ケンのブログ

日々の雑感や日記

自らの主体性で

2021年01月26日 | 日記
朝 マンションのベランダから差し込む光を見て、随分強い日差しになったなと思った。
考えてみればもう立春も近く、寒い日々はまだ続くけれど、季節は確実に動いているなと感じる。

そういえば、コロナが昨年、流行し始めた頃、中国の旧正月と重なって中国ではえらいことになっているというところからこのいわゆるコロナ渦というものが始まったのではなかったか。

ちょっと記憶があいまいだけれどたぶんそんな感じだったと思う。

ということはこのコロナももう一年になるのかなと思う。

本当に、えらい一年になってしまった。

まだ当分このコロナといいことが続きそうだけれど。


今日の新聞に「コロナワクチン高齢者接種3ヶ月で」という見出しでコロナワクチンの接種について、接種は希望する高齢者に対して行われるという文言が書いてある。

また新聞の特別面には衆議院予算委員会における菅首相の答弁として次のようなことが書いてある。

「ワクチンは感染対策の決め手となる。 中略 国民に自らの判断で接種してもらうため、副反応や効果を含め、科学的知見に基づいて正確でわかりやすい情報を発信していきたい」

首相の答弁に、国民自らの判断で接種してもらう という文言があるのを見て安心した。

ワクチンを接種しなければならないという同調圧力がかかり、接種しない人が、差別をうけるようなことがあってはいけないと僕はワクチンの問題が出たした頃から思っていたからだ。

僕の記憶に間違いがなければ、ワクチンの開発が始まり、日本もワクチンの確保に動き始めた頃、もしワクチンによる副反応で裁判になり、賠償責任をともなうような判決が出た場合には、その責任を負うのは、製薬会社ではなく、国であるという約束が国と製薬会社の間でなされているという記事が出ていたと思う。

ある意味、製薬会社にとってはむしのいい話だなとそのとき思った。

その記事を読んだ時あたりから、僕は、ワクチンの接種に関する同調圧力がかかることを気にするようになった。

やはり、首相の答弁に 国民自らの判断で接種してもらう という文言があるのはひとつの安心材料ではある。

首相の答弁にこの文言があるのは患者の自己決定の権利に配慮したものと思われるというよりは、そこに配慮していることは、ほぼ、明白であると思う。

患者の自己決定権については、ネットで検索したら医療法人 小畠病院のサイトに次のように簡潔に記載されていた。

  1. “”自らの意思で選択・決定する権利
    自らの受ける検査や治療方法などについて、説明を受けた上で、自分の意思で選び決定する権利があり、一方で、希望しない医療を拒否したり、医療機関を選択したりする権利があります。そのために、カルテを含む診療情報の開示やセカンドオピニオンを求めることが出来ます。“”
本当に医療が発達した今、ワクチンの接種だけでなく、様々な医療に関して、自らがしかるべき情報を得た上で自己決定していくという考え方があるということをみんながもっと認識していく必要があると思う。

会社に務めていた頃、ちょっと咳をしている人を見かけたりすると「医者へ行きましたか、医者に行ったほうがいいですよ」とやたらお節介をしてくる人がいて、僕もそういうお節介をされたことがある。

その場では適当に生返事をしていたけれど、本当にうっとうしいお節介してくるやつやなあと思って、自分でいろいろ調べて、この患者の自己決定権というのを僕も意識するようになった。

やはり、医療は自分の主体性で受けることが大切で、また安易に、他人に医療を受けるべきとすすめることは慎むべきだと僕は個人的にそう思う。

※それにしても、菅首相の答弁、よく言えばそつがない、悪く言えば、役人の書いた模範解答を読んでいるようだなと思う。

なるべく自らの主体性でメッセージを発信していくということも菅首相に求めたいと思う。


効率一辺倒の社会の限界

2021年01月25日 | 日記
緊急事態宣言ということになって、今までの当たり前がまた急に当たり前でなくなったことも結構ある。

前回の緊急事態宣言のときよりも人出は多いという報道もあるし、それは確かにそうだとおもうけれど、やはり緊急事態宣言で今までと勝手が違うなと思うことはいろいろとある。

このままではコロナそのものでしんどい目に合う人よりも、コロナによる社会の混乱でしんどい目に合う人のほうがはるかに多くなってしまうのではないかと何かと不安になってくる。

電車の中で「ハックション」と声を出してくしゃみをする人は今までは男ばかりと相場が決まっていたけれど、最近は女性でも「ハックション」とやっているひとが多くなったように思う。

それは、この真冬に電車が窓をあけて走っていたら、くしゃみも出るし女性でも「ハックション」とついやってしまいたくなるのだとおもう。

そうでもしないとやってられないみたいな、、、。

僕が読んでいる新聞の文化欄に
「効率一辺倒の社会の限界」という見出しの記事が出ている。

そこには僕の主観で要約して引用すると次のようなことが書いてある。


“”
生態学の五箇公一によれば
もともと、病原性ウイルスには、増えすぎた動物集団に感染症をもたらして数を減らし、生態系のバランスを保つ役割がある。新型コロナはその役割を持って「自然界から送り込まれてきた最新鋭の天敵」とも考えられる。さらに度重なる自然災害や害虫の大発生なども「生態系の回復機能」とも言えるという。

五箇氏はバランスを取り戻ろうとする生態系との共生を図るため、海外資源に依存するグローバル社会や都市集中型社会といった、生物多様性を劣化させるような効率重視の社会からの脱却を訴える。

中略
三宅芳夫氏のように、無限の福利的成長を求める資本主義はそもそも有限の地球生態系とは相容れないとする議論もある。

中略
今までの社会に戻そうというのは、もはやありえない考え方なのだろう。どう変えていくかが問われている。“”と

本当にコロナの収束と言うけれど、緊急事態宣言により自粛、そしてワクチンの接種ということで本当に効率よく収束できるのか不安になることはいろいろとあるように思う。

ワクチンはリスクよりメリットが大きいということらしいけれど、それを主張しているのは僕が覚えている限りでは主としてワクチンを作った製薬会社ではないのか。

本当にワクチンや自粛で効率よくコロナを抑えられるのか。

抑えられたらそれに越したことはないし、僕も手洗い、マスクなど最低限の努力はしているつもりだ。

しかし、それでもし収束しなかったら、やはりコロナと共存していくという考え方も必要になってくると思う。

無限の複利
的成長を求める資本主義は有限の地球生態系とは相容れないという議論もあるという主張も新聞の文化欄に紹介されているけれど
エネルギー問題をとってみても、火力、原子力、風力、太陽光発電のいずれも決して環境に優しいものとは言えないことを考えると本当にそのとおりだと思えてくる。

効率一辺倒の考え方で、生態系のみならず人間同士の関係もかわってしまったように思う。

幼い頃から自動のシステムになれている若い人たちは、本当に言葉を丁寧に話すことができないと思うことは僕の世代なら多々あるし、そういう状況に不安を覚えることもある。

スーパーなどのレジを通っていても、レジ袋はお持ちでしょうか、カードはお持ちでしょうか、カードは作ることもできますがどうしましょう、お支払いは現金でよろしいでしょうか、などとそんな言葉のオンパレードで、おおきに、ありがとうございます、などと言っている余裕なほとんどないというのが現状だ。

本当にこんなことでいいのだろうかという思いがこみ上げてくる。

そんな中で、もうなんとか無事に過ごせますようにとそれを一番に考えている。




京都市交響楽団第652回定期演奏会

2021年01月23日 | 音楽
京都コンサートホールに京都市交響楽団第652回定期演奏会を聴きに行った。

指揮は高関健さん

客席はソーシャルディスタンスを保つように座席の再指定がなされた。そのためのはがきのやり取りは聴く側にとってもオーケストラの事務局の方にとっても初めてのことばかりだった。

ただ、客席はソーシャルディスタンスで通常の半分の数になっているけれど、オーケストラは通常の京都市交響楽団のフルオーケストラのサイズになっていた。

最初に演奏されたのが
ベートーヴェンの交響曲第4番作品60

第一楽章
曲が始まっていきなり低い弦の音がゴーッという感じで聴こえてきたのでステージに目を凝らすとコントラバスが指揮者の真正面最後方の位置に来ている。

本当に最近はそのときによっていろいろと楽器の配置も違うなと思う。

イントロの部分は最初のゴーッという感じから始まって重くゆっくりした感じで進んでいく。
木管楽器がゆったりしたリズムに合わせて盛んにパッパッと突出するような感じで出てくるけれど、こういう木管の使い方って印象深いなと思う。

イントロが終わって主部に入るとテンポは早めになって音楽が引き締まった感じになってくる。このイントロから主部への切り替えもうまく行ったと思った。

音楽は力強く進んでいったけれどときどき旋律がとても優美になる。そういう部分もとても美しく演奏されていたと感じた。

第二楽章
冒頭で指揮者がふわっとした動きで気を発したけれど、実際に出てきた音はそれほどふわっとしたものではなく、ちょっと硬い目の音だったように思えた。

あれ、と思っているうちに、もう演奏は第二楽章の中間点くらいまで来ていた。

緩徐楽章の演奏にしてはちょっとせせこましいような印象を受けた。

第三楽章
冒頭でこの楽章で一番大切なモチーフを弦楽器が刻むけれど、ちょっとふやけた感じの刻み方のように思えた。

最初のモチーフの刻み方で演奏の印象のかなりの部分が決まってしまうということがある。

とはいうものの最初をバシと決めることもそれほどたやすいことでないようにも思えるし。

全体の印象として、まずまずという感じに思えた。

第四楽章
ここも第三楽章に続いて、大切なモチーフを簡潔に提示して始まるけれど、ちょっと不揃いであるように思えた。

全体としてはまずまずという感じに思えた。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのが
ショスタコーヴィチ 交響曲第5番作品47

第一楽章
指揮者が大きい身振りをしたらそのとおり広大な感じの音が出てきた。

こういう感じの冒頭のアプローチもいいなと思った。

演奏はゆったりと丁寧に進んでいくという印象を受けた。

ピアノが鋭いリズムを刻み始めたあたりから演奏の動きが多様になり迫力がぐんぐん増してきた。

どんどん音楽が盛り上がっていって、途中で泣きそうになった。

第二楽章
冒頭でコントラバスとチェロがとても気合の入った音を出していた。

あまり引き締まった音と思えない側面もあったけれど、まあコロナやし気合が入っているということが伝わってくればそれで十分と思った。

途中でかなり長い時間、弦楽器がピチカートで主要なテーマを奏で続ける部分があったけれど、とても美しく、思わずぐっと体に力が入ってしまった。

弦のピチカートの音をあれだけ集中して聴けたのも本当に久しぶりだなと思った。

第三楽章
冒頭で指揮者がスッとした感じの気を発したら、そのとおりスッとした感じの音が出てきた。
ベートーヴェン4番の緩徐楽章の時には指揮者の発する気と出てくる音がちょっと違うような気がしたので、ここはスッと決まって、心の中でよかったと思った。

弦のトレモロにのって様々な木管楽器が言葉では形容しがたい印象のメロディを次々奏でていく部分があるけれど、木管楽器もさることながら、弦のトレモロが本当に美しかった。

家でCDで聴いているとこういう細かいところはなかなかわからないことが多いのでやはり生演奏を聴けるというのはありがたいことだなあとつくづく思う。

第四楽章
ゆっくり目の始まり方に思えたけれど、演奏が進むにつれてどんどん迫力が増してきた。

ゆったりとしたリズムで木管がテーマを奏でていく部分も印象的だった。

曲がコーダに近づくにつれて演奏の雰囲気がだんだん盛り上がってきて、最後の方は体がぞくぞくしてきた。

本当によかった。

コロナでないときの演奏会だったら、万来の拍手喝采になること間違いなしという素晴らしい演奏だった。

本当にこういうときにショスタコーヴィチの音楽を聴けてよかったとおもう。

暗さのなかに秘められた力強さ、そしてそこに込められたすべてを受け入れる気持ち、そして なにくそ負けるか という思いがショスタコーヴィチの音楽の一番の魅力であり存在価値だと思うので、、、。

コンサートホールを去る時、ひょっとしたら、ベートーヴェンよりもショスタコーヴィチの方に力を注いでリハーサルをしたのではないかというしなくてもいい想像をしてしまった。

そういういろんな想像ができるところも生のコンサートのいいところだと思う。

本当に今日はよかった。













脱炭素へ投資拡大

2021年01月22日 | 日記
今日の新聞の経済欄にバイデン米国新政権関連のニュースとして
「脱炭素へ投資拡大」という見出してかなり大きな記事が出ている。

この記事を読んでいると、二酸化炭素の排出による地球の温暖化、温暖化対策の国際的枠組みである「パリ協定」への復帰、そして二酸化炭素排出を減らすために電気自動車の普及、太陽光発電、風力発電の導入の加速というのが一連のセットの事柄であるかのように紹介されている。

二酸化炭素の排出が地球温暖化の原因である、だからパリ協定にも復帰して、電気自動車も普及させ、太陽光発電 風力発電への設備投資も加速して経済を復活させるという話の流れになっている。

そしてそれは今の菅総理大臣の打ち出す政策ともとても良く似ている。

さらには最近は大手商社の社長の談話も新聞によく載っていて、僕が見た限りでも複数の大手商社の社長が次世代エネルギー(次世代エネルギーの中には当然、太陽光発電 風力発電 電気自動車なども含まれるはずだ)の推進事業に力を入れていくという内容の発言をしている。

もうこうなってくるとエネルギー問題や、地球温暖化などの環境問題に関して一般に言われていることがそのまま国の政策となり、そして大手の会社が先頭を切って、そういう政策にそった活動をして経済を動かしている。

そんな構造になっているように思えてくる。

ひねくれた考え方をすると、炭素による地球温暖化というのは自然科学の論理ではなく経済学の論理なのか、とイヤミのひとつでも言いたいような気分にさえなってくる。

僕が購読している新聞が、一般に自民党よりと言われている新聞であるせいか、そういう政治や経済の流れに異を唱えるニュースはあまり出ていない。

また、実際に、昭和の時代はまだ、社会党などそこそこ大きな野党があって、自民党と論戦を繰り広げていたように思うけれど、今は野党も力を失ってしまって、脱炭素、再生可能エネルギーの導入、世の中のデジタル化、そういう政策がいわば大政翼賛会的に特に誰が反対するわけでもなく進んでいるように思えてきてしまう。

そして、大企業の社長になる人も、そういう流れにそって突き進んでいくというタイプの人が多いように思えてくる。

そして、僕など一般の国民は、とにかく、そういう流れなんだからと、なかば諦めてそういう流れになんとか遅れずにについていくしか選択肢がないという状況になっているように思えてならない。

僕は環境問題や、エネルギー問題の勉強などろくにしたことがない。

けれど、世の中には環境問題やエネルギー問題に関心を持って、いろいろ勉強したり、地道にお話会を開いたりして勉強している人もいる。

そういう人のあまり売れていない地味な本を読んだり、ユーチューブにアップされているお話会の動画を見たりするといろんなことが言われている。

例えば、火力発電が二酸化炭素を排出して地球温暖化の原因と言うけれど、例えば風力発電の風車は、直径数十メートルとかそんな大きな羽を陸や海で回すことになる。

そんな大きな羽を回したら、大きな乱気流が生まれる、そして乱気流というのはこれまた異常気象のもとになるという話が紹介されている。

また太陽光発電と言って今まで水田や畑、あるいは森林であった土地をつぶしてそこに太陽光パネルと敷き詰めると自然破壊になるだけでなく、太陽光パネルは、水田や、畑、森林に比べると太陽が照ったときの表面温度は、はるかに高くなり、そうすると温かい空気は上に上がるので、強烈な上昇気流が生まれてこれも異常気象の原因になる。

原子力発電がどれほど危険かは東北の震災でもうわかっていること。

そして風力発電や太陽光発電はお天気次第で発電量が下がるので、いくらそういうものを増やしたところで、発電量が減ったときのためのバックアップとして火力発電が必要不可欠であることにはかわりがない。なぜなら、これほど電気に頼ってしまっているいまの社会では大規模な停電は許されないから。

原子力発電も地震など災害に弱いからやはり火力発電によるバックアップは必要不可欠である。

東北大震災のときにあれだけ全国の原発が止まってもそれほど大きな停電につながらなかったのはひとえに火力発電がそれをバックアップしてくれたからだ。

という話がいっぱい出てくる。

そういう話は市民運動レベルで環境問題やエネルギー問題に取り組んでおられる方の話なのでそれほどマスコミで大きく報道されることはないけれど、なんかそう言われてみればそのとおりと思える話が多い。

ただ、その、火力発電はもちろん二酸化炭素は排出している。

だから、もうこうなってくると、環境破壊とか異常気象とか、そういうものを食い止めるのには、江戸時代に戻って、夜はろうそくの火で過ごし、もっぱら歩いて移動し、のりものに乗るとしても、牛や馬、あるいは「おさるのかごや」に戻るのしかないのかなと思ってしまう。

そう思ったところでそんな生活に戻れるわけではないし。

ただ、ひとつかなりの確実性をもって言えることは、私達が、電気などのエネルギーを使って、移動し、ご飯を炊いて、冷暖房をしてという具合にエネルギーをたくさん使えば使うほどそれが環境破壊に繋がり、異常気象につながるということだとおもう。

といいつつ僕も今は自動車は持っていないけれど、エアコンはかなり使うし、他人様にエネルギーを節約するようにと言えるような生活をしているわけではない。

なので、自分は偉そうなことは言えないとわかっているのだけれど、江戸時代に戻ることは無理でもやはり一人ひとりが少しでも自分のできる範囲で、エネルギーを節約すればそれは環境破壊や異常気象を防ぐためにたとえわずかでも役に立つとうことは言えるように思う。

それにしても、脱炭素、再生可能エネルギー という論理で特に異を唱える勢力もなく、日本が、そして世界が進んでいくというのは、考えてみるとちょっと怖いことであるように思う。

でも、やはり、今の世の中、ちょっといろいろと科学が進歩しすぎてしまって、そして一部のエリートの人が旗を降るとおりに進んでいたりして、逆に怖いなとうすうす思っている人は僕以外にも案外多いのではないかと僕は思う。

まあ、考えてみたところで結局はなるようにしかならないのだろうけれど。

それならば、なるようになると信じて毎日、無事で健康でありますようにと祈りつつ生きていきたいものだなと思う。





トイレの事情

2021年01月21日 | 日記
新聞の社会面を見ていると警察官の方がコンビニのトイレに拳銃を置き忘れて30分後に客が発見して別の警察官に届けて無事だったと書いてある。

何年か前にも同じような事件があったなあと思いだしてネットで警察官 トイレ 置き忘れ、などと検索ワードを入れて検索するとやはり3年前にも同じコンビニのトイレで置き忘れ事件があったと出ていた。

警察官がトイレに拳銃を置き忘れるなんて、あるまじきこと、絶対にあってはいけないことと息巻いて怒りたくなるところだけれど、気持ちはわからなくもない。

女性の場合はどうかわからないけれど、男は少なくとも外では小便は立ってするけれど、大便は個室ということになる。

やはり、あそこに入ると気分がほっとしてつい気が緩む。

僕はコンサートホールで音楽が始まる前にスッキリしておこうと思ってトイレの個室で用を足すことが結構ある。

ある時、その個室でついほっとした拍子に財布を忘れたことに気づいた。トイレで手を洗おうとした時、いつも財布を入れているお尻のポケットのところがなんかスースーした感じがするので上から触ってみると財布がない。

やばいと思ってすぐにトイレの個室に戻ったらもう個室には次の人が入っていた。

でも、財布がないというのはまずい、僕はトイレの個室の外から大きい声で「すみません、財布、忘れてませんか」と言った。

僕の次に個室に入った人は、他人が用を足しているときに何を言ってくるんやという感じのちょっと不機嫌そうな声だったけれど「財布ありますよ」と言った。

本当に僕の次に用を足している人には申し訳ないと思ったけれど、ここでひるんではいけない、財布は何が何でもゲットしなければと思って
「すみませんがドアの上から財布を僕に渡してくれませんか」と言った。

そこで用を足していた人は、こいつ何ちゅうこと言ってくるんやという声のトーンだったけれど
「はい」と言ってトイレの個室のドアの上に財布を差し出してくれた。

僕はそれを受け取って、やはりホッとした。

傍らで見ていたおじさんも、まさかトイレのドアの上から財布を受け取るなんてというようなちょっと驚いたような顔をしていた。

僕は、普段はそんなに思い切りのいい性格ではないような気がするけれど、ああいうときだけはちょっと思い切りがよくなってしまう。

会社のトイレで用を足してそこに財布を忘れたこともある。Yさんという人がそれに気づいて「ナカシマさん、トイレに財布わすれてましたよ」と言って僕のところに持ってきてくれた。

僕は「ありがとうございます」と言ってそれを受け取ってホッとした。

しかし、その財布の中には、ちょっと他人に見られたら恥ずかしいようなカードも入っていた。

財布を見つけて僕の財布と判別するためには、財布のカード入れもチェックしなければならないはずだ。

ああ、あのカードのこともYさんにバレたな、と僕は思った。

しかし、Yさんはそのことを僕に言ったり、それをネタに僕のことをからかったりしてきたことは一度もない。

それに、僕に財布を届けてくれるということはYさんも、僕に財布のカード入れをチェックしたということを悟られるリスクを承知でそれをしてくれたということだ。

不器用で、上司にうまく取り入って出世するというタイプの人ではなく、あまりにも生真面目すぎてちょっとYさんのことを小馬鹿にしている人もいたけれど、今になって振り返ってみるとYさんは真面目で優しい人だったなと思い出す。

黙っていてくれる、という優しさは何物にもかえがたい優しさだと思うから。


大阪北のターミナル駅付近のトイレのゴミ入に「ここに注射の針をすてないこと」
という張り紙がしてあるのを何度か見かけたこともある。

要するにトイレの個室で誰からも見えないところで、薬を注射しているんだろうなということはなんとなく想像がつく。

そういうことがあるから繁華街のコンビニのトイレは一般客は使用禁止となっていることが多いのだと思う。

トイレの個室は男の場合その他いろんな用途に使っている人がいるようだ。

やはり大阪北のターミナル駅のトイレから電話で話している声が聞こえてくることがある。
営業の人が、営業先に電話をしているということも結構ある。本当にお客さんはまさかトイレから電話をしているとは思ってないだろうと思うけれど、お客にバレたらまずいかも知れないと思う。

トイレで用を足しながら、明らかに上司から電話がかかってきて、すみませんと電話で謝っているとわかる人もいる。

あれも、水が流れる音などでトイレで電話に出ていたとバレたら会社に戻ったら何を言われるかわからないと思うと気の毒に思えてくる。

携帯電話ができたときは、本当にどこででも話ができて便利になったと思ったけれど、トイレで用を足しているときまで上司に追いかけられるのは本当に逆に気が抜けないなと思う。

警備関係などの仕事の人はいつ電話がかかってきてもいいように枕元に携帯電話を置いて寝るという話もきいたことがあるし。

もう30年くらい前に香港経由でイギリスに旅行に行った時、香港の空港のトイレに入ったら、トイレの個室を隔てる壁の下側が大きく空いていて、隣で用を足している人のすねが見えていた。

日本のトイレの個室の感覚になれていると、空港のトイレで隣で用を足している人のスネが見えるというのはやはりちょっとグロテスクと言うか気持ちが悪い。

しかし、日本の公衆トイレの個室と個室を隔てる壁の下の隙間が狭いのは、それだけ日本の治安がいいということだと思う。

トイレの個室を隔てる壁の下を大きく開けるというのは治安対策としか思えないから、、、。