文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

Did you also insist that they were not in a position to criticize Japan

2024年04月01日 23時04分47秒 | 全般

2021/3/28
The following is from a feature article in today's WiLL, a monthly magazine titled "The Comfort Women Issue: Germany's ulterior motive in beating Japan." The article features a conversation between journalist Yoshio Kisa and information strategy analyst Tetsuhide Yamaoka.
As I mention every month, the monthly magazines WiLL, Hanada, and Sound Argument are full of genuine articles that are must-reads for the Japanese people and people worldwide.
This article proves that point beautifully.
When I was still a subscriber to the Japanese edition of Newsweek, I read an unbelievable article about a German poll showing that about half of Germans have an anti-Japanese ideology.
Since then, I have had the utmost contempt for the so-called cultural figures who have been saying things like "learn from Germany," among whom I have seen Takeshi Umehara and Masakazu Yamazaki firsthand in the pages of a newspaper.
Yoshio Kisa and Tetsuhide Yamaoka, also national treasures as defined by Saicho, have proven perfectly that my criticism of Germany was 100% correct.
The Japanese people had to head to the nearest bookstore to subscribe.
I will let the rest of the world know as best I can.

No Historical View of the Nuremberg Trials
Yamaoka
I had the opportunity to ask a foreign ministry official directly what the Japanese foreign ministry's response was to the recent installation of the comfort women statue in Berlin.
The answer was, "We have said everything that needs to be said.
I then asked him, "Did you also insist that they were not in a position to criticize Japan for the severe and brutal forced prostitution that took place in Germany during the war? The Foreign Ministry responded, "Yes, we said that, and they knew it."
I found out that at the level of the head of the German ward council they are aware of such historical facts.
Kisa
But our Foreign Ministry's argument is still weak.
Concerning Professor Ramseyer's earlier article, the Ministry of Foreign Affairs should take a firm stance and present its view based on solid evidence.
The Japanese government's research could be more convincing when it comes to evidence.
In the U.S., the Clinton and Bush administrations spent eight years and over 3 billion yen to conduct a thorough re-investigation of Germany and Japan's war crimes.
The investigation results were compiled in April 2007 as the "Final Report to the U.S. Congress of the Interagency Working Group (IWG) on Nazi War Crimes and the Records of the Japanese Imperial Government.
However, the World Federation for the Protection of the Historical Facts of the Anti-Japanese War, an anti-Japanese Chinese organization in the U.S., demanded that comfort women be included in the report; it would indeed reveal facts inconvenient to Japan.
So, the U.S. embarked on a re-investigation and found not a single U.S. government or military document that supported the claims of war crimes and "systematic enslavement of women" related to Japan's comfort women.
It is the reason why the preface of the investigation report says, "We have disappointed you" and "We regret that we have reached these results."
The Ministry of Foreign Affairs should use the results of this kind of third-party verification.
Yamaoka
After the war, the Ministry of Foreign Affairs was, in some respects, used as a translation agency by GHQ.
In other words, it was an organization that promoted the postwar regime.
Asahi and NHK are similar organizations.
When you talk to the foreign affairs bureaucrats individually, they show willingness. However, the ministry seems pulled by the organizational climate and responds to diplomacy from a masochistic view of history.
Kisa
In that sense, people like Mabuchi Mutsuo, the former ambassador to Ukraine, are rarer.
Yamaoka
To change the Ministry of Foreign Affairs culture, we need politicians' leadership, but unfortunately, it is also hard to find such politicians.
Kisa
As soon as possible, Japan must get rid of the Tokyo Trials' historical view, which judges Japan unilaterally from the standpoint of the victorious nation despite being Japanese.
There is no such thing as the history of the Nuremberg Trials in Germany.
When I interviewed German historians, they said the Nuremberg Trials have become taboo and forgotten.
They established their constitution (fundamental law) and took responsibility for their children's education.
Hitler himself came from rural Austria to become the head of Germany.
Moreover, due to family registration, Hitler's surname does not exist anywhere else in Germany.
From the German point of view, he was a perfect scapegoat.
Yamaoka
In the case of Japan, the emperor could not be tried as a war criminal.
Therefore, GHQ planned to use Hideki Tojo and others as scapegoats, but it was too much to compare them with Hitler.
In the end, it ended half-heartedly.
Kisa
In short, the emperor was taken hostage by GHQ.
To somehow maintain the national identity (the imperial system), the government leaders of the time had no choice but to accept the GHQ Constitution in tears.
It was unprecedented for a constitution to be enacted by an occupying power.
Yamaoka
It was a complete violation of international law.
Kisa
In this complicated situation after the war, people were educated unilaterally that Japan was evil, claimed that the emperor, the ringleader of the war, was a war criminal, and extreme people who were ashamed of being Japanese came to appear as "anti-Japanese.
But think about it.
Many of them grew up in Japan, protected by the capitalist system, and now earn high salaries as journalists and lawyers.
Shouldn't that deceitfulness be denounced?
Yamaoka
Mr. Kisa's new book will be an opportunity to learn about this.

 


2024/4/1 in Kyoto

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日本を限りなく貶めた慰安婦問題の正犯は朝日新聞だけど、もう一つ共謀共同正犯がいて、それが外務省だ。

2024年04月01日 22時42分33秒 | 全般

2020年03月25日
以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之と世界有数の中国通である宮崎正弘が対談した下記の素晴らしい本からである。
この本は日本国民が今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない本である。
世界の人達にも必読の書であるが、それは私が出来るだけ伝える。
慰安婦問題で朝日新聞とタッグを組んだ外務省
宮崎 
外務省の無能ぶりをよく表しているのは、慰安婦の問題ね。
慰安婦の問題でも外務省の無能ぶりは想像を絶します。
高山 
いつも不思議に思うんだけど、慰安婦の問題はどこの国の軍隊でもある問題だ。
むしろ慰安婦がいない軍隊は、強姦して歩く、これは米軍でもどこでもやっている。
そっちの方がむしろ大きな問題だ。 
米国は「1982年アメラジアン法」をつくっている。
米兵がアジア各国で強姦して生ませた混血児(Ameriasian)が余りに多い。
父なし児を救済するため米市民権を付与するという趣旨だ。
ベトナム、カンボジア、タイ、フィリピンにごまんといた。 
実は日本にも数千人いるが、アメリカ国務省が日本に「米兵の強姦償い法です」というのが厭で、日本の混血児はこの法の適用を外されている。
そのいきさつを日本の新聞は書いていない。 
米兵以外にも有名なのは韓国兵のベトナムでの大量強姦だ。
いわゆるライダイハン。
一般女子を強姦する例は戦後の朝鮮人、ロシア人ときりがないくらいある。 
それは一切不問で、日本の慰安婦だけが許せない犯罪のように言う。言っていておかしいなと思ったらしい。
自分たちもやったように、つまり家に押し入って婦女子を引きずり出し、拉致して強姦して……という前段がないと不都合ではないか。 
朝日新聞はそこを衝いて吉田清治の作り話、済州島の慰安婦強制連行という形にした。
これなら米兵の発作的な強姦より悪い。
日本軍は組織だって拉致し、強姦した悪い奴らだなあということになる。 
いずれにせよ、日本の慰安婦だけ問題にしていこうという意図があるから、これは明確な日本を標的にした差別論争なんだ。
宮崎 
70年以上前の話を、今も問題にする理由がそこにある。
高山 
それを問題にするんだったら、各国軍の強姦をまず処理しろよ。
宮崎 
慰安婦問題は、また朝日新聞が犯人なんだけど、昭和57(1982)年に吉田清治という嘘つきが、朝日新聞に慰安婦狩りをしたと嘘の告白を書いた。 
さらに朝日は平成4(1992)年、慰安婦施設に軍の関与があったと報じた。
これは衛生問題とか良い意味での関与だったのに、強姦より悪い強制連行があったかのような印象を与えながら、この軍の関与を報じていた。 
そこから発展したのが、平成5(1993)年のいわゆる「河野談話」。
この時の問題は、政府は慰安婦問題を徹底的に調べて、強制連行の事実はなかったという内容のものであったにもかかわらず、河野洋平官房長官は発言の中で、強制連行はあったと発言した。
高山 
その河野がいまもってその発言を撤回しない。
宮崎 
河野洋平って、不思議な人だよね。
高山 
親に売られたりして、不本意に慰安婦になった人はいる。
その人たちへ同情はするとして、それを軍が関与したかのようにいう強制連行とは違う。
そこを曖昧にして、強制連行があったと言った時、韓国人がどう思うかとかでなく、日本軍あるいは日本人を貶めて何が嬉しいのか。
度し難い偽善者である以上に日本人のツラ汚しだ。
宮崎 
こじれにこじれた「河野談話」について、平成26(2014)年「河野談話」作成時の官房副長官である石原信雄氏が国会で、日本側の資料では女性を強制的に従事させたという証拠は見つからなかったということを明らかにしたうえで、韓国の元慰安婦からヒアリングを行ったけれども「証言の事実関係を確認するための裏付け調査というものは行われていない」と証言した。 
この証言の内容はすでによく知られていたことだけれども、それを談話の作成に関わった官房副長官が国会の場で証言したことの意味は大きい。
朝日新聞の記事は嘘だということが国会の場で明らかになったことになる。
高山 
この時、当時、日本維新の会の山田宏議員の活動が素晴らしかった。
自民党は自民党内閣の官房長官を務め、後に党首まで務めた河野を国会に呼び出すのに難色を示す。 
そうした自民党の態度の前にうまく駆け引きして、河野洋平ではなかったが、石原官房副長官の参考人招致に成功したんだ。
それで山田氏は平成28(2016)年の参議院選挙では、古巣の次世代の党や日本のこころを大切にする党からではなくて、自民党から出て、当選した。
だとすれば河野洋平をぜひとも国会に呼び出してほしいね。
宮崎 
ともあれ、石原官房副長官の証言による雰囲気の盛り上がりで、平成26(2014)年、8月5日と6日にわたって、朝日新聞が吉田清治に関連した16本の記事を取り消した。
これって、戦後ジャーナリズムを揺るがした大事件ですよ。
高山 
石原信雄宣房副長官の証言で、次は朝日新聞が国会に召喚されると読んで、先手を打って、吉田清治の記事を取り消したんだと思うね。 
宮崎
結局、朝日新聞は昭和57(1982)年、吉田清治の嘘の記事を載せて32年間取り消さなかったわけだ。  
高山 
三流新聞もいいところ。
日本の受けた被害は甚大だ。
国会は廃刊勧告くらい出せばよかった。  
宮崎 
この本は、朝日新聞をたたくのが主目的ではないのですから、朝日叩きはこの辺にして、問題は外務省。  
高山 
そうだよ。
外務省は朝日新聞の嘘が世界を駆け巡って日本が貶められている時、何をした?何もしなかったじゃない。   
それどころか、平成8(1996)年、朝日新聞の嘘が元になって、慰安婦を性奴隷だと決めつけた、いわゆるクマラスワミ報告が国連人権委員会に出されて採択された時、反論文書を一度は用意しながら提出を取り下げた。
何でそんなことするの? 
吉田清治の記事が載ったのは昭和57(1982)年だけれど、平成4(1992)年には秦郁彦氏の研究で嘘だということがはっきりわかった。
にもかかわらず朝日新聞が嘘だったとして取り下げるまでの32年間、外務省は慰安婦問題の誤った情報を糺すため何の行動も取らなかった。 
これは杉原誠四郎氏が言っていましたが、日本を限りなく貶めた慰安婦問題の正犯は朝日新聞だけど、もう一つ共謀共同正犯がいて、それが外務省だ。
外務省が正しい情報をわかった瞬間にその正しい情報を世界に発信していたら、慰安婦問題はいまのような問題にはなっていなかったよ。外務省の罪は重い。
宮崎 
正しい歴史認識を広めなければならないという外務省の役割から見れば、南京事件でもひどかった。
あれは平成9(1997)年だっけ。
日本を誹謗してアイリス・チャンという中国系アメリカ人が『ザ・レイプ・オブ・ナンキンー第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』という本を出版した。
中身は指摘するまでもなくデタラメ。 
この時、日本国内でも「南京事件あった派」がまだ力を持っていて、南京事件の全面否定はできない雰囲気がまだ少し残っていた。
だけどアメリカのチャンの言うようなことは到底ありえないということは常識になっていた。 
そこで平成10(1998)年、斎藤邦彦駐米大使がアメリカのテレビでチャンと対決した。
しかし斎藤大使は、日本が謝罪したことを主張するばかりで、チャンの書いていることの内容に対する反論は一言もしなかった。
これでは南京事件がチャンの言うとおりに事件としてあったことになってしまう。 
南京に新築された南京大虐殺記念館に行って驚かされたのは、中庭に金ピカのアイリス・チャンの立像が建っていたことです。

 

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Se oli Shina-kansalle tyypillinen julma teko.

2024年04月01日 09時27分06秒 | 全般

4/13/2019
Seuraava on Masayuki Takayaman ylistetystä kolumnista "Henken Jizai", joka ilmestyi eilisessä viikoittaisessa Shinchossa.
Masayuki Takayama on sodanjälkeisen maailman ainoa toimittaja.
Hän on erilainen kuin ne pahat ulkomaalaiset, jotka kutsuvat itseään johtavien länsimaisten lehtien kirjeenvaihtajiksi.
Tämän viikon numerossa lukijat ympäri maailmaa ihastelevat hänen artikkeliaan ja tietävät, että olin oikeassa hänen suhteensa.
Maailma näkee, että Asahi Shimbun, jota olette oppineet pitämään Japanin johtavana sanomalehtenä, on lehti, joka tarttuu tilaisuuteen kommentoida Japania tai jopa iloisesti heikentää sitä.
Tulette oppimaan, että Asahi Shimbun on ryhmä toimittajia, joilla on itsekäs historiallinen näkemys ja Japanin vastainen ideologia.
Miltä sinusta tuntuisi, jos he olisivat maasi edustava sanomalehti?
Olisit helpottunut, kun tietäisit, että maasi edustava sanomalehti ei joistakin ongelmista huolimatta ole Asahi Shimbunin kaltainen petturimaisten työntekijöiden organisaatio.

Hänen Majesteettinsa kuninkaan piilotappelijat
Tammikuun lopulla 1942, kun Singapore oli kaatumassa, Asahi Shimbun julkaisi paikallista malesialaista yhteisöä käsittelevän pyöreän pöydän keskustelun, jossa oli mukana Senda Shokain Murotaro Senda ja muita huolestuneita ihmisiä. 
Kiinalaiset olivat paenneet Malaijalle oopiumisodasta lähtien ja käyttäneet hyväkseen valkoisten hallitsijoiden mahdollisuutta hallita malaijilaisia työläisiä ja myydä heille oopiumia. 
Senda esittelee, että Showa-kauden alkaessa oli "noin 300 koulua" kiinalaislapsille.
Tuohon aikaan Japanin ja Kiinan väliset jännitteet olivat kärjistyneet, ja kiinalaiset alkoivat hyökätä japanilaisia yrityksiä ja japanilaisia asukkaita vastaan Malaijalla. 
Yksi tällainen tapaus oli Yutaka Tanin, Malesian tiikerin, tapaus. 
Hänen ollessaan takaisin Japanissa joukko kiinalaisia hyökkäsi Terengganun kaupunkiin, raiskasi hänen sisarensa, katkaisi tämän pään ja vei sen mukanaan.
Se oli shiinalaisille tyypillinen raakalaismainen teko. 
Palattuaan Japanista Yutaka lähti siskonsa tappaneen ryhmän perään ja hyökkäsi myös oopiumin salakuljettajan kimppuun, mistä hän sai kiinalaisilta lempinimen "Harimao".
Shina-kansa uskoi brittien voittoon ja aloitti sabotaasi- ja terrori-iskut Japanin armeijaa vastaan. 
Pyöreän pöydän keskustelussa kävi ilmi, että kiinalaisella terroristiryhmällä oli järjestö, joka oli "Singapore Chinese China Relief General Association", jota johti Tan Kah Kee, joka oli ollut yhteydessä Tšiang Kai-shekiin. Tästä organisaatiosta tuli koko Etelämeren alueen keskeinen Japanin vastainen järjestö. 
Tan Kah Keellä oli muuten yhteyksiä myös Mao Zedongiin. 
Sodan jälkeen, kun kommunistihallitus muodostettiin, hän jätti Malaijan ja palasi kotikaupunkiinsa Fujianin maakuntaan.
Se oli typerä valinta. 
Japanilaisten oli kiinnitettävä huomiota näiden kiinalaisten sissien läsnäoloon taistellessaan brittiläisiä ja intialaisia joukkoja vastaan. 
Niinpä he etenivät keskimäärin 20 kilometriä päivässä.
Japanilaiset olivat vahvoja. 
Vaikka sitä ei mainita keskustelussa, Asahi-sanomalehden sotilasreportteri Torakichi Sakai kertoi brittiarmeijan Singaporessa tuolloin järjestämästä "vain kiinalaisten taistelujoukosta". 
Tämä yksikkö oli everstiluutnantti John Dalleyn komennossa, ja sen vahvuus oli 4 000 miestä, mikä oli reilusti prikaatin kokoinen. 
Sotilaiden joukossa oli Changin vankilassa vangittuja kommunistisissejä. 
Heille oli ominaista, että heillä ei ollut virallisia sotilasunivormuja. 
Heidän ainoa tuntomerkkinsä oli keltainen huivi kaulassa. 
Heitä kutsuttiin komentajansa mukaan nimellä "Dalforce" tai "Dalley's Desperadoes". 
Kun japanilaiset joukot ryhtyivät kaupunkisotaan, he naamioituivat hyviksi kansalaisiksi ja etsivät tilaisuutta hyökätä, ja kun he kohtasivat heidät, he hylkäsivät aseensa ja pakenivat siviiliväestön sekaan. 
Tätä siviilivaatteissa tapahtuvaa taistelua pidettiin kansainvälisen oikeuden vastaisena sissisodankäyntinä. 
Jos he jäivät kiinni, kansainvälinen oikeus sallii enimmäisrangaistuksen. 
Singaporen maihinnousun aikana osa Dalforce-joukoista otettiin kiinni, ja heidän läsnäolonsa paljastui.
Nykyään singaporelaiset kiinalaiset syyttävät japanilaisia sotilaita merentakaisten kiinalaisten puhdistamisesta, mutta kiistatta juuri he olivat vastuussa puhdistamisesta. 
Alor Starissa, joka oli ensimmäinen Malesian sotaretkellä valloitettu tärkeä kaupunki, Kedahin hallitus kunnosti hiljattain japanilaisten sotilaiden sankaruuden kunniaksi pystytetyn muistomerkin ja järjesti vilkkaan paljastustilaisuuden.
Vastauksena paikalliset kiinalaiset asukkaat alkoivat nostaa meteliä siitä, että Japanin armeija oli tappanut kiinalaisia asukkaita ja miksi hyökkäävä armeija oli sankari. 
Osavaltion hallitus oli tyrmistynyt ja pyysi anteeksi", kertoi Mayumi Mamoru Asahi Shimbun -lehdestä riemuiten. 
Sodan aikana shiinalaiset taistelivat brittiarmeijan rinnalla japanilaisia vastaan.
He tekivät myös halveksuttavia terroritekoja ja lähettivät jopa osaston sotilaita vankilan univormuissa. 
Kuinka hän kehtaa sanoa, että oli epäoikeudenmukaista, että heidät tapettiin? 
Samaan aikaan Mamorun vanhempi kirjeenvaihtaja Sakai raportoi 30. joulukuuta 1941, että maakunnan malaijit ottivat japanilaiset joukot avosylin vastaan. 
Hän tapasi myös regentti M. Dewan, osavaltion kuninkaan, ja sanoi: "Britit ovat katsoneet meitä ylhäältäpäin ja sortaneet meitä. Nyt kansamme aamunkoitto on koittanut", hän sanoi ja ilmaisi kiitollisuutensa japanilaisten joukkojen vapauttamisesta. 
He eivät edes lue vanhempiensa artikkeleita, vaan turvautuvat julmien ja valehtelevien kiinalaisten sanoihin. 
Asahi Shimbun ei myy hyvin. 
Ehkä se on Mayumin vika.

2024/3/27 in Tokyo

 

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Det var en brutal handling typisk for Shina-folket.

2024年04月01日 09時26分36秒 | 全般

4/13/2019
Det følgende er hentet fra Masayuki Takayamas anerkjente spalte "Henken Jizai", som sto på trykk i gårsdagens ukeavis Shincho.
Masayuki Takayama er den eneste journalisten i etterkrigstidens verden.
Han er en verden til forskjell fra de onde utlendingene som kaller seg korrespondenter for de ledende vestlige magasinene.
I denne ukens utgave vil lesere over hele verden beundre artikkelen hans og vite at jeg hadde rett om ham.
Verden vil se at Asahi Shimbun, som du har lært å tenke på som Japans ledende avis, er en avis som griper sjansen til å kommentere eller til og med med glede undergrave Japan.
Du vil lære at Asahi Shimbun er en gruppe journalister med et selvopptatt historiesyn og en antijapansk ideologi.
Hvordan ville du følt deg hvis de var ditt lands representative avis?
Du ville vært lettet over å vite at ditt lands representative avis, til tross for noen problemer, ikke er en organisasjon av forræderske ansatte som Asahi Shimbun.

Hans Majestet Kongens skjulte kombattanter
I slutten av januar 1942, da Singapore var i ferd med å falle, publiserte Asahi Shimbun en rundbordssamtale om det malaysiske lokalsamfunnet med Murotaro Senda fra Senda Shokai og andre bekymrede personer. 
Kinesere hadde flyktet til Malaya siden opiumskrigen og utnyttet de hvite herskerne til å kontrollere malayiske arbeidere og selge opium til dem. 
Senda forteller at det fantes "rundt 300 skoler" for kinesiske barn da Showa-tiden begynte.
På den tiden hadde spenningen mellom Japan og Kina tilspisset seg, og kineserne begynte å angripe japanske selskaper og japanske innbyggere i Malaya. 
En av disse hendelsene var den malaysiske tigeren Yutaka Tani. 
Mens han var tilbake i Japan, angrep en gruppe kinesere byen Terengganu, voldtok søsteren hans, skar hodet av henne og bar det bort.
Det var en brutal handling som var typisk for shina-folket. 
Etter hjemkomsten fra Japan gikk Yutaka etter gruppen som hadde drept søsteren hans, og angrep også en opiumsmugler, noe som ga ham kallenavnet "Harimao" fra kineserne.
Shina-folket trodde på britenes seier og iverksatte sabotasje- og terrorangrep mot den japanske hæren. 
Rundbordssamtalen avslørte at den kinesiske terrorgruppen hadde en organisasjon som het "Singapore Chinese China Relief General Association", ledet av Tan Kah Kee, som hadde vært i kontakt med Chiang Kai-shek. Denne organisasjonen ble den sentrale anti-japanske organisasjonen for hele Sørishavet. 
Tan Kah Kee hadde for øvrig også kontakt med Mao Zedong. 
Etter krigen, da kommunistregjeringen ble dannet, forlot han Malaya og vendte tilbake til hjembyen i Fujian-provinsen.
Det var et dumt valg. 
Japanerne måtte ta hensyn til tilstedeværelsen av denne kinesiske geriljaen mens de kjempet mot de britiske og indiske styrkene. 
I gjennomsnitt rykket de frem 20 kilometer om dagen.
Japanerne var sterke. 
Selv om det ikke ble nevnt i diskusjonen, rapporterte Torakichi Sakai, en militærreporter i avisen Asahi, om en "kinesisk kampgruppe" organisert av den britiske hæren i Singapore på den tiden. 
Denne enheten var under kommando av oberstløytnant John Dalley og hadde en styrke på 4000 mann, noe som var godt innenfor størrelsen på en brigade. 
Blant soldatene var det kommunistiske geriljasoldater som satt fengslet i Changi-fengselet. 
De var kjennetegnet ved at de ikke bar offisielle militæruniformer. 
Deres eneste kjennetegn var et gult bandana rundt halsen. 
De ble kalt "Dalforce" eller "Dalleys desperadoer" etter sjefen sin. 
Når de japanske styrkene engasjerte seg i bykrigføring, forkledde de seg som gode borgere og lette etter en mulighet til å angripe, og når de ble konfrontert, la de fra seg våpnene og flyktet inn i sivilbefolkningen. 
Denne typen kamp i sivile klær ble ansett som geriljakrigføring i strid med folkeretten. 
Hvis de blir tatt, gir folkeretten mulighet for maksimal straff. 
Under invasjonen i Singapore ble noen av dalstyrkene tatt til fange, og deres tilstedeværelse ble avslørt.
I dag beskylder singaporeanske kinesere det japanske militæret for å ha renset ut utenlandske kinesere, men det var utvilsomt de som sto for utrenskningen. 
I Alor Star, den første viktige byen som ble erobret under felttoget i Malaysia, restaurerte myndighetene i Kedah nylig en bauta til ære for de japanske soldatenes heltemot og holdt en livlig avdukingsseremoni.
Som svar på dette begynte lokale kinesere å lage oppstyr rundt det faktum at den japanske hæren hadde drept kinesiske innbyggere, og hvorfor invasjonshæren var en helt. 
Delstatsregjeringen ble lamslått og ba om unnskyldning", rapporterte Mayumi Mamoru i Asahi Shimbun fornøyd. 
Under krigen kjempet shina-folket sammen med den britiske hæren mot japanerne.
De utførte også avskyelige terrorhandlinger og sendte til og med ut en avdeling soldater i fengselsuniformer. 
Hvordan våger han å si at det var urettferdig at de ble drept? 
I mellomtiden rapporterte korrespondent Sakai, en av Mamorus seniorkorrespondenter, den 30. desember 1941 at malayene i provinsen tok imot de japanske troppene med åpne armer. 
Han møtte også regent M. Dewa, delstatens konge, og sa: "Britene har sett ned på oss og undertrykt oss. Nå har vårt folks daggry kommet", sa han og uttrykte sin takknemlighet for de japanske troppenes frigjøring. 
De leser ikke engang artiklene til sine eldre, og faller tilbake på ordene til de brutale og løgnaktige kineserne. 
Asahi Shimbun selger dårlig. 
Kanskje det er Mayumis feil.

2024/3/27 in Tokyo

 

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Det var en brutal handling typisk för Shina-folket.

2024年04月01日 09時23分25秒 | 全般

4/13/2019
Följande är från Masayuki Takayamas hyllade kolumn "Henken Jizai", som publicerades i gårdagens veckotidning Shincho.
Masayuki Takayama är den enda journalisten i efterkrigstidens värld.
Han är en värld skild från de onda utlänningar som kallar sig korrespondenter för de ledande västerländska tidskrifterna.
I veckans nummer kommer läsare över hela världen att förundras över hans artikel och veta att jag hade rätt om honom.
Världen kommer att se att Asahi Shimbun, som ni har kommit att betrakta som Japans ledande tidning, är en tidning som tar varje chans att kommentera eller till och med glatt underminera Japan.
Du kommer att få veta att Asahi Shimbun är en grupp reportrar med en egennyttig historisk syn och en antijapansk ideologi.
Hur skulle du känna dig om de var ditt lands representativa tidning?
Du skulle bli lättad över att veta att ditt lands representativa tidning, trots vissa problem, inte är en organisation av förrädiska anställda som Asahi Shimbun.

Hans Majestät Konungens dolda kombattanter
I slutet av januari 1942, när Singapore var på väg att falla, publicerade Asahi Shimbun ett rundabordssamtal om det lokala malaysiska samhället med Murotaro Senda från Senda Shokai och andra berörda personer. 
Kineser hade flytt till Malaya sedan opiumkriget och utnyttjat de vita härskarna för att kontrollera malajiska arbetare och sälja opium till dem. 
Senda berättar att det fanns "omkring 300 skolor" för kinesiska barn när Showa-eran inleddes.
Vid den tiden hade spänningarna mellan Japan och Kina tillspetsats och kineserna började attackera japanska företag och japanska invånare i Malaya. 
En sådan incident var den om Yutaka Tani, den malaysiska tigern. 
När han var tillbaka i Japan anföll en grupp kineser staden Terengganu, våldtog hans syster, högg huvudet av henne och bar bort det.
Det var en brutal handling som var typisk för Shina-folket. 
Efter att ha återvänt från Japan gav sig Yutaka efter gruppen som hade dödat hans syster och attackerade även en opiumsmugglare, vilket gav honom smeknamnet "Harimao" från kineserna.
Shina-folket trodde på den brittiska segern och inledde sabotage- och terrorattacker mot den japanska armén. 
Rundabordssamtalet avslöjade att den kinesiska terroristgruppen hade en organisation som hette "Singapore Chinese China Relief General Association" och leddes av Tan Kah Kee, som hade varit i kontakt med Chiang Kai-shek. Denna organisation blev den centrala antijapanska organisationen för hela Söderhavet. 
Tan Kah Kee hade för övrigt också kontakter med Mao Zedong. 
Efter kriget, när den kommunistiska regeringen hade bildats, övergav han Malaya och återvände till sin hemstad i Fujian-provinsen.
Det var ett dumt val. 
Japanerna var tvungna att ta hänsyn till närvaron av dessa kinesiska gerillasoldater när de stred mot de brittiska och indiska styrkorna. 
Så i genomsnitt avancerade de 20 kilometer om dagen.
Japanerna var starka. 
Även om det inte nämndes i diskussionen rapporterade Torakichi Sakai, en militärreporter för tidningen Asahi, om en "enbart kinesisk stridsgrupp" som organiserats av den brittiska armén i Singapore vid den tiden. 
Denna enhet stod under befäl av överstelöjtnant John Dalley och hade en styrka på 4.000 man, vilket var väl i klass med en brigad. 
Bland soldaterna fanns kommunistiska gerillasoldater som satt fängslade i Changi-fängelset. 
De kännetecknades av att de inte bar officiella militäruniformer. 
Deras enda kännetecken var en gul bandana runt halsen. 
De kallades "Dalforce" eller "Dalleys desperados" efter sin befälhavare. 
När de japanska styrkorna deltog i krigföring i städer förklädde de sig till goda medborgare och letade efter ett tillfälle att anfalla, och när de konfronterades övergav de sina vapen och flydde in bland civilbefolkningen. 
Denna strid i civila kläder betraktades som gerillakrigföring i strid med internationell rätt. 
Om man blir påkommen kan man enligt internationell rätt dömas till maximalt straff. 
Under invasionen av Singapore tillfångatogs en del av Dalforce och deras närvaro avslöjades.
Nuförtiden anklagar Singapores kineser den japanska militären för att ha rensat ut utomeuropeiska kineser, men det var utan tvekan de som var ansvariga för utrensningen. 
I Alor Star, den första viktiga stad som erövrades under fälttåget i Malaysia, restaurerade Kedahs regering nyligen en kenotaf som hedrade de japanska soldaternas hjältemod och höll en livlig avtäckningsceremoni.
Som svar på detta började lokala kinesiska invånare att göra väsen av sig över det faktum att den japanska armén hade dödat kinesiska invånare och varför den invaderande armén var en hjälte. 
Delstatsregeringen blev förbluffad och bad om ursäkt", rapporterade Mayumi Mamoru från Asahi Shimbun med glädje. 
Under kriget stred shinafolket tillsammans med den brittiska armén mot japanerna.
De utförde också avskyvärda terroristhandlingar och skickade till och med ut en avdelning soldater i fängelseuniformer. 
Hur vågar han säga att det var orättvist att de dödades? 
Under tiden rapporterade korrespondent Sakai, en av Mamorus äldre korrespondenter, den 30 december 1941 att malajerna i provinsen välkomnade de japanska trupperna med öppna armar. 
Han träffade också regenten M. Dewa, delstatens kung, och sade: "Britterna har sett ner på oss och förtryckt oss. Nu har vårt folks gryning kommit", sade han och uttryckte sin tacksamhet för de japanska truppernas befrielse. 
De läser inte ens sina seniorers artiklar utan faller tillbaka på de brutala och lögnaktiga kinesernas ord. 
Asahi Shimbun säljer inte bra. 
Det kanske är Mayumis fel.

2024/3/27 in Tokyo

 

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这是支那人典型的野蛮行为。

2024年04月01日 09時21分25秒 | 全般

4/13/2019
以下内容摘自高山雅之的著名专栏 "Henken Jizai",刊登在昨天的《周刊新潮》上。
高山雅之是战后世界独一无二的记者。
他与那些自称是西方主要杂志记者的邪恶外国人相比,简直是天壤之别。
在本周的杂志上,全世界的读者都会惊叹于他的文章,知道我对他的评价是正确的。
全世界都会看到,你们一直认为是日本主要报纸的《朝日新闻》,是一家抓住机会评论甚至乐于破坏日本的报纸。
你会了解到,《朝日新闻》是一群抱着自以为是的历史观和反日意识形态的记者。
如果他们是你们国家的代表报纸,你会作何感想?
如果您知道贵国的代表报纸尽管存在一些问题,但并非像《朝日新闻》那样是一个由叛国雇员组成的组织,您会感到欣慰。

国王陛下的隐藏战斗人员
1942 年 1 月下旬,新加坡即将沦陷,《朝日新闻》发表了一篇关于马来亚当地社区的圆桌讨论,仙田商会的仙田室太郎和其他相关人士参加了讨论。 
自鸦片战争以来,中国人利用白人统治者控制马来劳工和向他们出售鸦片的机会,纷纷逃往马来亚。 
仙田介绍说,昭和时代开始时,"大约有 300 所 "华人子弟学校。
当时,日本和中国之间的紧张关系已经达到了顶点,中国人开始袭击在马来亚的日本公司和日本居民。 
马来亚之虎谷裕隆就是其中之一。 
当他回到日本时,一群中国人袭击了丁加奴镇,强奸了他的妹妹,砍下她的头颅并带走。
这是支那人典型的残暴行为。 
从日本回来后,Yutaka 追击杀害他妹妹的那伙人,还袭击了一名鸦片走私犯,因此被中国人称为 "Harimao"。
支那人相信英国的胜利,并对日军发动破坏和恐怖袭击。 
圆桌讨论显示,华人恐怖组织有一个组织,即与蒋介石有联系的陈嘉庚领导的 "新加坡华侨筹赈总会"。这个组织成为整个南洋的抗日核心组织。 
顺便提一下,陈嘉庚还与毛泽东有过接触。
战后,共产党政府成立后,他放弃了马来亚,回到了福建家乡。
这是一个愚蠢的选择。 
日军在与英印军队作战时,不得不注意这些中国游击队的存在。 
因此,他们平均每天前进 20 公里。
日本人很强大。 
朝日新闻》的军事记者酒井虎吉虽然在讨论中没有提及,但他报道了当时在新加坡的英军组织了一支 "中国人专用战斗队"。 
这支部队由约翰-达利中校指挥,拥有 4000 人的兵力,完全符合一个旅的规模。
士兵中有被关押在樟宜监狱的共产党游击队员。 
他们的特点是不穿正式军装。
他们唯一的特征是脖子上戴着黄色头巾。 
他们被称为 "Dalforce "或 "Dalley's Desperadoes",这是以他们的指挥官命名的。 
日军参与城市战时,他们伪装成良民,寻找机会发动攻击,一旦遭遇,便弃枪逃入平民区。 
这种穿便衣作战的行为被视为游击战,违反了国际法。 
如果被抓,国际法允许处以最高刑罚。 
在入侵新加坡期间,一些 "大部队 "被抓获,他们的存在也暴露了。
如今,新加坡华人指责日本军方肃清华侨,但毫无疑问,他们才是肃清华侨的罪魁祸首。 
在马来亚战役中攻克的第一个重要城市亚罗士打,吉打州政府最近修复了一座纪念日本士兵英雄事迹的墓碑,并举行了热闹的揭幕仪式。
对此,当地华人居民开始大肆宣扬日军杀害华人居民的事实,以及为什么侵略军是英雄。 
朝日新闻》的 Mayumi Mamoru 高兴地报道说:"州政府惊呆了,连忙道歉。 
战争期间,支那人与英军并肩作战,抗击日军。
他们还实施了卑劣的恐怖主义行为,甚至派出了一支身穿囚服的士兵分遣队。 
他怎么敢说他们被杀是不公正的? 
与此同时,Mamoru 先生的高级记者酒井(Sakai)于 1941 年 12 月 30 日报道,该省的马来人张开双臂欢迎日本军队。 
他还会见了摄政王 M. Dewa,他说:"英国人看不起我们,压迫我们。现在我们人民的曙光已经到来,"他对日本军队的解放表示感谢。 
他们连前辈的文章都不看,就听信残暴的、撒谎的中国人的话。 
朝日新闻》卖得不好。
也许这是真由美的错。

2024/3/27 in Tokyo

 

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그것은 신아족 특유의 잔인한 행위였다.

2024年04月01日 09時19分36秒 | 全般

4/13/2019
다음은 어제 주간 신초에 실린 다카야마 마사유키의 호평 칼럼 '헨켄 지자이'에서 발췌한 글입니다.
다카야마 마사유키는 전후 세계에서 유일무이한 저널리스트입니다.
그는 서구 유수 잡지의 특파원이라고 자칭하는 사악한 외국인들과는 다른 세계입니다.
이번 주 호에서 전 세계 독자들은 그의 기사를 읽고 제가 옳았다는 것을 알게 될 것입니다.
여러분이 일본을 대표하는 신문이라고 생각했던 아사히 신문이 기회만 있으면 일본을 비방하거나 심지어 기꺼이 깎아내리는 신문이라는 것을 전 세계가 알게 될 것입니다.
아사히 신문은 이기적인 역사관과 반일 이데올로기를 가진 기자들의 집단이라는 것을 알게 될 것입니다.
만약 그들이 우리나라를 대표하는 신문이라면 기분이 어떨까요?
몇 가지 문제가 있긴 하지만 우리나라의 대표 신문이 아사히 신문과 같은 매국노들의 조직이 아니라는 사실에 안심할 수 있을 것입니다.

국왕 폐하의 숨겨진 전투원들
1942년 1월 말, 싱가포르가 함락되기 직전 아사히 신문은 센다 쇼카이의 센다 무로타로와 다른 관계자들이 참여한 현지 말레이계 원탁 토론을 게재했습니다. 
아편 전쟁 이후 중국인들은 백인 지배자들을 이용해 말레이 노동자들을 통제하고 아편을 판매하기 위해 말라야로 피난을 떠났습니다. 
센다는 쇼와 시대가 시작될 무렵 중국인 아이들을 위한 "약 300개의 학교"가 있었다고 소개합니다.
그 무렵 일본과 중국 사이의 긴장은 최고조에 달했고, 중국인들은 말라야에 있는 일본 기업과 일본인을 공격하기 시작했습니다. 
말레이 호랑이 타니 유타카의 사건도 그러한 사건 중 하나였습니다. 
그가 일본에 있는 동안 한 무리의 중국인들이 테렝가누 마을을 공격해 그의 여동생을 강간하고 목을 잘라 납치해갔습니다.
이는 시나족의 전형적인 잔인한 행위였습니다. 
일본에서 돌아온 유타카는 누이를 죽인 무리를 쫓아 아편 밀수업자도 공격해 중국인들로부터 '하리마오'라는 별명을 얻었습니다.
시나 사람들은 영국의 승리를 믿고 일본군에 대한 사보타주와 테러 공격을 감행했습니다. 
원탁 토론을 통해 중국 테러 단체에는 장개석과 접촉했던 탄카키가 이끄는 '싱가포르 중국인 구호 총연합회'라는 조직이 있다는 사실이 밝혀졌습니다. 이 조직은 남해안 전역의 중앙 항일 조직이 되었습니다. 
덧붙여서 탄카키는 마오쩌둥과도 접촉했습니다. 
전쟁이 끝나고 공산 정부가 수립되자 그는 말라야를 버리고 푸젠성의 고향으로 돌아갔습니다.
어리석은 선택이었습니다. 
일본군은 영국군과 인도군과 싸우는 동안 중국 게릴라들의 존재에 주의를 기울여야 했습니다. 
그래서 그들은 평균적으로 하루에 20킬로미터씩 전진했습니다.
일본군은 강했습니다. 
토론에서는 언급되지 않았지만 아사히 신문의 군사 전문 기자였던 사카이 토라키치는 당시 싱가포르에서 영국군이 조직한 '중국인 전용 전투 부대'를 보도했습니다. 
이 부대는 존 댈리 중령이 지휘했으며 여단 규모에 훨씬 못 미치는 4,000명의 병력을 자랑했습니다. 
병사 중에는 창이 감옥에 수감된 공산 게릴라들도 있었습니다. 
이들은 공식 군복을 입지 않는 것이 특징이었습니다. 
그들의 유일한 특징은 목에 두른 노란색 두건뿐이었습니다. 
이들은 사령관의 이름을 따서 '달포스' 또는 '달리의 무법자'라고 불렸습니다. 
일본군이 시가전을 벌일 때 그들은 선량한 시민으로 변장하고 공격할 기회를 노리다가 적과 마주치면 총을 버리고 민간인 사이로 도망쳤습니다. 
민간인 복장을 한 이들의 전투는 국제법을 위반하는 게릴라전으로 간주되었습니다. 
적발되면 국제법에 따라 최대 처벌을 받을 수 있습니다. 
싱가포르 침공 당시 달포스의 일부가 체포되어 그들의 존재가 드러났습니다.
오늘날 싱가포르 화교들은 일본군이 화교를 숙청했다고 비난하지만 숙청의 책임자는 의심할 여지없이 일본군이었습니다. 
말레이 캠페인에서 최초로 정복한 중요한 도시인 알로르 스타에서 케다 정부는 최근 일본군의 영웅성을 기리는 기념비를 복원하고 제막식을 거행했습니다.
이에 대해 현지 중국인 주민들은 일본군이 중국인을 죽였다는 사실과 침략군이 왜 영웅이냐며 소란을 피우기 시작했습니다. 
주 정부는 깜짝 놀라 사과했습니다."라고 아사히 신문의 마유미 마모루는 기뻐하며 보도했습니다. 
전쟁 중 시나 사람들은 영국군과 함께 일본군에 맞서 싸웠습니다.
그들은 또한 비열한 테러 행위를 저질렀고 심지어 죄수복을 입은 군인들을 파견하기도 했습니다. 
어떻게 감히 그들이 죽임을 당한 것이 부당하다고 말할 수 있을까요? 
한편 마모루 씨의 선임 특파원이었던 사카이 특파원은 1941년 12월 30일, 이 지방의 말레이인들이 두 팔 벌려 일본군을 환영했다고 보도했습니다. 
그는 또한 국왕인 데와 섭정을 만나 "영국은 우리를 무시하고 억압해 왔다. 이제 우리 민족의 새벽이 왔다"라고 말하며 일본군의 해방에 대한 감사의 뜻을 표했습니다. 
그들은 선배들의 글도 읽지 않고 잔인하고 거짓말을 일삼는 중국인들의 말에 넘어갑니다. 
아사히 신문은 잘 팔리지 않습니다. 
마유미의 잘못일지도 모르죠.

2024/3/27 in Tokyo

 

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Itu adalah tindakan brutal yang khas dari masyarakat Shina.

2024年04月01日 09時17分22秒 | 全般

4/13/2019
Berikut ini adalah artikel dari kolom terkenal Masayuki Takayama "Henken Jizai", yang muncul di mingguan Shincho kemarin.
Masayuki Takayama adalah satu-satunya jurnalis di dunia pascaperang.
Dia adalah dunia yang berbeda dengan orang-orang asing jahat yang menyebut diri mereka koresponden untuk majalah-majalah Barat terkemuka.
Dalam edisi minggu ini, para pembaca di seluruh dunia akan mengagumi artikelnya dan mengetahui bahwa saya benar tentang dia.
Dunia akan melihat bahwa Asahi Shimbun, yang selama ini Anda anggap sebagai surat kabar terkemuka di Jepang, adalah surat kabar yang mengambil kesempatan untuk mengomentari atau bahkan dengan senang hati merendahkan Jepang.
Anda akan mengetahui bahwa Asahi Shimbun adalah sekelompok reporter yang memiliki pandangan sejarah yang mementingkan diri sendiri dan ideologi anti-Jepang.
Bagaimana perasaan Anda jika mereka adalah surat kabar perwakilan negara Anda?
Anda akan merasa lega mengetahui bahwa surat kabar perwakilan negara Anda, meskipun ada beberapa masalah, bukanlah organisasi yang terdiri dari para pegawai yang berkhianat seperti Asahi Shimbun.

Para Pejuang Tersembunyi Yang Mulia Raja
Pada akhir Januari 1942, ketika Singapura akan jatuh, Asahi Shimbun menerbitkan diskusi meja bundar tentang komunitas Malaya setempat yang menampilkan Murotaro Senda dari Senda Shokai dan orang-orang yang peduli. 
Orang Tionghoa telah melarikan diri ke Malaya sejak Perang Candu, mengambil keuntungan dari penguasa kulit putih untuk mengendalikan buruh Melayu dan menjual candu kepada mereka. 
Senda memperkenalkan bahwa ada "sekitar 300 sekolah" untuk anak-anak Tionghoa pada saat era Showa dimulai.
Pada saat itu, ketegangan antara Jepang dan Cina telah mencapai puncaknya, dan orang-orang Cina mulai menyerang perusahaan-perusahaan Jepang dan penduduk Jepang di Malaya. 
Salah satu insiden yang terjadi adalah serangan terhadap Yutaka Tani, harimau Malaya. 
Ketika dia kembali ke Jepang, sekelompok orang Tiongkok menyerang kota Terengganu, memperkosa saudara perempuannya, memenggal kepalanya, dan membawanya pergi.
Itu adalah tindakan brutal yang khas dari orang Shina. 
Setelah kembali dari Jepang, Yutaka mengejar kelompok yang telah membunuh saudara perempuannya dan juga menyerang seorang penyelundup opium, yang membuatnya mendapat julukan "Harimao" dari orang Cina.
Orang-orang Shina percaya akan kemenangan Inggris dan melancarkan serangan sabotase dan teror terhadap tentara Jepang. 
Diskusi meja bundar tersebut mengungkapkan bahwa kelompok teroris Tiongkok memiliki sebuah organisasi yaitu "Singapore Chinese Chinese Relief General Association" yang dipimpin oleh Tan Kah Kee, yang telah berhubungan dengan Chiang Kai-shek. Organisasi ini menjadi pusat organisasi anti-Jepang untuk seluruh Laut Selatan. 
Secara kebetulan, Tan Kah Kee juga memiliki kontak dengan Mao Zedong. 
Setelah perang, ketika pemerintahan Komunis terbentuk, dia meninggalkan Malaya dan kembali ke kampung halamannya di Provinsi Fujian.
Itu adalah pilihan yang bodoh. 
Jepang harus memperhatikan keberadaan gerilyawan Tiongkok ini saat melawan pasukan Inggris dan India. 
Jadi, rata-rata, mereka maju 20 kilometer per hari.
Jepang sangat kuat. 
Meskipun tidak disebutkan dalam diskusi, Torakichi Sakai, seorang reporter militer untuk surat kabar Asahi, melaporkan adanya "kelompok pejuang khusus Tionghoa" yang diorganisir oleh Angkatan Darat Inggris di Singapura pada saat itu. 
Unit ini berada di bawah komando Letnan Kolonel John Dalley dan memiliki kekuatan 4.000 orang, yang cukup besar untuk ukuran sebuah brigade. 
Di antara para prajurit terdapat gerilyawan komunis yang dipenjara di Penjara Changi. 
Mereka dicirikan dengan tidak mengenakan seragam militer resmi. 
Satu-satunya ciri khas mereka adalah bandana kuning yang melingkar di leher mereka. 
Mereka dijuluki "Dalforce" atau "Dalley's Desperadoes" yang diambil dari nama komandan mereka. 
Ketika pasukan Jepang terlibat dalam perang kota, mereka menyamar sebagai warga negara yang baik, mencari kesempatan untuk menyerang, dan ketika dikonfrontasi, mereka meninggalkan senjata mereka dan melarikan diri ke penduduk sipil. 
Pertempuran dengan pakaian sipil ini dianggap sebagai perang gerilya yang melanggar hukum internasional. 
Jika tertangkap, hukum internasional mengizinkan hukuman maksimal. 
Selama invasi Singapura, beberapa anggota Dalforce ditangkap, dan keberadaan mereka terungkap.
Saat ini, orang Tionghoa Singapura menuduh militer Jepang melakukan pembersihan terhadap orang Tionghoa perantauan, tetapi tidak diragukan lagi bahwa merekalah yang bertanggung jawab atas pembersihan tersebut. 
Di Alor Star, kota penting pertama yang ditaklukkan dalam kampanye Malaya, pemerintah Kedah baru-baru ini merestorasi sebuah nisan untuk menghormati kepahlawanan tentara Jepang dan mengadakan upacara peresmian yang meriah.
Sebagai tanggapan, penduduk Tionghoa setempat mulai meributkan fakta bahwa tentara Jepang telah membunuh penduduk Tionghoa dan mengapa tentara penjajah adalah pahlawan. 
Pemerintah negara bagian terkejut dan meminta maaf," lapor Mayumi Mamoru dari Asahi Shimbun dengan gembira. 
Selama perang, orang-orang Shina bertempur bersama tentara Inggris melawan Jepang.
Mereka juga melakukan tindakan terorisme yang tercela dan bahkan mengirimkan satu detasemen tentara berseragam penjara. 
Beraninya dia mengatakan bahwa tidak adil jika mereka dibunuh? 
Sementara itu, koresponden Sakai, koresponden senior Tuan Mamoru, melaporkan pada tanggal 30 Desember 1941, bahwa orang Melayu di provinsi tersebut menyambut pasukan Jepang dengan tangan terbuka. 
Dia juga bertemu dengan Bupati M. Dewa, raja negara bagian, dan berkata, "Inggris telah meremehkan kami dan menindas kami. Sekarang fajar bagi rakyat kami telah tiba," katanya, mengungkapkan rasa terima kasihnya atas pembebasan yang dilakukan oleh pasukan Jepang. 
Mereka bahkan tidak membaca artikel-artikel dari senior mereka dan kembali pada kata-kata orang Cina yang brutal dan pembohong. 
Asahi Shimbun tidak laku. 
Mungkin itu adalah kesalahan Mayumi.

2024/3/27 in Tokyo

 

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Foi um ato brutal típico do povo Shina.

2024年04月01日 09時16分31秒 | 全般

4/13/2019
O texto que se segue foi retirado da aclamada coluna de Masayuki Takayama, "Henken Jizai", publicada no semanário Shincho de ontem.
Masayuki Takayama é o único jornalista do mundo pós-guerra.
É um mundo à parte dos estrangeiros malvados que se dizem correspondentes das principais revistas ocidentais.
Na edição desta semana, os leitores de todo o mundo ficarão maravilhados com o seu artigo e saberão que eu tinha razão a seu respeito.
O mundo verá que o Asahi Shimbun, que se habituou a considerar como o principal jornal do Japão, é um jornal que aproveita a oportunidade para comentar ou até mesmo prejudicar alegremente o Japão.
Ficará a saber que o Asahi Shimbun é um grupo de repórteres com uma visão histórica egoísta e uma ideologia anti-japonesa.
Como se sentiria se eles fossem o jornal representativo do seu país?
Sentir-se-ia aliviado por saber que o jornal que representa o seu país, apesar de alguns problemas, não é uma organização de funcionários traidores como o Asahi Shimbun.

Os combatentes ocultos de Sua Majestade o Rei
Em finais de janeiro de 1942, quando Singapura estava prestes a cair, o Asahi Shimbun publicou uma mesa redonda sobre a comunidade malaia local, com a participação de Murotaro Senda, do Senda Shokai, e de outras pessoas interessadas. 
Os chineses tinham fugido para a Malásia desde a Guerra do Ópio, aproveitando-se do facto de os governantes brancos controlarem os trabalhadores malaios e lhes venderem ópio. 
Senda introduz que existiam "cerca de 300 escolas" para crianças chinesas na altura em que começou a era Showa.
Nessa altura, as tensões entre o Japão e a China tinham chegado ao auge e os chineses começaram a atacar empresas japonesas e residentes japoneses na Malásia. 
Um desses incidentes foi o de Yutaka Tani, o tigre da Malaia. 
Quando regressava ao Japão, um grupo de chineses atacou a cidade de Terengganu, violou a sua irmã, cortou-lhe a cabeça e levou-a consigo.
Foi um ato brutal típico do povo Shina. 
Depois de regressar do Japão, Yutaka foi atrás do grupo que tinha morto a sua irmã e atacou também um contrabandista de ópio, o que lhe valeu a alcunha de "Harimao" por parte dos chineses.
O povo Shina acreditou na vitória britânica e lançou ataques de sabotagem e terror contra o exército japonês. 
A mesa redonda revelou que o grupo terrorista chinês tinha uma organização, a "Singapore Chinese China Relief General Association", dirigida por Tan Kah Kee, que tinha estado em contacto com Chiang Kai-shek. Esta organização tornou-se a organização central anti-japonesa para todos os mares do sul. 
Por acaso, Tan Kah Kee também tinha contactos com Mao Zedong. 
Depois da guerra, quando se formou o governo comunista, abandonou a Malásia e regressou à sua terra natal, na província de Fujian.
Foi uma escolha insensata. 
Os japoneses tinham de estar atentos à presença destes guerrilheiros chineses enquanto combatiam as forças britânicas e indianas. 
Assim, em média, avançavam 20 quilómetros por dia.
Os japoneses eram fortes. 
Embora não tenha sido mencionado na discussão, Torakichi Sakai, um repórter militar do jornal Asahi, relatou um "grupo de combate exclusivamente chinês" organizado pelo exército britânico em Singapura nessa altura. 
Esta unidade estava sob o comando do tenente-coronel John Dalley e contava com uma força de 4.000 homens, o que correspondia à dimensão de uma brigada. 
Entre os soldados encontravam-se guerrilheiros comunistas detidos na prisão de Changi. 
Caracterizavam-se por não usarem uniformes militares oficiais. 
A única caraterística que os distinguia era um lenço amarelo à volta do pescoço. 
Eram chamados "Dalforce" ou "Dalley's Desperadoes", em homenagem ao seu comandante. 
Quando as forças japonesas se dedicavam à guerra urbana, disfarçavam-se de bons cidadãos, procurando uma oportunidade para atacar e, quando confrontados, abandonavam as armas e fugiam para a população civil. 
Este combate em trajes civis era considerado uma guerrilha que violava o direito internacional. 
Se forem apanhados, o direito internacional prevê a pena máxima. 
Durante a invasão de Singapura, alguns dos Dalforce foram capturados e a sua presença foi revelada.
Atualmente, os chineses de Singapura acusam os militares japoneses de purgarem os chineses ultramarinos, mas foram eles, sem dúvida, os responsáveis por essa purga. 
Em Alor Star, a primeira cidade importante conquistada na campanha da Malaia, o governo de Kedah restaurou recentemente um cenotáfio em honra do heroísmo dos soldados japoneses e organizou uma animada cerimónia de inauguração.
Em resposta, os residentes chineses locais começaram a fazer um alarido sobre o facto de o exército japonês ter matado residentes chineses e sobre a razão pela qual o exército invasor era um herói. 
O governo do estado ficou atónito e pediu desculpa", relatou Mayumi Mamoru do Asahi Shimbun com alegria. 
Durante a guerra, o povo Shina lutou ao lado do exército britânico contra os japoneses.
Também praticou actos desprezíveis de terrorismo e até enviou um destacamento de soldados com uniformes de prisioneiros. 
Como é que ele se atreve a dizer que é injusto que eles tenham sido mortos? 
Entretanto, o correspondente Sakai, um correspondente sénior do Sr. Mamoru, relatou, a 30 de dezembro de 1941, que os malaios da província receberam as tropas japonesas de braços abertos. 
Também se encontrou com o Regente M. Dewa, o rei do estado, e disse: "Os britânicos olharam-nos de cima para baixo e oprimiram-nos. Agora chegou o amanhecer do nosso povo", disse, expressando a sua gratidão pela libertação pelas tropas japonesas. 
Nem sequer lêem os artigos dos seus superiores e recorrem às palavras dos chineses brutais e mentirosos. 
O Asahi Shimbun não está a vender bem. 
Talvez a culpa seja da Mayumi.

2024/3/27 in Tokyo

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C’était un acte brutal typique du peuple Shina.

2024年04月01日 09時12分14秒 | 全般

4/13/2019
Ce qui suit est tiré de la chronique acclamée de Masayuki Takayama "Henken Jizai", parue dans l'hebdomadaire Shincho d'hier.
Masayuki Takayama est le seul et unique journaliste du monde d'après-guerre.
Il est à mille lieues des étrangers malveillants qui s'autoproclament correspondants des grands magazines occidentaux.
Dans le numéro de cette semaine, les lecteurs du monde entier s'émerveilleront de son article et sauront que j'avais raison à son sujet.
Le monde verra que l'Asahi Shimbun, que vous avez l'habitude de considérer comme le principal journal japonais, est un journal qui saute sur l'occasion de commenter ou même de saper joyeusement le Japon.
Vous apprendrez que l'Asahi Shimbun est un groupe de journalistes ayant une vision historique intéressée et une idéologie antijaponaise.
Comment vous sentiriez-vous s'il s'agissait du journal représentatif de votre pays ?
Vous seriez soulagé de savoir que le journal représentatif de votre pays, malgré quelques problèmes, n'est pas une organisation d'employés traîtres comme l'Asahi Shimbun.

Les combattants cachés de Sa Majesté le Roi
Fin janvier 1942, alors que Singapour était sur le point de tomber, l'Asahi Shimbun a publié une table ronde sur la communauté malaise locale, à laquelle participaient Murotaro Senda, de Senda Shokai, et d'autres personnes concernées. 
Les Chinois s'étaient réfugiés en Malaisie depuis la guerre de l'opium, profitant du fait que les dirigeants blancs contrôlaient les travailleurs malais et leur vendaient de l'opium. 
Senda indique qu'il y avait "environ 300 écoles" pour les enfants chinois au début de l'ère Showa.
À cette époque, les tensions entre le Japon et la Chine avaient atteint leur paroxysme et les Chinois ont commencé à attaquer les entreprises japonaises et les résidents japonais en Malaisie. 
L'un de ces incidents est celui de Yutaka Tani, le tigre de Malaisie. 
Alors qu'il était de retour au Japon, un groupe de Chinois a attaqué la ville de Terengganu, violé sa sœur, coupé sa tête et l'a emportée.
Il s'agit d'un acte brutal typique du peuple Shina. 
Après son retour du Japon, Yutaka s'est lancé à la poursuite du groupe qui avait tué sa sœur et a également attaqué un trafiquant d'opium, ce qui lui a valu le surnom de "Harimao" de la part des Chinois.
Le peuple Shina a cru à la victoire britannique et a lancé des attaques de sabotage et de terreur contre l'armée japonaise. 
La table ronde a révélé que le groupe terroriste chinois disposait d'une organisation, la "Singapore Chinese China Relief General Association", dirigée par Tan Kah Kee, qui avait été en contact avec Chiang Kai-shek. Cette organisation est devenue l'organisation centrale antijaponaise pour l'ensemble des mers du Sud. 
Tan Kah Kee avait également des contacts avec Mao Zedong. 
Après la guerre, lorsque le gouvernement communiste a été formé, il a abandonné la Malaisie et est retourné dans sa ville natale de la province de Fujian.
C'était un choix stupide. 
Les Japonais devaient faire attention à la présence de ces guérillas chinoises lorsqu'ils combattaient les forces britanniques et indiennes. 
Ils avancent donc en moyenne de 20 kilomètres par jour.
Les Japonais étaient forts. 
Bien que cela n'ait pas été mentionné dans la discussion, Torakichi Sakai, un journaliste militaire du journal Asahi, a fait état d'un "groupe de combat exclusivement chinois" organisé par l'armée britannique à Singapour à cette époque. 
Cette unité était placée sous le commandement du lieutenant-colonel John Dalley et comptait 4 000 hommes, ce qui correspondait à la taille d'une brigade. 
Parmi les soldats se trouvaient des guérilleros communistes emprisonnés à la prison de Changi. 
Ils avaient la particularité de ne pas porter d'uniforme militaire officiel. 
Leur seul signe distinctif était un bandana jaune autour du cou. 
Ils étaient appelés "Dalforce" ou "Dalley's Desperadoes", du nom de leur commandant. 
Lorsque les forces japonaises s'engageaient dans une guerre urbaine, elles se déguisaient en bons citoyens, cherchant une occasion d'attaquer, et lorsqu'elles étaient confrontées, elles abandonnaient leurs armes et s'enfuyaient dans la population civile. 
Ces combats en civil étaient considérés comme de la guérilla, en violation du droit international. 
En cas de flagrant délit, le droit international prévoit la peine maximale. 
Lors de l'invasion de Singapour, certains Dalforce ont été capturés et leur présence a été révélée.
Aujourd'hui, les Chinois de Singapour accusent les militaires japonais d'avoir purgé les Chinois d'outre-mer, mais c'est incontestablement eux qui étaient responsables de cette purge. 
À Alor Star, la première ville importante conquise lors de la campagne de Malaisie, le gouvernement de Kedah a récemment restauré un cénotaphe honorant l'héroïsme des soldats japonais et a organisé une cérémonie d'inauguration animée.
En réaction, les habitants chinois de la région ont commencé à s'insurger contre le fait que l'armée japonaise avait tué des habitants chinois et à demander pourquoi l'armée d'invasion était un héros. 
Le gouvernement de l'État a été stupéfait et s'est excusé", se réjouit Mayumi Mamoru de l'Asahi Shimbun. 
Pendant la guerre, les Shina se sont battus aux côtés de l'armée britannique contre les Japonais.
Ils ont également commis des actes terroristes ignobles et ont même envoyé un détachement de soldats en uniforme de prisonniers. 
Comment ose-t-il dire qu'il est injuste qu'ils aient été tués ? 
Entre-temps, le correspondant Sakai, un correspondant principal de M. Mamoru, a rapporté le 30 décembre 1941 que les Malais de la province avaient accueilli les troupes japonaises à bras ouverts. 
Il rencontre également le régent M. Dewa, le roi de l'État, et lui dit : "Les Britanniques nous ont regardés de haut et nous ont opprimés. Aujourd'hui, l'aube de notre peuple est arrivée", a-t-il déclaré, exprimant sa gratitude pour la libération par les troupes japonaises. 
Ils ne lisent même pas les articles de leurs aînés et se rabattent sur les paroles des Chinois brutaux et menteurs. 
L'Asahi Shimbun ne se vend pas bien. 
C'est peut-être la faute de Mayumi.

2024/3/27 in Tokyo

 

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Es war eine brutale Tat, typisch für das Volk der Shina.

2024年04月01日 09時11分28秒 | 全般

4/13/2019
Der folgende Text stammt aus Masayuki Takayamas gefeierter Kolumne "Henken Jizai", die gestern in der Wochenzeitung Shincho erschien.
Masayuki Takayama ist der einzige Journalist in der Nachkriegswelt.
Er unterscheidet sich von den bösen Ausländern, die sich als Korrespondenten für die führenden westlichen Zeitschriften bezeichnen.
In der Ausgabe dieser Woche werden die Leser weltweit seinen Artikel bewundern und wissen, dass ich mit ihm Recht hatte.
Die Welt wird sehen, dass die Asahi Shimbun, die Sie für Japans führende Zeitung halten, eine Zeitung ist, die die Chance ergreift, Japan zu kommentieren oder sogar fröhlich zu untergraben.
Sie werden erfahren, dass die Asahi Shimbun eine Gruppe von Reportern mit einem eigennützigen Geschichtsbild und einer antijapanischen Ideologie ist.
Wie würden Sie sich fühlen, wenn dies die repräsentative Zeitung Ihres Landes wäre?
Sie wären erleichtert, wenn Sie wüssten, dass die Zeitung, die Ihr Land vertritt, trotz einiger Probleme keine Organisation von verräterischen Mitarbeitern wie die Asahi Shimbun ist.

Die versteckten Kämpfer Seiner Majestät des Königs
Ende Januar 1942, als Singapur kurz vor dem Fall stand, veröffentlichte die Asahi Shimbun eine Diskussionsrunde über die lokale malaiische Gemeinschaft, an der Murotaro Senda von Senda Shokai und andere besorgte Menschen teilnahmen. 
Seit dem Opiumkrieg waren Chinesen nach Malaya geflüchtet und nutzten die Vorteile der weißen Herrscher, um malaiische Arbeiter zu kontrollieren und Opium an sie zu verkaufen. 
Senda stellt vor, dass es zu Beginn der Showa-Ära "etwa 300 Schulen" für chinesische Kinder gab.
Zu diesem Zeitpunkt hatten sich die Spannungen zwischen Japan und China zugespitzt, und die Chinesen begannen, japanische Unternehmen und japanische Einwohner in Malaya anzugreifen. 
Ein solcher Vorfall war der von Yutaka Tani, dem malaysischen Tiger. 
Während er nach Japan zurückkehrte, überfiel eine Gruppe von Chinesen die Stadt Terengganu, vergewaltigte seine Schwester, schlug ihr den Kopf ab und trug ihn davon.
Es war eine brutale Tat, die typisch für das Volk der Shina war. 
Nach seiner Rückkehr aus Japan verfolgte Yutaka die Gruppe, die seine Schwester getötet hatte, und überfiel auch einen Opiumschmuggler, was ihm bei den Chinesen den Spitznamen "Harimao" einbrachte.
Das Volk der Shina glaubte an den britischen Sieg und startete Sabotage- und Terroranschläge gegen die japanische Armee. 
Bei der Diskussion am Runden Tisch stellte sich heraus, dass die chinesische Terrorgruppe über eine Organisation verfügte, die "Singapore Chinese China Relief General Association", die von Tan Kah Kee geleitet wurde, der in Kontakt mit Chiang Kai-shek stand. Diese Organisation wurde die zentrale antijapanische Organisation für die gesamte Südsee. 
Übrigens hatte Tan Kah Kee auch Kontakte zu Mao Zedong. 
Nach dem Krieg, als die kommunistische Regierung gebildet wurde, verließ er Malaya und kehrte in seine Heimatstadt in der Provinz Fujian zurück.
Das war eine törichte Entscheidung. 
Die Japaner mussten im Kampf gegen die britischen und indischen Streitkräfte auf die Anwesenheit dieser chinesischen Guerillas achten. 
So rückten sie im Durchschnitt 20 Kilometer pro Tag vor.
Die Japaner waren stark. 
Obwohl in der Diskussion nicht erwähnt, berichtete Torakichi Sakai, ein Militärreporter der Asahi-Zeitung, von einer "rein chinesischen Kampfgruppe", die von der britischen Armee in Singapur zu dieser Zeit organisiert wurde. 
Diese Einheit stand unter dem Kommando von Oberstleutnant John Dalley und verfügte über eine Stärke von 4.000 Mann, was durchaus der Größe einer Brigade entsprach. 
Unter den Soldaten befanden sich kommunistische Guerillas, die im Changi-Gefängnis inhaftiert waren. 
Sie zeichneten sich dadurch aus, dass sie keine offiziellen Militäruniformen trugen. 
Ihr einziges Erkennungsmerkmal war ein gelbes Kopftuch um den Hals. 
Sie wurden nach ihrem Kommandanten "Dalforce" oder "Dalley's Desperadoes" genannt. 
Wenn die japanischen Streitkräfte einen Krieg in den Städten führten, verkleideten sie sich als brave Bürger und suchten nach einer Gelegenheit zum Angriff, und wenn sie damit konfrontiert wurden, ließen sie ihre Waffen fallen und flohen in die Zivilbevölkerung. 
Dieser Kampf in Zivilkleidung wurde als völkerrechtswidriger Guerillakrieg betrachtet. 
Werden sie erwischt, sieht das Völkerrecht die Höchststrafe vor. 
Während der Invasion Singapurs wurden einige der Dalforce gefangen genommen, und ihre Anwesenheit wurde aufgedeckt.
Heutzutage beschuldigen die Singapur-Chinesen das japanische Militär, die Übersee-Chinesen zu säubern, aber es waren zweifellos sie, die für die Säuberung verantwortlich waren. 
In Alor Star, der ersten wichtigen Stadt, die im Malaienfeldzug erobert wurde, hat die Regierung von Kedah vor kurzem einen Kenotaph restauriert, der den Heldenmut der japanischen Soldaten ehrt, und eine lebhafte Enthüllungszeremonie veranstaltet.
Daraufhin begannen chinesische Einwohner, sich darüber aufzuregen, dass die japanische Armee chinesische Einwohner getötet habe und warum die Invasionsarmee ein Held sei. 
Die Landesregierung war fassungslos und entschuldigte sich", berichtete Mayumi Mamoru von der Asahi Shimbun mit Vergnügen. 
Während des Krieges kämpfte das Volk der Shina an der Seite der britischen Armee gegen die Japaner.
Sie verübten auch verabscheuungswürdige Terrorakte und schickten sogar eine Abteilung von Soldaten in Gefängnisuniformen aus. 
Wie kann er es wagen zu sagen, dass es ungerecht war, dass sie getötet wurden? 
In der Zwischenzeit berichtete der Korrespondent Sakai, ein ranghoher Korrespondent von Herrn Mamoru, am 30. Dezember 1941, dass die Malaien in der Provinz die japanischen Truppen mit offenen Armen empfingen. 
Er traf sich auch mit dem Regenten M. Dewa, dem König des Staates, und sagte: "Die Briten haben auf uns herabgesehen und uns unterdrückt. Jetzt ist die Morgendämmerung für unser Volk gekommen", sagte er und drückte seine Dankbarkeit für die Befreiung durch die japanischen Truppen aus. 
Sie lesen nicht einmal die Artikel ihrer Vorgesetzten und greifen auf die Worte der brutalen und verlogenen Chinesen zurück. 
Die Asahi Shimbun verkauft sich nicht gut. 
Vielleicht ist es Mayumis Schuld.

2024/3/27 in Tokyo

 

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Fue un acto brutal típico del pueblo Shina.

2024年04月01日 09時05分37秒 | 全般

4/13/2019
A continuación reproducimos la aclamada columna de Masayuki Takayama "Henken Jizai", aparecida ayer en el semanario Shincho.
Masayuki Takayama es el único periodista del mundo de la posguerra.
Es un mundo aparte de los malvados extranjeros que se hacen llamar corresponsales de las principales revistas occidentales.
En el número de esta semana, los lectores de todo el mundo se maravillarán con su artículo y sabrán que yo tenía razón sobre él.
El mundo verá que el Asahi Shimbun, al que usted ha llegado a considerar como el principal periódico de Japón, es un periódico que salta ante la oportunidad de comentar o incluso socavar alegremente a Japón.
Aprenderás que el Asahi Shimbun es un grupo de periodistas con una visión histórica interesada y una ideología antijaponesa.
¿Cómo te sentirías si fueran el periódico representativo de tu país?
Te aliviaría saber que el periódico representativo de tu país, a pesar de algunos problemas, no es una organización de empleados traidores como el Asahi Shimbun.

Los combatientes ocultos de Su Majestad el Rey
A finales de enero de 1942, cuando Singapur estaba a punto de caer, el Asahi Shimbun publicó una mesa redonda sobre la comunidad malaya local en la que participaban Murotaro Senda, de Senda Shokai, y otras personas interesadas. 
Los chinos habían estado huyendo a Malaya desde la Guerra del Opio, aprovechando que los gobernantes blancos controlaban a los trabajadores malayos y les vendían opio. 
Senda introduce que había "unas 300 escuelas" para niños chinos cuando comenzó la era Showa.
Para entonces, las tensiones entre Japón y China habían llegado a un punto crítico, y los chinos empezaron a atacar a las empresas japonesas y a los residentes japoneses en Malaya. 
Uno de esos incidentes fue el de Yutaka Tani, el tigre de Malaya. 
Mientras estaba de vuelta en Japón, un grupo de chinos atacó la ciudad de Terengganu, violó a su hermana, le cortó la cabeza y se la llevó.
Fue un acto brutal típico del pueblo shina. 
Tras regresar de Japón, Yutaka persiguió al grupo que había matado a su hermana y también atacó a un contrabandista de opio, lo que le valió el apodo de "Harimao" por parte de los chinos.
Los shina creyeron en la victoria británica y lanzaron sabotajes y ataques terroristas contra el ejército japonés. 
La mesa redonda reveló que el grupo terrorista chino tenía una organización que era la "Asociación General China de Socorro de Singapur", dirigida por Tan Kah Kee, que había estado en contacto con Chiang Kai-shek. Esta organización se convirtió en la organización antijaponesa central para todos los Mares del Sur. 
Por cierto, Tan Kah Kee también tenía contactos con Mao Zedong. 
Después de la guerra, cuando se formó el gobierno comunista, abandonó Malaya y regresó a su pueblo natal en la provincia de Fujian.
Fue una decisión insensata. 
Los japoneses tuvieron que prestar atención a la presencia de estas guerrillas chinas mientras luchaban contra las fuerzas británicas e indias. 
Así que, de media, avanzaban 20 kilómetros al día.
Los japoneses eran fuertes. 
Aunque no se menciona en el debate, Torakichi Sakai, reportero militar del periódico Asahi, informó de la existencia de un "grupo de combate sólo chino" organizado por el ejército británico en Singapur en aquella época. 
Esta unidad estaba bajo el mando del teniente coronel John Dalley y contaba con una fuerza de 4.000 hombres, lo que se ajustaba al tamaño de una brigada. 
Entre los soldados había guerrilleros comunistas encarcelados en la prisión de Changi. 
Se caracterizaban por no llevar uniforme militar oficial. 
Su único rasgo distintivo era un pañuelo amarillo alrededor del cuello. 
Se les llamaba "Dalforce" o "Desperados de Dalley" en honor a su comandante. 
Cuando las fuerzas japonesas entablaban una guerra urbana, se disfrazaban de buenos ciudadanos en busca de una oportunidad para atacar y, cuando se enfrentaban a ellos, abandonaban sus armas y huían entre la población civil. 
Esta lucha con ropas civiles se consideraba una guerra de guerrillas que violaba el derecho internacional. 
Si se les descubría, el derecho internacional preveía la pena máxima. 
Durante la invasión de Singapur, algunos de los Dalforce fueron capturados y se reveló su presencia.
Hoy en día, los chinos de Singapur acusan a los militares japoneses de purgar a los chinos de ultramar, pero sin duda fueron ellos los responsables de la purga. 
En Alor Star, la primera ciudad importante conquistada en la campaña malaya, el gobierno de Kedah restauró recientemente un cenotafio en honor al heroísmo de los soldados japoneses y celebró una animada ceremonia de inauguración.
En respuesta, los residentes chinos de la zona empezaron a armar jaleo sobre el hecho de que el ejército japonés había matado a residentes chinos y por qué el ejército invasor era un héroe. 
El gobierno estatal se quedó estupefacto y pidió disculpas", informó con regocijo Mayumi Mamoru, del Asahi Shimbun. 
Durante la guerra, los shina lucharon junto al ejército británico contra los japoneses.
También llevaron a cabo actos despreciables de terrorismo e incluso enviaron un destacamento de soldados con uniformes de presidiarios. 
¿Cómo se atreve a decir que fue injusto que los mataran? 
Mientras tanto, el corresponsal Sakai, corresponsal principal del Sr. Mamoru, informó el 30 de diciembre de 1941 que los malayos de la provincia recibieron a las tropas japonesas con los brazos abiertos. 
También se reunió con el regente M. Dewa, el rey del estado, y le dijo: "Los británicos nos han despreciado y oprimido. Ahora ha llegado el amanecer de nuestro pueblo", dijo, expresando su gratitud por la liberación de las tropas japonesas. 
Ni siquiera leen los artículos de sus mayores y recurren a las palabras de los brutales y mentirosos chinos. 
El Asahi Shimbun no se vende bien. 
Quizá sea culpa de Mayumi.

2024/3/27 in Tokyo

 

 

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È stato un atto brutale tipico del popolo Shina.

2024年04月01日 09時03分47秒 | 全般

4/13/2019
Quanto segue è tratto dall'acclamata rubrica di Masayuki Takayama "Henken Jizai", apparsa sul settimanale Shincho di ieri.
Masayuki Takayama è il solo e unico giornalista nel mondo del dopoguerra.
È un mondo a parte rispetto agli stranieri malvagi che si fanno chiamare corrispondenti delle principali riviste occidentali.
Nel numero di questa settimana, i lettori di tutto il mondo si meraviglieranno del suo articolo e sapranno che avevo ragione su di lui.
Il mondo vedrà che l'Asahi Shimbun, che siete abituati a considerare il principale quotidiano giapponese, è un giornale che coglie al volo l'occasione per commentare o addirittura minacciare allegramente il Giappone.
Imparerete che l'Asahi Shimbun è un gruppo di giornalisti con una visione storica egoistica e un'ideologia anti-giapponese.
Come vi sentireste se fossero il giornale rappresentativo del vostro Paese?
Sarete sollevati nel sapere che il giornale rappresentativo del vostro Paese, nonostante alcuni problemi, non è un'organizzazione di impiegati traditori come l'Asahi Shimbun.

I combattenti nascosti di Sua Maestà il Re
Alla fine di gennaio del 1942, quando Singapore stava per cadere, l'Asahi Shimbun pubblicò una tavola rotonda sulla comunità malese locale con la partecipazione di Murotaro Senda del Senda Shokai e di altre persone interessate. 
I cinesi erano fuggiti in Malesia fin dalla guerra dell'oppio, approfittando del fatto che i governanti bianchi controllavano i lavoratori malesi e vendevano loro l'oppio. 
Senda introduce che all'inizio dell'era Showa c'erano "circa 300 scuole" per bambini cinesi.
A quel punto, le tensioni tra Giappone e Cina erano arrivate al culmine e i cinesi iniziarono ad attaccare le aziende giapponesi e i residenti giapponesi in Malesia. 
Uno di questi incidenti fu quello di Yutaka Tani, la tigre della Malesia. 
Mentre era tornato in Giappone, un gruppo di cinesi attaccò la città di Terengganu, violentò sua sorella, le tagliò la testa e la portò via.
Fu un atto brutale tipico del popolo Shina. 
Dopo il ritorno dal Giappone, Yutaka inseguì il gruppo che aveva ucciso sua sorella e attaccò anche un contrabbandiere di oppio, guadagnandosi il soprannome di "Harimao" da parte dei cinesi.
Il popolo Shina credeva nella vittoria britannica e lanciò attacchi di sabotaggio e di terrore contro l'esercito giapponese. 
La tavola rotonda ha rivelato che il gruppo terroristico cinese aveva un'organizzazione, la "Singapore Chinese China Relief General Association", guidata da Tan Kah Kee, che era stato in contatto con Chiang Kai-shek. Questa organizzazione divenne l'organizzazione centrale anti-giapponese per tutti i mari del sud. 
Tra l'altro, Tan Kah Kee aveva contatti anche con Mao Zedong. 
Dopo la guerra, quando si formò il governo comunista, abbandonò la Malesia e tornò nella sua città natale, nella provincia del Fujian.
Fu una scelta insensata. 
I giapponesi dovettero prestare attenzione alla presenza di questi guerriglieri cinesi mentre combattevano le forze britanniche e indiane. 
Così, in media, avanzavano di 20 chilometri al giorno.
I giapponesi erano forti. 
Anche se non è stato menzionato nella discussione, Torakichi Sakai, un giornalista militare del quotidiano Asahi, ha riferito di un "gruppo di combattimento di soli cinesi" organizzato dall'esercito britannico a Singapore in quel periodo. 
Questa unità era sotto il comando del tenente colonnello John Dalley e vantava una forza di 4.000 uomini, ben al di sotto delle dimensioni di una brigata. 
Tra i soldati c'erano guerriglieri comunisti imprigionati nella prigione di Changi. 
Erano caratterizzati dal fatto di non indossare uniformi militari ufficiali. 
L'unico segno distintivo era una bandana gialla al collo. 
Erano chiamati "Dalforce" o "Dalley's Desperadoes" dal nome del loro comandante. 
Quando le forze giapponesi si impegnavano nella guerra urbana, si travestivano da buoni cittadini, cercando un'opportunità per attaccare e, quando venivano affrontati, abbandonavano le armi e fuggivano tra la popolazione civile. 
Questi combattimenti in abiti civili erano considerati guerriglia in violazione del diritto internazionale. 
In caso di cattura, il diritto internazionale prevede il massimo della pena. 
Durante l'invasione di Singapore, alcuni Dalforce furono catturati e la loro presenza fu rivelata.
Oggi i cinesi di Singapore accusano i militari giapponesi di aver epurato i cinesi d'oltremare, ma sono stati indiscutibilmente loro i responsabili dell'epurazione. 
Ad Alor Star, la prima città importante conquistata nella campagna malese, il governo di Kedah ha recentemente restaurato un cenotafio in onore dell'eroismo dei soldati giapponesi e ha tenuto una vivace cerimonia di inaugurazione.
In risposta, i residenti cinesi locali hanno iniziato a sollevare un polverone sul fatto che l'esercito giapponese avesse ucciso dei residenti cinesi e sul perché l'esercito invasore fosse un eroe. 
Il governo statale è rimasto sbalordito e si è scusato", ha riferito Mayumi Mamoru dell'Asahi Shimbun, divertito. 
Durante la guerra, gli Shina combatterono a fianco dell'esercito britannico contro i giapponesi.
Hanno anche compiuto spregevoli atti di terrorismo e hanno persino inviato un distaccamento di soldati in uniforme da prigione. 
Come osa dire che è stato ingiusto che siano stati uccisi? 
Nel frattempo, il 30 dicembre 1941, il corrispondente Sakai, un alto funzionario del signor Mamoru, riferì che i malesi della provincia accolsero le truppe giapponesi a braccia aperte. 
Incontrò anche il reggente M. Dewa, il re dello Stato, e disse: "Gli inglesi ci hanno guardato dall'alto in basso e ci hanno oppresso. Ora è arrivata l'alba del nostro popolo", ha detto, esprimendo la sua gratitudine per la liberazione da parte delle truppe giapponesi. 
Non leggono nemmeno gli articoli dei loro anziani e si affidano alle parole dei cinesi brutali e bugiardi. 
L'Asahi Shimbun non vende bene. 
Forse è colpa di Mayumi.

2024/3/27 in Tokyo

 

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A situação é tão terrível que chega a ser de cair o queixo.

2024年04月01日 08時59分41秒 | 全般

29 de março de 2022
O que se segue é um rascunho.
Acabei de sintonizar o relógio da NHK9. Que tipo de pessoas a NHK tem fazendo seus programas?
Que tipo de pessoas a NHK tem fazendo seus programas?
Eles têm um desfile de estrangeiros ilegais e anti-japoneses que nada mais são do que pedófilos de esquerda, que fizeram um filme criticando o Departamento de Imigração pelas suas atividades ilícitas,
O Departamento de Imigração do Japão tem o tratamento mais gentil e tolerante do mundo para estrangeiros indesejáveis.
O departamento de imigração é atacado pelo "watch9" da NHK, que finge ser um programa de notícias.
As pessoas que ganham a vida produzindo este programa nem sequer têm o bom senso de suspeitar das pessoas acima mencionadas.
Pelo contrário, apoiam as pessoas acima mencionadas nos seus ataques ao Japão e ao governo japonês.
A NHK, que transmite um importante programa de notícias em apoio àqueles que minam o Japão, é na verdade uma emissora estatal japonesa.
São servidores públicos nacionais.
Seus salários são supostamente os mais altos do Japão.
As funcionárias que se autodenominam apresentadoras (esta noite, uma certa Hoshi) fazem anúncios como se a atitude dessas pessoas estivesse certa e a nação do Japão estivesse errada.
Em primeiro lugar
Eles olham para a câmera e culpam o governo japonês, uma tradição na NHK desde a péssima Sra. Kuwako e outros.
Estão fazendo isso por vontade própria, com a mesma autoflagelação e ideologia antijaponesa que fazem?
Estão fazendo isso por vontade própria ou conforme instruções dos produtores do programa, que ainda determinam se são japoneses?
A situação é tão terrível que chega a ser de cair o queixo.
Se forem cidadãos japoneses, são as pessoas mais desprezíveis que já vi.
Este artigo continua.

2024/3/27 in Tokyo

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La situation est tellement épouvantable qu’elle en laisse bouche bée.

2024年04月01日 08時57分38秒 | 全般

29 mars 2022
Ce qui suit est un brouillon.
Je viens de me connecter à la montre de la NHK9. Quel genre de personnes la NHK fait-elle pour réaliser ses programmes ?
Quel genre de personnes la NHK fait-elle pour réaliser ses programmes ?
Ils organisent un défilé d'étrangers illégaux et d'antijaponais qui ne sont rien d'autre que des pédophiles de gauche, qui ont réalisé un film critiquant le Bureau de l'Immigration pour ses activités illicites,
Le Bureau de l'Immigration du Japon offre le traitement le plus doux et le plus indulgent au monde envers les étrangers indésirables.
Le bureau de l'immigration est attaqué par "watch9" de la NHK, qui se fait passer pour un programme d'information.
Les gens qui gagnent leur vie en produisant ce programme n’ont même pas le sentiment de se méfier des personnes mentionnées ci-dessus.
Au contraire, ils soutiennent ces personnes dans leurs attaques contre le Japon et le gouvernement japonais.
La NHK, qui diffuse un programme d'information phare en soutien à ceux qui sapent le Japon, est en fait une chaîne d'État japonaise.
Ce sont des fonctionnaires nationaux.
Leurs salaires seraient les plus élevés du Japon.
Les employées qui se font appeler présentatrices d'informations (ce soir, un certain Hoshi) font des annonces comme si l'attitude de ces personnes était bonne et que la nation japonaise avait tort.
En premier lieu
Ils regardent la caméra et accusent le gouvernement japonais, une tradition à la NHK depuis la moche Mme Kuwako et d'autres.
Le font-ils de leur propre gré, avec la même autoflagellation et la même idéologie anti-japonaise qu’eux ?
Le font-ils de leur propre gré ou selon les instructions des producteurs du programme, qui déterminent toujours s'ils sont japonais ?
La situation est tellement épouvantable qu’elle en laisse bouche bée.
S’il s’agit de citoyens japonais, ce sont les personnes les plus méprisables que j’aie jamais vues.
Cet article continue.

2024/3/27 in Tokyo

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