木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

駿河遊侠伝 ~ 子母澤寛のすごさ

2021年08月18日 | 小説
変わったペンネームだと思っていたが、子母澤寛の「子母澤」は住んでいた世田谷区の地名から採ったそうだ。
その子母澤寛の「駿河遊侠伝」を読んだ。
正編、続編の2冊構成だ。
最初は読みにくいなあ、と思いながら読み進めたのだが、まるで本当に見てきたような描写にいつしか引き込まれていった。
子母澤寛は、明治25年生まれ。
小説を書くようになってからも、江戸時代を生きた人は何人も存命していた。
その人々に取材して「古老曰く」という描写で当時のことを詳しく聞いているのだから、かなりリアリティがある。
この「駿河遊侠伝」は清水の次郎長のことを描いた小説だ。
言うまでもなく、清水の次郎長はやくざだ。
だから、いろいろ悪く言う人もいる。
私自身、次郎長は明治以降は、「官」の側に行ったのだから、利権ももらえるし、悪いことをしなくてもよくなったのだ、くらいの認識だった。

「駿河遊侠伝」の2巻目で、次郎長が富士の麓の開墾を断念する場面が描かれている。
次郎長は山岡鉄舟らの勧めにより、囚人を使い、開墾作業を指揮することになった。
富士山の麓で、今も次郎長町の名が残る場所である。
この開墾は次郎長も本腰を入れいて、かなり長い間続いたが、結局、次郎長はたいした成功を収めることなく撤退する。
撤退したのは資金が続かなかったためという説もあるし、いくらやっても不毛だと見切りを付けたと書いた説もある。

「駿河遊侠伝」によると理由は違う。
次郎長は、金策のため、大金持ちである回漕問屋播磨屋鈴木与平(現在の鈴与の創始者)を尋ねる。
その場面。

「この一件で後の世に親分はふたつの名を残すことを覚悟しなくてはならないよ。清水の次郎長は、いやな思いをして借金してまで開墾をやって、やくざの若い者を堅気にしようとした、いや次郎長は、金を借りに来た、それも未だに返さない悪い男だったとね」
「へえ」
「お前さんのような男は売った名前が看板だ。さ、どっちにするか。決心一つだ。お前さんのすることがいいとか、悪いとか、播磨屋にも返事の覚悟がある。え、うわべの名前をどこまでも惜しむのなら、やらない事だ、もしまた自分はどう伝えられてもいい、大渕村に一町半町の新田に秋毎に実り、あの村の駄菓子屋のとっさんはむかし次郎長身内のばくち打ち何々の兄イだよと言われる男がたった一人できたとして、それがうれしいか、親分どっちがいいね」
二人にずいぶん長い間の沈黙が流れた。遊侠にゆすりたかりの汚ねえ名前が残っては次郎長ならずとも死んでも死にきれない。その次郎長のがくっと頭を下げた姿を
「この男もずいぶんやつれたなあ」
播磨屋は心の中でそう思った。


実に見事な描写で、思わず唸ってしまった。

少し分かりにくい表現かもしれないので、蛇足ながら意味を補足してみると、与平は金を貸してもいいと思っていたが、それは返済の見込みの立たない金である。
事業を推進すれば、次郎長は開墾をやり遂げた男というポジティブな評価と、借金を踏み倒した男というネガティブな評価が後世に残ることになる。
それでもいいのか、と与平は聞いていたのだ。

昔のやくざを語る上で、恥とか、名前などといった概念をはっきりと把握していないと、ほとんど理解できない。
上の一文は次郎長のみならず、当時のやくざと呼ばれたひとの心境を端的に表している。
それにしても、見事な描写だ。



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戦場とペンダント

2021年05月23日 | 小説
「空母いぶき」という映画を観ました。

主演は西島秀俊さんと佐々木蔵之介さん。

架空の「東亜連邦」という国が日本の初島を占領し、戦争行為を仕掛けてくるという設定です。

この行為を空母いぶきを主艦とする自衛隊が防衛するというシナリオになっています。

専守防衛というのがキーワードになっていて、自衛隊員のじりじりとした緊迫感が伝わってきます。

限られた予算の中で作られたであろう戦闘シーンもなかなか迫力があります。

映画のレビューを見てみると、賛のほうが多いものの、賛否両論となっています。

その中で、個人的に思うことは、この映画は「娯楽映画」なのであるという点です。

リアリティさがあったとしても、それはあくまでも「リアリティっぱさ」です。

テレビの時代劇でバッタバッタ主人公が相手を切り斃しても、文句を言う人はいないと思います。

悪人がいきなり改心しても、「ああ、そうなのかなあ」と思う程度です。

乱暴な言い方になりますが、この手の映画も基本的にはテレビの時代劇と同じだと考えています。

これは決してこの映画をけなしているのではありません。

一種のメルヘンとして、「こうであればいいな」と思う気持ちは製作者と一緒です。

ただし、あくまでもメルヘンです。

戦争に真心は通用しません。

もし真心が通用するのであれば、中村哲医師は殺されることがありませんでした。

以前にこのブログでも書きましたがジェームス・フォーリー氏のような悲劇もなかったでしょう。

UNの力は「ルワンダの涙」や「ホテルルワンダ」を観ても分かるように、まったく無力です。

鋭くえぐった小説としては大岡昇平の「俘虜記」や「野火」、あるいは漫画になりますが、水木しげるの「総員玉砕せよ!」や「ラバウル戦記」などがありますが、日本人が敵に行った野蛮な行為についてはほとんど書かれていません。

その中で、「戦場とペンダント」という本があります。



著者の市川武治氏は長野の郷土史研究家です。

第二次大戦中は、26歳のとき招集を受け、フィリピンで従軍しています。

前書きの中では、

戦争は罪悪であることを肝に銘記し、断じて再び起こしてはならない。
誰もそう考えるのは同じであるが、長い時間をかけ、ズルズルと、泥沼へ踏み込むように始められていくもので、一部の有力な権勢を握らせるのが、一番恐ろしい結果を招く。いかに恐ろしいかを、かつて戦争に従軍したものは、ありのままを伝えなければならないのであるが、口をつむぎあまり語りたがらないのは、敗戦により一転して戦争という罪悪に参加しての、引け目であろうか。

応召し北支で一か月足らずの実地訓練をうけ、前線に出勤したものであるから、いわゆる現役兵や志願兵とは異なり、徹底した軍国教育を受けたものとは違い、戦争には終始批判的であり、無抵抗の住民殺害には命を賭けてまでこれを拒み続けてきた。

と書いておられます。

たしかにその通りで、思い出すのも嫌な記憶でしょうし、小説にしろ、ノンフィクションにしろ、触れたがらないジャンルです。

下記のような描写を残すのは勇気がいったと思います。

を抜けてもまだ椰子林は続いている。ここまで連れてきた老人や女子供は非戦闘員で、当然、安全なところまで避難させるかと思った矢先、小隊長は急に全員の射殺を命じた。
そして道路からしばらく入った木立の中へ連れて行くと、小隊長が腰の拳銃を抜いた。殺されると意識してか、あご髯の長い老人は皆の前に立ちふさがった。小隊長の拳銃が火を噴くと、老人は硝煙の中で一回転しながら倒れた。割れた頭蓋骨から塩辛色の脳味噌が、大量に散乱した。女子供がそちこちで泣きわめき、兵につぎつぎに射殺される場は、まさに地獄絵図の再現であった。

昨今のコロナ渦の状況を見ていると、日本人のあやうさを感じていまいます。
文句は言うけど、選挙には行かない。
ばれなければいい、と思う心。
個々の事情を鑑みないで、全体論で「裁こう」とする人々。

ズルズルと時間を掛けて泥沼に足を突っ込まないようにしないといけないと思います。




浜チョク ~ 激安お取り寄せ海産物

2021年02月20日 | 日常雑感
浜チョクという海産物お取り寄せのサイトを見つけた。
価格が安い。
おまけに送料が無料である。
クール宅急便なんて、1500円くらいかかることも多いのだけれど、それでも無料。

さっそく、この中から三重県の浦村かき(生食用)殻つきを頼んでみた。
価格は2000円。

価格が価格だけに、量が少ないのかなあ、と思っていたのだが、届いてびっくり。

発泡スチロール容器にびっしり入っている。


生でも食べられるのだけれど、多食するには加熱したほうが安心なので、土なべで蒸し焼きにする。


さすがに鮮度は抜群。


説明書です。


アマゾンで見ると、最安でも20個3480円。
今回頼んだカキは20個以上入って、2000円。
どうしてかなあ、と思っていると、この事業には水産省の補助事業資金が投入されているようだ。
道理で安いわけだ。

しかし、その補助事業が2月25日で打ち切られるため、同25日22時をもって、販売終了とある。

今がラストチャンスです。
海の幸がお好きな方は、ぜひ申し込みになったほうがいいと思います。

【締め切りました】

飛脚の話②~速さ

2020年04月17日 | 江戸の交通
「上方・下方抜状早遅調」という書類がある。
早飛脚の時刻表ともいうべきものである。
下記の早遅調は、江戸~京を三日で行くという、超特急便の写真だ。
この書類により、江戸の飛脚がどれくらいの速さで走っていたかが分かる。
結論から言うと、驚くほど遅い。

表の見方を下記に記す。

①起点 ②現在の地名 ③距離(km) ④所要時間 ⑤ 平均速度(km/H) ⑥江戸からの累計距離(km) ⑦三日のうちの何日目か ⑧江戸を0時:00分に出発した場合の各起点の通過時刻 ⑨⑧から計算した所要時間 ⑩⑧⑨から割り出した平均速度 ⑪④と⑩との差

以上である。
⑤と⑩を見ると、飛脚のスピードが分かる。
ただ、釈然としない点も残る。
たとえば、大井川に3:36に着くとあるが、こんな時間では川を渡してもらえはしない。渡しは明け六つからと決まっているわけだから、六時に渡ったとすれば、九時までは三時間。金谷~天竜川は約30kmといったところだから、時速にすると10km。この辺りのロスタイムをどう計算するかがいまひとつ分からない。
富士川には18:48となっているが、これは実物では酉の刻、つまり暮れ六つだから、渡船の最終便の時間なのであろう。この時間に間に合わないと次の行程に支障をきたすため、プレッシャーのある区間だったに違いない。
宮~桑名は七里の渡しに乗るはずだが、宮の出発が22:36であるから、今でいえば夜行バスのようなものだ。宮~桑名の平均速度が上がっているのは、舟航のためだろう。

いずれにせよ、飛ぶように走るという姿からはほど遠い。
それには、速さよりも安全が求められた点や、一分一秒を争うといった内容が少なかった点などがあるのではないかと思う。









飛脚の話①~飛脚の日数と代金

2020年04月17日 | 江戸の交通
江戸時代の飛脚制度はなかなか複雑なのだが、その中で町人も武士も利用できるものとそうでないものとあった。
それはさておき、通常の飛脚便には、①並便②早便③仕立早便の三つがあった。
それぞれの便について見てみたい。

①並便
 江戸~京は、15日が目途とされたが、規定日数は定められていない。
 遅いと三十日も掛かる場合もあった。
 遅延の主な理由としては、荷物が込み合ったときに起こる問屋場での馬の不足(馬支)、増水等による川留め(川支)などがある。
 また、馬を継ぎ立てて行く(通常5~6頭)ため、その継立がうまくいかないのも遅延の原因となった。
 飛脚便の料金は、現代と同様、内容物の重さや酒類で大きく異なる。また、距離によっても違った。
 手紙一通を江戸から京や大坂へ送る場合を見ると、銭三十文とある。かけそばが十六文とすると、そば二杯分の値段である。
 現代より高いが、決して庶民が手が出ないほど高いわけではない。

②早便
 花形ともいうべき急送サービスである。
 早飛脚、早送り、早序、早などとも呼ばれた。
 六日限、七日限、八日限、十日限などと日限を決めた便である。
 早便は馬を継ぎたてず、一頭の馬で行った。
 それでも、遅延がちであり、天保年間には「正六日限」というサービスまで現れた。これは文字通り、遅延なく期限の六日で届けるというものである。
 納期遅延を防ぐためには、遅延が見込まれた場合、「小継之者」(走り飛脚)に急ぎの荷物を委託して走らせるという方法がとられた。
 馬を利用して荷物を運ぶというと、いかにも速いようなイメージがあるが、実際は馬子が手綱を引いてゆっくり歩いているに過ぎなかった。
 だから、人間が走るほうがよほど速かったのである。
 早便の料金であるが、江戸~京・大坂間において、六日限が二百文、七日限が百五十文、八日限が百文、十日限が六十文である。

③仕立飛脚
 現代でいうと、チャーター便のような感じである。
 しかし、トラックならぬ馬を使わず、全区間、人間が走り抜ける。
 もっとも速い便では、江戸~京が四日(九十六時間)であった。
 代金はぐっと跳ね上がり、四日限で四両二分、五日限で三両であった。
 
あまり参考にはならないが、ナビタイムで調べてみると、日本橋~京都間は464km。所要時間は高速利用で5.34時間、一般道利用で12.32時間。平均速度にすると、それぞれ80km、40kmとなる。
いっぽう、江戸時代の日本橋~京は509km。九十六時間で割ると、5.3kmとなってしまう。飛脚を引き継いでも、夜間は移動できなかったためである。

現代では郵便や宅急便に頼らずとも、情報伝達の手段であれば、メールやインターネットがあるのだから、隔世の感がある。
しかし、それで本当に暮らしが豊かになったかというのは、別問題である。
 
 
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新作「虹かかる」のお知らせ

2020年04月05日 | 小説
今回は4月15日に発売される弊著「虹かかる」の宣伝です。

舞台は常陸国・麻生新庄家一万石。
時は、天保年間。
老中・水野忠邦が推進する天保の改革下で鳥居耀蔵が権力を振るっていたころの話です。
主人公は元水戸藩士の飛田忠矢。
若気の至りで、浪人に身をやつし、爪に火を点すような暮らしを続けるなかで、妻が病を得て鬼籍に入ってしまいます。
その妻の遺言で骨を水戸領である大津浜に散骨に行く途中、見栄からついた嘘で、新庄家から声を掛けられます。
新庄家といっても、ほとんどが留守にしており、数人しか残っていませんでした。
新庄家の先頭に立つのは、見かけだけは立派だけれども、剣を振るえなくなった「山槍」とあだ名された藩士。
敵は鳥居耀蔵の影をちらつかせた怪しげな浪人衆。
ふたりは援軍を外に求めることに。
向井半蔵という頼りになる老武士を味方にひきいれることに成功しますが、あとは手妻師や花火師、酒毒にやられた若者、頭でっかちな兵学者くずれといった頼りになさそうにない者ばかり。
いっぽう、敵方は領内の百姓を巧みに騙し、その数は四百人を越えます。
忠矢たちは、たった七人で大群を相手にする羽目に陥ります。
果たして、その運命は・・・。

こんなストーリーです。
舞台の麻生は、現在の茨城県行方市にあります。
新庄家の陣屋が建っていた場所には、行方市立麻生小学校の敷地となっています。
この陣屋にはごく狭い堀があったのですが、いまも堀の跡は細い道路となって残っています。

グーグルマップ

上記のグーグルマップで、正面の広い通りが陣屋の正門へと続く大手道、左右にある細い道が堀跡、ぐるっと回って後ろにある小学校が陣屋跡です。
城跡は規模が大きく、敷地が県庁や大学、公園となっていることが多いようですが、陣屋クラスだと現在の小学校の規模がぴったりくるようです。

タイトルに関しては、当初は「散骨」というものを考えていましたが昨今のコロナ騒ぎの一日でも早い収束を願って「虹かかる」としました。
落ち着かない毎日ではありますが、この小著を手に取っていただいた皆さまが少しでも元気になれるよう、心をこめて書きました。
どうかよろしくお願いいたします。

下記サイトで予約が開始となっております。

アマゾン


楽 天



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将軍の賽

2020年02月23日 | 江戸の話
「将軍の賽(さい)」という古典落語がある。
yotubeで動画があるかどうか調べてみたが、なかった。
無理もない話だ。
落語では時事ネタを扱っている作品もあるが、この「将軍の賽」もそのひとつだからだ。

内容は、幕末近く、江戸城に登城した大名が手持ち無沙汰のあまり、サイコロ(賽子)博打を始めた。
その現場を将軍に見とがめられた大名たちは、将軍が世知に疎いことを利用して、その場を逃れようとする。
サイコロなるものを見たことがない将軍に、
「それは何か」
と問われた井伊掃部頭は、
「東西南北天地陰陽をかたどった宝物だ」と答える。
さらに、
「一の目は何を意味するのだ」
と尋ねられ、
「将軍家をかたどった」
と井伊は答える。
以下、
「裏の六の意味するところは」
「六十四州」
「四は」
「四天王の酒井、榊原、井伊、本多」
「三つは」
「清水、田安、一橋の御三卿」
「五つは」
「御老中」
と切り抜け、いよいよ最後の
「二つは」
と聞かれると、
「紀伊、尾張の御両家」
と答える。
将軍は水戸家が入っていないと立腹するが、
井伊は、
「水戸を入れると寺が潰れます」
と答え、これがオチになっている。

これでは、なぜこれがオチなのか、さっぱり分からない。

この落語が作られたころ、水戸の藩主は烈公と諡号された徳川斉昭である。
攘夷派の斉昭は、相次ぐ黒船の来航に危機感を抱き、領内の寺に鐘を供出させ大筒を作った。
寺では経営がなりたたなくなると異議を申し立てようとしたが、寺嫌いの斉昭は片っ端から領内の寺を潰してしまった。

いっぽう、かけ事では胴元をテラという。

寺とテラを引っかけたのがこのオチだが、こんなのは今では解説が入らないと分からない。

「将軍の賽」を聞いてみたいと思うものの、一般的ではないので無理であろう。



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人の身体は、ひとつの会社だ

2019年06月10日 | 一九じいさんのつぶやき
人って会社のようなものなのかもしれないと思うようになった。

たとえば、胃袋部門というのがあって、頭脳部門があって、肝臓部門があって、筋肉部門があるような。

ストレスがあって、頭脳部門は解消のためにどんどんお酒を飲め、と命じる。
割りを食うのは、肝臓部門だ。
頭脳部門の勝手な判断により残業で、やりきれないよなあ、と思うだろう。

予算の問題もある。
稼ぎ以上に経費を使ってしまったら、赤字になり、末は倒産だ。

肝臓の処理能力以上に、頭脳が酒を飲ませてしまったら、赤字経営となる。
個人において倒産は死である。

食べ物も一緒だ。
どんどん好きなだけ食べていれば、胃袋部門にしわ寄せがくる。
もうやってられないよなあ、と胃袋部門のボイコットを食らえば、身体には大きなダメージが残る。

昔の人は五臓六腑と言ったが、この十一部門がたがいにハッピーであるような関係を築くのが長寿の秘密かも知れない。


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尼崎城と赤十字社

2019年05月12日 | 城趾
尼崎城はもっとも新しく建造された城である。
エディオン(旧社名ミドリ電化)の創業者である安保詮(あぼあきら)氏の10億円という巨額の資金協力を得て、平成30年に建造された。

江戸時代の城主を見ると、後に大垣藩主となる戸田氏、後に郡上八幡藩主となる青山氏に続き、十四(あるいは十八とも)松平と呼ばれる三河国、徳川ゆかりの桜井松平氏が幕末まで城主を勤めた。

興味深いのは最後の城主となった松平忠興である。
忠興は、佐野常民や大給恒(松平乗謨)らが提案した博愛者(のちの赤十字社)の設立に賛同し、松平乗承(三州西尾)、松平信平(丹波亀山)らともに協力している。
ときは、明治十年(1877年)、西南の役が勃発した年である。

博愛社の設立は最初からすんなりといったわけではない。
「敵味方の差別なく救済する」という理念には、政府内部でも抵抗のある者が多かったからである。
そこで、佐賀出身の佐野は、山形有朋に面談し、賛同を得た。
話は山県から有栖川宮に伝わり、明治天皇からも千円の下賜を得て、承諾された。

赤十字運動は、この明治十年が日本での嚆矢となるのだが、明治十年以前にも赤十字精神を発揮した人物がいた。
ウイリアム・ウイリスというアイルランドの医者である。
ウイリアムは、文久二年(1862年)に来日。
鳥羽・伏見の戦いの際は、幕軍、西軍の区別なく怪我人の治療を行っている。
その後、東京医学校の創業者となるが、政府の方針がドイツ医学一辺倒になったのに際し、職を追われている。
驚いた西郷隆盛らウイリアムを尊敬する旧鹿児島藩士の要請で、鹿児島に赴任。鹿児島では、日本人の妻を娶っている。
だが、西南戦争が勃発すると、政府によって東京に呼び戻され、その後アイルランドに帰り、一生を終えている。

少し話が逸れたが、佐野や大給は、ウイリアムの活動を頭に置いていたには違いなく、そのプランに忠興らが賛同した。
佐野は博愛社の設立が認可されたとき、号泣したという。
立身出世主義がはびこっていた明治にあって、いい話だ。


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歳の差

2019年04月23日 | 江戸の話
幕末の立役者の年代がとても若かったとはよく聞く話だ。

しかし、これは主として薩長を中心とした雄藩の話であって、幕軍のほうは結構年配者も多かった。

戦況が討幕派に完全に有利となり、新政府が成立した後、旧幕府の官僚の中には、薩長の若者に卑屈な態度を取る者も多かったと聞く。
五十近い者が二十代の若者にへいこらしているのは、見た目のいいものではない。

そう思っていたのだが、過去も現代も、組織において年齢が決定的になることはあまりないようだ。

江戸時代においては家格というものがあり、自分が五十歳であろうと家格が遥か上の者であれば、相手がたとえ十代であろうと敬語を使う。
極端な話、相手が世継ぎであれば、幼少であろうと神様扱いだ。

現代においても、オーナー系の会社であれば、社長ジュニアは暗黙の了解に守られている。

江戸時代は、相手が年下であっても、へりくだるのは苦にならなかったのかもしれない。



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