かつての那覇は浅い入り江とその入口をふさぐように横たわる浮島と呼ばれる島から成っていました。浮島は現在の久米および松山付近に相当して、中国王朝からの使者(冊封使)は浮島に上陸し浅い海を渡って首里へと向かうことになっており、琉球王府は使者を迎える際に国中の船を集めて舟橋としていた様です。
『長虹堤(ちょうこうてい)』は、中国の使者が海を渡らず直接首里に行ける様、1451年琉球王国によって建設された全長約1キロメートルの堤防と橋からなる海中道路でした。


『長虹堤(ちょうこうてい)』は、現在の地名で那覇市泊の崇元寺前から安里川を渡り、牧志二丁目北部を通り美栄橋駅付近で久茂地川を渡り、松山一丁目の久茂地チンマーサー跡付近に至ります。全長約1キロメートル、高さ約1.5メートル程の堤防道路であり、安里橋と美栄橋(待兼橋)を含む7箇所に石橋が架けられていました。

現在の美栄橋の上にはゆいレールの美栄橋駅があります。



又、美栄橋駅のすぐ近くに幽霊伝説と地名のゆらいになった岩山があります。この岩山には、七つの墓が並んでいたことから『七つ墓(ナナチバーカー)』と呼ばれています。



昔、この岩山の近くのお店に子供のお菓子を買う女性が度々現れましたが、その女性が置いていくお金は翌日には紙(紙銭:カビジン)に変わるので、不思議に思った店の店主がある日女性の後をつけて行くと、墓の中に入って行って…。そのお墓の中を覗くと、死んだ母親の側で赤ん坊が飴をしゃぶっていた、とあります。まさに「子育て幽霊」「飴買い幽霊」の話です。

現在では近くに大きなマンションが建っていました。大丈夫なのかなぁ

そして『長虹堤』の今を美栄橋から崇元寺まで歩いてみました。写真は久茂地川に平行した昔の海中道路です。



途中、『仲良橋』がありますが、まだ久茂地川に平行して進みます。

終点の『崇元寺橋』付近に出ると道路に平行した川が安里川に変わります。つまり久茂地川は安里川の支流になります。



『長虹堤』の終点近くにある『崇元寺』は、かつて尚氏王統の霊を祭る寺でありましたが、太平洋戦争で焼失してしまいました。

現在では三連アーチ型の石門が残っており重要文化財で歴史的建造物に指定されています。


石門をくぐると立派なガジュマルが迎えてくれます。

現在の『長虹堤』は、昔の面影が全く無くなりましたが、地名がそのままの残っており、歩いてみると当時の琉球王国に思いをはせる事ができました。
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『長虹堤(ちょうこうてい)』は、中国の使者が海を渡らず直接首里に行ける様、1451年琉球王国によって建設された全長約1キロメートルの堤防と橋からなる海中道路でした。



『長虹堤(ちょうこうてい)』は、現在の地名で那覇市泊の崇元寺前から安里川を渡り、牧志二丁目北部を通り美栄橋駅付近で久茂地川を渡り、松山一丁目の久茂地チンマーサー跡付近に至ります。全長約1キロメートル、高さ約1.5メートル程の堤防道路であり、安里橋と美栄橋(待兼橋)を含む7箇所に石橋が架けられていました。


現在の美栄橋の上にはゆいレールの美栄橋駅があります。




又、美栄橋駅のすぐ近くに幽霊伝説と地名のゆらいになった岩山があります。この岩山には、七つの墓が並んでいたことから『七つ墓(ナナチバーカー)』と呼ばれています。




昔、この岩山の近くのお店に子供のお菓子を買う女性が度々現れましたが、その女性が置いていくお金は翌日には紙(紙銭:カビジン)に変わるので、不思議に思った店の店主がある日女性の後をつけて行くと、墓の中に入って行って…。そのお墓の中を覗くと、死んだ母親の側で赤ん坊が飴をしゃぶっていた、とあります。まさに「子育て幽霊」「飴買い幽霊」の話です。


現在では近くに大きなマンションが建っていました。大丈夫なのかなぁ


そして『長虹堤』の今を美栄橋から崇元寺まで歩いてみました。写真は久茂地川に平行した昔の海中道路です。




途中、『仲良橋』がありますが、まだ久茂地川に平行して進みます。


終点の『崇元寺橋』付近に出ると道路に平行した川が安里川に変わります。つまり久茂地川は安里川の支流になります。




『長虹堤』の終点近くにある『崇元寺』は、かつて尚氏王統の霊を祭る寺でありましたが、太平洋戦争で焼失してしまいました。


現在では三連アーチ型の石門が残っており重要文化財で歴史的建造物に指定されています。



石門をくぐると立派なガジュマルが迎えてくれます。


現在の『長虹堤』は、昔の面影が全く無くなりましたが、地名がそのままの残っており、歩いてみると当時の琉球王国に思いをはせる事ができました。

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