ケンのブログ

日々の雑感や日記

辞めろと言うのは死ねと言うことだ

2019年10月03日 | 日記
関西電力の幹部の方などが
森山氏から金品を受け取っていた問題が
今日も新聞紙上を賑わしている。
昨日この問題について関西電力の社長と会長が
記者会見をしたからだと思う。
森山氏からの金品の受領を拒むと
「わしが原発に反対したらどうなるかわからんのか」と
森山氏から恫喝されたというような新聞記事の記載を読むと
原発にからむ問題であるがゆえの闇の深さも見えてくるように思える。
また、責任ということを問われると「原因究明と
再発防止を図ることで経営責任を果たしたい」という
回答になっているようだ。
ここでいう原因究明とはなんなのかは記事では明らかに
なっていなけれど
なんとなくここで語られている原因究明って
構造的な原因の究明を言っているようで
それは経営者の仕事であるというよりも
学者の仕事であるようにも僕には思えてくる。
また金品を受け取っておいて
「原因究明と再発防止」と言われても
なんか今回の問題を他人事扱いしているようで
なんとも納得のいかないものとなっている。
直接的でシンプルな言い方をすれば金品を受け取ったことが
いけないわけで、どんな理由があろうとも
金品の受け取りを断固拒否すれば
金品の受領という問題は生じない。
それは子供にもわかる理屈だと思う。
しかし金品をうけとったのはやはりいろんな問題が
あるからでそれが原因究明だということになれば
話は堂々巡りになってしまう。
しかし、なんとなく昭和の時代は
こういう形、つまり原因究明と再発防止とい
言葉を使って責任者が居直るということは
少なく、こういう場合は辞任であったように思う。
もちろん統計ととったわけではないので
僕の印象にすぎないかもしれないけれど。

今回の関西電力の事件に絡んでひとつ
思い出したことがある。
故大平正芳首相のことである。

※1979年衆院選では大平の増税発言も響いて自民党が
過半数を割り込む結果を招いた。すると。大平の選挙責任を問う
反主流派は大平退陣を要求するが、大平は
「辞めろということは死ねということか」として拒否。
ここに四十日抗争と呼ばれる党内抗争が発生し、
自民党は分裂状態になった。
※ウィキペディアを一部綴り方を変えて引用。

この当時、大平さんのライバルである福田元首相が
口をへの字にまげて
大平首相の責任を問うというような写真と
発言が連日のように新聞に載っていたと記憶している。
そして福田さんをはじめとする反主流派が
大平さんの責任を厳しく追求すると
大平さんは「俺に辞めろと言うことは、死ねと言うことか」とすごんだ。
この大平さんの発言を新聞で見たときは僕は
大平さんってすごい人だなと思った。
そして責任をとって辞任するって言う
社会慣習はきっと武士の切腹のなごりだと
僕は子供心に思っていたけれど
「辞めろとは死ねと言うこと」という大平さんの
発言を見て、僕のその認識は正しかったんだなと
なんとなく思った。

さて、その翌年こともあろうに社会党と
自民党の反主流派が結果的に結託する形になって
大平内閣の不信任決議が可決されてしまった。
大平さんは辞任せず、そのまま衆議院選挙に
突入。
大平さんはその最中にいわば過労で急死してしまった。
辞めろと言うのは死ねと言うことだという
大平さんの言葉がみんなの心に鮮烈に残っていたときだったので
これは責任を追求されるあまりストレスで
死んでしまったという考えが
自民党の間にもそして国民の間にも
かなり支配的になったように記憶している。
本当に大平さん死んでしまったと僕も思った。
しかし、大平さんが死ぬことで
みんな争っている場合ではないと結束し
それまでの自民党の対立はすっかり影を潜め
自民党もその衆議院選挙で大勝。
選挙後に鈴木善幸内閣が話し合いで誕生し
自民党の安定政権の時代になった。

ちなみに新渡戸稲造の武士道には
切腹ということに関して次のような記述がある。

「中世に発明された切腹とは、武士が自らの罪を
償い、過去を謝罪し、不名誉をまぬがれ
朋友を救い、自らの誠実さを証明する方法だった」
※新渡戸稲造 武士道 奈良本辰也訳より引用。

結局、昭和くらいまでの時代には
責任をとって死なないまでも辞める
そしてそれを受け継いだ後輩が
やめていった先輩のためにも不正をただす。
そういう心意気で秩序が保たれている側面が
かなりあったように思う。
原因究明、再発防止といって居直っている
関西電力の幹部の方の発言を新聞で読んでいると
そういう私たち日本人の心意気はどこにいってしまったんだろうと
思う。
そしてそういうのを失うのはなんか
よくないことに思えてくる。