木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

不義の値段

2009年09月20日 | 江戸の風俗
おとといだったか、何気なくテレビを見ていたら、江戸時代であっても、不義は金で解決できた、と放送していた。
ほとんど流して見ていたのだが、手打ち金は現代の価格にして70万円である、のようなことを言っていた。
これは半分正しくて、半分間違っている(多分、テレビでもその辺の説明はあったのかも知れないが)。
不義が金で解決できるようになったのは江戸中期以降で、江戸初期は厳罰に処せられた。
不義内済の相場価格が決まったのは、享保以降である。

江戸時代は姦通罪と呼ばれた不義密通は、儒教思想から大罪とされ、厳罰を科せられた
これが明文化されたのは、明暦元年(1655年)というから、江戸も比較的、初期の頃である。
これによると、姦通の現場を見つけた者は、その場で男女とも討ち取ってよい、訴え出れば、男女とも死罪に処す、という厳しいものであった。

時代が下ると天下泰平の世が続き、武士でも相手を斬り殺すなどということがなくなり、示談で済ますことが多くなった。
享保十年(1725年)になると、大判一枚で内済するという具体的な金額まで決められた。
ただし、大判は市場に流通しておらず、町人などは手にすることがない。
そこで大判一枚の値段が小判等で支払われた
大判一枚は十両に相当するが、実際は十両の量目はなく、7両2分として取引されていた
そこで、姦通の間夫代として7両2分が支払われたのである。
1両は時代によっても変化するが、この頃は現代価格にして10万円と換算していいと思うので、テレビでは示談費用70万円と言っていたのだろう。
これはあくまでも当事者同士の示談による場合であり、公式に訴え出ると相変わらず厳罰が処せられたのである。
この姦通罪は、昭和21年まで存在していた。

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ぼんくら

2009年09月12日 | 江戸の風俗
小さい子供に「ぼんくら」と言っても意味が通じない。
この言葉も段々と廃れていく語なのであろうか。

しかし、辞書を引いてみるとちゃんと載っていて、語源も記されている。

ぼんやりとしていて、物事の見通しがきかないこと。また、そういう人。
もとばくち用語。さいころを伏せた盆の中が見通せない意、からという。(岩波国語辞典)


「ぼんくら」の「ぼん」は「ぼんやり」の「ぼん」のような気もするのだが、この語は博打用語から来ている

次に、「江戸ことば 東京ことば辞典」を見てみる。

さいころを伏せた盆の中が見通せず、目が暗いの意で、この語はできたのである。

この解釈によると、ぼんくらは、賭けに参加している博徒ということになる。
インターネットを見ても「よく賭けに負ける人」と説明しているものもある。
以上は語源としてどれも正確ではない。
まず、「さいころを伏せた盆」とは何だろうか?
映画などを見ても、さいころは壷に入れられて振られるもので、盆=トレーに入れて振られるなど、見たこともない。
博打に負けたからと言って「ぼんくら」と呼ばれてもかなわない。

実は、盆とは「盆茣蓙」《ぼんござ》のことである。
博徒はこの盆ゴザを前にして、丁座、半座のいずれかに座り、博打を行う。
その真ん中には「振方」こと壷振りが位置し、その横か正面に「中盆」が座る。
この中盆というのは、時代映画で「丁方揃いました。半方ないか、半方ないか」と濁声を張り上げている、あの人である。

賭場において、親分は場を提供して「寺銭」を稼いでいるのであって、客と勝負しているのではない
あくまでも「勝ったり」「負けたり」しているのは客同士であり、勝負が成立すれば、親分には、寺銭が入る仕組みであった。
その点が、カジノなどとは違う。
半方と丁方は同数でないと、親が不足分を補填しなければならなくなるケースも発生する。そうすると、親が損をするリスクが生じるから、寺銭による安定した収入確保のため、中盆はうまく客を煽って丁半同数になるよう調整する
中盆は、盆ゴザに集まった賭け金を瞬時のうちに計算し、同じ金額になるよう客を誘導する大事な役割を担っており、しかも博徒がテンポよく遊べるように、小気味よくゲームを進行させなければならなかった。
ときには、ハンデを与えたり、細かく追加徴収を行い、ぴたりと丁半の賭け金が一致するようにする。
この作業は言うほど簡単ではなく、ゲームがすんなりと進行するかどうかは、中盆の能力にかかっていた。

この作業の下手な中盆が「ぼんくら」と呼ばれた
盆ゴザの上の勘定が遅い中盆をぼんくら、と言ったのである。
確かに「ぼんくら」な中盆では、博徒はイライラしたことであろう。

田村栄太郎 「江戸やくざ研究」 雄山閣 
坂本太郎監修 「風俗辞典」 東京堂
松村明 「江戸ことば 東京ことば」 講談社
西尾実 「岩波国語辞典」 岩波書店

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肥桶一杯の価格

2009年07月17日 | 江戸の風俗
かなりディープな下ネタです。
お食事前の方と、興味のない方は、くれぐれもお読みにならないように。以前、渡辺信一郎氏の「江戸のおトイレ」から排泄の「小」についてピックアップしたが、今回は、「大」である。氏の筆は淡々としているが、ますます冴え渡る。

お姫さまでも 左お捻じり

「ほとんどの辞書には載っていないが」と断りを入れながら、「江戸時代で、左ねじりとは、人糞の異称であった」という。
今風に言ったら、「アイドルでも 左ねじり」であろうか。高貴なお姫様でも、排泄は人並みであろうと言う句である。「お捻じり」と「お」を付けているところが丁寧である。
寛政年間の小咄集「軽口四方の春」からの「奥様の野遊び」と題された小噺もえぐい。
断っておくが、尾篭な話である。以下、引用。

れきれきの奥様、野遊びにお出になされた時、とても顔色が悪く見えたので、腰元どもが心配して、「どこかお悪くございませぬか」とお尋ねすれば、「いやいや、どこも悪くはないが、うらむきへ行きたい」とおっしゃるゆえ、「そんなら、ここなる野雪隠へなりともお出になさりませ」とお薦めする。お入りになると、じきに出られたから、なぜにと問えば、「下に大きなばばがしてある。後に入った人が、わたしのだと思うと恥ずかしい」。腰元が「それならば、下に延紙をたんと撒き散らして置いて、その上になさりませ」と言うと、奥様は成るほどとて入る。しばらくして、殊の外不満足な顔をして出て来られる。腰元がどうでしたかと聞くと、「お前の言う通りにしたが、紙の上にしたわたしのばばは、下のよりもまだ大きかった」

この「江戸のおトイレ」は、厚い本ではないが、薀蓄はすさまじく、江戸のトイレ百科事典と言ってもいいような内容である。女郎屋の次の句も凄い。

女郎屋の後架 摘入汁(つみいれじる)に海苔

後架はトイレ、摘入汁とは魚肉と小麦粉をすりつぶして団子状にして煮た汁である。女郎がよく食べたらしい。この句の作者は、物好きにも穴の中をしげしげと眺めたのであろう。
この先も渡辺氏の蘊蓄はとどまるところを知らないが、これ以上は、引用するのを遠慮しておく。

最後に同著の中から、興味深い薀蓄をひとつ。
長屋の後架に溜まった汚物は、近隣の農家が引きとり、代価が支払われた。その代価は、大家の取り分になったのであるが、どのくらいで取引されていたのであろうか。
渡辺氏は、幕末近くの「守貞漫考」と、それより九十年以上前の「武野俗談」の二書を引いて、類推している。前書によると、十軒の肥代が年二、三分。後書によると、百軒の肥代が年八両とある。一両=四分=四千文であるから、一軒当たりに換算してみると、前者が三百文、後者が三百二十文。肥代は、時代によって大きな隔たりがあったというが、平均してみると、こんなものなのであろう。
ここで、私流であるが、一両=12万円と考えると、一軒当たりの年間肥代は9000円、月750円(二十五文)となる。そばが十六文であるから、一軒当たりの肥代では、月二杯は食べられなかった計算になる。
蛇足ながら、現代では、吉野家の牛丼が確か380円だったと思うので、牛丼二杯くらいの値段か。
現代人は、水洗トイレの水道代に月600円から700円くらいかけているという統計もある(注1)。
昔は金を貰っていたものに対し、現代では金を支払っていることになる。

さて、渡辺氏であるが、汲み取った肥桶、一つあたりの単価まで弾き出している。それによると、1つの桶が三十三文であるということだ。先ほどの計算式を当てはめると、桶ひとつ1000円という計算になる。


渡辺真一郎「江戸のおトイレ」 新潮選書

(注1)
一回当たりのトイレの流水量10~15リットル
1リットル当たり単価0.24円
一回当たりの単価2.4円~3.6円
一日のトイレ使用回数6~8回
一日当たり価格 14.4~28.8円
月当たり価格  432円~864円
平均すると600~700円というところ

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(この項は、過去にアップしたものを改稿して再アップしたものです)

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かむり風呂

2009年03月12日 | 江戸の風俗
コーヒーをちびちび飲むタイプの僕は蓋付きのコーヒーカップを愛用している。
やはり、蓋がないカップとは冷め方が断然、違う。
風呂も冬場などは、蓋を閉め忘れると、てきめんに冷めてしまう。
昔は、湯を焚くにも木を集めてこなければならなかったから、湯冷めしないために苦労をしたのであろう。
この「かむり風呂」というのも、そのうちのアイデアの一つ。
樽のような風呂桶に湯を張ったら、その上から竹で編んだ箱のようなものを被せる。
入浴している間も、被っていたのであろうか。
入っていないときだけ冷めないようにするだけなら、板でできた蓋を被せればよいから、むしろ、この箱は入浴している時に使っていたのだろう。
ちょっと前に顔やせサウナというのが売っていた。
養蜂所の人が被るような顔をすっぽりと覆う帽子型のものである。それは材質がビニールでできていたが、この竹でできた箱は適度に通気性もあって、なかなかいいように見える。
湯が冷めてしまうと、熱いお湯をつぎ足していかなければならない。
保温は大事な生活の知恵であった。


写真は蟹江歴史資料館にあったもの。

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トイレと落書き

2008年07月01日 | 江戸の風俗
問い:トイレの落書きには呪術的要素があった。ウソ? 本当?  答えは、文末に。

最近、トイレの落書きを見なくなったような気がする。トイレが綺麗になったせいなのか、啓蒙思想が功を奏したのか、ただ単に絵を描くのをめんどくさがる輩が増えたためか、理由は知らない。ひところまえは、見るに耐えないような下品な絵(中には思わず見入ってしまうような絵があったが)が描かれていたものであった。このトイレに春画を描くという習慣は、近代になってのものなのだろうか。江戸の長屋では、トイレは後架と呼ばれていたが、この後架にも落書きは頻繁に見られた。一人になって思考が発達するのであろうか。以前に、「トイレとは思考と蘊蓄の場である」という落書きがあり、感心したことを思い出した。最近、このトイレの落書きに言明している書物を見いだした。明治41年生まれの樋口清之という大御所の著書である。

 怪我をしやすい危険な場所に、その防止を願って、性の象徴を描くという習慣が日本にはあった。
 たとえば、日本人は、便所で風邪をひくものと思っていた。そこで、風邪をひかないように、便所に性画を描いた。今ではいたずらや落書きだが、昔は、病気の悪霊を防ぐために、真面目な気持ちで描いたのである。
 まだ私が青年だった頃、奈良市の友人が家を新築したので、新築祝いに、その家を訪れた。そこで、わたしはびっくりした。便所の小用側の新しい壁に、大きな女性の象徴が描かれていたからである。それを描いておかないと、家に魔物が入って困る、これを描いておけば、わが家は安全だ、というのである。(以下略)


この風習のため、トイレに卑猥な落書きが描かれるという伝統が続いているのだ、としている。最近、トイレの落書きが少なくなったような気がするのは、IT社会の世知辛い世の中では、悪霊もトイレにもおちおち出られなくなったからかも知れない。

答え:○


確かにこんなお洒落なトイレでは落書きもしずらい
TOTOのHPより

樋口清之「日本人の歴史(4)」 講談社

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肥桶ひとつ 中身の値段は?

2008年04月27日 | 江戸の風俗
お待たせの第2段(????!)
お食事前の方と、興味のない方は、くれぐれもお読みにならないように。
前回は、渡辺信一郎氏の「江戸のおトイレ」から排泄の「小」についてピックアップしたが、今回は、「大」である。氏の筆は淡々としているが、ますます冴え渡る。

お姫さまでも 左お捻じり

「ほとんどの辞書には載っていないが」と断りを入れながら、「江戸時代で、左ねじりとは、人糞の異称であった」という。
今風に言ったら、「アイドルでも 左ねじり」であろうか。高貴なお姫様でも、排泄は人並みであろうと言う句である。「お捻じり」と「お」を付けているところが丁寧である。
寛政年間の小咄集「軽口四方の春」からの「奥様の野遊び」と題された小噺もえぐい。
断っておくが、尾篭な話である。以下、引用。

れきれきの奥様、野遊びにお出になされた時、とても顔色が悪く見えたので、腰元どもが心配して、「どこかお悪くございませぬか」とお尋ねすれば、「いやいや、どこも悪くはないが、うらむきへ行きたい」とおっしゃるゆえ、「そんなら、ここなる野雪隠へなりともお出になさりませ」とお薦めする。お入りになると、じきに出られたから、なぜにと問えば、「下に大きなばばがしてある。後に入った人が、わたしのだと思うと恥ずかしい」。腰元が「それならば、下に延紙をたんと撒き散らして置いて、その上になさりませ」と言うと、奥様は成るほどとて入る。しばらくして、殊の外不満足な顔をして出て来られる。腰元がどうでしたかと聞くと、「お前の言う通りにしたが、紙の上にしたわたしのばばは、下のよりもまだ大きかった」

この「江戸のおトイレ」は、厚い本ではないが、薀蓄はすさまじく、江戸のトイレ百科事典と言ってもいいような内容である。おならに関する項目も面白いのだが、女郎屋の次の句も凄い。

女郎屋の後架 摘入汁(つみいれじる)に海苔

後架はトイレ、摘入汁とは魚肉と小麦粉をすりつぶして団子状にして煮た汁である。女郎がよく食べたらしい。この句の作者は、物好きにも穴の中をしげしげと眺めたのであろう。
この先も渡辺氏の知識はとどまるところを知らないが、これ以上は、引用するのを遠慮しておく。

最後に同著の中から、薀蓄をひとつ。
長屋の後架に溜まった汚物は、近隣の農家が引きとり、代価が支払われた。その代価は、大家の取り分になったのであるが、どのくらいで取引されていたのであろうか。
渡辺氏は、幕末近くの「守貞漫考」と、それより九十年以上前の「武野俗談」の二書を引いて、類推している。前書によると、十軒の肥代が年二、三分。後書によると、百軒の肥代が年八両とある。一両=四分=四千文であるから、一軒当たりに換算してみると、前者が三百文、後者が三百二十文。肥代は、時代によって大きな隔たりがあったというが、平均してみると、こんなものなのであろう。
ここで、私流であるが、一両=12万円と考えると、一軒当たりの年間肥代は9000円、月750円(二十五文)となる。そばが十六文であるから、一軒当たりの肥代では、月二杯は食べられなかった計算になる。
蛇足ながら、現代では、吉野家の牛丼が確か380円だったと思うので、牛丼二杯くらいの値段か。
さて、渡辺氏であるが、汲み取った肥桶、一つあたりの単価まで弾き出している。それによると、1つの桶が三十三文であるということだ。先ほどの計算式を当てはめると、桶ひとつ1000円という計算になる。

参考:渡辺真一郎「江戸のおトイレ」 新潮選書

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京女 くるり捲くって 立ち小便

2008年04月18日 | 江戸の風俗
古書店で「江戸のおトイレ」という本を入手した。
著者は、元深川高校校長の渡辺信一郎という方である。裏表紙の写真を見ると、少しいかつい感じだが、ごく真面目な方のように見受けられる。
しかし、本をめくって、びっくり。あまりに赤裸々な、江戸庶民の排泄に関する情報がぎっしりと網羅されている。これだけの知識を得るには、相当な時間が必要であったに違いない。ことあるごとに知見を蓄積していかないと、とてもこのような濃い内容のものは書けない。名著である。手元の本は2002年の初版であるが、渡辺氏は残念なことに、2004年に亡くなられている。合掌。
さて、本題に入る。
ちょっと、尾篭な話なので、興味がない方は飛ばして頂きたい。
以前、アメリカ映画で、飛び散って便器が汚れるというので、座って小便をさせられる夫が描かれていた。
男性は立って事を済ませ、女性は座って事を済ませるのがごく一般的である。
江戸時代においても、江戸の町では、それが当たり前だった。
しかし、京都では違ったという。大田南畝の作った戯れ歌に次のようなものがある。

いなかにまさるきたなさは
のきをならぶる町中で
おいえさんでもいとさんでも
くるりとまくって立ち小便


「おいえさん」とは奥様、「いとさん」とはお嬢様を指す。
強烈な戯れ歌であるが、もっと強烈な引用もある。「静軒痴談」という書物からのものらしい。

京師の貴き女は、被(かつぎ)というものを蒙(かぶ)るよし。賤しきも推しはかるべし。然れども被きながら、途中にて浄手(ちょうず)することは、憚らぬ(はばからぬ)よし。

江戸時代、人糞が肥料として使われ、有料で取引されていたのは有名であるが、江戸では、大と小はきっちりと分けられ、小は、肥料として利用されなかった。大小混じっているのは、「混じりもの」として引き取り拒否されることもあったと言う。
しかし、京都や上方にあっては、小も有料で取引されていた。特に、京都は、店先のあらゆるところに桶が置いてあり、尿意を覚えた人々は男女問わず、その桶の中に放尿したと言う。
そこで、冒頭の句である。
女性も、人目を憚ることなく、桶目掛け、放尿したのである。
さらには、被りものをするような高貴な女人も、立小便は、恥ずべき行為ではなかったと見えて、普通に放尿している。桶に入った尿は月6回程度、引き取りに来るといい、その尿代は、
桶を置いた店の者のものになるというから、現代の感覚でいうと、飲料水の自販機を置くような感覚だったのだろうか。
もっとも、女性の立ち小便は、京都に限ったことではなく、田舎へ行くとごく普通に見られた光景であったそうだ。
しかし、江戸では、そういうことはなく、桶もなかった。

江戸を見よ 小便などは 垂れ流し

などと言う句もあり、田舎から江戸に出てきた者が天水桶(火災に備えて水をいれておく桶。よく飲食店などの店先に置かれた)を見て、それに小便をしようとして止められたなどの笑い話もある。
特に女性は困ったであろうが、盛り場にあった貸しトイレは、一回五文というのが、相場であったようである。

次回は、大について引用したいと思っている(しつこい?)。

参考:「江戸のおトイレ」 渡辺信一郎 新潮選書


男性用のトイレには、よくこのような「教歌」が貼ってある


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帯と貞操

2008年04月04日 | 江戸の風俗
着物と帯、どちらが早く誕生したのであろうか。
これは、妙な質問で、大概の人が、着物のほうに決まっていると思うのではないだろうか。

話は江戸時代を遠く飛び越えて、古代までさかのぼる。
人々は、裸で暮らしていたが、恥部を隠すのに帯を巻いていたいたという。だから、衣服より先に帯ができていたという主張がある。しかし、それは帯ではなく、褌ではないか、と思うのだが。

少々ロマンチック(?)な別な説もある。
それによると、古代人は、適齢期になった者は互いの腰に帯を結んで、夫婦契約の固めのしるしとしたという。帯が呪術的なシンボルとなり、恥部を隠し、貞操を守ることになったという。このように帯と貞操には、深いつながりがあり、当事者である夫婦以外に、帯に触らせることはなかった。
これは、ドイツの学者ラッツェルという人物の主張したものだということであるが、日本でも「結ぶ」ということには、指切りからも分かるように「契る」という意味がある。

この説によると、裸体の原始人も最初は、契約のために一本の蔓草を巻いたに過ぎなかったのであるが、その草が二本になり、やがて三本、四本と増えていって、衣服に進展していったという。
人間の心理であるが、お隣さんが、腰に二本の草を巻いたら、自分は三本、すると、向こう隣は四本というように、増えて行ったのである。
今度は、本数だけでなく、創意工夫が加わり、草が段々衣服らしくなっていった。
そうすると、草が衣服になっていく経過には、人間の見栄というものが多分に働いていることになる。

裸の「ヒト」が衣服を着るようになったのは、羞恥心や利便性からではなく、見栄からだったと考えると、なかなか興味深いものがあるのではないだろうか。

帯の趣味 石崎忠司 徳間書店
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由美かおるの入浴シーンって?

2007年11月09日 | 江戸の風俗
TVドラマ「水戸黄門」では、由美かおるの入浴シーンが人気と聞く。なぜだか、ゆったりとひとりで入っていることが多いのだが、水道もガスもなかった江戸時代、風呂を焚くというのは、大変なことであった。十辺舎一九の「東海道五三次」では、風呂桶の底から直接火をかける五右衛門風呂への入り方が分からなくて、右往左往する場面があるが、実際は湧いた湯を風呂桶に移すことが多かったようである。その風呂桶というのは、一人はいれば一杯になってしまうほどのもので、今の感覚からすると驚くほど小さいものである。二川本陣資料館の展示によると、本陣の湯殿は湧いた湯を入れる方式であったが、一般客が泊まる旅籠「清明屋」の湯殿は直接焚く方式であったとある。
どちらにせよ、湯量の心配のない温泉場でない限り、由美かおるのような入浴シーンが見られるゆったりとした風呂はなかったのが一般的である。
しかし、由美かおるの入浴シーンに時代考証は、余計なことかも知れない。
ちなみに、二川本陣資料館では、旅籠の一般的な夕食の献立が模型で展示されている。
写真を見れば分かるように、焼き魚、野菜煮、沢庵、みそ汁と、あまり白くないご飯といったごくシンプルなものである。当時の旅籠の夕食は、一汁二菜か、一汁三菜が多く、食事は銘々膳に乗せて持ってくる。この頃は、一般家庭でも出先でも、ちゃぶ台のように乗せて食事を摂る習慣ははなかったのである。今見ると、安い定食屋のメニューのようであるが、江戸時代においては、これでもご馳走であったのだろう。

実際は、風呂はこのような小さなものだった。


手前左にあるのがご飯。地方の多くは、江戸のような白い搗き米ではなかった。
二川本陣資料館HP


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東海道中膝栗毛と下の話

2007年02月01日 | 江戸の風俗
またもや下の話で失礼する。

前回、し尿が金銭で売買された話を書いたが、し尿は金銭だけでなく現物でも交換された。
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にその下りがある。

「膝栗毛」が書かれた1800年初頭には、江戸ではし尿は金銭取引が多くなっていたようで、すでに物々交換が珍しくなっていたらしい。
京都に行った際に、大根とし尿を交換する肥え取りに遭遇した弥次さん、北さんは、物珍しそうに眺めている。

「大っきな大根と、小便しょ」
と呼び立てていくあとから、武家屋敷の中間とみえるしみったれた男がふたり、
「これこれ、わしらがここで小便してやろが、その大根三本、寄こさんかいな」
と、肥え取りを呼び止める。(略)
「さあ、ここへやっておくれんかいな」
小便桶をおろすと、中間は二人ながらその中へしゃあしゃあ・・・・
「もう、これきり出んのかいな」
「打ち止めに屁が出たさかい、もう小便はそれきりじゃ」
「こりゃ、あかんわい。今一度身体をようふって見さんせ」
「はて小便くすねて置いて、どうしようぞい。ありたけ出してのけたわいな」
「これでは大根三本、ようやれんわ。二本持っていかんせ」
「量は少のうても、わしらの小便は質がええわい。茶粥腹のやつとは違う。わしらは肉を食うておるさかいな」

と、続く。
弥次さん、北さんは面白がって見ていたが、北さんが声をかける。

「もしもし、さいわいわっちは小便がしたくなったから、ぶしつけながらお前がたに上げやしょう。わっちのを足して大根三本お取りなせえ」
肥え取りも江戸者と見て追従とも取れるようなことを言う。

「そりゃ、すばらしい。お前さまのは京都産じゃないからじゃ。とにかく小便は関東物が一番。地もとのは薄うて値打ちがないわい」
「もうちっと早かったらもっと出たんだが・・・。わっちは生まれつき小便が近いので、日ごろ小便桶を首に掛けて歩いていた男さ」

北さんは、豪語していた小便が少ししか出なかったので、こう言って強がる。

今読んでも「膝栗毛」は、大変面白い。


気位の高い京都御所の女中(一九画)

東海道中膝栗毛  十返舎一九 (杉本苑子訳) 学研

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