【初!緊急生配信】北村晴男×日本保守党 魂の応援演説2024/4/18 18時~門前仲町 #街頭演説 #百田尚樹
2024/4/12 in Kyoto
【初!緊急生配信】北村晴男×日本保守党 魂の応援演説2024/4/18 18時~門前仲町 #街頭演説 #百田尚樹
2024/4/12 in Kyoto
take5
@akasayiigaremus
2024年4月18日
飯山あかり 魂の演説2
本日の夜は雨の中、北村晴男弁護士が応援弁士として駆け付けてくださいました。
北村先生の演説も飯山先生の演説もまさに魂の演説で、皆さまの心にきっと響くと思います。
家族や地域社会や日本を守り後世に引き継ぎたいと思っていらっしゃる江東区の有権者の皆さま、この演説が心に響きましたら、飯山あかり候補に一票をお願いいたします。
期日前投票がすでに行われております。
豊洲シビックセンターと江東区役所へ足をお運びください。
よろしくお願いいたします。
🙇♂️ #飯山あかり #日本保守党 #日本にあかりを灯せ
https://twitter.com/i/status/1780934981315076375
2024/4/12 in Kyoto
江東区に住んでいる18歳以上の有権者で、日本を心底愛している人、
日本を守りたい、豊かな日本に戻したい、日本を強くしたい、と考えている人たちは、
全員、本稿を読んだら、期日前投票に向かい、日本保守党から出馬した、稀にみる本物である、飯山あかりさんに1票を投じなければなりません。
その理由を、本欄が、日本保守党について言及してきた章の中から、抜粋してお伝えします。
4/20、改訂版
日本中の「国宝」がNOを突き付けた。
それが日本保守党の誕生という戦後政治史上最大の事象の本質です。
2024年03月27日
時代は、とうにインターネットの時代になっていたから、日本保守党に、
日本の47都道府県にいる、最澄が定義したところの「国宝」が参集した。
インターネットの時代である事を証明して、瞬時に参集したのである。
大半の人たちが、私と同様に、これまで政党の党員になった事はない人たちである。
安倍首相存命時、高市早苗さんが総裁選に立候補した時に、自民党員になった人を除いて。
日本保守党の政策、綱領どおりの国にする。
安倍晋三が暗殺されて以降に、一気に、国民の税金にたかる、国民の税金で飯を食う左翼に支配され出した日本、偽善に塗(まみ)れだした日本の有様を止める。
然も、この左翼は、世界に二つしかない反日国家・地域と通じている人間達であることは、歴然たる事実である。
危険水域に入ってきた「中国の静かなる侵略」を止める為に、日本国中の「国宝」が立ち上がった。
もはや、私と同様に、全員が、何のてらいもなく、言わなければならない。
「国宝」が立ち上がったのだと。
年末に、立候補者を公募した際には、瞬時に350人超が応募した。
これも空前絶後の事である。
日本の最良が、「国宝」が、瞬時に350人超参集した事も空前絶後の事件である。
日本保守党の執行部が、真の国士である事は、全員が認めている。
私を含めて、大半の人たちは、実際は、大変な仕事を成し遂げて来た人たちである。
だが、言論界、なかんずく、政界には全く無関係の人たち。
関係したい等とは思わずに、それぞれの道を生きてきた人たち。
これまでの政党が、実は、全部が時代遅れの政党である事を、日本保守党の誕生は告げていた。
日本保守党の誕生は、戦後の政治史上最大の事件なのです。
この事象をもたらしたのが、安倍晋三暗殺事件だった事、
その事が、日本の政界にもたらした事象の象徴としての、
「LGBT法案成立の経緯」である事は、歴然たる事実です。
日本保守党に、日本中の「国宝」が瞬時に参集したのは、
日本国が、本当の「危機」にあるからです。
中国の静かなる侵略どころか、もはや「公然たる侵略」、
公金にたかる、国民の税金で飯を食う左翼の、政権中枢への公然たる侵略は、日本崩壊の一歩手前まで来ているからです。
既存メディアを支配して来たのは、実は、たった約30,000人の人間たち。
では、彼らはどんな人間たちか?
偽善と、自虐史観と、反日思想に塗れている精神年齢12歳の人間たちです。
そんな人間たちが支配してきた日本に対して、日本中の「国宝」が、
NOを突き付けた。
それが、日本保守党の誕生という、戦後政治史上最大の事象の本質です。
日本を救う為に、日本保守党が誕生した事は、「日本を豊かに、強く」、
そのタイトルに、現れているではありませんか。
日本保守党は、必ず、勝ちます。
先陣を切って、飯山陽さんが勝利します。
選挙を戦いであると考えれば、必勝が戦いの真理です。
勝ち馬に乗る、という言葉があります。
それは、正しい言葉だと言えます。
何故なら、衆議院選挙において、勝ち馬に乗ることは、とても大事なことだからです。
日本を守りたい、日本を豊かな国に戻したい、日本を強い国にしたい、
あなたの思いが、実現されるからです。
今回の江東区、東京15区の衆議院補欠選挙で、
飯山あかりさんに、あなたも1票を入れなければなりません。
飯山あかりさん以外の候補者は、極言すれば、政治屋以前の人間たちばかりです。
わけても、4/19に、飯山あかりさん、及び日本保守党に対して、やくざ同然の妨害行為をなした人間たちまでいます。
この事については次章に書きますが、彼らの行動が犯罪行為そのものである事は歴然としています。
稀にみる人物であり、人格者であり、真の識見と胆力を持った彼女以外に、
あなたの大事な1票を入れる候補者はいません。
あなたの1票は、彼女と日本保守党を、圧倒的な大勝利に導きます。
その大勝利は、来るべき総選挙において、日本保守党が、全選挙区に、
「国宝」を立てる事を、更に促す事になります。
考えてみて下さい。
世界最高の綱領を掲げている日本保守党が第一党になる、
少なくとも、与党の重要構成党になるのです。
世界最高の国が、全てにおいて、世界最高の国となって、
世界をリードすることになります。
米国は、今、病んでいますが、日本保守党が持っている真に知的なパワーだけが、米国を救い、正すでしょう。
日本と米国は、後170年「文明のターンテーブル」が回っている国として、世界をリードしてゆかなければなりません。
そうして、初めて、世界に、真の平和と豊かさが訪れるからです。
今、あなたの、その1票は、日本史上最大の重みを持っています。
あなたが、飯山あかりさんに入れる1票は、文明のターンテーブルが回っている国である日本が、安倍さんが生きていた時の日本に戻り、
米国と並んで、世界のリーダーとして、世界を導く1票になるからです。
特に、今回、初めて投票権を行使する18歳以上の人たちは、稀代の人物であり、人格者であり、本物の教養人である、
飯山あかりさんに投票できる幸せを、噛みしめて、投票して下さい。
あなたがたが投票したら、投票率は、近年最高の投票率となります。
つまり、あなたの1票が、日本が、断然、世界最高の民主主義国家であることを、全世界に再認識させる事になるのです。
本当に、どうしようもない国連も改革できます。
あなたの1票は、日本のみならず、世界にとっても、史上最大の1票になるのですから。
何をさておいても、飯山あかり、という稀有な知性、胆力の持ち主に大勝利を与え、
堕落した日本の政治、偽善の塊のマスメディア、左翼小児病患者たちが支配している大学、
それら、日本の全ての欠点を正す、
それが、あなたの、飯山あかりへの1票の意味です。
今、これ以上に、重要なことは、どこにもないでしょう。
投票日当日に予定がある人も、ない人も、本稿を読んだら、直ぐに、
期日前投票に向かって下さい。
あなたたちが動いて、15区の投票率を、日本史上最高にしましょう。
その日から、あなたが豊かに、強くなります。
あなたの給料も、ご両親の給料も、上昇し続ける日本になるのですから。
投票は期日前投票が一番便利です。
空いているから直ぐに、あっという間の短時間に投票が完了します。
期日前投票ができる期間は、4月27日(土曜日)までです。
しかも、期日前投票は、以下の9か所いずれの場所でもできます。
投票日当日(4/28)は、入場整理券に記載された投票所でなければ投票ができないのですから、
期日前投票の利便性は、圧倒的です。
江東区で投票ができる期日前投票所は以下の9か所です。
2024/4/12 in Kyoto
江東区に住んでいる18歳以上の有権者で、日本を心底愛している人、
日本を守りたい、豊かな日本に戻したい、日本を強くしたい、と考えている人たちは、
全員、本稿を読んだら、期日前投票に向かい、日本保守党から出馬した、稀にみる本物である、飯山あかりさんに1票を投じなければなりません。
その理由を、本欄が、日本保守党について言及してきた章の中から、抜粋してお伝えします。
4/20、改訂版
日本中の「国宝」がNOを突き付けた。
それが日本保守党の誕生という戦後政治史上最大の事象の本質です。
2024年03月27日
時代は、とうにインターネットの時代になっていたから、日本保守党に、
日本の47都道府県にいる、最澄が定義したところの「国宝」が参集した。
インターネットの時代である事を証明して、瞬時に参集したのである。
大半の人たちが、私と同様に、これまで政党の党員になった事はない人たちである。
安倍首相存命時、高市早苗さんが総裁選に立候補した時に、自民党員になった人を除いて。
日本保守党の政策、綱領どおりの国にする。
安倍晋三が暗殺されて以降に、一気に、国民の税金にたかる、国民の税金で飯を食う左翼に支配され出した日本、偽善に塗(まみ)れだした日本の有様を止める。
然も、この左翼は、世界に二つしかない反日国家・地域と通じている人間達であることは、歴然たる事実である。
危険水域に入ってきた「中国の静かなる侵略」を止める為に、日本国中の「国宝」が立ち上がった。
もはや、私と同様に、全員が、何のてらいもなく、言わなければならない。
「国宝」が立ち上がったのだと。
年末に、立候補者を公募した際には、瞬時に350人超が応募した。
これも空前絶後の事である。
日本の最良が、「国宝」が、瞬時に350人超参集した事も空前絶後の事件である。
日本保守党の執行部が、真の国士である事は、全員が認めている。
私を含めて、大半の人たちは、実際は、大変な仕事を成し遂げて来た人たちである。
だが、言論界、なかんずく、政界には全く無関係の人たち。
関係したい等とは思わずに、それぞれの道を生きてきた人たち。
これまでの政党が、実は、全部が時代遅れの政党である事を、日本保守党の誕生は告げていた。
日本保守党の誕生は、戦後の政治史上最大の事件なのです。
この事象をもたらしたのが、安倍晋三暗殺事件だった事、
その事が、日本の政界にもたらした事象の象徴としての、
「LGBT法案成立の経緯」である事は、歴然たる事実です。
日本保守党に、日本中の「国宝」が瞬時に参集したのは、
日本国が、本当の「危機」にあるからです。
中国の静かなる侵略どころか、もはや「公然たる侵略」、
公金にたかる、国民の税金で飯を食う左翼の、政権中枢への公然たる侵略は、日本崩壊の一歩手前まで来ているからです。
既存メディアを支配して来たのは、実は、たった約30,000人の人間たち。
では、彼らはどんな人間たちか?
偽善と、自虐史観と、反日思想に塗れている精神年齢12歳の人間たちです。
そんな人間たちが支配してきた日本に対して、日本中の「国宝」が、
NOを突き付けた。
それが、日本保守党の誕生という、戦後政治史上最大の事象の本質です。
日本を救う為に、日本保守党が誕生した事は、「日本を豊かに、強く」、
そのタイトルに、現れているではありませんか。
日本保守党は、必ず、勝ちます。
先陣を切って、飯山陽さんが勝利します。
選挙を戦いであると考えれば、必勝が戦いの真理です。
勝ち馬に乗る、という言葉があります。
それは、正しい言葉だと言えます。
何故なら、衆議院選挙において、勝ち馬に乗ることは、とても大事なことだからです。
日本を守りたい、日本を豊かな国に戻したい、日本を強い国にしたい、
あなたの思いが、実現されるからです。
今回の江東区、東京15区の衆議院補欠選挙で、
飯山あかりさんに、あなたも1票を入れなければなりません。
飯山あかりさん以外の候補者は、極言すれば、政治屋以前の人間たちばかりです。
わけても、4/19に、飯山あかりさん、及び日本保守党に対して、やくざ同然の妨害行為をなした人間たちまでいます。
この事については次章に書きますが、彼らの行動が犯罪行為そのものである事は歴然としています。
稀にみる人物であり、人格者であり、真の識見と胆力を持った彼女以外に、
あなたの大事な1票を入れる候補者はいません。
あなたの1票は、彼女と日本保守党を、圧倒的な大勝利に導きます。
その大勝利は、来るべき総選挙において、日本保守党が、全選挙区に、
「国宝」を立てる事を、更に促す事になります。
考えてみて下さい。
世界最高の綱領を掲げている日本保守党が第一党になる、
少なくとも、与党の重要構成党になるのです。
世界最高の国が、全てにおいて、世界最高の国となって、
世界をリードすることになります。
米国は、今、病んでいますが、日本保守党が持っている真に知的なパワーだけが、米国を救い、正すでしょう。
日本と米国は、後170年「文明のターンテーブル」が回っている国として、世界をリードしてゆかなければなりません。
そうして、初めて、世界に、真の平和と豊かさが訪れるからです。
今、あなたの、その1票は、日本史上最大の重みを持っています。
あなたが、飯山あかりさんに入れる1票は、文明のターンテーブルが回っている国である日本が、安倍さんが生きていた時の日本に戻り、
米国と並んで、世界のリーダーとして、世界を導く1票になるからです。
特に、今回、初めて投票権を行使する18歳以上の人たちは、稀代の人物であり、人格者であり、本物の教養人である、
飯山あかりさんに投票できる幸せを、噛みしめて、投票して下さい。
あなたがたが投票したら、投票率は、近年最高の投票率となります。
つまり、あなたの1票が、日本が、断然、世界最高の民主主義国家であることを、全世界に再認識させる事になるのです。
本当に、どうしようもない国連も改革できます。
あなたの1票は、日本のみならず、世界にとっても、史上最大の1票になるのですから。
何をさておいても、飯山あかり、という稀有な知性、胆力の持ち主に大勝利を与え、
堕落した日本の政治、偽善の塊のマスメディア、左翼小児病患者たちが支配している大学、
それら、日本の全ての欠点を正す、
それが、あなたの、飯山あかりへの1票の意味です。
今、これ以上に、重要なことは、どこにもないでしょう。
投票日当日に予定がある人も、ない人も、本稿を読んだら、直ぐに、
期日前投票に向かって下さい。
あなたたちが動いて、15区の投票率を、日本史上最高にしましょう。
その日から、あなたが豊かに、強くなります。
あなたの給料も、ご両親の給料も、上昇し続ける日本になるのですから。
投票は期日前投票が一番便利です。
空いているから直ぐに、あっという間の短時間に投票が完了します。
期日前投票ができる期間は、4月27日(土曜日)までです。
しかも、期日前投票は、以下の9か所いずれの場所でもできます。
投票日当日(4/28)は、入場整理券に記載された投票所でなければ投票ができないのですから、
期日前投票の利便性は、圧倒的です。
2024/4/12 in Kyoto
O seguinte é da coluna de Masayuki Takayama na última seção do Shukan Shincho de hoje.
Este artigo também prova que ele é o único jornalista no mundo do pós-guerra.
É uma leitura obrigatória não apenas para o povo japonês, mas para pessoas de todo o mundo.
A bomba atômica é divertida
A recente guerra contra o Japão foi uma série de situações do tipo "não era para acontecer" tanto para Roosevelt (FDR) como para Churchill.
O início de Pearl Harbor também não deveria ser assim.
Os japoneses haviam atingido a armadilha de FDR, uma frota isca dos EUA colocada em Pearl Harbor, conforme ordenado.
Além disso, o idiota embaixador atrasou o ultimato, tornando o ataque a Pearl Harbor um "ataque furtivo".
Ele interpretou um vilão brilhante, e eu gostaria de elogiá-lo, mas os danos à frota dos EUA foram tão grandes que “não poderia ter sido” como foi.
Existe uma explicação para isso.
A guerra dos EUA tem sido modelada há muito tempo no Álamo.
Primeiro, o inimigo mata civis dos EUA.
No Álamo, 250 pessoas foram mortas e atacaram o México sob o pretexto de "Lembre-se do Álamo" ou de uma guerra justa.
A mesma coisa aconteceu na Guerra Hispano-Americana.
Os espanhóis não detonaram, então eles próprios explodiram o Maine e gritaram: "Lembrem-se do Maine", para declarar uma batalha.
Desta vez, ele encurralou o Japão com um embargo de petróleo e convidou-os a irem a Pearl Harbor para atacarem como quisessem.
Mas havia preocupações.
De acordo com o crítico militar Fletcher Pratt, “os japoneses são míopes e crescem sendo carregados nas costas, então seus canais semicirculares são estranhos e eles não podem mergulhar com bombas”.
Mesmo que a frota dos EUA fosse enganada, os aviões japoneses estariam tão confusos que não poderia ocorrer uma única vítima.
FDR rezou por um desastre semelhante ao do Álamo, mas os seus receios eram infundados.
Os aviões japoneses afundaram o Arizona com bombardeios horizontais e bombardearam e torpedearam outros navios, matando 2.400.
Ele matou muitos de seu povo através de seu engano.
FDR declarou guerra ao Japão no Congresso, murmurando: "Não era para ser assim", de acordo com "Roosevelt's Responsibility for Starting the War", de Hamilton Huish, traduzido por Soki Watanabe.
Churchill também subestimou os militares japoneses.
Ele despachou o navio de guerra de última geração Príncipe de Gales para defender as colônias britânicas na Ásia.
No segundo dia de guerra, o navio inafundável foi rapidamente afundado por aviões japoneses.
Churchill mastigou o umbigo, dizendo: “Não era para acontecer assim”.
O Zero Fighter do Japão não era páreo para os caças da Grã-Bretanha, dos Estados Unidos, da Alemanha ou da União Soviética.
O caça Zero destruiu facilmente até mesmo a B17, uma bomba pesada dos EUA que nunca havia sido lançada.
Os britânicos perderam Hong Kong e Singapura, e os EUA perderam as Filipinas.
FDR não tinha ideia de que MacArthur era tão covarde.
Assim, os japoneses libertaram as colónias da Ásia, que tinham sido uma valiosa fonte de receitas para as nações ocidentais.
Mais uma vez, FDR deu a desculpa: “Isso não era para acontecer”.
No entanto, os Estados Unidos também tiveram algumas surpresas felizes.
Projeto Manhattan de Oppenheimer.
Não havia cientistas excelentes nos Estados Unidos.
Era impossível fabricar.
Na Europa, havia muitos bons cientistas judeus.
Então Hitler os expurgou.
Os EUA conseguiram 2.000 cientistas com pouco esforço.
Fazer uma bomba nuclear era considerado um trabalho perigoso.
Pólvora foi usada.
As ferramentas foram feitas propositalmente de berílio, que não eletrifica.
E quando eles tentaram, foi simples.
De acordo com o Departamento de Energia dos EUA, “bombas do tipo urânio explodem sem falhar, portanto não há necessidade de testes prévios”.
O tipo de plutónio, que pode ser produzido em massa a baixo custo, é difícil de construir para detonação, por isso a experiência foi conduzida em Alamogordo.
Por alguma razão, o filme "Oppenheimer" mostra apenas o maior clímax do teste em um filme rudimentar de efeitos especiais.
Truman estava pronto para partir e, quando chegou a Potsdam animado, descobriu que o Japão já estava prestes a se render.
Truman apressadamente fez um truque para obscurecer o status do imperador e protelar a rendição até que pudesse lançar duas bombas atômicas sobre o Japão.
O filme cria cuidadosamente a ficção de que “o Japão, uma nação brutal que estava matando o povo da Ásia, não se renderia até que duas bombas atômicas fossem lançadas.
Depois vem a notícia dos atentados.
A visão do povo japonês, que ficou tão feliz ao saber que as nossas bombas atómicas tinham matado dezenas de milhares de pessoas, foi muito mais assustadora.
2024/4/12 in Kyoto
Ce qui suit est tiré de la chronique de Masayuki Takayama dans la dernière section du Shukan Shincho d'aujourd'hui.
Cet article prouve également qu’il est le seul et unique journaliste du monde d’après-guerre.
C'est une lecture incontournable non seulement pour le peuple japonais mais pour le monde entier.
La bombe atomique est amusante
La récente guerre contre le Japon a été une série de situations « ce n’était pas censé arriver » tant pour Roosevelt (FDR) que pour Churchill.
Le début de Pearl Harbor n’était pas non plus censé se dérouler ainsi.
Les Japonais avaient touché le piège de FDR, une flotte américaine leurre placée à Pearl Harbor, comme ordonné.
De plus, cet idiot d'ambassadeur a retardé l'ultimatum, faisant de l'attaque de Pearl Harbor une « attaque sournoise ».
Il a joué un brillant méchant, et je voudrais le féliciter, mais les dégâts causés à la flotte américaine ont été si importants qu'ils « n'auraient pas pu être » ainsi.
Il y a une explication à cela.
La guerre américaine a longtemps été calquée sur celle d’Alamo.
Premièrement, l’ennemi tue des civils américains.
À Alamo, 250 personnes ont été tuées et ont attaqué le Mexique sous couvert de « Souvenez-vous d'Alamo » ou d'une guerre juste.
La même chose s’est produite lors de la guerre hispano-américaine.
Les Espagnols ne l'ont pas déclenché, alors ils ont eux-mêmes fait exploser le Maine et ont crié « Souvenez-vous du Maine » pour déclarer une bataille.
Cette fois, il a acculé le Japon avec un embargo pétrolier et les a invités à Pearl Harbor pour se déchaîner à leur guise.
Mais il y avait des inquiétudes.
Selon le critique militaire Fletcher Pratt, « les Japonais sont myopes et grandissent en étant portés sur le dos, donc leurs canaux semi-circulaires sont étranges et ils ne peuvent pas plonger avec une bombe ».
Même si la flotte américaine était leurrée, les avions japonais seraient tellement en désordre qu’il n’y aurait pas une seule victime.
FDR a prié pour un désastre comparable à celui d'Alamo, mais ses craintes étaient infondées.
Les avions japonais ont coulé l'Arizona avec des bombardements horizontaux et ont bombardé et torpillé d'autres navires, tuant 2 400 personnes.
Il avait tué un grand nombre de ses gens à cause de sa tromperie.
FDR a déclaré la guerre au Japon au Congrès, en marmonnant : « Ce n'était pas censé se passer comme ça », selon « La responsabilité de Roosevelt dans le déclenchement de la guerre » de Hamilton Huish, traduit par Soki Watanabe.
Churchill a également sous-estimé l’armée japonaise.
Il envoya le cuirassé ultramoderne Prince of Wales pour défendre les colonies britanniques en Asie.
Au deuxième jour de la guerre, le navire insubmersible est rapidement coulé par les avions japonais.
Churchill se mordit le nombril en disant : « Cela n'était pas censé se passer de cette façon. »
Le Zero Fighter japonais n'était pas à la hauteur des avions de combat britanniques, américains, allemands ou soviétiques.
Le chasseur Zero a facilement détruit même le B17, une bombe lourde américaine qui n’avait jamais été larguée.
Les Britanniques ont perdu Hong Kong et Singapour, et les États-Unis les Philippines.
FDR ne savait pas que MacArthur était un tel lâche.
Ainsi, les Japonais libérèrent les colonies d’Asie, qui constituaient une source précieuse de revenus pour les nations occidentales.
Encore une fois, FDR a avancé l'excuse : "Cela n'était pas censé arriver".
Toutefois, les États-Unis ont également eu quelques heureuses surprises.
Le projet Manhattan d'Oppenheimer.
Il n’y avait pas d’excellents scientifiques aux États-Unis.
C'était impossible à fabriquer.
En Europe, il y avait beaucoup de bons scientifiques juifs.
Puis Hitler les a purgés.
Les États-Unis ont recruté 2 000 scientifiques sans grand effort.
Fabriquer une bombe nucléaire était considéré comme un travail dangereux.
De la poudre à canon a été utilisée.
Les outils ont été volontairement fabriqués en béryllium, qui ne s'électrise pas.
Et quand ils l’ont essayé, c’était simple.
Selon le ministère américain de l'Énergie, « les bombes à l'uranium explosent sans faute, il n'est donc pas nécessaire de procéder à des tests préalables ».
Le type plutonium, qui peut être produit en masse à moindre coût, est difficile à construire pour la détonation, c'est pourquoi l'expérience a été menée à Alamogordo.
Pour une raison quelconque, le film "Oppenheimer" ne montre que le plus grand point culminant du test dans un film d'effets spéciaux grossier.
Truman était prêt à partir, et lorsqu'il arriva à Potsdam de bonne humeur, il découvrit que le Japon était déjà sur le point de se rendre.
Truman s'est empressé de mettre au point une astuce pour masquer le statut de l'empereur et retarder la capitulation jusqu'à ce qu'il puisse larguer deux bombes atomiques sur le Japon.
Le film crée soigneusement la fiction selon laquelle « le Japon, une nation brutale qui tuait les peuples d'Asie, ne se rendrait pas tant que deux bombes atomiques ne seraient pas larguées.
Vient ensuite la nouvelle des attentats.
Le spectacle du peuple japonais, si heureux d’apprendre que nos bombes atomiques avaient tué des dizaines de milliers de personnes, était bien plus effrayant.
2024/4/12 in Kyoto
Das Folgende stammt aus Masayuki Takayamas Kolumne im letzten Abschnitt des heutigen Shukan Shincho.
Dieser Artikel beweist auch, dass er der einzige Journalist in der Nachkriegswelt ist.
Es ist nicht nur für die Japaner, sondern für Menschen auf der ganzen Welt eine Pflichtlektüre.
Die Atombombe macht Spaß
Der jüngste Krieg gegen Japan war sowohl für Roosevelt (FDR) als auch für Churchill eine Reihe von „es hätte nicht passieren dürfen“-Situationen.
Auch der Anfang von Pearl Harbor hätte nicht so sein sollen.
Die Japaner hatten FDRs Falle getroffen, eine Lockvogelflotte der USA, die wie befohlen in Pearl Harbor stationiert war.
Darüber hinaus verzögerte der idiotische Botschafter das Ultimatum und machte den Angriff auf Pearl Harbor zu einem „Schleichangriff“.
Er spielte einen brillanten Bösewicht, und ich möchte ihn loben, aber der Schaden für die US-Flotte war so groß, dass es „nicht hätte sein können“, wie es war.
Dafür gibt es eine Erklärung.
Der US-Krieg ist seit langem auf Alamo ausgerichtet.
Erstens tötet der Feind US-Zivilisten.
In Alamo wurden 250 Menschen getötet und sie griffen Mexiko unter dem Deckmantel von „Remember the Alamo“ oder eines gerechten Krieges an.
Das Gleiche geschah im Spanisch-Amerikanischen Krieg.
Die Spanier haben es nicht gezündet, also haben sie Maine selbst in die Luft gesprengt und „Erinnert euch an Maine“ gerufen, um den Kampf auszurufen.
Dieses Mal drängte er Japan mit einem Ölembargo in die Enge und lud sie nach Pearl Harbor ein, um nach Belieben zu toben.
Aber es gab Bedenken.
Dem Militärkritiker Fletcher Pratt zufolge „sind Japaner kurzsichtig und werden auf dem Rücken getragen, daher sind ihre halbkreisförmigen Kanäle seltsam und sie können nicht bombardieren.“
Selbst wenn die US-Flotte abgeschreckt würde, wären die japanischen Flugzeuge so kaputt, dass kein einziges Opfer zu beklagen wäre.
FDR betete für eine Katastrophe wie in Alamo, aber seine Befürchtungen waren unbegründet.
Japanische Flugzeuge versenkten die Arizona mit horizontalen Bombenangriffen und bombardierten und torpedierten andere Schiffe im Sturzflug, wobei 2.400 Menschen getötet wurden.
Er hatte durch seine Täuschung so viele seiner Leute getötet.
FDR erklärte Japan im Kongress den Krieg und murmelte: „So hätte es nicht sein sollen“, so Hamilton Huishs „Roosevelts Verantwortung für den Beginn des Krieges“, übersetzt von Soki Watanabe.
Churchill unterschätzte auch das japanische Militär.
Er entsandte das hochmoderne Schlachtschiff Prince of Wales, um die britischen Kolonien in Asien zu verteidigen.
Am zweiten Kriegstag wurde das unsinkbare Schiff schnell von japanischen Flugzeugen versenkt.
Churchill kaute auf seinem Nabel und sagte: „So hätte es nicht passieren dürfen.“
Japans Zero Fighter war den Kampfflugzeugen aus Großbritannien, den Vereinigten Staaten, Deutschland oder der Sowjetunion nicht gewachsen.
Der Zero-Jäger zerstörte problemlos sogar die B17, eine schwere US-Bombe, die noch nie abgeworfen worden war.
Die Briten verloren Hongkong und Singapur und die USA die Philippinen.
FDR hatte keine Ahnung, dass MacArthur solch ein Feigling war.
So befreiten die Japaner die Kolonien Asiens, die für westliche Nationen eine wertvolle Einnahmequelle gewesen waren.
Wieder entschuldigte sich FDR: „Es hätte nicht passieren dürfen.“
Allerdings erlebten die Vereinigten Staaten auch einige glückliche Überraschungen.
Oppenheimers Manhattan-Projekt.
In den Vereinigten Staaten gab es keine hervorragenden Wissenschaftler.
Es war unmöglich herzustellen.
In Europa gab es viele gute jüdische Wissenschaftler.
Dann säuberte Hitler sie.
Die USA haben mit geringem Aufwand 2.000 Wissenschaftler bekommen.
Der Bau einer Atombombe galt als gefährliche Arbeit.
Es wurde Schießpulver verwendet.
Die Werkzeuge wurden bewusst aus Beryllium hergestellt, das sich nicht elektrisiert.
Und als sie es versuchten, war es unkompliziert.
Nach Angaben des US-Energieministeriums „explodieren Bomben vom Urantyp unweigerlich, sodass keine vorherigen Tests erforderlich sind.“
Der Plutoniumtyp, der kostengünstig in Massenproduktion hergestellt werden kann, ist für die Detonation schwer zu konstruieren, daher wurde das Experiment in Alamogordo durchgeführt.
Aus irgendeinem Grund zeigt der Film „Oppenheimer“ nur den größten Höhepunkt des Tests in einem groben Spezialeffektfilm.
Truman war bereit zu gehen, und als er in bester Stimmung in Potsdam einritt, stellte er fest, dass Japan bereits kurz vor der Kapitulation stand.
Truman machte eilig einen Trick, um den Status des Kaisers zu verschleiern und die Kapitulation hinauszuzögern, bis er zwei Atombomben auf Japan abwerfen konnte.
Der Film kreiert sorgfältig die Fiktion, dass „Japan, eine brutale Nation, die die Menschen in Asien tötete, nicht kapitulieren würde, bis zwei Atombomben abgeworfen würden.“
Dann kommt die Nachricht von den Bombenanschlägen.
Viel beängstigender war der Anblick des japanischen Volkes, das so überglücklich war, als es hörte, dass unsere Atombomben Zehntausende Menschen getötet hatten.
2024/4/12 in Kyoto
Lo siguiente es de la columna de Masayuki Takayama en la última sección del Shukan Shincho de hoy.
Este artículo también demuestra que es el único periodista en el mundo de la posguerra.
Es una lectura obligada no sólo para el pueblo japonés sino para todo el mundo.
La bomba atómica es divertida
La reciente guerra contra Japón fue una serie de situaciones que "no se suponía que sucedieran" tanto para Roosevelt (FDR) como para Churchill.
Tampoco se suponía que el comienzo de Pearl Harbor fuera así.
Los japoneses habían caído en la trampa de FDR, un señuelo que la flota estadounidense había colocado en Pearl Harbor, tal como se había ordenado.
Además, el idiota del embajador retrasó el ultimátum, convirtiendo el ataque a Pearl Harbor en un "ataque furtivo".
Interpretó a un villano brillante y me gustaría felicitarlo, pero el daño a la flota estadounidense fue tan grande que "no podría haber sido" como fue.
Hay una explicación para esto.
La guerra de Estados Unidos se ha inspirado durante mucho tiempo en el modelo del Álamo.
Primero, el enemigo mata a civiles estadounidenses.
En El Álamo murieron 250 personas y atacaron a México con el pretexto de "Recordad el Álamo" o una guerra justa.
Lo mismo ocurrió en la guerra hispanoamericana.
Los españoles no lo desencadenaron, por lo que ellos mismos volaron Maine y gritaron: "Recordad Maine" para declarar la batalla.
Esta vez, arrinconó a Japón con un embargo de petróleo y los invitó a Pearl Harbor para arrasar a su antojo.
Pero había preocupaciones.
Según el crítico militar Fletcher Pratt, "los japoneses son miopes y crecen cargados sobre sus espaldas, por lo que sus canales semicirculares son extraños y no pueden lanzar bombas en picado".
Incluso si se atrajera a la flota estadounidense, los aviones japoneses estarían tan estropeados que no se produciría ni una sola baja.
FDR oró por un desastre a la par del Álamo, pero sus temores eran infundados.
Los aviones japoneses hundieron el Arizona con bombardeos horizontales y bombardearon en picado y torpedearon otros barcos, matando a 2.400 personas.
Había matado a muchos de su pueblo mediante su engaño.
FDR declaró la guerra a Japón en el Congreso, murmurando: "No se suponía que fuera así", según "La responsabilidad de Roosevelt por iniciar la guerra" de Hamilton Huish, traducido por Soki Watanabe.
Churchill también subestimó al ejército japonés.
Envió el acorazado de última generación Príncipe de Gales para defender las colonias británicas en Asia.
El segundo día de la guerra, el barco insumergible fue rápidamente hundido por aviones japoneses.
Churchill se mordió el ombligo y dijo: "No se suponía que sucediera así".
El Zero Fighter de Japón no era rival para los aviones de combate de Gran Bretaña, Estados Unidos, Alemania o la Unión Soviética.
El caza Zero destruyó fácilmente incluso la B17, una bomba pesada estadounidense que nunca había sido lanzada.
Los británicos perdieron Hong Kong y Singapur, y Estados Unidos perdió Filipinas.
FDR no tenía idea de que MacArthur fuera tan cobarde.
Así, los japoneses liberaron las colonias de Asia, que habían sido una valiosa fuente de ingresos para las naciones occidentales.
Una vez más, FDR puso la excusa: "Se suponía que no debía suceder".
Sin embargo, Estados Unidos también tuvo algunas sorpresas afortunadas.
Proyecto Manhattan de Oppenheimer.
No había científicos excelentes en los Estados Unidos.
Era imposible fabricarlo.
En Europa había muchos buenos científicos judíos.
Luego Hitler los purgó.
Estados Unidos consiguió 2.000 científicos con poco esfuerzo.
Fabricar una bomba nuclear se consideraba un trabajo peligroso.
Se utilizó pólvora.
Las herramientas estaban hechas expresamente de berilio, que no electrifica.
Y cuando lo probaron, fue sencillo.
Según el Departamento de Energía de Estados Unidos, "las bombas de tipo uranio explotan sin falta, por lo que no es necesario realizar pruebas previas".
El tipo de plutonio, que puede producirse en masa a bajo costo, es difícil de construir para la detonación, por lo que el experimento se llevó a cabo en Alamogordo.
Por alguna razón, la película "Oppenheimer" sólo muestra el mayor clímax de la prueba en una tosca película de efectos especiales.
Truman estaba listo para partir, y cuando llegó a Potsdam de muy buen humor, descubrió que Japón ya estaba a punto de rendirse.
Truman se apresuró a idear un truco para ocultar el estatus del Emperador y retrasar la rendición hasta que pudiera lanzar dos bombas atómicas sobre Japón.
La película crea cuidadosamente la ficción de que "Japón, una nación brutal que estaba matando a la gente de Asia, no se rendiría hasta que se lanzaran dos bombas atómicas.
Luego llega la noticia de los atentados.
La visión del pueblo japonés, que se alegró tanto al saber que nuestras bombas atómicas habían matado a decenas de miles de personas, fue mucho más aterradora.
2024/4/12 in Kyoto
Quanto segue è tratto dall'articolo di Masayuki Takayama nell'ultima sezione dello Shukan Shincho di oggi.
Questo articolo dimostra anche che è l'unico giornalista nel mondo del dopoguerra.
È una lettura obbligata non solo per il popolo giapponese ma per le persone di tutto il mondo.
La bomba atomica è divertente
La recente guerra contro il Giappone è stata una serie di situazioni “non doveva accadere” sia per Roosevelt (FDR) che per Churchill.
Anche l'inizio di Pearl Harbor non doveva essere così.
I giapponesi avevano colpito la trappola di FDR, un'esca della flotta americana piazzata a Pearl Harbor, proprio come ordinato.
Inoltre, l'ambasciatore idiota ha ritardato l'ultimatum, rendendo l'attacco a Pearl Harbor un "attacco furtivo".
Ha interpretato un cattivo brillante e vorrei lodarlo, ma il danno alla flotta americana è stato così grande che "non avrebbe potuto essere" così com'era.
C'è una spiegazione per questo.
La guerra degli Stati Uniti è stata a lungo modellata sull’Alamo.
Innanzitutto, il nemico uccide i civili statunitensi.
Ad Alamo furono uccise 250 persone e attaccarono il Messico con il pretesto di "Ricordate Alamo" o di una guerra giusta.
La stessa cosa accadde nella guerra ispano-americana.
Gli spagnoli non lo fecero esplodere, quindi fecero saltare in aria il Maine e gridarono: "Ricordati del Maine", per dichiarare battaglia.
Questa volta, ha messo alle strette il Giappone con un embargo petrolifero e lo ha invitato a Pearl Harbor per scatenarsi a loro piacimento.
Ma c'erano preoccupazioni.
Secondo il critico militare Fletcher Pratt, "i giapponesi sono miopi e crescono trasportati sulla schiena, quindi i loro canali semicircolari sono strani e non possono immergersi nelle bombe".
Anche se la flotta statunitense venisse ingannata, gli aerei giapponesi sarebbero così incasinati che non si potrebbe verificare una sola vittima.
FDR pregò per un disastro pari a quello di Alamo, ma i suoi timori erano infondati.
Gli aerei giapponesi affondarono l'Arizona con bombardamenti orizzontali e bombardarono in picchiata e silurarono altre navi, uccidendo 2.400 persone.
Aveva ucciso così tanti del suo popolo attraverso il suo inganno.
FDR dichiarò guerra al Giappone al Congresso, mormorando: "Non avrebbe dovuto essere così", secondo "La responsabilità di Roosevelt per l'inizio della guerra" di Hamilton Huish, tradotto da Soki Watanabe.
Churchill sottovalutò anche l’esercito giapponese.
Inviò la corazzata all'avanguardia Prince of Wales per difendere le colonie britanniche in Asia.
Il secondo giorno di guerra la nave inaffondabile fu rapidamente affondata dagli aerei giapponesi.
Churchill si morse l'ombelico, dicendo: "Non doveva andare così".
Lo Zero Fighter del Giappone non poteva competere con gli aerei da combattimento della Gran Bretagna, degli Stati Uniti, della Germania o dell'Unione Sovietica.
Il caccia Zero distrusse facilmente anche la B17, una bomba pesante americana che non era mai stata sganciata.
Gli inglesi persero Hong Kong e Singapore, mentre gli Stati Uniti persero le Filippine.
FDR non aveva idea che MacArthur fosse un tale codardo.
Così i giapponesi liberarono le colonie dell’Asia, che erano state una preziosa fonte di entrate per le nazioni occidentali.
Ancora una volta, FDR addusse la scusa: "Non sarebbe dovuto accadere".
Ma anche gli Stati Uniti hanno avuto delle sorprese fortunate.
Il Progetto Manhattan di Oppenheimer.
Negli Stati Uniti non c’erano scienziati eccellenti.
Era impossibile produrlo.
In Europa c’erano molti bravi scienziati ebrei.
Poi Hitler li eliminò.
Gli Stati Uniti hanno ottenuto 2.000 scienziati con poco sforzo.
Costruire una bomba nucleare era considerato un lavoro pericoloso.
È stata utilizzata la polvere da sparo.
Gli strumenti sono stati appositamente realizzati in berillio, che non elettrizza.
E quando l'hanno provato, è stato semplice.
Secondo il Dipartimento dell'Energia degli Stati Uniti, "le bombe del tipo all'uranio esplodono senza fallo, quindi non è necessario alcun test preventivo".
Il tipo di plutonio, che può essere prodotto in serie a buon mercato, è difficile da costruire per la detonazione, quindi l'esperimento è stato condotto ad Alamogordo.
Per qualche ragione, il film "Oppenheimer" mostra il più grande climax del test solo in un film con effetti speciali grezzi.
Truman era pronto a partire e quando arrivò a Potsdam di buon umore, scoprì che il Giappone era già sul punto di arrendersi.
Truman fece in fretta un trucco per oscurare lo status dell'Imperatore e ritardare la resa finché non avesse potuto sganciare due bombe atomiche sul Giappone.
Il film crea attentamente la finzione secondo cui "il Giappone, una nazione brutale che stava uccidendo il popolo asiatico, non si sarebbe arreso finché non fossero state sganciate due bombe atomiche.
Poi arriva la notizia degli attentati.
Lo spettacolo del popolo giapponese, così felice di sapere che le nostre bombe atomiche avevano ucciso decine di migliaia di persone, fu molto più spaventoso.
2024/4/12 in Kyoto
The following is from Masayuki Takayama's column in the latter section of today's Shukan Shincho.
This article also proves that he is the one and only journalist in the postwar world.
It is a must-read not only for the Japanese people but for people worldwide.
The Atomic Bomb is Fun
The recent war against Japan was a series of "it wasn't supposed to happen" situations for both Roosevelt (FDR) and Churchill.
The beginning of Pearl Harbor was not supposed to be like that either.
The Japanese had hit FDR's trap, a decoy U.S. fleet placed at Pearl Harbor, just as ordered.
In addition, the idiot ambassador delayed the ultimatum, making the attack on Pearl Harbor a "sneak attack."
He played a brilliant villain, and I would like to commend him, but the damage to the U.S. fleet was so great that it "could not have been" as it was.
There is an explanation for this.
The U.S. war has long been modeled on the Alamo.
First, the enemy kills U.S. civilians.
At the Alamo, 250 people were killed, and they attacked Mexico under the guise of "Remember the Alamo" or a just war.
The same thing happened in the Spanish-American War.
The Spanish didn't set it off, so they blew up Maine themselves and shouted, "Remember Maine," to declare a battle.
This time, he cornered Japan with an oil embargo and invited them to Pearl Harbor to rampage as they pleased.
But there were concerns.
According to military critic Fletcher Pratt, "Japanese people are short-sighted and grow up being carried on their backs, so their semicircular canals are weird, and they can't dive bomb."
Even if the U.S. fleet were decoyed, the Japanese planes would be so screwed up that not a single casualty might occur.
FDR prayed for a disaster on par with the Alamo, but his fears were unfounded.
Japanese planes sank the Arizona with horizontal bombing and dive-bombed and torpedoed other ships, killing 2,400.
He had killed so many of his people through his deceit.
FDR declared war on Japan in Congress, muttering, "It wasn't supposed to be like that," according to Hamilton Huish's "Roosevelt's Responsibility for Starting the War," translated by Soki Watanabe.
Churchill also underestimated the Japanese military.
He dispatched the state-of-the-art battleship Prince of Wales to defend the British colonies in Asia.
On the second day of the war, the unsinkable ship was quickly sunk by Japanese planes.
Churchill chewed his navel, saying, "It wasn't supposed to happen that way."
Japan's Zero Fighter was no match for fighter aircraft from Britain, the United States, Germany, or the Soviet Union.
The Zero fighter easily destroyed even the B17, a U.S. heavy bomb that had never been dropped.
The British lost Hong Kong and Singapore, and the U.S. lost the Philippines.
FDR had no idea that MacArthur was such a coward.
Thus, the Japanese liberated the colonies of Asia, which had been a valuable source of revenue for Western nations.
Again, FDR made the excuse, "It wasn't supposed to happen."
However, the United States also had some lucky surprises.
Oppenheimer's Manhattan Project.
There were no excellent scientists in the United States.
It was impossible to manufacture.
In Europe, there were many good Jewish scientists.
Then Hitler purged them.
The U.S. got 2,000 scientists with little effort.
Making a nuclear bomb was considered dangerous work.
Gunpowder was used.
The tools were purposely made of beryllium, which does not electrify.
And when they tried it, it was straightforward.
According to the U.S. Department of Energy, "Uranium-type bombs explode without fail, so there is no need for prior testing."
The plutonium type, which can be mass-produced cheaply, is difficult to construct for detonation, so the experiment was conducted at Alamogordo.
For some reason, the movie "Oppenheimer" only shows the biggest climax of the test in a crude special effects film.
Truman was ready to go, and when he rode into Potsdam in high spirits, he found that Japan was already on the verge of surrendering.
Truman hurriedly made a trick to obscure the Emperor's status and stall the surrender until he could drop two atomic bombs on Japan.
The film carefully creates the fiction that "Japan, a brutal nation that was killing the people of Asia, would not surrender until two atomic bombs were dropped.
Then comes the news of the bombings.
The sight of the Japanese people, who were so overjoyed to hear that our atomic bombs had killed tens of thousands of people, was much more frightening.
2024/4/12 in Kyoto
以下は本日発売された週刊新潮の掉尾を飾る高山正之の連載コラムからである。
本論文も彼が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストであることを証明している。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。
原爆は楽しい
先の対日戦はルーズベルト(FDR)にもチャーチルにも「そんなはずじゃなかった」事態の連続だった。
のっけの真珠湾もそんなはずではなかった。
日本はFDRの罠、真珠湾に置かれた囮の米艦隊を注文通りに襲った。
おまけに馬鹿な大使が最後通牒の通告を遅らせ、真珠湾攻撃を「卑劣な不意討ち」にまでした。
表彰してやりたいほど見事な悪役を演じてくれたけれど、ただ米艦隊の被害が「そんなはずじゃあない」ほど大きかった。
これには説明がいる。
米国の戦争は昔から「アラモ」がモデルだ。
まず敵に米市民を殺させる。
アラモでは250人が殺され、「リメンバー・アラモ」とか正義の戦いを装ってメキシコを攻めた。
米西戦争も同じ。
スペイン人が仕掛けてこないから自分でメイン号を爆破して「リメンバー・メイン」を叫んで戦いを宣した。
今回は日本を石油禁輸で追い詰め、真珠湾に誘って好きに暴れさせた。
ただ不安はあった。
軍事評論家フレッチャー・プラットは「日本人は近眼のうえ、おぶわれて育つから三半規管がおかしく急降下爆撃もできない」という。
せっかく米艦隊を囮にしても日本機がドジで一人の戦死者も出ない可能性もあるというのだ。
FDRはせめてアラモ並みの惨劇をと祈ったが、それは杞憂だった。
日本機は水平爆撃でアリゾナを沈め、他の艦船も急降下爆撃と雷撃で沈め2400人もが死んだ。
己のペテンで自国民をそんなにも殺してしまった。
「そんなはずじゃなかったのに」とぶつぶつ言いながらFDRは議会で対日宣戦を布告したとハミルトン・フイッシュ『ルーズベルトの開戦責任』(渡辺惣樹訳)にある。
チャーチルも日本軍を見くびっていた。
彼はアジアの英植民地を守るため最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズを出動させた。
そしたら開戦2日目に不沈戦艦は日本機の攻撃であっさり沈んでしまった。
「そんなはずじゃなかったのに」とチャーチルも臍(ほぞ)を噛んだ。
日本が登場させた零戦に至っては英米独ソのどの戦闘機も敵わなかった。
落とされたことのない米重爆B17まで零戦はたやすく屠ってしまった。
英国は香港、シンガポールを失い、米国もフィリピンを失った。
マッカーサーがあんな臆病者とはFDRも知らなかった。
かくて欧米諸国の貴重な財源だったアジアの植民地は日本軍によって悉く解放された。
FDRはここでも「そんなはずじゃなかった」と言い訳した。
ただ米国にもラッキーな予想外があった。
オッペンハイマーのマンハツタン計画だ。
米国にはいい科学者はいない。
製造は不可能だった。
欧州には優秀なユダヤ系科学者が多かった。
そしたらヒトラーが彼らをパージしてくれた。
米国は労せず2000人の科学者を手に入れた。
核爆弾の製造は危険な作業と思われた。
火薬も使う。
工具はわざわざ帯電しないペリリウム製にした。
で、やってみたらいとも簡単にできた。
米エネルギー省の資料には「ウラン型は確実に爆発するから事前の実験は不要」とある。
安く大量生産できるプルトニウム型は爆縮の構造が難しく、アラモゴルドで実験した。
この最大のヤマ場を映画『オッペンハイマー』はなぜかちゃちな特撮映像で済ましている。
準備は整い、トルーマンは意気揚々とポツダムに乗り込んでみたら日本はもう降伏寸前だった。
トルーマンは慌てて天皇の地位をあやふやにする小細工をし、2発の原爆を投下するまで降伏を引き延ばさせた。
映画はその辺を「アジアの民を殺し捲る残忍な日本は原爆を2発落とさないと降伏しない」という虚構を丁寧に作り上げている。
そして投下の報。
我々の原爆で何万も殺したと狂喜する彼らの姿の方がよっぽどコワかった。
2024/4/12 in Kyoto
江東区に住んでいる18歳以上の有権者で、日本を心底愛している人、日本を守りたい、豊かな日本に戻したい、日本を強くしたい、と考えている人たちは、全員、本欄を読んだら、期日前投票に向かい、日本保守党から出馬した、稀にみる本物である、飯山あかりさんに1票を投じなければなりません。
その理由を、本欄が、日本保守党について言及してきた章の中から、抜粋してお伝えします。
日本中の「国宝」がNOを突き付けた。
それが日本保守党の誕生という戦後政治史上最大の事象の本質です。
2024年03月27日
時代は、とうにインターネットの時代になっていたから、日本保守党に日本の47都道府県にいる、最澄が定義したところの「国宝」が参集した。
インターネットの時代である事を証明して、瞬時に参集したのである。
大半の人たちが私と同様に、これまで政党の党員になった事はない人たちである。
安倍首相存命時、高市早苗さんが総裁選に立候補した時に、自民党員になった人を除いて。
日本保守党の政策、綱領どおりの国にする。
安倍晋三が暗殺されて以降に、一気に、国民の税金にたかる、国民の税金で飯を食う左翼に支配され出した日本、偽善に塗(まみ)れだした日本の有様を止める。
然も、この左翼は、世界に二つしかない反日国家・地域と通じている人間達であることは、歴然たる事実である。
危険水域に入ってきた、「中国の静かなる侵略」を止める為に、日本国中の「国宝」が立ち上がった。
もはや、私と同様に、全員が、何のてらいもなく、言わなければならない。
「国宝」が立ち上がったのだと。
年末に、立候補者を公募した際には、瞬時に350人超が応募した。
これも空前絶後の事である。
日本の最良が、「国宝」が瞬時に350人も参集したのも、空前絶後の事件である。
日本保守党の執行部が、真の国士である事は、全員が認めている。
私を含めて、大半の人たちは、実際は、大変な仕事を成し遂げて来た人たちである。
だが、言論界、なかんずく、政界には全く無関係の人たち。
関係したい等とは思わずに、それぞれの道を生きてきた人たち。
これまでの政党が、実は、全部が時代遅れの政党である事を、日本保守党の誕生は告げていたのです。
日本保守党の誕生は戦後の政治史上最大の事件なのです。
この事象をもたらしたのが、安倍晋三暗殺事件だった事、
その事が、日本の政界にもたらした事象の象徴としての、
「LGBT法案成立の経緯」である事は、歴然たる事実です。
日本保守党に、日本中の「国宝」が瞬時に参集したのは、日本国が本当に「危機」にあるからです。
中国の静かなる侵略どころか、もはや「公然たる侵略」、
公金チューチュー左翼の政権中枢への公然たる侵略は、日本崩壊の一歩手前まで来たからです。
既存メディアを支配して来たのは、実は、たった約30,000人の人間たちです。
では、彼らはどんな人間たちか?
偽善と、自虐史観と、反日思想に塗れている精神年齢12歳の人間たちです。
そんな人間たちが支配してきた日本に対して、日本中の「国宝」がNOを突き付けた。
それが、日本保守党の誕生という、戦後政治史上最大の事象の本質です。
日本を救う為に、日本保守党が誕生した事は、「日本を豊かに、強く」、そのタイトルに現れているではありませんか。
日本保守党は必ず勝ちます。
先陣を切って、飯山陽さんが勝利します。
選挙を戦いであると考えれば、必勝が戦いの真理です。
勝ち馬に乗る、という言葉があります。
それは、正しい言葉だと言えます。
何故なら、衆議院選挙において、勝ち馬に乗ることは、とても大事なことだからです。
日本を守りたい、日本を豊かな国に戻したい、日本を強い国にしたい…あなたの思いが実現されるからです。
今回の江東区、東京15区の衆議院補欠選挙で飯山あかりさんに、あなたも1票を入れる事は、稀にみる人物であり、人格者であり、真の知識人である彼女を圧倒的な大勝利に導きます。
その大勝利は、来るべき総選挙において、日本保守党は、全選挙区に「国宝」たちを立てるからです。
考えてみて下さい。
世界最高の綱領を掲げている日本保守党が第一党になる、少なくとも与党の重要構成党になるのです。
世界最高の国が、全てにおいて世界最高の国となって世界をリードすることになります。
米国は、今、病んでいますが、日本保守党が持っている真の知的なパワーが米国を救い癒すでしょう。
何故なら、日本と米国は、後170年「文明のターンテーブル」が回っている国として、世界をリードしてゆかなければならないからです。
そうして、初めて、世界に、真の平和と豊かさが訪れるからです。
今、あなたの、その1票は、日本史上最大の重みを持っています。
あなたが、飯山あかりさんに入れる1票は、文明のターンテーブルが回っている国である日本が、安倍さんが生きていた時の日本に戻り、米国と並んで、世界のリーダーとして、世界を導く1票になるからです。
特に、今回、初めて投票権を行使する18歳以上の人たちは、稀代の人物であり、人格者であり、本物の教養人である、飯山あかりさんに投票できる、幸せを噛みしめて投票して下さい。
2024/4/12 in Kyoto
It was the first-ranked chapter on the "It was a popular page yesterday, 4/17/2018" that we sent out yesterday.
No media outlet in the country mentions this self-proclaimed "military comfort woman" agent.
2018/04/16.
This chapter proved that now, the truth is on the Internet.
I re-read this column, thinking it was great.
Then, I searched for further confirmation and became even more convinced that the truth was on the Internet.
It is because the article about Ri Seong-sil is a fact that people who subscribe to the Asahi Shimbun and watch NHK would never know.
The following is a continuation of the previous chapter.
After returning to Japan, she immediately wrote a letter to her sister, saying she would eventually like to live in her hometown.
Six months later, she returned to South Korea with many souvenirs, stayed at her sister's house for a month, and even went on a 3-day/2-night trip to Jeju Island with her sister's children and their parents, deepening her friendship.
After April 1979, he returned to North Korea on a spy ship and stayed there for about four months, reporting on his past activities and discussing future missions.
In September 1979, Ri Seong-sil visited South Korea again and asked his sister's son's wife to find him a suitable house in Seoul.
She had sold her house in Japan and got 10 million yen.
She accepted the offer, visited several real estate agents, and ultimately purchased a house in Seoul.
It became her hideout in Korea.
Permanent Return" to Korea
In March 1980, she returned to Korea after sending a large number of gifts from Japan to her "sister" and her family, including a refrigerator, television, motorcycle, electric rice cooker, and sewing machine.
This time, she went into hiding for a long period of time.
She did not stay long at her sister's house but registered as a resident.
At the time, her sister's eldest son was the Jeonju Branch Office office manager in Peace-dong.
With his recommendation, she quickly registered under the name of "Shin Sun-jo," and her impersonation was completed.
After her "permanent return," she immediately moved to a house in Dongjak-gu, Seoul, which she had previously purchased, changed her name to her own, and changed her permanent address from Jeollabuk-do to her new address.
After a year of no public activities, in November 1981, he went to Youngdong Church in Seoul and asked the church steward for advice on how to adopt a daughter.
After a while, he was introduced to a 53-year-old woman who worked as an insurance salesman, and he adopted her as his adopted daughter.
It was a safety measure in case of emergency.
Meanwhile, she accumulated money by purchasing and reselling real estate in the name of her sister's children and her adopted daughter. Furthermore, she increased her funds by lending high-interest rates to her adopted daughter's acquaintances.
In October 1980, she was elected a Political Bureau and the Central Committee member at the Sixth Party Congress.
In November 1981, she was awarded the First Class of the Order of the National Flag.
Ri Seong-sil, who established a hideout in Seoul, carried out his activities until 1990 with the operative goal of "forming an underground organization in South Korea and developing subversive activities to disrupt South Korea.
Four agents dispatched from North Korea ("Ren," "Choi," "Ri," and Ri Heung-bae) controlled a South Korean, Kim Nak-jung.
Another group of four (Gon Jung-hyun, Kim Dong-ui, Ri Tong-jin, and an unnamed woman) organized and kept under control South Koreans Sun Byung-seon and Hwang In-wo, thus leading around ten subordinates in their operative activities.
Consultations with agents dispatched from North Korea were held in Japan, not South Korea, where security was tight.
The adopted daughter visited Japan a total of four times, under such pretexts as "to see her brother in Kobe" and "to buy medicine for gastritis.
She spent ten years organizing an underground party, using the funds she was given and the abundant funds she earned herself.
In addition, since 1989, she has been using two different names, "Lee Seon-hwa from Jeju" and "Shin Sun-jo from Wanju.
Hwang In-wo, the leader of the April 1980 Sabok coal mine disturbance, was sentenced to prison.
Still, he had two younger brothers, both of whom had been arrested for radical activities while attending Seoul National University.
Ri Seong-sil learned that Hwang In-wo and his brothers' mother, Jeon Jae-soon, were involved with the Council of Family Movement for Democracy in Practice (Minjikyo) and approached this organization, claiming that she had participated in the Korean independence movement during the Japanese imperialist era, that she was a relative of a victim of the 1948 Jeju Island 4-3 Incident, and that her son was involved in the 1968 Unification Revolutionary Party Incident.
She then offered to donate the money she had saved from running her own restaurant to the Korean democratization movement.
She donated an expensive photocopier and a large amount of cash to the Minju Party, an innovative political party recommended by the Nationalist Party of Korea.
Lee Seon-hwa, who was widely introduced as "Volunteer Lee Seon-hwa" by the leadership of the Minju Party, openly participated in meetings as a sympathizer of the Minkyakyo and the Minsubu Party.
She naturally approached Jeon Jae-soon and offered to be his son's backer.
Jeon Jae-soon, who was told that he could adopt his son if he agreed and that she could even give him all her property after her death, gave him his son's contact information and personally recommended that he call and meet "Halmoni Lee" once.
Yi Seon-hwa thus met with Hwang In-go as Yi Seon-hwa and introduced him to his subordinate Gwon Jung-hyun, whom she wanted him to meet.
Gwon boldly revealed that he was an agent from the North, persuaded Hwang In Go, and succeeded in making him an agent of the North.
Hwang received spy training from young North Korean agents at a children's park in Seoul and on the banks of the Han River and joined the Workers' Party of Korea.
In September 1990, Gong Jung-hyun ordered Hwang In-woo to go to North Korea, and in October, he was to enter the North on a spy ship from Ganghwado.
Waiting for him on Ganghwado was Ri Seon-hwa (Ri Sun-sa) and his subordinate Kim Dong-ui.
Kim Dong-suk, who was in his 20s and lived with 75-year-old Ri Seong-sil for six months in 1990, posing as "grandmother and grandson.
On October 17, 1990, Ri Seong-sil secretly escaped South Korea on Kim Dong-Uk's back and returned to North Korea in a semi-submersible boat.
Upon his return to the DPRK, Hwang In Wo was assigned to establish the Central Regional Party of the Workers' Party of Korea (WPK).
The Order of "Hero of the Democratic People's Republic of Korea
Meanwhile, Ri Sun-min was elected as a delegate to the 7th term of the Supreme People's Assembly in February 1982 (he has been continuously elected to 10 terms since then).
In April of the same year, on the occasion of Kim Il-sung's 70th birthday, he was awarded the Order of Kim Il-sung and a gold watch engraved with his name, and in September, he received the Order of the Liberation of the Nation.
In August 1985, she was awarded the Order of the National Flag, 1st class, and the Commemorative Medal for the Liberation of the Fatherland.
In December 1986, she was awarded the Order of Effort.
In May 1990, she was awarded the highest honor, the Hero of the Democratic People's Republic of Korea.
Return to Japan and Tortured to Death
After returning to Korea, she continued to rise and prosper.
Already in 1971, her husband, Kim Tae-jong, had moved to the North with their adopted daughter after hearing of her power, and the latter had married a high-ranking North Korean official.
Her mother in Jeju Island had not known about her daughter's safety for many years.
When she asked a childhood friend about her safety in 1991, the friend told her that she had had an opportunity to travel to North Korea and had learned through others that she had risen very high in the North.
In January 1991, Kim Il Sung met with the vice chairman of the General Association of Korean Residents in Japan and the co-chairman of the Pan-national Union for the Reunification of the Fatherland (Korean version) (Panminren), and Ri Seong-sil attended the meeting.
The same month, she was appointed vice-chairman of the Korean National Democratic Front, primarily responsible for the secret operations section against the South.
In April 1992, she attended Kim Il Sung's 80th birthday banquet as a candidate member of the Workers' Party of Korea's Political Bureau.
In September of the same year, on the 44th anniversary of the founding of the DPRK, the North Korean "Labor Newspaper" listed Ri Seong-sil as the 22nd candidate of the Politburo.
She served as a member of the State Funeral Committee at the time of Kim Il Sung's death in 1994 and again at the death of Marshal Wu Zhenyu in 1995.
In 2000, she was sent to a concentration camp and tortured to death in the "Deepening Team Incident," a significant purge by Kim Jong-il and his confidant Jang Song-thaek
She was later reinstated under the direction of Kim Jong-il and buried at the Mausoleum of the Patriotic Insurgents in Pyongyang.
昨日、発信した「It was a popular page yesterday, 2018/4/17.」の第一位にランクインしていた章である。
この「従軍慰安婦」と自称した工作員のことに触れているマスコミは国内にはない。
2018年04月16日
この章は、今は、ネットにこそ真実が在る事を証明していた。
我ながら、本欄は凄いと思いながら再読、更に確認のために検索し、一層、ネットにこそ真実が在るとの思いを深くした。
何故なら、この李善実についての記事は、朝日新聞等を購読し、NHK等を視聴しているだけの人たちは一生、知りえない事実だからである。
以下は前章の続きである。
日本に戻った彼女は、すぐに姉に対して、ゆくゆくは自分も故郷に住みたいという内容の手紙を出し、半年後、おみやげをたくさん持参して韓国を再訪、姉の家に1カ月滞在し、姉の子どもたち夫婦とは2泊3日の済州島旅行まで行って親交を深めた。
1979年4月以降は工作船で北朝鮮に戻り、約4か月滞在してこれまでの活動を報告、さらに今後の任務について協議を重ねた。
1979年9月、李善実は再び韓国を訪問、「日本で住んでいた家を売却して1,000万を持ってきたのでソウル市内に適当な家を見つけてほしい」と姉の子息の妻に持ちかけた。
彼女はこれを受けて不動産業者を何軒かまわり、結果としてソウル市内での住宅購入に成功した。
これが、韓国での彼女のアジト(秘密基地)となった。
韓国への「永住帰国」
1980年3月、日本から冷蔵庫、テレビ、オートバイ、電気炊飯器、ミシンなどの大量のおみやげを前もって「姉」一家に送ったうえで韓国を再訪、このたびは長期潜伏となった。
姉の家には長逗留はせず、住民登録を行った。
当時、全州支庁の平和洞事務所の事務長をしていたのが姉の長男であった。
彼の推薦で、すんなりと「申順女」名義での住民登録に成功して彼女へのなりすましが完成した。
「永住帰国」がかなった後は、すぐに以前購入していたソウル市銅雀区の家に転居し、名義を自身のものに変更、本籍地も全羅北道から新住所に変更した。
1年間は表立った活動はせず、1981年11月にソウルの永洞教会に顔を出し、教会の執事に取り入って養女がほしいと相談を持ちかけた。
しばらくして保険の外交をしていた53歳の女性を紹介され、彼女を養女とした。
いざというときの安全策である。
一方で彼女は、姉の子や養女の名義で不動産を購入しては転売するやり方で蓄財し、さらに養女の知り合いに高利で貸し付けるなどして工作資金を増やしていった。
この間、李善実は、1979年に朝鮮労働党統一戦線部副部長に任命され、1980年10月、第6次党大会で政治局候補委員、中央委員に選出、1981年11月には国旗勲章第一級を授与されている。
ソウルにアジトを設けた李善実は、「韓国内に地下組織を結成し、韓国を混乱させる破壊活動を展開すること」を工作目標に1990年まで活動を展開した。
北朝鮮から派遣された工作員(「任」「崔」「李」、李フンベ)4名は韓国人金洛中をコントロールし、もう1つの4人組(権重ヒョン、金東植、李トンジン、氏名不詳の女性)は韓国人孫炳善、黄仁五をオルグし、統制下に置いたので、10人前後の部下を率いての工作活動である。
北朝鮮から派遣される工作員との協議は警備の厳しい韓国ではなく、日本で行った。
養女には「神戸の弟に会いに行く」「胃炎の薬を買いに行く」などの口実を設けて計4回、訪日した。
彼女は、与えられた工作資金のほかに自らも稼いだ豊富な資金を用い、10年かけて地下党を組織した。
また、1989年からは「済州出身の李仙花」と「完州出身の申順女」という2つの名前を使い分けるようになった。
1980年4月のサボク炭坑騒擾事件の主導者であった黄仁五は、懲役刑に処せられたが、彼には2人の弟がおり、ともにソウル大学在学中に過激な活動で逮捕された経歴を持っていた。
李善実は、黄仁五たちの母親である全在順が民主化実践家族運動協議会(民家協)に関係していることをつかんで、この団体に近づき、自分が日帝時代に朝鮮独立運動に参加し、1948年の済州島四・三事件の犠牲者の親族であり、わが子は1968年の統一革命党事件に関わって行方知れずになったと「自己紹介」し、その上で、今まで食堂を個人経営して貯めた金銭を韓国民主化運動のために寄付したいと申し出て、民家協の推薦する革新政党、民衆党に高額な大型複写機や多額の現金を寄付した。
民衆党幹部から有志李仙花(イ・ソンファ)として大々的に紹介された李善実は、民家協や民衆党シンパとして公然と会合に参加した。
そして、ごく自然に全在順に近づき、息子の後ろ盾になりたいと申し出た。
本人が同意するなら養子にしてもよい、死後は全財産譲ってもよいとまで言われた全在順は息子の連絡先を教え、自らも直接電話をかけて「李ハルモニ」に一度会ってみるよう勧めた。
李善実はこうして李仙花として黄仁五と会い、会わせたい人がいるとして配下の権重ヒョンを紹介した。
権は大胆にも自身が北からの工作員であることを明かして黄仁五を説得、北側の工作員とすることに成功した。
黄は、北朝鮮の若い工作員たちからソウルの児童公園や漢江の河川敷でスパイ訓練を受け、朝鮮労働党に入党した。
1990年9月、黄仁五は権重ヒョンに北朝鮮行きを命じられ、10月には江華島から工作船で入北することとなった。
江華島で待っていたのは李仙花(李善実)とその部下の金東植であった。
当時20代だった金東植は、1990年の半年間、75歳の李善実と「祖母と孫」を装って同居していた。
1990年10月17日、李成実は金東植に背負われて秘密裡に韓国を脱出、半潜水艇で北朝鮮に帰還した。
越北した黄仁五には、朝鮮労働党中部地域党創設の工作任務が付与された。
「朝鮮民主主義人民共和国英雄」の勲章
その間、李善実は1982年2月、最高人民会議第7期代議員に当選(以来、10期まで継続して選出)、同年4月には金日成の70歳の誕生日に合わせて、金日成勲章と金日成の名が刻み込まれた金時計を授与され、9月、祖国解放記念勲章が授与された。
1985年8月、国旗勲章1級と祖国解放記念メダルが授与され、1986年12月には努力勲章が授与された。
1990年5月には最高の栄誉である「朝鮮民主主義人民共和国英雄」が与えられている。
帰国と拷問死
帰国後も彼女は出世し、栄達をきわめた。
すでに、夫の金太鐘は1971年に妻の権勢を伝え聞いて養女とともに北に渡り、養女は北朝鮮の高官と結婚していた。
済州島の母は娘の安否を長年知らずにいて、1991年に彼女の幼馴染に安否を尋ねると、幼馴染がその後北朝鮮に渡る機会があって人づてで彼女が北でたいへん出世していることを知り、そのことを彼女の母に教えたという。
1991年1月、金日成が在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)副議長と祖国統一汎民族連合(朝鮮語版)(汎民連)共同議長に会見したが、李善実はこれに陪席した。
同月、彼女は韓国民族民主戦線副委員長に任命され、対南秘密工作部門の主要責任者となった。
1992年4月、金日成の80歳の誕生日の宴会に朝鮮労働党政治局候補委員の資格で出席した。
同年9月、北朝鮮の建国44周年行事の際、北朝鮮の「労働新聞」は政治局候補委員として22番目に李善実の姓名を掲げた。
1994年の金日成の死の際には国家葬儀委員会委員、1995年の元帥呉振宇の死去に際しても国家葬儀委員会委員を務めた。
2000年、金正日とその意を受けた腹心の張成沢による大粛清「深化組事件」で強制収容所送りとなり、そこで拷問死した。
その後、金正日の指示で復権し、平壌の愛国烈士陵に埋葬された。
Die volgende is uit Masayuki Takayama se rubriek in die weeklikse Shincho, gepubliseer op 11 April 2024.
Hierdie artikel bewys ook dat hy die enigste joernalis in die naoorlogse wêreld is.
Dit is 'n moet-lees, nie net vir die Japannese mense nie, maar vir mense wêreldwyd.
'n Onvolwasse nasie
Die L.A.-onluste het begin toe 'n jong swart man, Rodney King, deur wit polisiebeamptes in 'n pulp geslaan is.
’n Nabygeleë persoon het die toneel op video geneem en dit aan die wêreld uitgesaai.
’n Distrikshof in Kalifornië het die beamptes vir aanranding verhoor.
Die uitspraak was onskuldig.
In die VSA beteken 'n vryspraak tydens die eerste verhoor dat die vervolging nie teen uitspraak kan appelleer nie, dus is die vryspraak finaal.
Dit is omdat die uitspraak gelewer word deur die soewereine "burgers" van die VSA, en die vervolging mag dit nie betwis nie.
In Islamitiese Iran is egbreuk strafbaar met die dood sonder 'n verdedigingsprokureur.
Dit is omdat Allah so besluit het.
Niemand kan met God stry nie.
Dit is soortgelyk daaraan.
Nog 'n rede waarom u nie kan appelleer nie, is dat dit geïnterpreteer is as 'n duidelike oortreding van die Vyfde Wysiging van die Grondwet, wat "dubbele gevaar" verbied, aangesien die saak "weer verhoor sou word vir dieselfde misdaad as die een in die appèl hof."
Die Japannese Grondwet, wat die VSA geskep het, bepaal ook dat “niemand meer as een keer aanspreeklik gehou sal word vir dieselfde oortreding nie.
'n Appèl kan in Japan aangeteken word selfs al word die verweerder by die eerste verhoor vrygespreek.
Dit is omdat die Hooggeregshof die Grondwet geïnterpreteer het as "een verhoor deur drie verhore."
Dit is 'n uitstekende voorbeeld van hoe 'n gebrekkige grondwet toepaslik geïmplementeer kan word as die interpretasie verander word.
In die VSA is daar egter nie so 'n interpretasie nie.
Die vier polisiebeamptes is in die eerste verhoor vrygespreek.
Die swartes was nie gelukkig daaroor nie en het 'n oproer begin, wat gelei het tot die L.A.-onluste wat die stad ses dae lank verbrand het.
Dit was die middel van die presidensiële verkiesing waarin Clinton die herverkiesing van sy pa, George W. Bush, uitgedaag het.
As al vier mans onskuldig bevind word, sal die swart stem weggaan.
Hy wou 'n nuwe verhoor en 'n nuwe skuldigbevinding hê.
So, die departement van justisie het ingetrek.
Die staatswet was nie meer beskikbaar nie, so die federale burgerregtewet is gebruik om hulle te verhoor.
Die inhoud van die saak is dieselfde as die staatsregverhoor.
Hy word verhoor vir die aanranding van Rodney King.
Dit is 'n hervormde appèlhof, maar hierdie keer is dit federale wet, nie staatsreg nie.
Dus, die interpretasie lyk nie soos 'n "dubbele gevaar" nie.
Ek het gedink die hof sal deur die sofisme sien en die saak reg uit die hek afmaak, maar so iets het nie gebeur nie.
Die appèl is aanvaar, en die hof is geopen, net soos die president wou hê.
Daar is 'n siening dat sulke snert ongehinderd kan bly omdat die Amerikaanse samelewing onvolwasse is.
Selfs die skeiding van magte is dubbelsinnig in die VSA, en selfs regters word polities gemotiveer deur die sekulariteit van die Demokrate of Republikeine.
Die koerante kritiseer nie hierop nie.
In 1995 is 'n vroulike Amerikaanse universiteitstudent in Gasa vermoor as kollaterale skade in 'n terreuraanval.
Die bedroefde familie was woedend, en die wetgewer het gehaas om 'n wetsontwerp vir staatsvervolging van terrorisme in te stel.
Die wetsontwerp het 'n klousule ingesluit wat verklaar dat die wet terugwerkend is en soos dit in werking gestel is.
Artikel I van die Amerikaanse Grondwet bepaal dat "die wet nie terugwerkend gemaak mag word nie," maar niemand het omgegee nie.
Die families was bly om Iran te dagvaar, en die hof het Iran beveel om $250 miljoen te betaal.
Iran het teengewerk met terugwerkende krag van die wet, maar die VSA het nie omgegee nie.
Dit sien waar geregtigheid geskied en waar nie.
So, die vier beamptes is weer in dieselfde saak verhoor, en twee van die drie blankes is skuldig bevind.
As alle blankes skuldig is, sal die wit stem vlug, en die ander Spaanse polisieman sal gekoppel wees aan die Spaanse stem.
Dit was 'n welgedaan uitspraak.
Maar die uitspraak het gekom vyf maande nadat die presidensiële verkiesing verby was; die swart stem het nooit teruggekeer nie, en daardie kleur-mal Clinton was die nuwe president.
Nou daag Trump Biden uit.
Biden is nie goed nie; pryse styg, onwettige immigrasie en misdaad styg, en diplomasie misluk steeds.
Maar hy het die Demokrate by hom.
Die prokureurs-generaal van elke staat was hul hande van Trump se verlede, dagvaar hom vir sy sewe jaar oue saak stil-stil, en 'n ander aanklaer kla hom aan omdat hy geklassifiseerde dokumente uit die land geneem het.
Hy is ook daarvan beskuldig dat hy eiendomspryse in siviele sake vervals het.
Altesaam 90 regsgedinge is te midde van die presidensiële verkiesing aanhangig gemaak.
Die Demokratiese Party-geaffilieerde regters aanvaar almal.
Selfs die Japannese distriksaanklaer se kantoor lê nie sake op Nuwejaarsdag aan nie.
Hulle het maniere as mense.
Wanneer sal die Amerikaanse samelewing volwasse word?
Dit is 'n patetiese land.
2024/4/12 in Kyoto