ケンのブログ

日々の雑感や日記

大相撲の本場所も終わって

2020年08月02日 | 大相撲
大相撲7月場所は照ノ富士の優勝ということで幕を閉じた。

今場所は前半戦は全く見ていなくて中日から主な上位の取り組みだけ見始めた。朝乃山は星は上がっていたけれど取り口にちょっと鋭さを欠くような感じでどうかなと思っていた。

白鵬が休場してしまった。最近、休場が多いけれど場所の後半になって、しかもそこそこ星も上がっているのに休場するということはある意味、勇気と忍耐のいることのような気がする。やはり休むということはそれはそれで不安なことだと思うので、、、。大栄翔に破れた相撲が良く言えば慎重すぎ、悪く言えば思い切りにかけるような取り口だったのでとうかと思っていたら怪我を押してとっていたとのことだった。

僕が見た限りの数番は張りても封印して基本的にはまわしを取りに行く立ち会いだったけれど、白鵬の年齢になって立会の形を変えるというのも大変なことのように感じる。

すごいひとなのだなあと思う。

照ノ富士は優勝に絡んできてからの2,3番しか見なかったけれど、まわし、特に右前回しの引きつけは強烈だなと思う。あの大きい体で千代の富士なみの前回しの引きつけなのだからそれは相手力士にとっては脅威であると思う。

昨日、対戦した正代はそのまわし、特に右前回しの引きつけが強いことは十分にわかっていて、照ノ富士の右前回しが手にかかっても、もろ刺しで、休むことなく前に出た。そこに勝因があったわけだと思う。

北の富士さんが照ノ富士の優勝をたたえつつも、足が悪い状態でこれからも相撲をとらなければならないことを指摘しておられた。

本当に、上体の引きつけは強烈でも下半身がどうなのか、そこを相手につかれたらどうなるのか、それは来場所以降の見どころになるとおもう。

いずれにしてもあれだけ怪我をして序二段にまで落ちてまた上がってきて優勝って奇跡的なことではある。

大関から陥落した力士の優勝は魁傑以来ですとアナウンサーが言った時はそうだなあと思った。

魁傑が大関から陥落してそれでも優勝したときもずいぶん感動したなあと思いだした。感動という意味では今回の照ノ富士の優勝よりも魁傑のときの方が感動した。

なにしろあの頃は僕はまだ子供だったから。

昨日、僕のブログに、電車の冷房はどうなっているのか、そもそもコロナのときの電車の冷房について包括的に考えることのできる専門家はいるのか。いないのかもしれないという主旨のことを書いたつもりだ。

今日、新聞を読んでいたら、阪大の小林名誉教授を取材して要約した言葉としてこんなことが書いてあった。

「新型コロナの場合はどうでしょうか。感染防止という観点だけで言えば、濃厚接触を断つしかない。と専門家の考えは極めて明瞭です。しかし、いつまで自宅で巣ごもりを続けるべきなのか、感染リスクをある程度許容しながら経済活動を維持すべきなのか。政治と交わる境界領域で何を重視するのか、科学だけでは答えがたいトランスサイエンスの問題と言えます」

と書いてある。

まあ、読んでいてそのとおりと思えることが書いてあるなと感じる。

感染防止という観点だけで言えば濃厚接触を断つことという書き方がしてある。

この感染防止という観点だけで言えばという副詞的表現が科学の特色を言い当ててるようにも思う。

つまり、科学というのは観点が限られるものであるということ。

観点を限るからこそ、その限られた観点の中で証明された知識、つまり科学的知識を得ることができる。

しかし、科学が想定した観点を超えれば、もうその科学的知識の有用性はどこまで価値のあるものなのかは一概には判断できない。

最後には政治的決着が必要になる。

電車の冷房に関しても、窓を開けたほうが感染の可能性は低くなる、それはきっと確実性の高い事柄なのだと思う。

しかし、それで強烈な冷気に当てられてしゃっくりがとまらなくなったり、別の意味で体調を崩したり電車に乗ることに不快感を示す人がたくさん出てきたら、必ずしも窓をあけつつ空調の機械も運転するという考え一本槍ではいかなくなる。

そこが鉄道の会社にとってもしんどいところなのだと思う。

今、コロナ対策でなんか不自然だなあ、これでいいのだろうかと思う事柄は、科学的に言われていることを、あまりにも単純に実行してしまって包括的な考えにかけることから生じている場合がほとんどであるように思う。

そこから、どのように、より快適な方向を見つけていくか。

ときの流れというものももちろん必要だし、科学の知識一本槍ではどうにもならないということを悟ることが大切であるように思う。