初ちゃんの「ボチボチ生きようぜ!」

毎日の生活で出会った事をボツボツ綴っていきます。

空白の10年

2007-08-06 | 未分類

NHKテレビで「被爆者 空白の10年」と言う番組があった。


原爆投下から、被爆者が初めて組織化された昭和30年の第一回原水禁大会までの10年の事だ。


未曾有の放射能被害を受けた「医療の空白」生活苦や家、土地を失って彷徨った「援護の空白」結婚、就職の差別にさらされ続けた「差別、偏見の空白」について数名の被爆者の人たちの証言を追ったドキュメントだった。


中には元の私の職場の先輩に当たる人もいて、被爆後の10年間の苦しみについてのこんなに詳しい話を聞いたのは初めてだ。


戦後、すぐに政府とGHQは調査を開始したが、それは被害者の救済の為の調査ではなく放射線の及ぼす身体の変化、核に備える為の治療方法で調査内容も治療法も極秘裏に行われ日本の国からも見捨てられてきた事実が判明した。


放射線に犯されながら治療も受けられず、生活苦の中で医者にもかかれず黙って亡くなった方が大勢いたことは改めて心が痛む。


私が広島に来た当事、アルバイトに通ったのは比治山の下の会社。


お昼休みは運動をかねていつも比治山を一周していた。


その時目にしたのは回りをぐるりと厳重に警戒されたABCC(原爆傷害調査委員会)の建物だ。


私は遠巻きに見ながらも近寄りがたい雰囲気に決して近寄らなかった。


その後就職した会社で数人の「白血病」での死を耳にして原爆イコール白血病イコール死と言うイメージが心に焼きついた。


その頃、何度か耳にした話が今日のドキュメンタリーを見てフラッシュバックした。


ABCCに関しては「被爆者は突然ABCCから呼び出されたら以後ずっと追跡調査の対象になり逃げられん」と言うことだ。


今日の証言では全くその通りで特に妊娠出産する女性はずっと追跡調査をされ、被爆の影響について、遺伝、奇形についての調査は徹底してされたそうだ。


それは、被爆者の為でなくアメリカが今後予想される核戦争等の備えの為だと聞いて被爆者は戦後もずっと踏みつけられ日本の国からも見捨てられていったことが明白になった。


陰では「放射能が移る」とか「被爆者は短命」とかささやかれた時期もあった。


驚いたのは口をそろえて「小さくなり、電車でも隅に座り、遠慮をして生きてきた」と、言われた事。


そして、唯一被爆者が心を寄せ合っていた「原爆スラム」と呼ばれた原爆ドーム近くの集落も警察から睨まれ、取り壊された事など広島の中でも差別され疎まれながら生きてきた事を証言された事だ。


私は当時、被爆者の方がそんな思いをしながら生きている事実さえ知らず、新聞報道で「火事が多い」とか「治安が悪い」と言う理由で取り壊されたのだと今日まで思っていたので、テレビを見て涙が止まらなくなって切なかった。


当事、私は労働運動に首を突っ込み、最初の仕事は「被爆体験記」の記事を収集する事だった。


その時応じてくれた先輩の手記は涙なくしては読めず「初ちゃん、むごい事するね」と恨まれたがその後の彼女はアメリカに反核の旅に行ったり今でも語り部としての活動をしている。


今日のテレビを見て広島の地にいてさえ苦難を強いられた被爆者の思いを語りついで行かなければ、日本が再び戦火に晒されないように反戦の思いを強くしなければと思った。