今朝の撮影時刻は7:45頃。
晴れ。
今日は春分です。
8時の気温は11度、湿度30%、北西の風3m/s。
PM2.5は37μg/立米、SPMは37μg/立米でした。
明日は雨が降るらしいので、空気もきれいになるでしょう。
1995年3月20日、朝8時頃、地下鉄サリン事件が起こりました。
その日、私はやっと開通したJR神戸線で神戸の実家に向かっていました。
まだ全線は復旧しておらず、芦屋か西宮でいったんJRを降りてバスで移動、
西宮だか灘だか六甲だか忘れましたが、またJRに乗って須磨に向かいました。
途中で、東京の地下鉄で毒ガス事件があったらしいとのニュースを聞いた亡父が
「また、オウムか」といったのを覚えています。
まだ被害の全容すらはっきりしない段階でずばり言い当てていたのは驚きです。
さて、神戸に近づくにつれ、屋根をブルーシートで覆われた家屋が多くなり、
三宮の繁華街のビルの中層階が押しつぶされているのを見て、驚きと悲しみ、
そして、果たして復興にどのくらい時間がかかるのだろうかと愕然としました。
実家の玄関には道を挟んだ向かいの石垣の石がコンクリートの壁をぶち抜いて
飛び込んでいましたが、その石は動かそうにもびくともしないほど重かった。
家の中はグチャグチャで、到底素足では歩けない状態で、靴のまま家に入りました。
2階の天井の裂け目から空が見えてました。
屋根は残っていましたが、垂木が桁から外れかかっており、余震があれば
崩れてもおかしくないような状態でした。
ライフラインは壊滅し、電気、ガス、水道、電話は使えない状態。
外を市の職員らしき男性が作業服で調べて回っており、
当時まだ珍しかった携帯電話を使って話していたのを覚えています。
その時だったか後日だったか忘れましたが、墓を見に行くと
多くの墓石が倒れており、我が家のも倒れていたと思います。
当然ながら動かすことができず、そのままでした。
さて、地下鉄サリン事件は霞が関官庁街を狙ったものでした。
当時、私は官公庁相手の仕事をしており、霞が関にも頻繁に出かけていましたので、
神戸に行っていなければ、サリン事件に巻き込まれていた可能性もあります。
その日たまたま霞が関に赴き、被害に遭われた方もおられたでしょうが、
私もその一人になっていたかもしれません。
晴れ。
今日は春分です。
8時の気温は11度、湿度30%、北西の風3m/s。
PM2.5は37μg/立米、SPMは37μg/立米でした。
明日は雨が降るらしいので、空気もきれいになるでしょう。
1995年3月20日、朝8時頃、地下鉄サリン事件が起こりました。
その日、私はやっと開通したJR神戸線で神戸の実家に向かっていました。
まだ全線は復旧しておらず、芦屋か西宮でいったんJRを降りてバスで移動、
西宮だか灘だか六甲だか忘れましたが、またJRに乗って須磨に向かいました。
途中で、東京の地下鉄で毒ガス事件があったらしいとのニュースを聞いた亡父が
「また、オウムか」といったのを覚えています。
まだ被害の全容すらはっきりしない段階でずばり言い当てていたのは驚きです。
さて、神戸に近づくにつれ、屋根をブルーシートで覆われた家屋が多くなり、
三宮の繁華街のビルの中層階が押しつぶされているのを見て、驚きと悲しみ、
そして、果たして復興にどのくらい時間がかかるのだろうかと愕然としました。
実家の玄関には道を挟んだ向かいの石垣の石がコンクリートの壁をぶち抜いて
飛び込んでいましたが、その石は動かそうにもびくともしないほど重かった。
家の中はグチャグチャで、到底素足では歩けない状態で、靴のまま家に入りました。
2階の天井の裂け目から空が見えてました。
屋根は残っていましたが、垂木が桁から外れかかっており、余震があれば
崩れてもおかしくないような状態でした。
ライフラインは壊滅し、電気、ガス、水道、電話は使えない状態。
外を市の職員らしき男性が作業服で調べて回っており、
当時まだ珍しかった携帯電話を使って話していたのを覚えています。
その時だったか後日だったか忘れましたが、墓を見に行くと
多くの墓石が倒れており、我が家のも倒れていたと思います。
当然ながら動かすことができず、そのままでした。
さて、地下鉄サリン事件は霞が関官庁街を狙ったものでした。
当時、私は官公庁相手の仕事をしており、霞が関にも頻繁に出かけていましたので、
神戸に行っていなければ、サリン事件に巻き込まれていた可能性もあります。
その日たまたま霞が関に赴き、被害に遭われた方もおられたでしょうが、
私もその一人になっていたかもしれません。
そしてオウム被害と福島第二原発被害のなんと似かよっていることでしょう。
私は宮城県人ですが、学生の頃の修学旅行も福島でしたし、(今でもですが)とても親しく思っていました。私の住む土地も、あの日の風向きでは被爆してもおかしくない状況でした。近くにある女川原発に被害があれば、こうして書きこむ事もならない状況になっていたことでしょう。
いったい何が人の運命を分けるのかわかりませんが、いまある幸せを感謝しつづけます。穏やかな暮らし以外はなにも望みません。
忘れずにいようという気持ちは大事だと思いますが、
そう簡単に忘れられるわけがありません。
空前絶後という熟語がありますが、「空前」の出来事は起こっても「絶後」であることはまずありません。
いつかさらに大きな事が起こる可能性があります。
我々には、過去の悲劇を教訓として、地道に警戒と努力を怠らないことくらいしかやりようがありません。
それでもすべてを予防することはできず、忘れられない、忘れてはいけない日が増えていくのも辛いところです。