木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

次郎長の身長と幕末史実

2012年07月07日 | 江戸の話
清水の次郎長こと山本長五郎は、幕末から明治に掛けて名高かった任侠の人である。その次郎長に関して、次のような記述がある。

生来の大男で腕力が人一倍強く、相撲をとっても誰にも負けたことのなかった長五郎は、押し入った四人組の盗賊に臆することもなく、刀を振り回して立ち向かった。
東海遊侠伝


次郎長は色は赤黒で、髪は柔らかいせいかそれ程の白さでもなく、少しザンギリ頭で、見上げるような大男で、手は団扇のように大きく、そしてささくれていた。
細田美三郎氏の回想談
(引用はいずれも、「梅蔭寺 清水次郎長伝」より)


清水の次郎長は大男というのが通説となっている。
ではどれくらいだったかというと、「我れ生じて二十三歳、六尺男子なり」の表現が東海遊侠伝で具体的に述べられている箇所があり、180cmと分かる。

現在、清水市には次郎長の生家と、次郎長が経営していた船宿「末廣」を再現した施設がある。
末廣に入ると、すぐ右手に次郎長の実物大のフィギュアが置いてある。そのフィギュアは、ずいぶん小さく見える。
説明を見ると、「次郎長の身長は五尺二寸だった」とあるから、156cmである。当時としては平均身長だったのかも知れないが、少なくとも大男とは呼べない。
生家のほうにも、次郎長の身長に関する説明があり、同じように五尺二寸とある。
末廣に電話をしてなぜ、このような食い違いが起こったか聞いてみると、「浪曲として興業された際、大男のほうが親分として受けがよかったのだろう」という説明だった。これは十分に考えられる話で、また、東海遊侠伝を表したのは次郎長の義理の息子である天田五郎であるから、身贔屓もあって確信犯的に脚色を加えたのであろう。

次郎長は山岡鉄舟とも深い親交を結んでいたが、ふたりの出会いについてもはっきりとは分からない。

①勝・西郷会談の下地交渉の使者として駿府に向かった鉄舟を次郎長が護衛したことから始まる。
《慶応四年(1868年)3月》「図説・幕末志士199」

②東海道を急ぎ西上、駿府を目指す鉄舟が由比の望嶽亭主松永氏、興津水口屋の縁から次郎長に道案内を依頼したという伝承は十分肯ける。
《慶応四年3月》「清水次郎長」

③(清水港の)死体を、駿府藩は官軍の目を気にして放置していたのであるが、「死んで仏になれば、官軍も賊軍もない」ということで次郎長が子分に埋葬させたところ、駿府藩の取り調べを受けるに及び、次郎長は鉄舟と出会うことになる。
《慶応四年10月》「山岡鉄舟」


④次郎長と会った松岡(松岡萬・新番組隊長並)は、その人物に心服し、山岡鉄舟が駿府に着任するのを待って次郎長を紹介した。明治元年(1868年)も終わりに近い頃だった。
「梅蔭寺 清水次郎長伝」


①②の説は有名であるが、鉄舟は薩摩の益満休之助とともに駿府に向かい、「益満を前に出してわたしは後ろに従い、薩州藩と名乗って急ぐに、全く阻む者はいなかった」と自ら語っているし、信憑性は薄いように思う。個人的な考えだけ述べるには④の説が事実だと考える。

だが、身長などという数値化できることすら、すり替えられてしまうのが歴史だとすれば、本当のことなど、後になってしまえば、どうにも変えられるというのが、一番の真実なのかも知れない。

田沼意次が松平定信の喧伝によって、一点の曇りもない悪人に仕立て上げられ、昭和も第二次大戦後まで、意次=悪人説が信じられて来たのは、恐るべき情報操作である。
現在伝えられている幕末の史実というのも、多くが勝者である西軍(官軍というべきか)の都合の良い説には違いない。

参考資料
梅蔭寺 清水次郎長伝(田口英爾) みずうみ書房
清水次郎長(高橋敏)岩波新書
山岡鉄舟 教育評論社
図説・幕末志士199 学研


清水次郎長


次郎長の生家

末 廣

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加賀百万石って幾ら?

2012年07月01日 | 江戸の話
先日、能登半島を旅行していて、同僚に「加賀百万石って今の金額にしたらどの位かな」と聞かれた。
ここで滔々と歴史談義を始めてしまう人間は嫌われる。
答だけを言うと、「350億円位」となる。

歴史にあまり興味がない人はそれで満足なのだろうが、このブログでは理由を「滔々と」述べたいと思う。

まず、100万石であるが、1石=150kgであるから、15万トンとなる。
つまり金沢藩の領地内では米の年間生産量が15万トンあった、ということだ。

江戸時代の通貨を現在の価格にして幾らか、というのは何を基準にするかによって全く異なってしまう。
ただ、加賀百万石の場合は米の話をしているのだから、現在の米価と連動するのがいいと思われる。

最近の日本国内の米の収穫高は約850万トン。
生産者市場規模は1兆7950億円。
このことから単純に計算すると、米価は211円/kg。
だが、この単価は加工米等が含まれている。
主食用米価としては、平成22年で234円という数字が出ている。
この234円を石川県の生産量に掛けると目安の金額が出る。
現在の石川県の生産量は約14万トンで、江戸の数値と近似しているため比較しやすい。

14万トン×234円/kg≒328億円

江戸時代の15万トンを掛けると、約351億円。

金沢藩の取り分は、まるまる百万石ではなかったなどという話は次に回すとして、加賀の米の生産量を現代価格に換算すると、冒頭の350億円という数字が出る。

さらに、余談になるが、1石を10万円と換算する、との表現を時折見受けるが、この場合だと、666円/kgの計算となる。
あるいは、幕末期、100石が20両くらいだった、との記述がある(幕末の水戸藩:山川菊栄)。この場合は、1両(あるいは、1文)を幾らと計算するかでかなり変わってくる。

100石=15,000kg
20両=80,000文

であるから、1kg5.3文。

仮に1文を30円とする(かけ蕎麦16文=500円説)と、米の価格は159円/kg。

加賀100万石を計算するときに1石10万円を採ると、666億円。
1文30円を採ると、239億円。

どれが正しいのかなど正解はないのかも知れないが、自分には350億円説がしっくり来る。




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日本最古の企業・金剛組

2009年11月25日 | 江戸の話
高知の司牡丹酒造㈱が坂本龍馬にちなんだ酒を発売するという。
江戸時代の製法で作られた日本酒と塩辛をぐい飲みとセットにして販売。価格は2万円ということで、随分と高価である。
この司牡丹酒造であるが、創業が1603年(慶長八年)。徳川家康が江戸に入京した年である。
酒造会社は、江戸時代に創業した会社が多いが、考えてみれば競争の激しい現代社会において、江戸期創業の会社が脈々と続いているのはすごいことだ。

そう思って、日本最古の会社を見てみると、大阪で寺社の設計施工を行っている金剛組という会社の創業年が578年
実に飛鳥時代。聖徳太子の時代にまで遡るので、抜群に古い。もとは宮大工の集団だったというが、現代に至るまで会社が存続しているのは、はなはだ凄い。

古くから存続している企業は、酒、味噌、醤油など、古来からあるものを作っている会社が多い。
他には旅館や運送業などといったところもある。
よく耳にするところでは、布団の西川産業(1566年・永禄9年)ヤマサ醤油(1645年・正保2年)、岡崎のまるや八丁味噌(1337年・延元2年)などが上げられる。
旅館では仙台のホテル佐勘が平安時代の創業、運送業では静岡県清水市のアオキトランス㈱が1615年(元和元年)に大坂夏の陣で徳川家康の兵器を運んだのを始まりとするという。

永らく存続している会社を見ると、意外なくらい小規模な会社が多いことに気づく。
中日新聞の調べだと、売上高が5億円未満の会社が全体の三分の二を占める。
資本金でみても、2000万円未満の会社が三分の二である。
先日、穴吹工務店の会社更生法のニュースが伝えられたが、負債額が1509億円。
穴吹工務店の創業は1905年。100年企業ではあるが、企業も巨大になりすぎると、人間のメタボリック症と同じように、動きが鈍くなり、身体のあちらこちらが早く病むようになってしまうのかも知れない。


金剛組HP

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深川八郎右衛門

2009年11月11日 | 江戸の話
今日十一月十一日は第七代深川八郎右衛門の命日である。
深川八郎右衛門と言っても、あまり馴染みがないと思うが、「半面は海水漫々、半面は蘆萩《ろてき》叢生《そうせい》し」と言われたぬかるみの地を江戸時代初期に埋め立て、人間の住めるような地に改良した功労者である。
深川の地名は、この深川八郎右衛門にちなんでいる

江東区出版の「江東辞典」によると、

江東区は、天正年間に摂津の人、深川八郎右衛門が深川町を、万治元年に相模の人、砂村新左衛門が砂村新田をそれぞれ開発したのを初めとする比較的新しい町です(~序文から)

とある。
何となく自分の記憶と違ったので、矢田挿雲の「江戸から東京へ(六)」を引っ張り出してみると、

慶長年間、伊勢の人深川八郎右衛門が落雁のようにこの低地に降りて、開墾事業をこころみた

何だか気になってしまい片っ端から家にある町名辞典を調べてみたが、三省堂の「江戸東京学辞典」の記載が信頼できそうである。

『新編武蔵風土記稿』によると、深川の開発は慶長元年(一五九六年)にはじまる。海辺の萱野であったこの地を、摂津国から東国に来た深川八郎右衛門が開発し、徳川家康の命によりその苗字をもって村名としたとある。

また、深川の地名には、フカ(=鮫)があの川筋にも多く上がって来たからだ、という説もあるが、この説は先の矢田挿雲が「ワニだったら川筋に上がってくるというのも分からなくないが、鮫が川に上がってくるものか」と一蹴している。

何だが、深川八郎右衛門から話が大分ずれてしまった。

この八郎右衛門は、家康公の御墨付きもあり、世襲制で代々、深川家長子が八郎右衛門を名乗り、二十七町ならびに村方の名主役を務めることとなる。
その七世八郎右衛門のとき、清住町に大達孫兵衛なる者がいた。その孫兵衛が土地を退転する際に、組合一同に不行き届きがあったと叱責を受けた。
親譲りの義侠心を持つ八郎右衛門は全ての責任は自分にあるとし、一人獄に下った。
結局、七世八郎右衛門は獄中死してしまい、名門は家名断絶してしまう。
驚いたのは町民である。八郎右衛門の徳を深く感謝した町人たちは、八郎右衛門の遺骸を是非にと請うて深川家菩提寺である猿江泉養寺に厚く葬った。
その後も二十七町で経費を持ち寄り、毎年供養した。
何かにつけ、損か、得か、という打算主義の信者になりがちな現代の我々にとって、何だか気持ちのいい話である。


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江戸時代の専制政治

2009年05月25日 | 江戸の話
東京のお茶の水にニコライ堂という教会がある。
設計は、ジョサイア・コンドル。
日本でも人気の高い設計家の手による教会は建物としての認知度が高く、冠となったニコライの名を知る人はあまりいない。
このニコライは幕末から明治にかけてキリスト教の布教のために来日したロシアの宗教家である。
ニコライが初来日したのは、1861年。まさに、幕末の混乱期である。
このニコライは、鋭い観察眼と正確な情報処理能力を持っていた。
日本人の宗教観などについても、正鵠を得た意見を述べているのだが、徳川政権下における一般市民についての考察も興味深い。

これが専制政治と言えるだろうか? 一切抗言できぬ服従と盲従はどこにあるのだろう? 試みにこの国のさまざまな階層の人々と話を交わしてみるがよい。片田舎の農民を訪ねてみるがよい。政府について民衆が持っている考えの健全かつ自主的であることに、諸君は一驚することだろう。

民衆について言うならば、日本の民衆は。ヨーロッパの多くの国民に比べてはるかに条件はよく、自分たちに市民的権利があることに気がついてよいはずだった。ところが、これらの諸々の事実にもかかわらず、民衆は、自分たちの間に行われていた秩序になおはなはだ不満だったと言うのだ! 商人はあれやこれやの税のことで不満を言い(実際にはそおの税は決して重くはないのだ)、農民は年貢の取り立てで愚痴を言う。また、誰もかれもが役人を軽蔑していて、「連中ときたら、どいつもこいつも袖の下を取る。やつらは禄でなしだ」と言っている。
 そして民衆はおしなべてこの国の貧しさの責任は政府にあるあると、口をそろえて非難している。そうしたことを聞くのはなかなか興味深いことであった。それでいて、この国には乞食の姿はほとんど見かけないし、どの都市でも、毎夜、歓楽街は楽と踊りとで賑わいにあふれているのである。


このニコライの論文は一八六九年(明治二年)に書かれたものである。ニコライが滞在していたのは、函館であったが、北の地にあって、日本を見る目は驚くほど正確である。
上に引用した文も、現在でも通用するような日本人論ではないだろうか。
いつの時代が住みやすいかなどとは言えないが、江戸時代もひどい圧政の時代ではなかったようである。


ニコライの見た幕末日本 ニコライ(中村健之助訳) 講談社学術文庫

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インフルエンザと徳川将軍

2009年05月21日 | 江戸の話
咳が出る。
私の住んでいるのは名古屋だから、新型インフルエンザはまだ出ていないはずだが、町中でも日を負うごとにマスクをした人を多く見るようになった。
咳をするのも、白い目で見られることを思うと、非常に心苦しい。
我慢していると、決壊した時の咳がまたひどい咳になってしまって……。
決して、新型インフルエンザなどではないのだが。
でも、言われてみるとお腹も痛くなってきたし、背中も痛いような気も……。

さて、このインフルエンザであるが、江戸時代にも存在した。
徳川十五代将軍の中にもインフルエンザが原因で死亡した将軍もいた。

六代将軍家宣である。
七代将軍の家継は、急性肺炎のため八歳で亡くなっているから、別として、有名な五代将軍の家綱と、八代の吉宗の間に入って目立たない存在であったが、家宣の時代は主に正徳時代であり、新井白石などが腕を奮った時である。
部下の活躍が目立つというのは、家宣の性格が穏やかでごくまともだったということの証左にもなるのだが、とにかくあまり目立った存在ではなかった。
だが、庶民に不満の高かった「生類哀れみの令」を綱吉の遺言を破却して、綱吉の死の二日前に廃しているのは評価できる。

この家宣が流行りのインフルエンザに罹ってしまったのは、正徳二年の九月十四日頃。
今でも、インフルエンザに対する特効薬はないくらいであるから、当然江戸の時代においても治療策がなく、幕臣は有名神社仏閣の祈祷依頼に走り回るが、その効もなく、家宣は一ヵ月後の十月十四日には死亡してしまう。享年五十一歳。

この頃の医者は流行性感冒という言葉を使わず、時気感冒、天行感冒などと称し、庶民も風疫、風疾、疫邪などと呼んだという。



徳川将軍家十五代のカルテ 新潮新書 篠田達明

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鹿児島と木曽三川の関係

2009年03月30日 | 江戸の話
岐阜県海津市の歴史民族資料館に平田靭負正輔の胸像が設置されている。

平田正輔は、薩摩藩の家老で、宝暦四年(1754年)に治水奉行として木曽三川の治水事業に着任。
木曽三川というのは、木曽川、揖斐川、長良川の総称で、暴れ河川と知られていた。
この地に遠く薩摩から多くの藩士が動員された。
治水工事は思った以上に難工事で、八八名にものぼる死者と、多大な資金が費やされた。
工事は翌宝暦五年に一応の完成をみる。
正輔は、藩士が帰郷する宝暦五年五月二五日に腹を切った。

簡単に経緯を述べるとこのようになる。
展示などでも、このような簡単な内容しか述べられていないことが多い。
正輔の切腹も、多くの犠牲者を出した責任を取って行った、などと説明されている。

これだと、薩摩藩士の行動は義侠心にあふれた美談、正輔の切腹は責任感にあふれる行い、思われてしまう。
しかし、内情はもっとどろどろしていて、真の目的は、薩摩の経済力をそぐために行った幕府の政策であった。
正輔の切腹も幕府への抗議といった意味合いが大きい。

この地には、正輔を祭った治水神社があり、今でも春と秋の社祭には、鹿児島から来客が訪れるという。
現代でも、薩摩武士の無念は忘れられていない。
幕末に薩摩が倒幕に向かったのも、このときの恨みを忘れていなかったから、というのも一因である。

もっとも、岐阜県と鹿児島県は姉妹県盟約を締結し、海津市には、鹿児島の森という公園もできている。
公園内には島津家の家紋をかたどったモニュメントもある。
もともと、薩摩の力をそぐという目的は幕府のものであって、この地の人々の目的ではなかった。
当時も、地元民は素直に薩摩人の力を感謝したことであろう。
時代を超えて、交流の輪が広がるのはうれしいことだ。


平田正輔の胸像

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藤堂高虎・遺訓の謎

2009年01月23日 | 江戸の話
藤堂高虎が伊勢伊賀(現在の津市)に入府したのは、一六〇八年。関ヶ原の合戦より下ること八年。ここに三十二万三千石の伊勢藤堂家が誕生する。
昨年は、高虎入府二百年にあたる年であり、津市でも色々なイベントが行われた。
高虎というと巨漢で身長が百九十cmもあり、馬にまたがると、足が地に着いたという。その頃の馬が体高の低い日本馬だったこともあるが、高虎が大きかったことに変わりはない。
高虎は、みかけとは違い、極めて繊細な神経の持ち主だった。考え方も独特なところがある。
関ヶ原の合戦で東軍について勝利を収めた高虎は勝利後、石田三成に自分の戦略について意見を求めている。三成が指摘した欠点を高虎は真摯に捉えて反省したと言う。
高虎が亡くなったのは一六三〇年(寛永七年)十月五日であるが、高虎の遺訓を大神朝臣惟直(おおみわのあそんこれなお)という人物が一六三四年に書き残している。これが、「高山公二百条」と呼ばれるものである。
第一条は、よく知られたもので「寝所を出るよりその日を自分が死ぬ番と心得ておくべきである。このように覚悟しておけば、物に動ずる事がない」から始まる。
この編者である大神朝臣惟直という人物は、従来佐伯権之助惟直であるとされてきたが、このような人物は実在しないことが分かってきた。
佐伯氏は、初代を惟定と言い、もともとは九州大友氏に仕える武将であったが、大友氏失脚後の、文禄二年から高虎に仕えるようになって、頭角を現した。惟定は一六一八年に死去。二代目惟重は、一六四五年に死去している。
時期的に言えば惟重が合うのだが、惟直と名乗る確証がない。
書き手は、はっきりせず、偽の遺訓ではない、という可能性も100%撤廃できない。
果たして誰が書いたのか、謎である。
だが、内容は、いかにも高虎が考えるようなものである。今に通ずるものも多い。中でも「数年昼夜奉公をつくしても気のつかない主であれば、譜代であっても暇をとるべし。うつらうつらと暮らすのは意味がない」と断言している内容など、高虎らしい。
時代は下って、幕末~明治期。
藤堂高猷(たかゆき)は、鳥羽・伏見の戦いで、当初は幕府側についていたが、後に新政府軍に寝返り、幕府軍敗走の原因を作ったと言われる。
処世術ともとれるこの身の変わり方は、高虎伝来のものであろうか。


津城址 御城公園として整備されている


公園内の高虎像 逆光気味で御尊顔がよく分からないが、プロペラのような兜は豊臣秀吉より授けられたものとされる

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吉田松陰から新成人へ

2009年01月05日 | 江戸の話
新聞で成人式開催のニュースを読んだ。
昔は、成人の日は一月十五日であり、成人式もこの日に行われるのが普通だったが、今はGWに行う地域もあるらしい。
新成人の前で識者と言われる人が挨拶するのだが、今の世の中で胸を張って若者の前で話をする資格のある「大人」がどのくらいいるのだろうか。
勿論、自分を含め、甚だ頼りない。
今から百五十年少し前に、元服する甥に幽閉先から成人の心構えを諭した人物がいる。
二十一回猛士こと吉田松陰である。

凡そ生まれて人たらば 宜しく人の禽獣(きんじゅう)に異なる所以(ゆえん)を知るべし

これは松陰の有名な言葉であるが、口語に訳すると「この世に生を受けたからには、人は動物と違う理由を考えなければならない」となる。
この文句は、「野山文稿」の中の一文で、士規七則と題されたものの第一番目にある文である。原文は歯切れのよい漢文で書かれている。
もともと、この文は松蔭が甥の元服を祝って書いたものであるが、この時、松蔭自身もまだ二十六歳。松蔭は松下村塾の塾長のイメージが強く、老成した人間と想像している人もいるかも知れないが、享年は三十歳であり、死ぬまで熱い思いを胸に抱く若者であった。
この士規七則の内容は、松蔭が常々考えていたことであるが、自戒の意味も込めて書いたのかも知れない。
現代の若者には、ぴんと来ない部分もあるだろうが、ごく大雑把に内容をダイジェストすると、以下の通りとなる。

一.人は生き方の基本が忠と考にあることを知リ得てはじめて、動物と区別される。(*原文下記)
一.天皇が日本を尊い国に足らしめている貴重な存在であることを知らなければならない。
一.質素倹約を心掛けよ。
一.武士道において最も大事なのは義である。義は勇気により行動に移され、勇気は義によって確かなものになる。
一.読書を通じて古今の賢者の言葉を知れ。
一.友を選べ。
一.死而後已。

最後の一句は「死して後にやむ」と読む。
桂小五郎や乃木希典もよく口にした言葉であるが、「死ぬまで努力し続ける」という意味。

松蔭は、上記の七則を要約して、まず志を立て、交友関係を慎重に選んだうえで、読書により先達の知識を学べば立派な成人になれる、としている。
現代でも十分通用するアドバイスではなかろうか。

(原文*)凡生為人、宜知人所以異於禽獣、蓋人有五倫、而君臣父子無最大、故人之所以為人、忠孝為本

先進社 吉田松陰・佐久間象山

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わらじの履き方って?

2008年09月11日 | 江戸の話
草鞋(わらじ)というと、雪駄の藁版のように思う人もいると思うが、雪駄がサンダルだとすると、草鞋は紐靴である。
しかも、草鞋の履き方がややこしい。
説明書を見ながら履かないと、履けないような代物である。
こんなにややこしいものだとは知らなかった。
草鞋の履き方の丁寧な写真解説が豊川市民族資料博物館に展示してあったので、下記にご紹介します。


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