小牧の近くに味鋺{あじま}という地名があり、味鋺神社がある。
その境内に移設されたのが、清正橋である。
清正橋は徳川家康が名古屋城を築城する際、豊臣秀吉に所縁の深い諸大名に重い荷役を負わせてところから始まる。
加藤清正は、家康の命があると率先して名古屋城築城に参加し、石の産地であった小牧の岩崎山近くの味鋺に、橋を架けさせた。
今見ると、ただ六枚の石が並べられているに過ぎないが、往時はこの倍くらいの規模であったらしく、中山道に到る参勤交代の行列も通ったと言う。
地元の人は、清正橋とは呼ばず、石橋と呼んでいたらしい。
清正が造らせたかどうかは別としても、歴史的に大変価値のある古い橋である。
ややこしいことに、この近くには年貢橋という橋もあり、年貢橋も清正橋と呼ばれている。
年貢橋も石橋も形状が酷似している。
形の似た橋が近くにあるという事実からすれば、清正が造らせたとの言い伝えも案外、本当なのかも知れない。
加藤清正は、強い反りを持たせ強度を高めた石垣を発明したことでも分かるように、築城の名人だった。
秀吉に大きな恩ある身でありながら、徳川政権になるや、家康にも真っ先に恭順の意を示している。
同じ築城の名人とされた藤堂高虎も素早く身の処し方を変えると言われたが、二人に共通しているのは、根本に誠実さがあることだろう。
単に権力に迎合していただけでなく、自分の信念に基づきリーダーの下にあっては誠心誠意尽くしたという点は評価に値するのではないだろうか。
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清正橋は徳川家康が名古屋城を築城する際、豊臣秀吉に所縁の深い諸大名に重い荷役を負わせてところから始まる。
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秀吉に大きな恩ある身でありながら、徳川政権になるや、家康にも真っ先に恭順の意を示している。
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