木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

江戸の貨幣単位

2008年08月23日 | 江戸の話
北京オリンピック陸上400m、日本初のメダル獲得おめでとうございます。

先日、名古屋の伏見にある東京UFJ銀行貨幣資料館に行って来た。
無料の資料館ながら、さすがに銀行が運営している資料館であり、本物の小判、大判、藩札などが展示されていて興味深かった。
惜しむらくは、土日閉館である。
さて、この資料館で、江戸の貨幣についての分かりやすいリーフレットを入手した。
忘備録的な意味合いも含めてアップしておきます。



東京三菱UFJ銀行貨幣資料館UPL

江戸の貨幣Q&A

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坊ちゃんが、さぼっていたので吃驚(びっくり)!

2008年04月15日 | 江戸の話
坊ちゃんが、さぼっていたので吃驚(びっくり)!

冒頭から、一体なんのことだろう。
何かを覚えるための語呂合わせ?
何かのパロディ?
いえいえ、これは、全部、江戸時代には口にされなかった言葉なのである。
江戸において、坊や、坊主、坊などの言葉は使われたが、坊ちゃんという言葉は使われなかったようである。坊様という語が坊ちゃんに当たる語として使われており、坊ちゃんそのものは、明治以降の語である。
サボるは、フランス語の労働争議での怠業を意味するsabotageから来ており、びっくりは、ドイツ語Wirklichに語源があるとされる。これらも、江戸の時代においては、まだ登場していない。
「だぶる」なども英語のdoubleからきており、同様である。
では、次は、どうだろうか。

非常口から出た、かまととなおてんばが、群集の中に消えた。

勘のいい方ならお分かりであろうが、これは、全て江戸時代には既に使われていた言葉である。
どれも、江戸時代においては、あまり似つかわしくないような語感であるが、非常口は、江戸時代には既に使われていた。
かまととも、幕末には使われていた言葉である。ただし、江戸では一般的でなく、上方言葉であった。蛇足ながら、意味は「誰でも知っているようなことをわざと知らないような振りをして、無邪気を装うこと」である。一定の年代であれば「ブリっ子」という言葉が懐かしく思いだされるかも知れない。
おてんばは、オランダ語に語源があるという説もあるが、詳細は不明である。しかし、近松門左衛門も使用しており、軽はずみな女性を指した。
群集は、江戸時代には「くんじゅ」と読まれたのであるが、意味は現代で使う意味と変わらない。
当然であるが、江戸時代では、意外な言葉が使われていたり、意外な言葉が使われていなかったりする。

松村明 「江戸ことば 東京ことば辞典」 講談社学術文庫
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無礼者! ホントの切り捨て御免①

2007年11月15日 | 江戸の話
以下の文を読んで、設問に答えなさい。

今に地名を残す日本橋十軒町。季節になると雛人形、雛が終わると武者人形の市が立ち、通りは買い物客で賑やかになる。今年の春は、寛政の改革で大きな人形は見ることができなくなったが、人出は減ることがない。
棒手振りの留吉は、今年五歳になる一人娘のためにひな人形を見に来ている。
「こんなに高えんじゃ、手がでねえなあ」
しかし、出るのは溜息ばかりである。ぼうっとして歩いていると、留吉は、何者かにぶつかった。
「危ねえじゃねえか」
相手をろくろく見ることもせずに、啖呵を切った留吉であったが、相手が悪かった。
「無礼な奴だ」
声高に言った相手は、中年の武家、前川吉衛門であったからである。
普段だったら、素直に謝るはずの留吉であったが、今日は虫の居所が悪い。
「てやんでぇ。そちらこそ、どこを見ている」
伝法調で続けて、啖呵を切ったから堪らない。
いくら武士の立場が失墜しているとはいえ、公衆の面前で、武士を罵倒する暴挙に出たのである。
「こやつ、無礼討ちにしてくれる」
吉衛門は腰の物を抜くと、斬りかかった。
「なにしやがる」
留吉は、やけのやんぱち、手にしていた棒で、武家の足をしたたかに叩いた。
その拍子に、吉衛門は仮店の雛人形を巻き込みながら、転倒した。
「待て」
「嫌なこった」
留吉は、後は逃げの一手である。
「誰かそやつを止めてくれ」
吉衛門は転びながらも、大音声で叫んだ。
「心得た」
逃げる留吉の前に、島津藩士、吉田吉之丞が立ちはだかった。
「待たれい」
吉田は、威厳のある声を出して、留吉の前を遮ったが、
「これが、待っていられるか、ってんだ」
そう叫んで、天秤棒を振り回すと、吉之丞まで、転ばされてしまった。
町人から、失笑が漏れる。
痛む足を庇いながら、立ち上がった吉衛門に、店の者が声を掛ける。
「あのこんなときに、何でございますが、この壊れてしまった雛人形、弁償して頂けないでしょうか」
「なに」
吉衛門は腹を立てたが、店の者の言うのも、もっともである。
「うむ、分かった。わしは、大番方与力、前川吉衛門と申す者。きっと払って進ぜよう」
そう言ったものの、収まらないのは、あの町人風情である。
「誰か、あの町人を見知った者はいないか」
吉衛門が声を掛けると、
「あいつは、鎌倉河岸に住んでいる留吉って者です」
通行人の中かから、返事があった。
「鎌倉河岸の留吉か。憎い奴だ」
吉衛門は、憎悪に燃える目で、虚空を睨んだ


問1.この後、留吉はどうなったと思いますか?
   ①町奉行所に連行され、極刑言い渡される。
   ②町奉行所に連行されるが、比較的、軽い罰で済む。
   ③前川によって、無礼討ちを敢行される。
   ④まったく、お咎めなし。

問2.この後、前川吉衛門は、どうなったと思いますか?
   ①まったく、お咎めなし。
   ②切腹。
   ③閉門。
   ④軽い叱責を受ける。

問3.この後、吉田吉之丞は、どうなったと思いますか?
   ①まったくお咎めなし。
   ②切腹。
   ③閉門。
   ④軽い叱責を受ける。

回答は、この次のブログにて。






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洲崎の潮干狩り

2007年05月11日 | 江戸の話
 江戸時代、町民は四季折々の行事を楽しみにしていた。いつでも時期でない野菜が食べられる現代と違って、春には春の、夏には夏の、秋には秋の野菜や食べ物があり、さまざまな行事があった。3月3日には「汐干」といって各地で潮干狩りが行われた。『東京歳時記』によると「芝浦・高輪・品川沖・佃島沖・深川洲崎・中川の沖、早朝から船に乗り沖に出て、潮が引いた頃から海岸に降りてカキ・蛤を拾い、ヒラメや小魚を獲って宴を開く」とある。蛤・カキにヒラメとは何とも豪華で、江戸市民ならずとも是非行ってみたくなる。また、この辺りは風光明媚なところで、眺望のよさでも人気があった。元禄3年(1700年)頃、5代将軍徳川綱吉の発願という洲崎弁財天が建立され、江戸名所となる。現在のザル蕎麦、蕎麦をざるに盛って提供するスタイルはこのころはまだ定着していなかったが、「洲崎のザル蕎麦」というものが有名となる。しかし、寛政3年8月、9月に高波が発生し、三百軒の民家が流され、多くの死傷者を出した。この事件により、洲崎人気は陰りがさしたものの、江戸名所としての地位は揺るがなかった。
深川資料館~資料館ノート参考
 洲崎神社
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上水

2006年05月26日 | 江戸の話
今では蛇口をひねると、簡単に水が出る。あまりにも当たり前な話だが、ひと昔前までは水を汲むというのは面倒な作業だった。特に江戸中期(享保以降)になって井戸の掘削技術が進むまでは、海が近く水質の悪かった江戸では、水の手配には相当苦労した。
水道、という言葉も歴史は古く、この頃は文字通り水の道であった。
飲料水には、上水という言葉が当てられ、全盛期には江戸には六つの上水があった。
神田上水(?~明治) 水源・井の頭池 小川町、神田、柳原、両国、大手前、神田橋、鍛冶橋、京橋川、小網町
玉川上水(承応二年~明治) 水源・多摩川 四谷、麹町、赤坂、愛宕、金杉橋、桜田門、虎ノ門、数寄屋橋、八丁堀、築地 
亀有上水(万治二年~享保七年) 水源・元荒川(越谷) 本所、深川
青山上水(万治三年~享保七年) 水源・玉川上水分水 青山、三田、芝、白金
三田上水(寛文四年~享保七年) 水源・玉川上水分水 同上
千川上水(元禄九年~享保七年) 水源・玉川上水分水 小石川御殿、湯島聖堂、東叡山、浅草御殿の給水が目的だが、神田上水が給水できなかった本郷、湯島、外神田、下谷、浅草などへ給水
上水は最初、江戸城への水路確保の意味で着手され、それが町方にも供給されるようになった。
玉川上水が承応二年(1653年)であり、最も遅い千川上水が約40年遅れの元禄九年であるが、前述の通り井戸の掘削技術の進歩とともに上水は井戸水へと代わっていく。
上水廃止後は用水になったり、舟路になったりした。
千川上水は享保七年に一旦廃止後、天明元年に再開、わずか五年後の天明六年に廃止になるのであるが、水路が具体的にどのような流れだったのか詳細に見てみるのも面白い。千川上水は、保谷で玉川上水を分かれ、巣鴨から江戸に入り、最初に小石川御殿に入る。ついで、板橋から、王子、本郷、湯島と南下。湯島天神あたりを通りながら、上野広小路、浅草、蔵前という水道路を形成していた。上水廃止後は、明治期以降も用水として使われていたので、今も一部は暗渠としてその足跡を残している。
また、玉川上水は今も昔の面影を残していて、興味深い。

江戸上水道の歴史 伊藤吉一 吉川弘文館
東京都水道歴史館 http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/pp/rekisi/index.html
コメント (4)
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