108年と5日前の今頃、文豪夏目漱石は、病気療養地の修善寺で、800gも吐血して生死の境を彷徨った。これを「修善寺の大患」という。
後日、漱石は「思い出す事など」に書いているが、今で言うブログのようだ。
「強いて寐返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛を挟む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。程経て妻から、そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んで入らしたのですと聞いた折は全く驚いた。」
「 妻が杉本さんに、これでも元のようになるでしょうかと聞く声が耳に入った。さよう潰瘍ではこれまで随分多量の血を止めた事もありますが……と云う杉本さんの返事が聞えた。すると床の上に釣るした電気灯がぐらぐらと動いた。硝子の中に彎曲した一本の光が、線香煙花のように疾く閃めいた。余は生れてからこの時ほど強くまた恐ろしく光力を感じた事がなかった。その咄嗟の刹那にすら、稲妻を眸に焼きつけるとはこれだと思った。時に突然電気灯が消えて気が遠くなった。
カンフル、カンフルと云う杉本さんの声が聞えた。杉本さんは余の右の手頸をしかと握っていた。カンフルは非常によく利くね、注射し切らない内から、もう反響があると杉本さんがまた森成さんに云った。森成さんはええと答えたばかりで、別にはかばかしい返事はしなかった。それからすぐ電気灯に紙の蔽をした。
傍がひとしきり静かになった。余の左右の手頸は二人の医師に絶えず握られていた。その二人は眼を閉じている余を中に挟んで下のような話をした(その単語はことごとく独逸語であった)。
「弱い」
「ええ」
「駄目だろう」
「ええ」
「子供に会わしたらどうだろう」
「そう」
今まで落ちついていた余はこの時急に心細くなった。どう考えても余は死にたくなかったからである。またけっして死ぬ必要のないほど、楽な気持でいたからである。」(思い出す事など:青空文庫)
この時のことは、漱石の妻の鏡子さんも「漱石の思い出」に書いている。
「その間に夏目は私につかまって、おびただしい血を吐きます。私の着物は胸から下一面に紅に染まりました。そこへ皆さんが駆けつけておいでになります。顔を色がなくなって、目は上がったきり、脈がないという始末。
注射を続け様に十幾本かを打ちますが依然としてよろしくない。では食塩注射だということになりましたが、あいにくとその注射器を持ち合わせられない。漸く土地のお医者から借りて来たものの、それが壊れているという始末。壊れたって針さえあればいい、浣腸器の何とかをどうしてと上を下への騒動です。
一晩中壊れかけた注射器を武器にして、お医者さんと病気とが闘われた訳ですが、とうとういい按配に脈も出てきて、危ないところで一命をとりとめることが出来ました。」(漱石の思い出)
この時、療養で滞在していたのが、修善寺温泉の菊屋。
吐血した旧菊屋本館の部屋は、移築され「夏目漱石記念館」になっている。
また、漱石が1日泊まった「梅の間」は、今も旅館の宿泊に使われているという。
泊まってみたい気もするが、少し敷居が高く、この部屋は一人では宿泊できない。
ぺロ〜ン。はがれ始めると右も左も次々と・・・ソフト硬化の接着剤で応急修理してきたけれど長持ちしない。だいぶすり減ってもいるのでそろそろ廃棄。トレッキング用の靴から普段ばきに一足下ろそうかと。