30年前の今日を思い出しています。
当時はもちろん現役で1日(24時間)交代の勤務でした。
この日は朝9時からの勤務で、我家の2階で寝ていました。
長男は大学1年生で京都で生活していて我家には夫婦2人と中学生の二男がいました。
その時間は眠っていましたが、激しい揺れで目が覚めました。
長く揺れているように思いましたが、おそらく10秒余りだったでしょうね。
その時は思わず隣に寝ていた嫁さんの上に覆いがぶさっていたように思います。
揺れがおさまり、隣の部屋で寝ている二男の無事を確かめた後、1階に降りでテレビをつけました。
我家は停電もなかったのでテレビも明かりも正常についたし、家具などの被害は全くありませんでした。
テレビでは地震速報が流れていましたが、その時はこれほど大きな被害が出た地震だとは思いませんでした。
揺れが大きかったので、それから外に出て家のまわり一周して被害がないことを確かめました。
それからしばらくすると職場から電話がかかってきて(電話も正常でした)「非常召集」の指令でした。
当時は津名郡五色町(現在は洲本市五色町)にある「五色出張所」勤務でしたので、いつもの通勤どおり車で五色出張所に向かいました。
向かう途中では道路沿いの家屋の屋根瓦が落下し、道路に散乱しているところもありましたが、倒壊しているところもなくスムーズに五色出張所に到着しました。
すぐに着替えて自分を含めた4名の隊を編成して出動しました。
出動先は被害が出ているという津名郡一宮町郡家(現淡路市郡家)地区です。
途中の多賀地区に建物の下敷きになっているという情報があり、先にその方へ向かいました。
先着していた隊と一緒に倒壊した建物内から1人の若い女性を救出しました。
顔は土埃などで黒くなっていましたが、大きなケガもなく無事でした。
その後、郡家地区に入るとお寺の横にある墓地の墓石がほとんど倒れていて、お寺の大きな屋根が傾いて今にも倒壊しそうなのが見えました。
郡家地区の町並みに入ると、いたるところの建物が倒壊して車は通行できません。
外に出ている住民から次々と情報が入り、何ヶ所かの建物内に要救助者がいることを知らされました。
地元住民や消防団員の手を借りながら、そのうちの1軒の捜索に入りました。
道具といえばバールやノコギリなどしかありません。
何とか1人の女性を発見して救出しましたが、すでに死亡していました。
その後、情報により近くの倒壊した家屋に行き、救出作業を開始しました。
現場では柱などのすき間にいた女性を発見し、救出することができました。
そのころにはすでに正午近くになっていたと思います。
郡家地区では2人の不明者を残し、要救助者がないということでした。
情報では不明の2人はご夫婦で、大きな2階建ての家の1階で寝ていたようです。
大きな家なので、とても人力では救出できないので重機を要請しました。
柱などを徐々に取り除いていくと布団の中の2人を発見しましたがすでに死亡していました。
救出作業などを終え、出張所に帰った時はすでに日が暮れて暗くなっていました。
その時のテレビでは神戸の町の大きな火災が映っていました。
他都市ではまだまだ活動が続いているのだろうと思いながら、淡路島内の活動はほぼ終わったようでした。
30年前の1月17日は、このような1日でした。
翌日からも様々な仕事に追われましたね。
当時は救急隊員も兼ねていたので、しばらくは避難所などへ何回も出動しました。
あまり思い出したくないことばかりですが、忘れてはいけない阪神淡路大震災でした。