芹沢光治良の「人間の運命」という小説で、主人公の次郎はフランス留学中に結核になり、スイスのローザンで療養生活をする。
その、次郎の療養生活のころを後年に振り返るシーンで次のような記述がある。
“”(ローザンの)高原では、闘病よりも死が易かった。雪のアルプスが自分を抱きかかえてくれそうで、誰も死を思うらしかった。死の誘惑と戦うために、次郎は初めて福音書を読むことを知った。
黒い皮表紙の大型のフランス語の新約聖書だった。大切な単語にはカッコをして、ギリシャ語が入れてあった。例えば愛の字には(アガペエ)と言うように・・・・
同じ病友に、スコットランド人で若い古典学者のヤング君がおって、ギリシャ語の説明を、雪路の散歩をしながらよくしてくれた。
若いのに赤毛の羊ひげをしていたヤング君から、次郎は福音書の愛について初めて教えられた。愛(アガペエ)とは、それまで考えていたのとはちがって、本人の好きなようにしてやることであった。
右の頬を打たれたら、左の頬も打ってもらうようなことであった。“”と。
※新約聖書は古典ギリシャ語で書かれているので、フランスには愛などのキーワードに原典であるギリシャ語は何かを括弧で示した聖書があるものと小説の記述から判断できる。
アガペエを辞書で引いたり、哲学用語辞典で調べたりしても大概は抽象的な記述があるばかりで、具体的なイメージがつかみにくい。
芹沢光治良の小説におけるこのアガペエの説明、
つまりアガペエとは、本人の好きなようにしてやること、右の頬を打たれたら左の頬も打ってもらうようなこと という説明は、アガペエの具体的な説明として、比類がないほどわかりやすいと感じる。
小説のなかの記述とは言うものの、作者の芹沢光治良さんはこういうことはきっちりと書くタイプの人であることはわかるし、、、。
ちなみに、「右の頬を打たれたら左の頬も打ってもらうようなこと」、と芹沢光治良さんが書いているのは、相手が自分の頬を打とうとするならそれさえも相手の好きなようにしてやることという意味で書いておられることはほぼ自明だ。
本人の好きなようにしてやること これが愛の本質、というのはまったくそのとおりなのだと思う。
右の頬を打たれたら左の頬も打ってもらうのは限りなく困難なように、本人の好きなようにしてやることもまだ困難なことであるけれど、、、。
しかし、本人の好きなようにしてやることが愛の理想形 と心のなかに抱いていることは大切と思う。
理想を実現するのは困難でも、理想を心に持っているのと持っていないのでは行動が違ってくると僕は考えるからだ。
それはともかく、いちにち いちにち 無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。