ノーベル物理学賞を真鍋淑郎さんが受賞されたと出ている。
僕、この世界のこと何も知らないのだけれど、真鍋さんが二酸化炭素と気温の上昇の関係を論文にまとめられたという新聞の記述を読むと、ノーベル賞も賞である以上は、時勢の流れに影響されるのかと思ってしまう。
真鍋さんの受賞に水を刺そうという気持ちは毛頭ないのだけれど、率直な感想として、ノーベル賞も、研究と経済効果との関連の中で決まる場合もあるのかと思ってしまう気持ちが心のなかにあるのは事実といえば事実だ。
それも、今年、特に感じるだけで、冷静に振り返ってみると過去の発光ダイオードなども含めて、経済の発展と研究の成果の結びつき、そして賞との結びつきというのは今まであまり意識しなかっただけできっとあるのだろうなと思う。
ノーベル賞に限らず、音楽や文学の賞などでも、ぞれに近いことを感じることはたまにあるし、、、。
賞を取った方への称賛を惜しまないことと、それと同時に、賞をとったから、取らなかった人よりすごいなどと、それを絶対視しない考え方の両方のバランスが大切なのだとこの歳になってだんだん思うようになってきた。
もちろん、何十年来の研究が真鍋さんは評価されたわけでそれは素晴らしいことと思う。
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県庁所在地の百貨店に栗きんとんがかなり販売されていた。
海沼実さんの里の秋という歌にこんな一節がある。
“”静かな 静かな 里の秋
お背戸に木の実の落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人
栗の実煮てます いろりばた“”
栗きんとんなどお菓子は売り場で見かけても、栗を家で煮るということからは遠ざかっているなと思う。
子供の頃は家で栗を煮るというか茹でていたこともあった。
茹でた栗は天津甘栗のようにころっとは皮がむけないので子供の頃は食べるのが面倒くさいなと思っていた。
母に皮をむいてもらって食べることもあったけれど、自分で食べるときは、ナイフで栗を二つに切って、小さいスプーンで実をすくって食べていた。
栗ご飯のときは、家族の茶碗を見て、あれ、妹のほうがご飯に対する栗の割合が多いのではないかと心のなかで思ってみたり。
自分でご飯よそうわ と言って、栗が多いところをよそってみたり、、、。
そんな楽しみも最近は減ったなと思う。
秋の歌と言えば、さだまさしさんが作曲して、山口百恵さんの持ち歌だって秋桜も有名だ。
歌詞にこんな一節がある。
“”このごろ 涙もろくなった母が 庭先でひとつ せきをする“”
これは、娘が嫁ぐ年頃になったときの母を描く歌詞になっている。
今どきは、娘が嫁ぐからと、涙もろくなるお母さんもそんなにはいないようにも思えて、時代も変わったものだなと感じる。
平均寿命が伸びたことの影響もきっと大きいのだろう。
それはともかく いちにち いちにち 無事にすごせますように それを第一に願っていきたい。