ケンのブログ

日々の雑感や日記

赤ちゃんが見つめてきた

2019年10月11日 | 日記
今日はちょっとお医者さんの医院に行った。
受付を済ませて待合室をみると
赤ちゃんを抱いたお母さんの横の席しか
空いていないあった。
僕はお母さんに「ここいいですか」というと
お母さんが「はい」と言ったので
そこに座った。
待合室の混雑具合からある程度の
待ち時間があると思ったので僕は
鞄の中から新聞を取り出して読み始めた。
しばらくすると赤ちゃんが隣の椅子から身を乗り出して
新聞を読む僕のことをじっと見つめ始めた。
僕はそのまま見つめられていたけれど
なにか言わないとお母さんが気兼ねだろうと思って
「好奇心旺盛な子ですね」と言った。
お母さんはうなずいて笑った。
そして赤ちゃんを自分の方に引き寄せようとしたので
「別にいいですよ」と僕は言った。
また赤ちゃんは僕のことを見つめ始めた。
「男の子ですか」と僕が言うと
「女の子です」とお母さんは言った。
ちょっと男の子のように見えたけど
女の子かと僕は思った。
しばらくするとその親子が名前を呼ばれ診察室に
消えていった。
診察室からその子の泣き声が聞こえてきた。
なにか注射でも射ったのかもしれない。
診察が終わると親子は支払いを済ませて帰っていった。
でも赤ちゃんに見つめられるってなかなか
気分のいいものだなと思った。

十月十日

2019年10月11日 | 日記
新聞を見ると神戸の小学校で起きた教員による
教員に対するいじめの問題が大きく取り上げられている。
先輩の教諭4人が後輩の若い教諭にどんなことをしたか
表で一覧になっている。
LINEで女性教諭にわいせつな内容のメッセージを送るように強要。
ボケ、カスなどの暴言を浴びせる。
車での送迎を強要。
など本当にこんなことが大人の世界であるのだろうか
というような内容が並んでいる。
いろいろ並んでいるなかでもっともショックだったのが
被害を受けた教員の先輩教員が
被害を受けた教員のクラスの生徒に
被害を受けた教員に反抗しまくって
被害を受けた教員の学級をつぶしたらいいと
けしかけたとされること。
本屋の教育のコーナーにいくと
学級崩壊を招かないクラス運営の方法論を
書いた本が何冊が並んでいる場合が多い。
それはそうだとおもう。
僕も予備校でクラス担任をしているとき
クラスの生徒になめられて
クラスの生徒が制御不能になること
つまりクラスがつぶれることが一番怖かった。
それはどのクラス担任も多かれ少なかれ
そうであると思う。
自分が恐れていることを後輩の教員の
クラスに起きるように仕向けるって
ちょっとありえないことのように思う。
ありえないことが起きるから事件なのだけれど。
記事のしたの方には大学の教育学の先生の
コメントが載っていて
人権意識の希薄さ、それに
組織上の問題がある可能性が指摘されている。
もちろんそうだと思う。
しかしどのような組織であったとしても
その組織を作るのは一人ひとりの人間だ。
一人ひとりの人間が心を改めないと
組織だけいじってもどうにもならない可能性もある。
人権意識の希薄さということも記事は
大学の先生のコメントとして指摘している。
もちろんそれはそうだけれど他方で
人権というのは絶対王政に対する市民の権利、
資本家に対する労働者の権利など
階級闘争のなかで出てくることが多い概念であることも事実。
その限りにおいて権利というのは闘争的概念であるとも言える。
なので権利を教えるだけでは人の心は穏やかには
ならないのではないかと思う。
LINEで女性教員にわいせつな内容のメッセージを送るように
強要とか
被害教員のクラスが崩壊するように生徒にけしかける
といういじめの内容を読んだとき
心理学の文脈でよく使用される倒錯という言葉が
頭に浮かんだ。
この倒錯という言葉
辞書によって語義の説明は異なるけれど
僕が思っているのに一番近い説明は
次のようなものだった

さかさになること。また、さかさにすること。特に、本能や感情などが、本来のものと正反対の形をとって現れること。

本当に本能や感情がさかさになってしまっているように思う。
八王源先生が晩年にみんなの前で言っていた。
「人は愛がなかったらもう人間ではありません」と。
本当にその通りだなと思う。
人を敬愛することの大切さを折に触れて
指摘する人が少なくなったなあと思う。