<野の猪(いの)>
野の猪は怯えていた
恐れていた
今しがた、そこの崖の上の道を
通りがかった人間の目を。
その目は
もともと臆病そうな形の後ろに、
やたら傲慢な光を帯びていたからであった
その目は
自らは安全な高みにいながら
蔑むような光を宿していた
しかも同時に憐れみの心をも持っていて
それを誇っているかのようであった。
そして、その目は云っていたのだ
お前はそこをはいずり回って死ぬしかなかろう
それはともかく、お前は
人間の心や言葉を解することはできぬであろう
と。
猪は怯えていた
そして寒さに震えてもいた
しかし、むしろ、怒りにこそ震えていた
その身体はやせこけ、
四肢も細くおとろえていた
が、思い返すのだった
こんな身であっても
地のうなり声を聞くことはできるし
天に書かれた文字を読むことができるのだ
人間よ
お前たちこそ、それを知るまいが
と。
( 私は失聴者であるが、恐れていた、 恐れている。
「手話を…!」 と云われることを。
それは方法のひとつにすぎない。 言葉の力を奪わないでほしい。)
私は10年近く前に髄膜炎と胆嚢炎を続けて患いましたが、亜無さんも同じ病気をしていました。
ぉぉ!~~~(/ ̄▽)/\(▽ ̄\)~~~仲間じゃぁ♪
私は一応完治したけれど、亜無さんは髄膜炎で聴力を失いました。
それは、また私にも、誰の身にも起こり得ることです。
正直言って私は、手話が出来れば聴覚障害を持つ方の助けになると思っていたし、手話は素晴らしいものだとだけ認識していました。
ところが亜無さんは、「手話だけではない、手話だけではいけない」 と訴えています。
そのことは前記事でも紹介したコメント欄で時間を掛けて説明してくださいました。
あまりに時間を掛けて枝葉が多くなったため、少々わかりにくくはなりましたが…。
亜無さんの書いた言葉を使って、ここでもう一度まとめてみようと思います。
亜無さんが 「手話だけ(という考え方)ではダメ」 と言っているのは、第一に
手話は使えば使うほど、言葉(音声)に関するところを損なう面があるからだそうです。
以下、亜無さんの文章をそのまま引用します。
手話は言葉に1対1に対応しない表現方法であり、かつその表現は言葉を言葉として伝えず、逆に棄損し冒涜するところがある、と見られるところがあります。
・・・「ワンワン(犬)、ブーブー(車)」のような幼児語的表現をして 「聴障者なのだから当然。」 というようなカオをされたら、私など内心、不愉快に感じます。
(表向きは、「それは手話表現なのだから」と思ってガマン。)
(なお、手話には幼児語的な面もあります。)
音声では複数の語での表現になる場合でも手話の場合は 「ワン・アクション」、「1表現・1語の手話」 ですまされてしまうということが多いですが、そのため、そういう風に手話ばかり使っている聴障者は論理的に言語を組み立てて、物事の理解を進めるということが出来なくなる傾向があるようです。
・・・例えとして挙げれば、「酒を飲んでヨッパラッて。。。」などのハナシは手話的表現であれば自ずと「ヨッパライ」のジェスチャー的表現をしてそれで 「ことたれり」 になってしまい、「酒を」+「飲んで」+「ヨッパラッて」~というような文章を組み立てて考える必要がなくなり、その習慣もなくなるので、文章にも書く力までも育たないということになりがちです。
(=実例となる人を私は複数知っています。=)
逆に失聴者である私の場合では、一旦手話を覚えてしまうと、手話表現の方が表現に要する時間が短いので、例えば「ありがとう ございます」と発声しようとした時に、つい手話表現が念頭に出て無意識のうちに、手話表現と同じ短い時間で発声しようとして舌がもつれて、まともに発声できないという状態になります。
実際、私の知る範囲でも、手話を多用する難聴者・失聴者で発声がまともにできなくなっている人がいます。
手話にはそういう面もあることを知っておいていただきたいと思います。
・・・つまりは聴覚障害を支えるはずのものが、逆にマイナスに作用している面があるということなのです。
=障害を深め複雑化させている面があることになります。=
インターネットでの文字の会話には、聴覚障害はわかりません。
亜無さんの障害のことも、御自身が語って初めてわかることです。
しかし、もし実際に聴覚障害を持つ方と関わることになったとしたら。
私自身、神戸に行って亜無さんと会える機会があったとしたら、どうコミュニケーションを取ったらいいのだろう? と、ふと考えたこともありました。
そして実際、亜無さんには次のような出来事がありました。
・・・先年まで勤めていた会社でのこと、次々とパートタイマーの人が入れ替わる度に、私の立場を理解してもらうのに一苦労していました。
そういう中で 「私は手話を知らないのであなたと話しができません」 と紙に書いて突き出した人がいて、唖然としてしまったことがありました。
・・・私の方は口頭で「コレコレですので。。。」と言っていたのですが。。。
思うに、その人は、「聴障者」とはどのようなものか知識もなくて、
・・・実際に知っている人なら、一声の発声を聞いただけで、その人が(幼児期からの)聴障者であるか、すぐ判断できると思います。
=「ろう声」という独特の発声であるそうです= (私は聞いたことなく、知りませんが。)
↓
ただ単に「手話」というものがあることのみ知識として持っていて、
ただ、「手話を知らないので。。。」 ということをまず表明しなければならないという一種の 「強迫観念(?)」 に囚われていたのだろうと、後で気が付いたものではありました。
・・・もっとも、その人とは仕事上の接触も殆どなく名前も顔も記憶するヒマもないままで、実用上はどうでもよかったのですが、 「手話でなければならない」 ということはない、ということを知らせるヒマもなかったのは残念でした。
・・・その人も、自分の発言を紙に書いて示しているのだから、聞こえない者に対して書けばコミュニケーションできるということに、何故気づかなかったのか、不思議という他ないのですが、
私の想像するには、文章に書くということは文書・手紙文面作成という特別なものであるというような思いこみを持っていたのだろうと思うのです。
そこで、亜無さんは、「手話だけではない他の方法」 として、文字情報でのやり取りを考えています。
音声入力の出来るPCが製品化できさえすれば、即実現可能ではないかと。
なるほど、亜無さんは耳が聞こえないだけで発声は出来るのだから、相手の言ったことが文字化されれば会話できます。
音声入力PCは実際に開発されてはいるようですが、目的が聴覚障害に絞られているわけではないようです。
音声入力による携帯PCでなくとも、最近では近くにいてもメールでやり取りすることもある世の中。
若者の携帯メールの早打ち技を見ると、「手話」 ができなくても全然オッケーだ…と思えます。 ( ̄▽ ̄)ノ"
ここでまた亜無さん自身の言葉を引用。
「手話の普及が聴障者福祉になる」 という非常に一面的な考え方の人が非常に多いと思いますが、それが 「間違った常識」 であったと考えられる、そういう世の中になって初めて豊かな社会が実現するであろうと思うのです。
・・・聴障者界に「差別」を持ち込まないために、手話はあくまでも 「方法のひとつ」 であるという考え方を打ち出すのが妥当なセンかとは思いますが、現実には、それさえなかなか困難なものであるようです。
対面で相手の目を見ながら話すからこそ、コミュニケーションが取れるのだという考え方もありますから、手話もまだ必要ではあるでしょう。
亜無さんもそれはその通りだと仰います。
ここからまた引用。↓
ところが、手話は言葉としては、あまりにも不足点が多すぎるので、ちょっと微妙かつ複雑な内容となると「追いつかない」ということになりがちなのです。
=特に時間的前後関係がからむないようであったり、二重否定や部分否定の含まれる内容になると、まともに伝えられない、という状態になりがちです。
それだけでなく、手話は、現前で目える視覚的イメージと言語的意味を分けて理解する必要があるので、そのような点、手話の語としての意味とその視覚的イメージとの間に大きなズレがある場合、非常に困惑する場合が出て来ます。
「この表現は手話でコレコレの意味であって、視覚的イメージとは別なのだ」 と絶えず 「翻訳作業」 に神経を使うことになって、私など特に神経疲労を感じることになります。
筆談なら1時間やっても疲れないところ、手話だと2~30分もやっているとクタクタになります。
それだけでなく、言葉を冒涜している表現を使ったことが悲しくなる・・・というのが本音なのです。
聴覚障害にもいろいろあり、何歳で聴力を失ったかによっても事情は違ってくると思います。
亜無さんは成人してからだから、余計に言葉、文章に拘るという面はあると思います。
同時に、だからこそ、生まれつき、もしくは若くして聴覚障害を持った人に、手話だけに頼って、本来の日本語能力を失って欲しくないという切実な願いがあります。
どうも上手くまとまらないままに長くなってしまいましたが……
亜無さんに教えられるまでは、私は自分が手話が出来ないからといって
街で外国人に話し掛けられたとき、「NO! NO!」 と手を振って逃げるオバチャン状態になっていたと思いますが、「普通にしていていいんだ」 と、安心出来たところがあります。
これは聴覚障害のある人にもない人にも、良いことだと思います。
「手話だけではない、手話だけではいけない」
聴障者であれば別文化の別の世界の人間にしてしまってもよいのか?
という点に非常に疑問を感ずるのです。
という亜無さんの主張が取り上げられ、同時に手話に代わる機器の開発が進むことを願います。
野の猪は怯えていた
恐れていた
今しがた、そこの崖の上の道を
通りがかった人間の目を。
その目は
もともと臆病そうな形の後ろに、
やたら傲慢な光を帯びていたからであった
その目は
自らは安全な高みにいながら
蔑むような光を宿していた
しかも同時に憐れみの心をも持っていて
それを誇っているかのようであった。
そして、その目は云っていたのだ
お前はそこをはいずり回って死ぬしかなかろう
それはともかく、お前は
人間の心や言葉を解することはできぬであろう
と。
猪は怯えていた
そして寒さに震えてもいた
しかし、むしろ、怒りにこそ震えていた
その身体はやせこけ、
四肢も細くおとろえていた
が、思い返すのだった
こんな身であっても
地のうなり声を聞くことはできるし
天に書かれた文字を読むことができるのだ
人間よ
お前たちこそ、それを知るまいが
と。
( 私は失聴者であるが、恐れていた、 恐れている。
「手話を…!」 と云われることを。
それは方法のひとつにすぎない。 言葉の力を奪わないでほしい。)
私は10年近く前に髄膜炎と胆嚢炎を続けて患いましたが、亜無さんも同じ病気をしていました。
ぉぉ!~~~(/ ̄▽)/\(▽ ̄\)~~~仲間じゃぁ♪
私は一応完治したけれど、亜無さんは髄膜炎で聴力を失いました。
それは、また私にも、誰の身にも起こり得ることです。
正直言って私は、手話が出来れば聴覚障害を持つ方の助けになると思っていたし、手話は素晴らしいものだとだけ認識していました。
ところが亜無さんは、「手話だけではない、手話だけではいけない」 と訴えています。
そのことは前記事でも紹介したコメント欄で時間を掛けて説明してくださいました。
あまりに時間を掛けて枝葉が多くなったため、少々わかりにくくはなりましたが…。
亜無さんの書いた言葉を使って、ここでもう一度まとめてみようと思います。
亜無さんが 「手話だけ(という考え方)ではダメ」 と言っているのは、第一に
手話は使えば使うほど、言葉(音声)に関するところを損なう面があるからだそうです。
以下、亜無さんの文章をそのまま引用します。
手話は言葉に1対1に対応しない表現方法であり、かつその表現は言葉を言葉として伝えず、逆に棄損し冒涜するところがある、と見られるところがあります。
・・・「ワンワン(犬)、ブーブー(車)」のような幼児語的表現をして 「聴障者なのだから当然。」 というようなカオをされたら、私など内心、不愉快に感じます。
(表向きは、「それは手話表現なのだから」と思ってガマン。)
(なお、手話には幼児語的な面もあります。)
音声では複数の語での表現になる場合でも手話の場合は 「ワン・アクション」、「1表現・1語の手話」 ですまされてしまうということが多いですが、そのため、そういう風に手話ばかり使っている聴障者は論理的に言語を組み立てて、物事の理解を進めるということが出来なくなる傾向があるようです。
・・・例えとして挙げれば、「酒を飲んでヨッパラッて。。。」などのハナシは手話的表現であれば自ずと「ヨッパライ」のジェスチャー的表現をしてそれで 「ことたれり」 になってしまい、「酒を」+「飲んで」+「ヨッパラッて」~というような文章を組み立てて考える必要がなくなり、その習慣もなくなるので、文章にも書く力までも育たないということになりがちです。
(=実例となる人を私は複数知っています。=)
逆に失聴者である私の場合では、一旦手話を覚えてしまうと、手話表現の方が表現に要する時間が短いので、例えば「ありがとう ございます」と発声しようとした時に、つい手話表現が念頭に出て無意識のうちに、手話表現と同じ短い時間で発声しようとして舌がもつれて、まともに発声できないという状態になります。
実際、私の知る範囲でも、手話を多用する難聴者・失聴者で発声がまともにできなくなっている人がいます。
手話にはそういう面もあることを知っておいていただきたいと思います。
・・・つまりは聴覚障害を支えるはずのものが、逆にマイナスに作用している面があるということなのです。
=障害を深め複雑化させている面があることになります。=
インターネットでの文字の会話には、聴覚障害はわかりません。
亜無さんの障害のことも、御自身が語って初めてわかることです。
しかし、もし実際に聴覚障害を持つ方と関わることになったとしたら。
私自身、神戸に行って亜無さんと会える機会があったとしたら、どうコミュニケーションを取ったらいいのだろう? と、ふと考えたこともありました。
そして実際、亜無さんには次のような出来事がありました。
・・・先年まで勤めていた会社でのこと、次々とパートタイマーの人が入れ替わる度に、私の立場を理解してもらうのに一苦労していました。
そういう中で 「私は手話を知らないのであなたと話しができません」 と紙に書いて突き出した人がいて、唖然としてしまったことがありました。
・・・私の方は口頭で「コレコレですので。。。」と言っていたのですが。。。
思うに、その人は、「聴障者」とはどのようなものか知識もなくて、
・・・実際に知っている人なら、一声の発声を聞いただけで、その人が(幼児期からの)聴障者であるか、すぐ判断できると思います。
=「ろう声」という独特の発声であるそうです= (私は聞いたことなく、知りませんが。)
↓
ただ単に「手話」というものがあることのみ知識として持っていて、
ただ、「手話を知らないので。。。」 ということをまず表明しなければならないという一種の 「強迫観念(?)」 に囚われていたのだろうと、後で気が付いたものではありました。
・・・もっとも、その人とは仕事上の接触も殆どなく名前も顔も記憶するヒマもないままで、実用上はどうでもよかったのですが、 「手話でなければならない」 ということはない、ということを知らせるヒマもなかったのは残念でした。
・・・その人も、自分の発言を紙に書いて示しているのだから、聞こえない者に対して書けばコミュニケーションできるということに、何故気づかなかったのか、不思議という他ないのですが、
私の想像するには、文章に書くということは文書・手紙文面作成という特別なものであるというような思いこみを持っていたのだろうと思うのです。
そこで、亜無さんは、「手話だけではない他の方法」 として、文字情報でのやり取りを考えています。
音声入力の出来るPCが製品化できさえすれば、即実現可能ではないかと。
なるほど、亜無さんは耳が聞こえないだけで発声は出来るのだから、相手の言ったことが文字化されれば会話できます。
音声入力PCは実際に開発されてはいるようですが、目的が聴覚障害に絞られているわけではないようです。
音声入力による携帯PCでなくとも、最近では近くにいてもメールでやり取りすることもある世の中。
若者の携帯メールの早打ち技を見ると、「手話」 ができなくても全然オッケーだ…と思えます。 ( ̄▽ ̄)ノ"
ここでまた亜無さん自身の言葉を引用。
「手話の普及が聴障者福祉になる」 という非常に一面的な考え方の人が非常に多いと思いますが、それが 「間違った常識」 であったと考えられる、そういう世の中になって初めて豊かな社会が実現するであろうと思うのです。
・・・聴障者界に「差別」を持ち込まないために、手話はあくまでも 「方法のひとつ」 であるという考え方を打ち出すのが妥当なセンかとは思いますが、現実には、それさえなかなか困難なものであるようです。
対面で相手の目を見ながら話すからこそ、コミュニケーションが取れるのだという考え方もありますから、手話もまだ必要ではあるでしょう。
亜無さんもそれはその通りだと仰います。
ここからまた引用。↓
ところが、手話は言葉としては、あまりにも不足点が多すぎるので、ちょっと微妙かつ複雑な内容となると「追いつかない」ということになりがちなのです。
=特に時間的前後関係がからむないようであったり、二重否定や部分否定の含まれる内容になると、まともに伝えられない、という状態になりがちです。
それだけでなく、手話は、現前で目える視覚的イメージと言語的意味を分けて理解する必要があるので、そのような点、手話の語としての意味とその視覚的イメージとの間に大きなズレがある場合、非常に困惑する場合が出て来ます。
「この表現は手話でコレコレの意味であって、視覚的イメージとは別なのだ」 と絶えず 「翻訳作業」 に神経を使うことになって、私など特に神経疲労を感じることになります。
筆談なら1時間やっても疲れないところ、手話だと2~30分もやっているとクタクタになります。
それだけでなく、言葉を冒涜している表現を使ったことが悲しくなる・・・というのが本音なのです。
聴覚障害にもいろいろあり、何歳で聴力を失ったかによっても事情は違ってくると思います。
亜無さんは成人してからだから、余計に言葉、文章に拘るという面はあると思います。
同時に、だからこそ、生まれつき、もしくは若くして聴覚障害を持った人に、手話だけに頼って、本来の日本語能力を失って欲しくないという切実な願いがあります。
どうも上手くまとまらないままに長くなってしまいましたが……
亜無さんに教えられるまでは、私は自分が手話が出来ないからといって
街で外国人に話し掛けられたとき、「NO! NO!」 と手を振って逃げるオバチャン状態になっていたと思いますが、「普通にしていていいんだ」 と、安心出来たところがあります。
これは聴覚障害のある人にもない人にも、良いことだと思います。
「手話だけではない、手話だけではいけない」
聴障者であれば別文化の別の世界の人間にしてしまってもよいのか?
という点に非常に疑問を感ずるのです。
という亜無さんの主張が取り上げられ、同時に手話に代わる機器の開発が進むことを願います。