昨日の無茶しぃに、だいき君がドタサンした。
彼は界隈の路地裏のコンシェルジュとして、アド街で、第一位になったことがある。
映像カメラマンが本業で、「天竺」という自分で改造した二人乗りの自転車で界隈を
マーキングみたく歩いたりしている。おじいちゃんが、岐阜の春日村のお茶を栽培していて、
今年から有志といっしょに時々茶畑にお手伝いにいっている最中に「煎茶」にはまり、
無茶しぃの会にもまじめに通ってくるようになった。彼の縁で、長屋を改装してこの界隈の
長屋に住み着く若者があまたいる。壊れかけたものを拾いあげる天才だ。
昨日は、新しいガラスの宝瓶に玉露を入れ、それを一滴づつ舌の上にころがしながら、
夢を語りあった。軸は黄檗山の木庵の「寅」。隠元さんが中国から伝えた黄檗の禅とお茶
の文化が寅の縦髪のように宇宙に広がっていきますように、という願いがこめられている。
煎茶はその後、文人墨客たちに静かに伝わっていった。そのきっかけになったのが、「売茶翁」
の上洛。60を前にして禅僧の身分を捨て、野にくだって上洛し、煎茶道具を担ぎながららお茶
をひろめていった。池大雅や若冲などの文人や木米などの陶芸家や詩人など、いわゆる「文人」
たちに茶味と禅味が、宇宙のように広がっていった。ぼくが通った御所の横にあった立命館の近く
に「山紫水明処」というのがある。予約をしないと入れないが、頼山陽の書斎が公開されている。
そこがまさに「文人茶を楽しんだ空間」として、煎茶をたしなむ人のあこがれの聖地みたいな場所だ。
昼の「無茶しぃの後」に、表参道まで自分の煎茶のお稽古にいった。いつものように青山通りを
走りながら古本屋にいく。「文人茶の華」という古い本を見つけた。古い本で本のカバーから本を
出すのに5分くらいかかった。表参道にでている本箱の一番下にあったので、路上でボロボロ
の和っふるコートを着て、そんな所作をしていると道ゆく人の怪しげな人見る視線を感じた。
しかしながら、奥に座っている主人は「ようこそ」といった感じで笑いながら、会釈してくれたので、
ホッとした。なかなかおもしろい本だ。「白雲は幽石を抱く」という寒山の詩の掛け軸の写真も
掲載していて、しばらく近くのカフェで、なめるように読んだ。
それからヒルズの裏手にひっそりたたずむ、「織田流煎茶道 道場」にいき、「すすり茶」を
先輩教授2人と家元の前で手前。日々是道場。日々是初心。
それから、後輩のお手前に正客として「盆手前」でお茶をごちそうになるが、19時に
夜の無茶しぃの会があるので、玉露一煎で、おいとまし、またまた走って表参道の駅にいき、
押上からお店までも、重たい古本を5冊いれたデイバッグかかえて走った。師走をさきどり
してるような一日。