木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

細井平洲

2009年12月03日 | 江戸の人物
パソコンの調子が非常に悪い。そろそろ買い換え時なのかなあ・・・

時代の波は著名な人さえも忘却の彼方に押しやってしまう。
その中で自らの名を冠した記念館が造られている人物は希有といってもいいのだろう。
今回取り上げた細井平洲は、米沢藩主・上杉鷹山の師として有名である。
平洲は享保十三年(1728年)の生まれで、享和元年(1801年)に亡くなっているから、江戸中期の儒学者である。
晩年には尾張藩校・明倫館の督学を勤め、平洲の講義を聴こうとした者が建物の内外に鈴なりとなったという。
生まれは知多郡平島村。現在の愛知県東海市である。ブドウ畑が点在する地に、平洲記念館は建っている。

平洲の学問の特徴としては、実学を重んじ、平易な言葉を使っている点が挙げられる。
平洲は学問が象牙の塔にこもることを恐れ、辻説法を行っていた。今で言えば、ストリートミュージシャンの感覚に近い。
街頭での辻説法を聞いたのが、上杉鷹山の部下であり、その線から平洲は鷹山の師となった。
寛政の三奇人と呼ばれた高山彦九郎も平洲の門人であった。

実際の平洲の教えとはどのようなものであったのだろうか。
一部を引用してみる。

およそ、才能あり学問のある人を育てるには、農夫が野菜を育てるようにするべきであって、菊好きが菊を育てるようにすべきではない。野菜を育てるということは、よきも悪しきも皆養い育てることであって、よきにしも悪しきにも、どれにもこれにも、使い道はあるものである。菊を育てている人は、自分の心にそぐわない花を発見すると、必ず刈り取って捨ててしまうであろう。〈教育とは〉概略このようなものなのだよ。

書物で博く学ぶこと、その学んだことを考えることとが、両者相共に補いあって、学問・修養は深まってゆくものだというのが古聖人の教えなのだ。


東海市では平洲の業績を今に伝えようと、かなり尽力している。
平洲記念館も名誉館長に作家の堂門冬二氏を迎え、HPも充実した内容になっている。
細井平洲の名は全国区ではないが、こうした郷土の文化的偉人を後世に伝えようとする行政の働きは、非常に有意義であると思う。



平洲をモチーフにしたキャラクター「へいしゅうくん」

嚶鳴館遺稿・初編 小野重行 東海市教育委員会

平洲記念館HP

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