ケンのブログ

日々の雑感や日記

主体性は大切

2020年08月14日 | 日記
新聞の経済欄を見ていると、あそこの会社の業績がだめ、ここもだめというようなことがたくさん書いてある。

本当にちょっと街の繁華街を歩いただけで所有者の変わった店、そもそも店をたたんでしまったところもちらほら見かける。

新しくできた店でもこんな状態でやっていけるのだろうか、とちょっと前を通りかかっただけでなんとなくそう思ってしまうようなお店もある。

本当にこれからの経済は心配だなと思う。

一方でコロナに関連した商品を扱う店は本当に混雑している。

新聞に日傘が売れていると書いてあったけれど確かに東急ハンズのようなお店には日傘がたくさん売っているなと思う。

大きめの日傘はソーシャルディスタンスの目安にもなるのだとか。そんなこと意識したこともなかったけれど。

また夏の暑さの中、マスクをすることで生じる息苦しさを緩和するために日傘の需要が多いと書いてあった。

正直、僕はその話にはちょっとピンとこない。若い頃から歩くことは習慣になっているせいかおかげさまで、暑いから息苦しさを感じるということがあまりない。

熱中症を防ぐためには喉が乾く前に水分補給を、ということも新聞に書いてあるけれど、それもおかげさまで子供の頃から水やお茶はよく飲む習慣なので、脱水症状になるまで水分をとらないということは普通の僕の生活ではあまり考えられない。

もちろん事故というのは普通でなくなったときに起きるわけだから、普通では考えられないと油断するのは怖いわけだけれど。

こういうブログという場で、名前を出して書くのは不適切かもしれないけれど、最近、よく書籍の広告で見かけるメンタリスト ダイゴさんとか、落合陽一さんとか、なんか顔を見ただけでちょっと気色悪いなと思ってしまう。

失礼な書き方とは思うけれど。

食わず嫌いだからいけないのかもしれないと思い、ちょっと落合陽一さんの新書を本屋で立ち読みしてみた。

パラパラっと本当に立ち読みしただけなのだけれど、ある章には天才と変態の違いというようなことが書かれていて、立ち読みでの記憶で書くのでもし違っていたら著者の方には失礼なのだけれど、例えば次のようなことが書かれている。

天才は確かにすごいけれどカバー範囲が狭い。たとえば特定の楽器の天才になどそんなになれるものではないかもしれないし、天才であったとしても特定の楽器の天才ということで範囲が限られる。

その点、音楽について変態並みに興味や集中力を示す人は特定分野の天才には及ばないかもしれないけれど、天才よりもカバー範囲は広い。そして、そういう変態と言われるような能力は機械にはできないことでもあり、これからは変態と言われるような人は希望が持てるかも、というようなことが書かれていたと思う。

いずれにしてもジェネラリストのように多くのことをそつなくこなすというタイプの人は、そういう仕事はこれからは機械がすることになるので、これからはしんどくなる可能性が高いという考えが本の基調になっているように僕には思えた。

まあ、そういう論調の人なので一見気色悪いと思える風貌も計算のうちなのかもしれないけれど、、、。

ただ、最近の売れ筋の本ってそれなりに面白いけれど、内容が軽薄になっているようにも思えたりする。

それは僕が歳をとったからそう思うのか、実際に世の中がそうなっているのか、、、。

そこまではちょっとわからない。

新聞の編集手帳にある昭和の時代の社長は検診嫌いだったという話が出ていた。俺の身体のことは俺がいちばんよく知っている、医者が10分20分見たくらいでわかるものかとその社長は検診を受けずに周りを困らせたけれど88歳まで生きたと書いてあった。

しかし、それは昭和の時代の話であって、今は検診の精度も当時より格段に進歩している。しかし、コロナの影響で検診の受診率が大幅に下がっている。

自分の健康状態も知らないでこの暑い夏を迎える人のことが心配だ。というような論調でそのコラムは書かれていた。

それを読んで、まあそうかもしれないけれど。と僕は思った。

そうかもしれないけれど、自分の身体のことは自分が一番よくわかると言うのは昭和の時代も今も変わらないのではないか。

一言で痛いと言ってもどのように痛いのか、言葉を尽くして医師に説明しても医師にその痛みそものもがわかってもらえるわけではない。

検査で特に悪いとこがなくて、患者の症状がいわゆる不定愁訴のカテゴリーに入ってしまうとなんとなく自信なさそうになってしまう医師が多いのも事実だと思う。

検査でこうなりましたから、こういう治療をします。という流れになると自信満々のお医者さんが、検査で異常はないけれど、ちょっと痛いとか、しんどいとかいう状況になると、うーん、まあ痛み止めを出しておきますかとなって、なんとなく医師の先生も居心地がわるそうな感じになるということも僕はときどき経験してきた。

うーん、うちで検査した限りは異常はありませんね、これ以上の細かいことになると大学病院に行ってもらわないと、と言われても、そんなに死ぬほどしんどいわけでもなく、大学病院で細かい検査をしてわざわざ病気をほじくり出してまで治療しなくてもという気持ちが僕には強いのも事実。

なにしろ、検査をしてまだがんになっていない、がんの可能性があります、という段階で乳房をとってしまったりする時代になっている。

細かい検査をやりすぎてわざわざ病気をほじくり出すというのも僕には逆に怖く感じられる。

自分の親が「町医者のKさんの手に負えなような病気になったら、まあ、あきらめるわ」と言っているような人だったので僕もそういう考えになったのかもしれない。

もちろん僕の親もそして僕もいざ生死をさまようような病気になったらどうなるかわわからないのでこういう場でえらそうな宣言はしないほうがいいと思うけれど。

ただ、その新聞のコラムに出ていた社長の言葉のように自分の身体のことは自分が一番よくわかるという考え方、そして感じ方は、自分の責任で主体的に医療と関わるためにとても大切なことなのではないかと僕は思う。

これだけ医療が進歩し多様化した時代だからこそ患者の側でも主体性を持つということが逆に大切なのではないかというのが僕の今の考え方だ。