 | 全般

The following is from the introduction to the next book.
This book is a must-read not only for the Japanese people but also for people worldwide.
It would not be an exaggeration to say that you can only understand China and its people by reading this book.
In the eyes of people from other countries, the Chinese have long been described as liars. 
It is said that the Chinese always lie and deceive others.
Westerners who have visited China have also left records of their experiences. 
Arthur Smith, an American missionary who conducted missionary work in China for 22 years from the end of the 19th century to the beginning of the 20th century, wrote in his book, "Chinese Character" (translated by Ishii Munetaka and Iwasaki Nako, Chuko Sosho).
In the book, he describes how Chinese people are dishonest and often lie, leading to mutual distrust in society and the family. 
Ralph Townsend, an American who served as vice-consul in Shanghai and Fujian for two years from 1931, wrote in his book "The Truth about China, the Dark Continent" (translated by Hideo Tanaka and Kenkichi Sakita, published by Fuyo Shobo), "When I asked Anglo-Americans who had been in China for a long time, 'What is the most significant difference between the Chinese character and ours? Almost all of them would answer without hesitation that they are liars. 
He goes on to lament that "we are lied to just to cover up a lie, and it takes months or even years [to process] even a minor case. 
Smith and Townsend are surprised that the Chinese are not insulted or offended by being called "liars." 
I'm a former Chinese naturalized in Japan, but I don't think what they say is wrong.
Today's Chinese lie without hesitation, and for thousands of years, the Chinese have lied everywhere and in every situation. 
The Chinese are family-oriented due to Confucian influence. 
It considers anyone other than their blood relatives and pseudo-families (called "Quan zi") of geographical ties and interest communities untrustworthy.
Even if they are family, they do not fully trust married couples. 
Therefore, they will always tell a lie if there is a conflict of interest.
And even if the lie is exposed, they try to keep it up anyway.
The only time the Chinese will admit to lying is when the other party is in an overwhelmingly superior position, and if they continue to lie, it will not be to their benefit. 
Because everyone is like that, society is full of lies and mutual distrust. 
In China, there is a saying that everything is fake, and only fraudsters are genuine. Zhu Rongji, who once served as prime minister during the Jiang Zemin administration, said that.
So, "liar" is not a bad word for Chinese people.
That's because everyone is a liar. 
In this book, I have researched the history and origin of why Chinese people lie and added my explanations.
Putting it all together in this way, I was surprised to learn how lying has become an essential keyword in Chinese history. 
Today, China claims that the South China Sea and the Senkaku Islands are "ancient Chinese territory" and are at odds with other countries, but all such claims are lies.
China's history clearly shows how often it lies in diplomatic negotiations.
This book will help you understand that China lies as if it were breathing. 
The title of this book is "Five Thousand Years of China," and the Chinese often boast about the length of their history.
However, the land of China has a history of repeated dynastic changes and has even been ruled by different ethnic groups for hundreds of years.
The period of Mongol domination is probably more a part of "Mongol history" than "Chinese history.
Nevertheless, in China, Genghis Khan is made into a national hero of his own country and is forcibly forging the history of being "Chinese."
In the first place, it is doubtful that China has 5,000 years of history.
The book is called "Five Thousand Years of China," meaning it is a "lie." 
This book will help you understand the nature of China and the Chinese people. 
Mid-July 2018 
Seki Hei.

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

R5 08/23【ゲスト:島田 洋一】百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第187回

2023年08月27日 19時29分33秒 | 全般

R5 08/23【ゲスト:島田 洋一】百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第187回

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文明のターンテーブルThe Turntable of Civilizationの人気記事 2023/8/27

2023年08月27日 19時13分45秒 | 全般

文明のターンテーブルThe Turntable of Civilizationの人気記事

  1. 習氏が権力基盤の浮沈をかけて台湾攻略に出てこようとするのに対し、抑止を確実にするには日米台の覚悟が必要で、日本は日本の国益のためにこそ、
  2. こんなのは建て前。遊んでいて9割の休業補償がもらえるので、漁を再開しないだけ。おかげで福島第一原発の沖は、漁業資源の宝庫だ。
  3. 日本経済の6割はそもそも内需で支えられていて対中国輸出は経済の僅か一部でしかない。こいつらは一体どこまで馬鹿なのか!
  4. 再発信!IMADR…国連にありもしない差別を訴え…人権理事会の委員をオルグ…質問から回答まで自作自演を繰りかえす活動を行っている
  5. 岸田!! 外交能力、先見の明 ゼロ以下…河野太郎…さすが“親中&移民促進派”の代表。こんな人物を「次期総理候補」と世論形成してきたメディア
  6. How stupid can these people be! Don't come to Japan either.
  7. カナダの大学の経済学で…日本の貧困者は…世界的にも例のない、完全な「政策ミス」による貧困だ
  8. 再発信!玉城…来月スイスへ「国連で辺野古新基地阻止を訴えてくる」中国共産党の工作員活動家である
  9. とりあえず中国人のビザ発給止めたら。組織的とも見られるこんな嫌がらせまでするような人たち入れたら、何されるか分からない
  10. Another belief of the Asahi Newspaper is GHQ, 'the past which colonized Korea by the slaves.'

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Top 10 real-time searches 2023/8/27, 11:49.

2023年08月27日 11時49分44秒 | 全般

1

再発信!世界の誰も真似のできない旋盤工の技術を継承して生きて暮らして行く人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した

2

再発信!世界の誰も真似のできない旋盤工の技術を継承して生きて暮らして行く人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した

3

This is a country that does not know what it is doing.

4

わが身の所業をわきまえぬ困った国だ。市役所では2日間で約200件。小中学校にもかなり来ている。多くは+86(中国)発信で、中国語

5

Min mor kom for at se mig i form af en brunøret bulbul.

6

再発信!それが証拠に、彼らは、中国の様な国の工作で、簡単に国内世論を分断化されているじゃないか。

7

Mano mama atėjo pas mane rudaausio bulbulo pavidalu.

8

Mater mea ad me venit in modum bulbuli fulvi-auritivi.

9

Hooyaday waxay ii timid inay isoo aragto iyadoo u muuqata bulbul dhegta bunni ah.

10

再発信!「文明のターンテーブル」が私の暮らしであり、私の暮らしが、「文明のターンテーブル」であるのは、私の中に松陰の魂が在るからである

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再発信!見上げてごらん夜の星を(坂本九)

2023年08月27日 11時32分43秒 | 全般

2021/3/16
昨夜、NHKの番組で、大竹しのぶが最後にスタジオで歌った「見上げてごらん夜の星を」は、閖上中学校の体育館で生徒の父母も参加して行われた卒業式の後の謝恩会で、3年3組を代表して、私がステージで歌った歌の一つでした。
その他の曲目も普通の中学生が歌うものではなかった。
何しろ、「浜千鳥」「城ヶ島の雨」だったのですから。
歌い終わって席に戻ったら、竹馬の友のお母さんが、「あなたが、あんなに歌がうまいとは」と絶句していた。
そんな私だから、カパルアベイホテルのアーケード街で、日本人を代表する思いで、生バンドをバックに、ボブ・ディランのLet it be me、ジョン・レノンのDon't let me down、PrinceのPurple Rain、こんな3曲を立て続けに歌いもしたのでしょう。

3.11から、だいぶ経った頃、閖上に行った。校舎も体育館も残っていた。体育館のドアが開いていたから中に入ってみた。ステージもそのままだった。言葉に尽くせない感慨を覚えた。

見上げてごらん夜の星を(坂本九)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再発信!今は、このYouTubeを視聴していると涙が出てくる。3.11は、母親が津波で死んだ日だからである。

2023年08月27日 11時29分52秒 | 全般

2021/3/16
昨夜、NHKの番組で、大竹しのぶが最後にスタジオで歌った「見上げてごらん夜の星を」は、閖上中学校の体育館で生徒の父母も参加して行われた卒業式の後の謝恩会で、3年3組を代表して、私がステージで歌った歌の一つでした。
その他の曲目も普通の中学生が歌うものではなかった。
何しろ、「浜千鳥」「城ヶ島の雨」だったのですから。
歌い終わって席に戻ったら、竹馬の友のお母さんが、「あなたが、あんなに歌がうまいとは」と絶句していた。
そんな私だから、カパルアベイホテルのアーケード街で、日本人を代表する思いで、生バンドをバックに、ボブ・ディランのLet it be me、ジョン・レノンのDon't let me down、PrinceのPurple Rain、こんな3曲を立て続けに歌いもしたのでしょう。

3.11から、だいぶ経った頃、閖上に行った。校舎も体育館も残っていた。体育館のドアが開いていたから中に入ってみた。ステージもそのままだった。言葉に尽くせない感慨を覚えた。

今は、このYouTubeを視聴していると涙が出てくる。3.11は、母親が津波で死んだ日だからである。

浜千鳥  鮫島有美子

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再発信!唄は船頭さんの心意気

2023年08月27日 11時26分35秒 | 全般

2021/3/16
昨夜、NHKの番組で、大竹しのぶが最後にスタジオで歌った「見上げてごらん夜の星を」は、閖上中学校の体育館で生徒の父母も参加して行われた卒業式の後の謝恩会で、3年3組を代表して、私がステージで歌った歌の一つでした。
その他の曲目も普通の中学生が歌うものではなかった。
何しろ、「浜千鳥」「城ヶ島の雨」だったのですから。
歌い終わって席に戻ったら、竹馬の友のお母さんが、「あなたが、あんなに歌がうまいとは」と絶句していた。
そんな私だから、カパルアベイホテルのアーケード街で、日本人を代表する思いで、生バンドをバックに、ボブ・ディランのLet it be me、ジョン・レノンのDon't let me down、PrinceのPurple Rain、こんな3曲を立て続けに歌いもしたのでしょう。

3.11から、だいぶ経った頃、閖上に行った。校舎も体育館も残っていた。体育館のドアが開いていたから中に入ってみた。ステージもそのままだった。言葉に尽くせない感慨を覚えた。

城ヶ島の雨 藤山一郎.

藤山一郎が独唱する日本歌曲です。声楽家増永丈夫(バリトン)が究極の声楽技術でテナー藤山一郎としてその魅力を伝えています。藤山一郎は慶應普通部時代から東京音楽学校(現東京芸大)の予科の頃まで、「城ケ島の雨」の作曲者梁田貞に声楽を学びました。声量豊かな美しいハイバリトンは師譲りのものといえるでしょう。本科に進んでからは船橋栄吉、ヴーハー・ペーニッヒに声楽を師事しています。昭和6年、生家の借財返済のために流行歌手藤山一郎としてコロムビアからデビュー。昭和8年、東京音楽学校を首席卒業しビクター専属、昭和11年テイチク、昭和14年コロムビアへ復帰、戦前戦後を通じて不世出の国民歌手として多大なる功績をのこしたました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再発信!そんな私だから、カパルアベイホテルのアーケード街で、日本人を代表する思いで、生バンドをバックに

2023年08月27日 11時21分41秒 | 全般

2021/12/18
唄は船頭さんの心意気、と題して、
2021年03月16日に発信した章である。
検索妨害という犯罪行為に遭っていた。
再発信する。
昨夜、NHKの番組で、大竹しのぶが最後にスタジオで歌った「見上げてごらん夜の星を」は、閖上中学校の体育館で生徒の父母も参加して行われた卒業式の後の謝恩会で、3年3組を代表して、私がステージで歌った歌の一つでした。
その他の曲目も普通の中学生が歌うものではなかった。
何しろ、「浜千鳥」「城ヶ島の雨」だったのですから。
歌い終わって席に戻ったら、竹馬の友のお母さんが、「あなたが、あんなに歌がうまいとは」と絶句していた。

そんな私だから、カパルアベイホテルのアーケード街で、日本人を代表する思いで、生バンドをバックに、ボブ・ディランのLet it be me、ジョン・レノンのDon't let me down、PrinceのPurple Rain、こんな3曲を立て続けに歌いもしたのでしょう。

3.11から、だいぶ経った頃、閖上に行った。
校舎も体育館も残っていた。
体育館のドアが開いていたから中に入ってみた。
ステージもそのままだった。
言葉に尽くせない感慨を覚えた。

The Beatles - Don't Let Me Down

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再発信!生バンドをバックに、PrinceのPurple Rain、

2023年08月27日 11時16分32秒 | 全般

唄は船頭さんの心意気、と題して、
2021年03月16日に発信した章である。
検索妨害という犯罪行為に遭っていた。
再発信する。
昨夜、NHKの番組で、大竹しのぶが最後にスタジオで歌った「見上げてごらん夜の星を」は、閖上中学校の体育館で生徒の父母も参加して行われた卒業式の後の謝恩会で、3年3組を代表して、私がステージで歌った歌の一つでした。
その他の曲目も普通の中学生が歌うものではなかった。
何しろ、「浜千鳥」「城ヶ島の雨」だったのですから。
歌い終わって席に戻ったら、竹馬の友のお母さんが、「あなたが、あんなに歌がうまいとは」と絶句していた。

そんな私だから、カパルアベイホテルのアーケード街で、日本人を代表する思いで、生バンドをバックに、ボブ・ディランのLet it be me、ジョン・レノンのDon't let me down、PrinceのPurple Rain、こんな3曲を立て続けに歌いもしたのでしょう。

3.11から、だいぶ経った頃、閖上に行った。
校舎も体育館も残っていた。
体育館のドアが開いていたから中に入ってみた。
ステージもそのままだった。
言葉に尽くせない感慨を覚えた。

Prince - Purple Rain (Official Video)

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再発信!「文明のターンテーブル」が私の暮らしであり、私の暮らしが、「文明のターンテーブル」であるのは、私の中に松陰の魂が在るからである

2023年08月27日 11時08分54秒 | 全般

2021/12/25
以下は12月23日に発売された週刊新潮の掉尾を飾る櫻井よしこさんの連載コラムからである。
本論文も彼女が最澄が定義した国宝、至上の国宝である事を証明している。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。

本欄の作成作業について。
日本国民のみならず世界中の人達が知らなければならない本物の論文を発信するについては、先ず、原文をスキャナーする。
スキャンミスの箇所を校正する。縦書き用の数字を横書き様に変える。段落等を横書き用に変える。
そのような作業を経て日本及び世界に発信している。
本章の段落を変える作業をしていた時、私は慟哭を覚えた。
私の中に松陰の魂が在る事を実感したからである。

松陰は本当に、うらやましいほどの家庭に育った。
時代の中で、彼は処刑され、早世したが、実に幸福な人生だった。

私は不幸な家庭に育ったが、松陰と何ら変わらないのである。
私の周囲にいた人達は、「私は永遠の19歳である」との私の言を、何度も耳にしたはずである。
刎頸の友人は、皆、「貴方なら、確かにそうである…」と同意してくれた。

私は19歳の時に家を出奔した。
以来、我が母校の同窓生名簿には「消息不明」と記されていたらしい。
つまり私の人生は19歳のまま止まっていると言っても過言ではないからである。

京都大学を両肩に背負って立つべしと厳命されていた人間が全く違う人生を歩んだ。
或る面で、天と地ほどの、目も眩むような人生だったとも言える。

加地伸行氏が常識的に語られている人手不足について、「違う、人手はいる」、と警鐘を鳴らした一文は21世紀最高の論文の一つである。
私の家庭には、私を京都大学に送って、かの大学を、この両肩に背負って立たせる事が出来ない不幸があった。
だが、私は、その事を全く悔いてもいない。
それどころか、私は、加地伸行氏の論説の正しさを実証しているのである。
実は、大学教育は人生に必須のものでなど全くないのである。
それどころか偏差値5点の人間達を無理やり高校、大学に送りこんでいる現在の教育制度の愚かさ、馬鹿馬鹿しさを彼は指摘した。
土に生きて畑を耕し作物を育てる為に生まれて来た人達を徒にスポイルしてしまう教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
海に生きて終生、魚と海を愛して暮らして行く為に生まれて来た人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
森に生きて終生、木々と暮らして行く為に生まれて来た人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
完璧を求める日本人の習性が生み出す数々の工芸の世界に生きて暮らして行く人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政。
世界の誰も真似のできない旋盤工の技術を継承して生きて暮らして行く人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
彼は実体験の中から指摘した。それは彼が本物の知性だからである。
この稿は後日に続ける。

大学卒業が全てである米国の社会は?
あれは歴史の浅い米国が、実は、チンピラの様な哲学しか持っていないからである。
それが証拠に、彼らは、中国の様な国の工作で、簡単に国内世論を分断化されているじゃないか。
米国の知性なんぞよりも日本の知性の方が遥かに上である事を本欄は証明している。
朝日新聞等やこれに同調している所謂文化人達は、米国の知性の浅はかさを証明しているのである。

日本のデフレを齎した失政の影響で経営者としての人生にも苦境が始まった頃の事である。
仕事で親しかった大企業社員の友人に、彼の上司の接待を依頼された。
私は目一杯の御馳走で応え、二次会へと繰り出した。
二次会の席で、その上司が言った。
「綱渡りの様な人生ですね…」
その通りの人生だったのかもしれないが、接待した当方としては一瞬絶句した。

私は松陰の様な家庭は持てなかったが父母は今でも愛している。
生み育ててくれた事に対して無限の感謝を抱いている。
私は彼らが戦後最高の知性の一人を丈夫に育ててくれた事に対して無条件に感謝している。

私が永遠に愛している閖上に生まれ育った事を心から感謝している。
今でも私に掛け値なしの愛情を注いでくれている小学校、中学校の同級生の皆に心から感謝している。

だから私は、たった一人でも、無名の中小事業経営者としては日本一ではないか、と評された仕事もしてきた。
2010年7月以降は、こうして、たった一人でも、日本と世界を糺す為に、毎日、無償で作業をしている。
「文明のターンテーブル」が私の暮らしであり、私の暮らしが、「文明のターンテーブル」であるのは、私の中に松陰の魂が在るからである。

偉人・松陰を育てた家庭と父
過日山口県を訪れた際、地元の志篤い人から『吉田松陰の思想と生涯』という本を戴いた。
松陰研究者で知られる、今は亡き玖村敏雄氏が山口銀行で行った6回の講演を、同行が行員職員の学びの目的で上梓した。
心に沁み入る一冊だった。
周知のように、松陰が松下村塾で教えたのはわずか2年と3か月間だった。
この間に身分の差を超えて約60名が集った。
松陰の下で学んだ士分出身の主な人物には高杉晋作、久坂玄瑞、萩の乱で首を切られた前原一誠、司法卿(大臣)になった山田顕義、中谷正亮などがいる。
足軽出身者としては池田屋事件で重傷を負い、長州藩邸の門まで帰りついて自刃した吉田栄太郎、禁門の変で戦死した入江衫蔵、初代総理大臣となった伊藤博文、日露戦争当時の参謀総長、山縣有朋、また品川弥二郎、野村靖も維新の大業に尽した。 
士分でも足軽でもない塾生に魚屋の子で画家の松浦松洞がいる。
松陰が座っている肖像があるが、これは松洞が描いたものだという。
ちなみに松下村塾の最初の塾生は医者の子の増野徳民だった。
次の塾生は杉家(松陰は養子として吉田家に入ったが、ずっと生家の杉家で暮らしていた)の隣家の吉田栄太郎で、彼のことは前述した。
三番目の入塾者がこれまた前述の松浦松洞だ。
玖村氏は、松下村塾の最初の塾生の3人が医者、足軽、魚屋の子で、士分ではなく皆平民であったことの意味を説く。
当時の日本、毛利藩の実情を見れば特筆すべきことなのだ。
江戸時代の日本には士農工商の身分制度があり、士の子弟は藩校で学び、平民の子は寺子屋で学んだ。
毛利藩にも藩校として萩に明倫館があった。
しかし、松陰は身分の上下など気にせず、全ての人を一人の人間として見た。
ここで想い出すのが明治新政府誕生と同時に発布された五箇条の御誓文である。
「広く会議を興し、万機公論に決すべし。上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし。」
 まさに維新を貫いた思想がここにある。
約190年前に生まれた松陰は明治維新の10年前に処刑されたが、彼は時代を先取りして見事に実践していたのだ。
なぜ学ぶのか 
松下村塾で学んだ約60名の中から歴史に名を残した人々が20数名もいる。
松陰の住んでいた村に特別に才能ある人々が集中して生まれていたということか。
そうではないだろう。
玖村氏は日本のどの村にも人材はいて、よき師に巡り合うことによって人材はその持てる天分を磨き、一廉(ひとかど)の人物になれるのだと言っている。
つまり、松陰はよき師であったということだ。
では、なぜ松陰は人を育てることができたのか。
それは一にも二にも松陰の育った家庭にあったと玖村氏は書いている。
松陰は幕府がアメリカと和親条約を結んだときペリーの艦でアメリカに密航し学びたいと念じた。
下田港近くで機を窺い、小舟で漕ぎ出しついにペリーの艦によじ上ったが願いは受け入れられなかった。
松陰は密航を企て国禁を犯したとして自ら名乗り出た。
結果として国許に送られ父杉百合之助に引き渡された。
安政元(1854)年10月、松陰数え年で25歳の時のことである。
ちなみに父百合之助は「百人中関頭兼盗賊改方」、つまり萩の警察署長だった。
事情を端折って言えば松陰は野山獄に入れられる。
そこには士族11人がすでに入っていた。
獄中で松陰は本を読んだ。
「感激すると涙をふるって読む、腹が立つときにはまなじりをあげ激越な調子で読む、嬉しいときは声をはずませ膝を打って読」んだ。
警察署長の坊ちゃんが獄にあって少しもめげず、読書に没頭し楽しんでいる。
11人も感化され獄中座談会が始まった。
皆が問うた。
獄外に出ることも望めないのに、なぜ学ぶのか、と。
松陰は答えた。
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」というではないか、と。
人間としての道がわかればそれでよいではないか、と。
一日この世にいるのなら、一日いた甲斐のあることをしたらよい。
たとえここから一生出られないとしても、人間の道に背いて死ぬか、人間の人間たる道を踏んで死ぬか、覚悟次第でどちらにもなれる、と。
その内に野山獄の司獄、つまり刑務所長も松陰の人柄に打たれて、夜は灯をつけてはいけないとされていた規則を改め、夜も灯をともし、筆も墨も紙も自由に使わせた。
そして或る日、彼もまた松陰の弟子になりたいと申し入れた。
獄中生活をこのように明るく積極的に変えることができたのには松陰の人柄がある。
どんな時にも自分本来の性格を貫き、周囲の詰まらない状況でへこまされたりはしない自立性がある。
立派である。
しかし、松陰のそのような在り方を支えた力を見逃してはならない。
松陰を支えたのは家庭の力、家風であると玖村氏は説いている。
うらやましいほどの家庭 
松陰の父は前述したように警察署長だ。
それがその息子は国禁を犯してアメリカ密航を企てた。
罰せられて帰り、野山獄に入れられた。
普通なら怒ったりするだろうが、父も母も兄も妹も叔父も、誰も怒ってなどいない。
皆が皆、松陰のよき理解者として彼を支え続けている。
たとえば「野山獄読書記」を見ると、ひと月に松陰が読んだ量は大体40冊前後、1年間で約500冊だ。
読書記では、松陰が野山獄に入った安政元(1854)年10月24日から年末までに106冊、安政2年に480冊、同3年505冊、同4年9月までに346冊となっている。
これを兄梅太郎は近郷近在の藏書家を訪ね歩いて手に入れるのである。
或いは江戸に注文して写本を作ってもらうのである。
梅太郎は明治の終わり頃まで存命だったそうで、松陰の望む本を入手し次々に供給するのがひと苦労だったと語っている。
それだけではない。
松陰が野山獄から杉家に戻されたとき、父、兄、叔父の3人が松陰の弟子となった。
松陰は獄で11人を前に時事、政治、人生、教育などを講義していたが、その延長を自宅で始めたのだ。
こうして名著『講孟余話』が生れた。
孟子の講義のほかに、父も兄も日を決めて経済要録、新論、日本外史などを一緒に読んだ。
松陰は家から一歩も出られない身であり、退屈だろう。
何とか皆でいたわってやりたいという愛情である。
母も妹も親族の女性達も「婦人会」を創って松陰を中心に読書会をした。
松陰の家庭は本当にうらやましいほどの家庭だ。
これは父の力だと、玖村氏は書いている。
人物を育てるのは家庭なのである。
人間を身分や富で判断するのではなく、その人の人間としての特性に素直に着目することのできる松陰の人間性を育んだのが、愛情ある家庭だった。
家庭、家風の大切さを松陰の短い30年の人生から学んだ一冊だった。

 

https://music.youtube.com/watch?v=kSrK-iV8slY&list=PLcGkkXtask_evrOJARZrKvK2kxlHQsWch

 

​​​​​​​

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再発信!加地伸行氏が…常識的に語られている人手不足について…「違う、人手はいる」…と警鐘を鳴らした一文は21世紀最高の論文の一つである

2023年08月27日 11時04分00秒 | 全般

2021/12/25
以下は12月23日に発売された週刊新潮の掉尾を飾る櫻井よしこさんの連載コラムからである。
本論文も彼女が最澄が定義した国宝、至上の国宝である事を証明している。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。

本欄の作成作業について。
日本国民のみならず世界中の人達が知らなければならない本物の論文を発信するについては、先ず、原文をスキャナーする。
スキャンミスの箇所を校正する。縦書き用の数字を横書き様に変える。段落等を横書き用に変える。
そのような作業を経て日本及び世界に発信している。
本章の段落を変える作業をしていた時、私は慟哭を覚えた。
私の中に松陰の魂が在る事を実感したからである。

松陰は本当に、うらやましいほどの家庭に育った。
時代の中で、彼は処刑され、早世したが、実に幸福な人生だった。

私は不幸な家庭に育ったが、松陰と何ら変わらないのである。
私の周囲にいた人達は、「私は永遠の19歳である」との私の言を、何度も耳にしたはずである。
刎頸の友人は、皆、「貴方なら、確かにそうである…」と同意してくれた。

私は19歳の時に家を出奔した。
以来、我が母校の同窓生名簿には「消息不明」と記されていたらしい。
つまり私の人生は19歳のまま止まっていると言っても過言ではないからである。

京都大学を両肩に背負って立つべしと厳命されていた人間が全く違う人生を歩んだ。
或る面で、天と地ほどの、目も眩むような人生だったとも言える。

加地伸行氏が常識的に語られている人手不足について、「違う、人手はいる」、と警鐘を鳴らした一文は21世紀最高の論文の一つである。
私の家庭には、私を京都大学に送って、かの大学を、この両肩に背負って立たせる事が出来ない不幸があった。
だが、私は、その事を全く悔いてもいない。
それどころか、私は、加地伸行氏の論説の正しさを実証しているのである。
実は、大学教育は人生に必須のものでなど全くないのである。
それどころか偏差値5点の人間達を無理やり高校、大学に送りこんでいる現在の教育制度の愚かさ、馬鹿馬鹿しさを彼は指摘した。
土に生きて畑を耕し作物を育てる為に生まれて来た人達を徒にスポイルしてしまう教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
海に生きて終生、魚と海を愛して暮らして行く為に生まれて来た人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
森に生きて終生、木々と暮らして行く為に生まれて来た人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
完璧を求める日本人の習性が生み出す数々の工芸の世界に生きて暮らして行く人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政。
世界の誰も真似のできない旋盤工の技術を継承して生きて暮らして行く人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
彼は実体験の中から指摘した。それは彼が本物の知性だからである。
この稿は後日に続ける。

大学卒業が全てである米国の社会は?
あれは歴史の浅い米国が、実は、チンピラの様な哲学しか持っていないからである。
それが証拠に、彼らは、中国の様な国の工作で、簡単に国内世論を分断化されているじゃないか。
米国の知性なんぞよりも日本の知性の方が遥かに上である事を本欄は証明している。
朝日新聞等やこれに同調している所謂文化人達は、米国の知性の浅はかさを証明しているのである。

日本のデフレを齎した失政の影響で経営者としての人生にも苦境が始まった頃の事である。
仕事で親しかった大企業社員の友人に、彼の上司の接待を依頼された。
私は目一杯の御馳走で応え、二次会へと繰り出した。
二次会の席で、その上司が言った。
「綱渡りの様な人生ですね…」
その通りの人生だったのかもしれないが、接待した当方としては一瞬絶句した。

私は松陰の様な家庭は持てなかったが父母は今でも愛している。
生み育ててくれた事に対して無限の感謝を抱いている。
私は彼らが戦後最高の知性の一人を丈夫に育ててくれた事に対して無条件に感謝している。

私が永遠に愛している閖上に生まれ育った事を心から感謝している。
今でも私に掛け値なしの愛情を注いでくれている小学校、中学校の同級生の皆に心から感謝している。

だから私は、たった一人でも、無名の中小事業経営者としては日本一ではないか、と評された仕事もしてきた。
2010年7月以降は、こうして、たった一人でも、日本と世界を糺す為に、毎日、無償で作業をしている。
「文明のターンテーブル」が私の暮らしであり、私の暮らしが、「文明のターンテーブル」であるのは、私の中に松陰の魂が在るからである。

偉人・松陰を育てた家庭と父
過日山口県を訪れた際、地元の志篤い人から『吉田松陰の思想と生涯』という本を戴いた。
松陰研究者で知られる、今は亡き玖村敏雄氏が山口銀行で行った6回の講演を、同行が行員職員の学びの目的で上梓した。
心に沁み入る一冊だった。
周知のように、松陰が松下村塾で教えたのはわずか2年と3か月間だった。
この間に身分の差を超えて約60名が集った。
松陰の下で学んだ士分出身の主な人物には高杉晋作、久坂玄瑞、萩の乱で首を切られた前原一誠、司法卿(大臣)になった山田顕義、中谷正亮などがいる。
足軽出身者としては池田屋事件で重傷を負い、長州藩邸の門まで帰りついて自刃した吉田栄太郎、禁門の変で戦死した入江衫蔵、初代総理大臣となった伊藤博文、日露戦争当時の参謀総長、山縣有朋、また品川弥二郎、野村靖も維新の大業に尽した。 
士分でも足軽でもない塾生に魚屋の子で画家の松浦松洞がいる。
松陰が座っている肖像があるが、これは松洞が描いたものだという。
ちなみに松下村塾の最初の塾生は医者の子の増野徳民だった。
次の塾生は杉家(松陰は養子として吉田家に入ったが、ずっと生家の杉家で暮らしていた)の隣家の吉田栄太郎で、彼のことは前述した。
三番目の入塾者がこれまた前述の松浦松洞だ。
玖村氏は、松下村塾の最初の塾生の3人が医者、足軽、魚屋の子で、士分ではなく皆平民であったことの意味を説く。
当時の日本、毛利藩の実情を見れば特筆すべきことなのだ。
江戸時代の日本には士農工商の身分制度があり、士の子弟は藩校で学び、平民の子は寺子屋で学んだ。
毛利藩にも藩校として萩に明倫館があった。
しかし、松陰は身分の上下など気にせず、全ての人を一人の人間として見た。
ここで想い出すのが明治新政府誕生と同時に発布された五箇条の御誓文である。
「広く会議を興し、万機公論に決すべし。上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし。」
 まさに維新を貫いた思想がここにある。
約190年前に生まれた松陰は明治維新の10年前に処刑されたが、彼は時代を先取りして見事に実践していたのだ。
なぜ学ぶのか 
松下村塾で学んだ約60名の中から歴史に名を残した人々が20数名もいる。
松陰の住んでいた村に特別に才能ある人々が集中して生まれていたということか。
そうではないだろう。
玖村氏は日本のどの村にも人材はいて、よき師に巡り合うことによって人材はその持てる天分を磨き、一廉(ひとかど)の人物になれるのだと言っている。
つまり、松陰はよき師であったということだ。
では、なぜ松陰は人を育てることができたのか。
それは一にも二にも松陰の育った家庭にあったと玖村氏は書いている。
松陰は幕府がアメリカと和親条約を結んだときペリーの艦でアメリカに密航し学びたいと念じた。
下田港近くで機を窺い、小舟で漕ぎ出しついにペリーの艦によじ上ったが願いは受け入れられなかった。
松陰は密航を企て国禁を犯したとして自ら名乗り出た。
結果として国許に送られ父杉百合之助に引き渡された。
安政元(1854)年10月、松陰数え年で25歳の時のことである。
ちなみに父百合之助は「百人中関頭兼盗賊改方」、つまり萩の警察署長だった。
事情を端折って言えば松陰は野山獄に入れられる。
そこには士族11人がすでに入っていた。
獄中で松陰は本を読んだ。
「感激すると涙をふるって読む、腹が立つときにはまなじりをあげ激越な調子で読む、嬉しいときは声をはずませ膝を打って読」んだ。
警察署長の坊ちゃんが獄にあって少しもめげず、読書に没頭し楽しんでいる。
11人も感化され獄中座談会が始まった。
皆が問うた。
獄外に出ることも望めないのに、なぜ学ぶのか、と。
松陰は答えた。
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」というではないか、と。
人間としての道がわかればそれでよいではないか、と。
一日この世にいるのなら、一日いた甲斐のあることをしたらよい。
たとえここから一生出られないとしても、人間の道に背いて死ぬか、人間の人間たる道を踏んで死ぬか、覚悟次第でどちらにもなれる、と。
その内に野山獄の司獄、つまり刑務所長も松陰の人柄に打たれて、夜は灯をつけてはいけないとされていた規則を改め、夜も灯をともし、筆も墨も紙も自由に使わせた。
そして或る日、彼もまた松陰の弟子になりたいと申し入れた。
獄中生活をこのように明るく積極的に変えることができたのには松陰の人柄がある。
どんな時にも自分本来の性格を貫き、周囲の詰まらない状況でへこまされたりはしない自立性がある。
立派である。
しかし、松陰のそのような在り方を支えた力を見逃してはならない。
松陰を支えたのは家庭の力、家風であると玖村氏は説いている。
うらやましいほどの家庭 
松陰の父は前述したように警察署長だ。
それがその息子は国禁を犯してアメリカ密航を企てた。
罰せられて帰り、野山獄に入れられた。
普通なら怒ったりするだろうが、父も母も兄も妹も叔父も、誰も怒ってなどいない。
皆が皆、松陰のよき理解者として彼を支え続けている。
たとえば「野山獄読書記」を見ると、ひと月に松陰が読んだ量は大体40冊前後、1年間で約500冊だ。
読書記では、松陰が野山獄に入った安政元(1854)年10月24日から年末までに106冊、安政2年に480冊、同3年505冊、同4年9月までに346冊となっている。
これを兄梅太郎は近郷近在の藏書家を訪ね歩いて手に入れるのである。
或いは江戸に注文して写本を作ってもらうのである。
梅太郎は明治の終わり頃まで存命だったそうで、松陰の望む本を入手し次々に供給するのがひと苦労だったと語っている。
それだけではない。
松陰が野山獄から杉家に戻されたとき、父、兄、叔父の3人が松陰の弟子となった。
松陰は獄で11人を前に時事、政治、人生、教育などを講義していたが、その延長を自宅で始めたのだ。
こうして名著『講孟余話』が生れた。
孟子の講義のほかに、父も兄も日を決めて経済要録、新論、日本外史などを一緒に読んだ。
松陰は家から一歩も出られない身であり、退屈だろう。
何とか皆でいたわってやりたいという愛情である。
母も妹も親族の女性達も「婦人会」を創って松陰を中心に読書会をした。
松陰の家庭は本当にうらやましいほどの家庭だ。
これは父の力だと、玖村氏は書いている。
人物を育てるのは家庭なのである。
人間を身分や富で判断するのではなく、その人の人間としての特性に素直に着目することのできる松陰の人間性を育んだのが、愛情ある家庭だった。
家庭、家風の大切さを松陰の短い30年の人生から学んだ一冊だった。

 

https://music.youtube.com/watch?v=kSrK-iV8slY&list=PLcGkkXtask_evrOJARZrKvK2kxlHQsWch

 

​​​​​​​

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再発信!偏差値5点の人間達を無理やり高校、大学に送りこんでいる現在の教育制度の愚かさ、馬鹿馬鹿しさを彼は指摘した。

2023年08月27日 10時59分04秒 | 全般

2021/12/25
以下は12月23日に発売された週刊新潮の掉尾を飾る櫻井よしこさんの連載コラムからである。
本論文も彼女が最澄が定義した国宝、至上の国宝である事を証明している。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。

本欄の作成作業について。
日本国民のみならず世界中の人達が知らなければならない本物の論文を発信するについては、先ず、原文をスキャナーする。
スキャンミスの箇所を校正する。縦書き用の数字を横書き様に変える。段落等を横書き用に変える。
そのような作業を経て日本及び世界に発信している。
本章の段落を変える作業をしていた時、私は慟哭を覚えた。
私の中に松陰の魂が在る事を実感したからである。

松陰は本当に、うらやましいほどの家庭に育った。
時代の中で、彼は処刑され、早世したが、実に幸福な人生だった。

私は不幸な家庭に育ったが、松陰と何ら変わらないのである。
私の周囲にいた人達は、「私は永遠の19歳である」との私の言を、何度も耳にしたはずである。
刎頸の友人は、皆、「貴方なら、確かにそうである…」と同意してくれた。

私は19歳の時に家を出奔した。
以来、我が母校の同窓生名簿には「消息不明」と記されていたらしい。
つまり私の人生は19歳のまま止まっていると言っても過言ではないからである。

京都大学を両肩に背負って立つべしと厳命されていた人間が全く違う人生を歩んだ。
或る面で、天と地ほどの、目も眩むような人生だったとも言える。

加地伸行氏が常識的に語られている人手不足について、「違う、人手はいる」、と警鐘を鳴らした一文は21世紀最高の論文の一つである。
私の家庭には、私を京都大学に送って、かの大学を、この両肩に背負って立たせる事が出来ない不幸があった。
だが、私は、その事を全く悔いてもいない。
それどころか、私は、加地伸行氏の論説の正しさを実証しているのである。
実は、大学教育は人生に必須のものでなど全くないのである。
それどころか偏差値5点の人間達を無理やり高校、大学に送りこんでいる現在の教育制度の愚かさ、馬鹿馬鹿しさを彼は指摘した。
土に生きて畑を耕し作物を育てる為に生まれて来た人達を徒にスポイルしてしまう教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
海に生きて終生、魚と海を愛して暮らして行く為に生まれて来た人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
森に生きて終生、木々と暮らして行く為に生まれて来た人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
完璧を求める日本人の習性が生み出す数々の工芸の世界に生きて暮らして行く人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政。
世界の誰も真似のできない旋盤工の技術を継承して生きて暮らして行く人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
彼は実体験の中から指摘した。それは彼が本物の知性だからである。
この稿は後日に続ける。

大学卒業が全てである米国の社会は?
あれは歴史の浅い米国が、実は、チンピラの様な哲学しか持っていないからである。
それが証拠に、彼らは、中国の様な国の工作で、簡単に国内世論を分断化されているじゃないか。
米国の知性なんぞよりも日本の知性の方が遥かに上である事を本欄は証明している。
朝日新聞等やこれに同調している所謂文化人達は、米国の知性の浅はかさを証明しているのである。

日本のデフレを齎した失政の影響で経営者としての人生にも苦境が始まった頃の事である。
仕事で親しかった大企業社員の友人に、彼の上司の接待を依頼された。
私は目一杯の御馳走で応え、二次会へと繰り出した。
二次会の席で、その上司が言った。
「綱渡りの様な人生ですね…」
その通りの人生だったのかもしれないが、接待した当方としては一瞬絶句した。

私は松陰の様な家庭は持てなかったが父母は今でも愛している。
生み育ててくれた事に対して無限の感謝を抱いている。
私は彼らが戦後最高の知性の一人を丈夫に育ててくれた事に対して無条件に感謝している。

私が永遠に愛している閖上に生まれ育った事を心から感謝している。
今でも私に掛け値なしの愛情を注いでくれている小学校、中学校の同級生の皆に心から感謝している。

だから私は、たった一人でも、無名の中小事業経営者としては日本一ではないか、と評された仕事もしてきた。
2010年7月以降は、こうして、たった一人でも、日本と世界を糺す為に、毎日、無償で作業をしている。
「文明のターンテーブル」が私の暮らしであり、私の暮らしが、「文明のターンテーブル」であるのは、私の中に松陰の魂が在るからである。

偉人・松陰を育てた家庭と父
過日山口県を訪れた際、地元の志篤い人から『吉田松陰の思想と生涯』という本を戴いた。
松陰研究者で知られる、今は亡き玖村敏雄氏が山口銀行で行った6回の講演を、同行が行員職員の学びの目的で上梓した。
心に沁み入る一冊だった。
周知のように、松陰が松下村塾で教えたのはわずか2年と3か月間だった。
この間に身分の差を超えて約60名が集った。
松陰の下で学んだ士分出身の主な人物には高杉晋作、久坂玄瑞、萩の乱で首を切られた前原一誠、司法卿(大臣)になった山田顕義、中谷正亮などがいる。
足軽出身者としては池田屋事件で重傷を負い、長州藩邸の門まで帰りついて自刃した吉田栄太郎、禁門の変で戦死した入江衫蔵、初代総理大臣となった伊藤博文、日露戦争当時の参謀総長、山縣有朋、また品川弥二郎、野村靖も維新の大業に尽した。 
士分でも足軽でもない塾生に魚屋の子で画家の松浦松洞がいる。
松陰が座っている肖像があるが、これは松洞が描いたものだという。
ちなみに松下村塾の最初の塾生は医者の子の増野徳民だった。
次の塾生は杉家(松陰は養子として吉田家に入ったが、ずっと生家の杉家で暮らしていた)の隣家の吉田栄太郎で、彼のことは前述した。
三番目の入塾者がこれまた前述の松浦松洞だ。
玖村氏は、松下村塾の最初の塾生の3人が医者、足軽、魚屋の子で、士分ではなく皆平民であったことの意味を説く。
当時の日本、毛利藩の実情を見れば特筆すべきことなのだ。
江戸時代の日本には士農工商の身分制度があり、士の子弟は藩校で学び、平民の子は寺子屋で学んだ。
毛利藩にも藩校として萩に明倫館があった。
しかし、松陰は身分の上下など気にせず、全ての人を一人の人間として見た。
ここで想い出すのが明治新政府誕生と同時に発布された五箇条の御誓文である。
「広く会議を興し、万機公論に決すべし。上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし。」
 まさに維新を貫いた思想がここにある。
約190年前に生まれた松陰は明治維新の10年前に処刑されたが、彼は時代を先取りして見事に実践していたのだ。
なぜ学ぶのか 
松下村塾で学んだ約60名の中から歴史に名を残した人々が20数名もいる。
松陰の住んでいた村に特別に才能ある人々が集中して生まれていたということか。
そうではないだろう。
玖村氏は日本のどの村にも人材はいて、よき師に巡り合うことによって人材はその持てる天分を磨き、一廉(ひとかど)の人物になれるのだと言っている。
つまり、松陰はよき師であったということだ。
では、なぜ松陰は人を育てることができたのか。
それは一にも二にも松陰の育った家庭にあったと玖村氏は書いている。
松陰は幕府がアメリカと和親条約を結んだときペリーの艦でアメリカに密航し学びたいと念じた。
下田港近くで機を窺い、小舟で漕ぎ出しついにペリーの艦によじ上ったが願いは受け入れられなかった。
松陰は密航を企て国禁を犯したとして自ら名乗り出た。
結果として国許に送られ父杉百合之助に引き渡された。
安政元(1854)年10月、松陰数え年で25歳の時のことである。
ちなみに父百合之助は「百人中関頭兼盗賊改方」、つまり萩の警察署長だった。
事情を端折って言えば松陰は野山獄に入れられる。
そこには士族11人がすでに入っていた。
獄中で松陰は本を読んだ。
「感激すると涙をふるって読む、腹が立つときにはまなじりをあげ激越な調子で読む、嬉しいときは声をはずませ膝を打って読」んだ。
警察署長の坊ちゃんが獄にあって少しもめげず、読書に没頭し楽しんでいる。
11人も感化され獄中座談会が始まった。
皆が問うた。
獄外に出ることも望めないのに、なぜ学ぶのか、と。
松陰は答えた。
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」というではないか、と。
人間としての道がわかればそれでよいではないか、と。
一日この世にいるのなら、一日いた甲斐のあることをしたらよい。
たとえここから一生出られないとしても、人間の道に背いて死ぬか、人間の人間たる道を踏んで死ぬか、覚悟次第でどちらにもなれる、と。
その内に野山獄の司獄、つまり刑務所長も松陰の人柄に打たれて、夜は灯をつけてはいけないとされていた規則を改め、夜も灯をともし、筆も墨も紙も自由に使わせた。
そして或る日、彼もまた松陰の弟子になりたいと申し入れた。
獄中生活をこのように明るく積極的に変えることができたのには松陰の人柄がある。
どんな時にも自分本来の性格を貫き、周囲の詰まらない状況でへこまされたりはしない自立性がある。
立派である。
しかし、松陰のそのような在り方を支えた力を見逃してはならない。
松陰を支えたのは家庭の力、家風であると玖村氏は説いている。
うらやましいほどの家庭 
松陰の父は前述したように警察署長だ。
それがその息子は国禁を犯してアメリカ密航を企てた。
罰せられて帰り、野山獄に入れられた。
普通なら怒ったりするだろうが、父も母も兄も妹も叔父も、誰も怒ってなどいない。
皆が皆、松陰のよき理解者として彼を支え続けている。
たとえば「野山獄読書記」を見ると、ひと月に松陰が読んだ量は大体40冊前後、1年間で約500冊だ。
読書記では、松陰が野山獄に入った安政元(1854)年10月24日から年末までに106冊、安政2年に480冊、同3年505冊、同4年9月までに346冊となっている。
これを兄梅太郎は近郷近在の藏書家を訪ね歩いて手に入れるのである。
或いは江戸に注文して写本を作ってもらうのである。
梅太郎は明治の終わり頃まで存命だったそうで、松陰の望む本を入手し次々に供給するのがひと苦労だったと語っている。
それだけではない。
松陰が野山獄から杉家に戻されたとき、父、兄、叔父の3人が松陰の弟子となった。
松陰は獄で11人を前に時事、政治、人生、教育などを講義していたが、その延長を自宅で始めたのだ。
こうして名著『講孟余話』が生れた。
孟子の講義のほかに、父も兄も日を決めて経済要録、新論、日本外史などを一緒に読んだ。
松陰は家から一歩も出られない身であり、退屈だろう。
何とか皆でいたわってやりたいという愛情である。
母も妹も親族の女性達も「婦人会」を創って松陰を中心に読書会をした。
松陰の家庭は本当にうらやましいほどの家庭だ。
これは父の力だと、玖村氏は書いている。
人物を育てるのは家庭なのである。
人間を身分や富で判断するのではなく、その人の人間としての特性に素直に着目することのできる松陰の人間性を育んだのが、愛情ある家庭だった。
家庭、家風の大切さを松陰の短い30年の人生から学んだ一冊だった。

 

https://music.youtube.com/watch?v=kSrK-iV8slY&list=PLcGkkXtask_evrOJARZrKvK2kxlHQsWch

 

​​​​​​​

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再発信!それが証拠に、彼らは、中国の様な国の工作で、簡単に国内世論を分断化されているじゃないか。

2023年08月27日 10時54分57秒 | 全般

2021/12/25
以下は12月23日に発売された週刊新潮の掉尾を飾る櫻井よしこさんの連載コラムからである。
本論文も彼女が最澄が定義した国宝、至上の国宝である事を証明している。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。

本欄の作成作業について。
日本国民のみならず世界中の人達が知らなければならない本物の論文を発信するについては、先ず、原文をスキャナーする。
スキャンミスの箇所を校正する。縦書き用の数字を横書き様に変える。段落等を横書き用に変える。
そのような作業を経て日本及び世界に発信している。
本章の段落を変える作業をしていた時、私は慟哭を覚えた。
私の中に松陰の魂が在る事を実感したからである。

松陰は本当に、うらやましいほどの家庭に育った。
時代の中で、彼は処刑され、早世したが、実に幸福な人生だった。

私は不幸な家庭に育ったが、松陰と何ら変わらないのである。
私の周囲にいた人達は、「私は永遠の19歳である」との私の言を、何度も耳にしたはずである。
刎頸の友人は、皆、「貴方なら、確かにそうである…」と同意してくれた。

私は19歳の時に家を出奔した。
以来、我が母校の同窓生名簿には「消息不明」と記されていたらしい。
つまり私の人生は19歳のまま止まっていると言っても過言ではないからである。

京都大学を両肩に背負って立つべしと厳命されていた人間が全く違う人生を歩んだ。
或る面で、天と地ほどの、目も眩むような人生だったとも言える。

加地伸行氏が常識的に語られている人手不足について、「違う、人手はいる」、と警鐘を鳴らした一文は21世紀最高の論文の一つである。
私の家庭には、私を京都大学に送って、かの大学を、この両肩に背負って立たせる事が出来ない不幸があった。
だが、私は、その事を全く悔いてもいない。
それどころか、私は、加地伸行氏の論説の正しさを実証しているのである。
実は、大学教育は人生に必須のものでなど全くないのである。
それどころか偏差値5点の人間達を無理やり高校、大学に送りこんでいる現在の教育制度の愚かさ、馬鹿馬鹿しさを彼は指摘した。
土に生きて畑を耕し作物を育てる為に生まれて来た人達を徒にスポイルしてしまう教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
海に生きて終生、魚と海を愛して暮らして行く為に生まれて来た人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
森に生きて終生、木々と暮らして行く為に生まれて来た人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
完璧を求める日本人の習性が生み出す数々の工芸の世界に生きて暮らして行く人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政。
世界の誰も真似のできない旋盤工の技術を継承して生きて暮らして行く人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
彼は実体験の中から指摘した。それは彼が本物の知性だからである。
この稿は後日に続ける。

大学卒業が全てである米国の社会は?
あれは歴史の浅い米国が、実は、チンピラの様な哲学しか持っていないからである。
それが証拠に、彼らは、中国の様な国の工作で、簡単に国内世論を分断化されているじゃないか。
米国の知性なんぞよりも日本の知性の方が遥かに上である事を本欄は証明している。
朝日新聞等やこれに同調している所謂文化人達は、米国の知性の浅はかさを証明しているのである。

日本のデフレを齎した失政の影響で経営者としての人生にも苦境が始まった頃の事である。
仕事で親しかった大企業社員の友人に、彼の上司の接待を依頼された。
私は目一杯の御馳走で応え、二次会へと繰り出した。
二次会の席で、その上司が言った。
「綱渡りの様な人生ですね…」
その通りの人生だったのかもしれないが、接待した当方としては一瞬絶句した。

私は松陰の様な家庭は持てなかったが父母は今でも愛している。
生み育ててくれた事に対して無限の感謝を抱いている。
私は彼らが戦後最高の知性の一人を丈夫に育ててくれた事に対して無条件に感謝している。

私が永遠に愛している閖上に生まれ育った事を心から感謝している。
今でも私に掛け値なしの愛情を注いでくれている小学校、中学校の同級生の皆に心から感謝している。

だから私は、たった一人でも、無名の中小事業経営者としては日本一ではないか、と評された仕事もしてきた。
2010年7月以降は、こうして、たった一人でも、日本と世界を糺す為に、毎日、無償で作業をしている。
「文明のターンテーブル」が私の暮らしであり、私の暮らしが、「文明のターンテーブル」であるのは、私の中に松陰の魂が在るからである。

偉人・松陰を育てた家庭と父
過日山口県を訪れた際、地元の志篤い人から『吉田松陰の思想と生涯』という本を戴いた。
松陰研究者で知られる、今は亡き玖村敏雄氏が山口銀行で行った6回の講演を、同行が行員職員の学びの目的で上梓した。
心に沁み入る一冊だった。
周知のように、松陰が松下村塾で教えたのはわずか2年と3か月間だった。
この間に身分の差を超えて約60名が集った。
松陰の下で学んだ士分出身の主な人物には高杉晋作、久坂玄瑞、萩の乱で首を切られた前原一誠、司法卿(大臣)になった山田顕義、中谷正亮などがいる。
足軽出身者としては池田屋事件で重傷を負い、長州藩邸の門まで帰りついて自刃した吉田栄太郎、禁門の変で戦死した入江衫蔵、初代総理大臣となった伊藤博文、日露戦争当時の参謀総長、山縣有朋、また品川弥二郎、野村靖も維新の大業に尽した。 
士分でも足軽でもない塾生に魚屋の子で画家の松浦松洞がいる。
松陰が座っている肖像があるが、これは松洞が描いたものだという。
ちなみに松下村塾の最初の塾生は医者の子の増野徳民だった。
次の塾生は杉家(松陰は養子として吉田家に入ったが、ずっと生家の杉家で暮らしていた)の隣家の吉田栄太郎で、彼のことは前述した。
三番目の入塾者がこれまた前述の松浦松洞だ。
玖村氏は、松下村塾の最初の塾生の3人が医者、足軽、魚屋の子で、士分ではなく皆平民であったことの意味を説く。
当時の日本、毛利藩の実情を見れば特筆すべきことなのだ。
江戸時代の日本には士農工商の身分制度があり、士の子弟は藩校で学び、平民の子は寺子屋で学んだ。
毛利藩にも藩校として萩に明倫館があった。
しかし、松陰は身分の上下など気にせず、全ての人を一人の人間として見た。
ここで想い出すのが明治新政府誕生と同時に発布された五箇条の御誓文である。
「広く会議を興し、万機公論に決すべし。上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし。」
 まさに維新を貫いた思想がここにある。
約190年前に生まれた松陰は明治維新の10年前に処刑されたが、彼は時代を先取りして見事に実践していたのだ。
なぜ学ぶのか 
松下村塾で学んだ約60名の中から歴史に名を残した人々が20数名もいる。
松陰の住んでいた村に特別に才能ある人々が集中して生まれていたということか。
そうではないだろう。
玖村氏は日本のどの村にも人材はいて、よき師に巡り合うことによって人材はその持てる天分を磨き、一廉(ひとかど)の人物になれるのだと言っている。
つまり、松陰はよき師であったということだ。
では、なぜ松陰は人を育てることができたのか。
それは一にも二にも松陰の育った家庭にあったと玖村氏は書いている。
松陰は幕府がアメリカと和親条約を結んだときペリーの艦でアメリカに密航し学びたいと念じた。
下田港近くで機を窺い、小舟で漕ぎ出しついにペリーの艦によじ上ったが願いは受け入れられなかった。
松陰は密航を企て国禁を犯したとして自ら名乗り出た。
結果として国許に送られ父杉百合之助に引き渡された。
安政元(1854)年10月、松陰数え年で25歳の時のことである。
ちなみに父百合之助は「百人中関頭兼盗賊改方」、つまり萩の警察署長だった。
事情を端折って言えば松陰は野山獄に入れられる。
そこには士族11人がすでに入っていた。
獄中で松陰は本を読んだ。
「感激すると涙をふるって読む、腹が立つときにはまなじりをあげ激越な調子で読む、嬉しいときは声をはずませ膝を打って読」んだ。
警察署長の坊ちゃんが獄にあって少しもめげず、読書に没頭し楽しんでいる。
11人も感化され獄中座談会が始まった。
皆が問うた。
獄外に出ることも望めないのに、なぜ学ぶのか、と。
松陰は答えた。
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」というではないか、と。
人間としての道がわかればそれでよいではないか、と。
一日この世にいるのなら、一日いた甲斐のあることをしたらよい。
たとえここから一生出られないとしても、人間の道に背いて死ぬか、人間の人間たる道を踏んで死ぬか、覚悟次第でどちらにもなれる、と。
その内に野山獄の司獄、つまり刑務所長も松陰の人柄に打たれて、夜は灯をつけてはいけないとされていた規則を改め、夜も灯をともし、筆も墨も紙も自由に使わせた。
そして或る日、彼もまた松陰の弟子になりたいと申し入れた。
獄中生活をこのように明るく積極的に変えることができたのには松陰の人柄がある。
どんな時にも自分本来の性格を貫き、周囲の詰まらない状況でへこまされたりはしない自立性がある。
立派である。
しかし、松陰のそのような在り方を支えた力を見逃してはならない。
松陰を支えたのは家庭の力、家風であると玖村氏は説いている。
うらやましいほどの家庭 
松陰の父は前述したように警察署長だ。
それがその息子は国禁を犯してアメリカ密航を企てた。
罰せられて帰り、野山獄に入れられた。
普通なら怒ったりするだろうが、父も母も兄も妹も叔父も、誰も怒ってなどいない。
皆が皆、松陰のよき理解者として彼を支え続けている。
たとえば「野山獄読書記」を見ると、ひと月に松陰が読んだ量は大体40冊前後、1年間で約500冊だ。
読書記では、松陰が野山獄に入った安政元(1854)年10月24日から年末までに106冊、安政2年に480冊、同3年505冊、同4年9月までに346冊となっている。
これを兄梅太郎は近郷近在の藏書家を訪ね歩いて手に入れるのである。
或いは江戸に注文して写本を作ってもらうのである。
梅太郎は明治の終わり頃まで存命だったそうで、松陰の望む本を入手し次々に供給するのがひと苦労だったと語っている。
それだけではない。
松陰が野山獄から杉家に戻されたとき、父、兄、叔父の3人が松陰の弟子となった。
松陰は獄で11人を前に時事、政治、人生、教育などを講義していたが、その延長を自宅で始めたのだ。
こうして名著『講孟余話』が生れた。
孟子の講義のほかに、父も兄も日を決めて経済要録、新論、日本外史などを一緒に読んだ。
松陰は家から一歩も出られない身であり、退屈だろう。
何とか皆でいたわってやりたいという愛情である。
母も妹も親族の女性達も「婦人会」を創って松陰を中心に読書会をした。
松陰の家庭は本当にうらやましいほどの家庭だ。
これは父の力だと、玖村氏は書いている。
人物を育てるのは家庭なのである。
人間を身分や富で判断するのではなく、その人の人間としての特性に素直に着目することのできる松陰の人間性を育んだのが、愛情ある家庭だった。
家庭、家風の大切さを松陰の短い30年の人生から学んだ一冊だった。

https://music.youtube.com/watch?v=kSrK-iV8slY&list=PLcGkkXtask_evrOJARZrKvK2kxlHQsWch

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

This is a country that does not know what it is doing.

2023年08月27日 10時45分41秒 | 全般

Sankei News @Sankei_news
Fukushima mayor: "A country that doesn't care about itself..." 
Unwanted calls in Chinese at City Hall
Mr. Kibata explained the reality of the nuisance calls: "There have been about 200 calls in two days at City Hall. It seems that elementary and junior high schools are also receiving quite a few calls," he explained.
On March 26, Fukushima City Mayor Hiroshi Kibata posted on his Facebook page that after the discharge of treated water from TEPCO's Fukushima No. 1 nuclear power plant into the ocean, he received a series of unwanted phone calls in Chinese at the city hall and other locations.
He said, "This is a country that does not know what it is doing. In addition to the damage caused by the nuclear accident, Fukushima is also burdened with dealing with the aftermath," he wrote. 
Mr. Kibata commented on the reality of nuisance phone calls, "There were about 200 calls in two days at the city hall. Elementary and junior high schools are receiving quite a few calls. There are also many restaurants, hotels, and inns, with many receiving more than 100 calls from one business alone. Many of them originated from +86 (China) and were in Chinese.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする