東海道中、唯一の海路である七里の渡しはよく知られている。
熱田宮から桑名まで舟で渡っていくのであるが、当然、風が強い時、波の高い時などは欠航となったし、欠航にならないまでも悪天候時には、揺れて船酔いになる旅人も少なくなかった。
東海道中において、この桑名の渡しは絶対に避けて通れなかったのか、というとそうではない。
佐屋の渡しというものが存在していたのである。
この渡しの海路は三里。桑名の渡しより半分以下である。
宮からは陸路で六里行かなければならないので、都合九里。
桑名の渡しよりは時間も金も掛かったが、その安全性ゆえ交通量も多かった。
この佐屋廻りが整備されたのは三代将軍家光の時。寛永十一年(1634年)に、家光が三回目の上洛を果たした帰路の際に、この佐屋を経由している。
この佐屋宿までは熱田から次のような行程であった。
熱田宿 →(二里・8km)→ 岩塚宿(名古屋市中村区岩塚町) →(十八町・2km)→ 万場宿(名古屋市中川区富田町万場)→(一里二十七町・7km)→ 神守宿(津島市神守町) →(一里二十七町・7km)→ 佐屋宿(海部郡佐屋町)
佐屋宿は本陣が二軒、脇本陣が一軒、旅籠が三十一軒となかなか立派な宿であり、支配は尾張領、家数二百九十軒、人口1,260人であった。
このような規模の宿も今では存在すら忘れ去られ、ひっそりしている。
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宮からは陸路で六里行かなければならないので、都合九里。
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佐屋宿は本陣が二軒、脇本陣が一軒、旅籠が三十一軒となかなか立派な宿であり、支配は尾張領、家数二百九十軒、人口1,260人であった。
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