戦前我が家では御餅つきが28日であった。お餅用のコメは田圃で獲れる餅米と畑で獲れる伊規須米があった。勿論田圃で獲れる餅米のお餅が断然美味しい。しかしこのお米は収穫量の効率が悪い。農家としては田圃にはできるだけ御飯用のお米を作付、畑でお餅用のコメをつくったり粟を《粟》畑で作り粟餅にしたり粟入り餅にしたりした。粟の他に黍《キビ》餅というのもあった。黍餅は少し黄色味を帯びた御餅で僕は粟餅よりも黍餅が好きであった。
28日には、20臼とか30臼お餅を搗かされた。母の従妹の家から数臼頼まれたお餅を搗いていたのだ。28日は朝から大忙しでお餅を搗いた。つき手は僕と兄であったがもうへとへとであった。毎年29日は筋肉痛の日であった。
母の従妹からすれば安くて美味しいお餅が手に入るからヨモギ餅まで頼んでくる。母からすれば、いいおばさん風を吹かせてお米やあわや黍が売れるわけだから農協へ売るより手取りがいい。ということのようであった。
30日には自転車の後ろにリヤカーをつけ、リヤカーには延(の)し板の上にお餅を何枚も載せ紐で縛ったものを引いて布袋まで走った。之も大仕事であった。あのころは兎に角よく働かされた。全ては人力だったから。
あのころは満年齢というのは使われて居なくて全員が「呼び年」であった。つまり、お正月に年齢が1歳増えるのである。
そういえば、サマータイムというのをやったじだいもあった。田舎ではサマータイムと云わずサンマといっていた。「○○に集まって下さい」というと、「それは、サンマかイワシか」とききかえされたものだ。
呼び年の頃お正月は今よりもっともっと大切な日であった。国民一斉誕生日と云えなくもない日で、家族全員が元気に年を重ねたことを祝う気持ちになっていた。
お正月の朝は起きると直ぐに新しい足袋を履きすこし大き目の羽織を着て祖父のいる座敷へ行った。そして、其処で正座して「おじい様あけましておめでとうございます」
と新年のあいさつをし、隣に座っておられた祖母にもおなじことをした。祖父母は喜び決まって「幾つになったの」と聞き「大きくなったねえ。お父さんやお母さんの云うことをよく聞きお手伝いをするんだよ」。と云って「お年玉」をくれた。これはすぐに母に預け、お寺の縁日の日にその一部を貰って出店を覗いて歩き金魚やカブトムシを買ったものだ。
満年齢もサマータイムも占領軍の勧告によって政府が指示したと思うが浅はかな事であった。
民族の伝統や文化は重い歴史があるのだから。(T)