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石巻ボランティア日記 その後とこれから

2012-09-08 11:42:31 | 石巻ボランティア日記
8月31日(木)

40日間の夏休みが終わる。
と言っても、休みだったのは子ども達だけ。私はしっかり、出勤、出張、研修、日直と言ったお仕事があった。その中でもしっかり里帰りもしたし、各種勉強会にも参加した。懐かしい友達や、めったに会えない友達に会ったり、新しい友達ができたりと、たくさんの出逢いがあり、大切で、貴重な時間を過ごすことができた。

やりのこしたことはたくさんあるが、思いがけず得たものや、今までの苦労が報われるような嬉しいこともたくさんあった。
 
 明日から9月だ。また慌ただしくも賑やかな日々が始まる。
休みの間に、リフレッシュも、充電も、スキルアップも頑張ったけれど、それがいつまで持つか、ちょっと不安だけれど、ポジティブ、アクティブ、パワフルに、今できる精一杯を頑張るしかない!

 この夏いろいろな宝物のような思い出の中に、石巻帰省がある。
あの日から1年5カ月経って、故郷はだいぶ落ち着き、少しずつ元の生活に戻ってきたような地域と、あの日のまま放置されている地域との格差が著しかった。
 そんな中で、立町通りの仮設店舗の商店街の壁に、絵を描いている学生たちがいた。
声をかけると、名古屋造形大学の学生さんたちだった。私もその壁画制作に参加させていただいた。待ち行く人たちに声をかけて、壁画を完成させようとしているのだ。
 私も一筆、参加させてもらった。


 昨年は、猛暑の中の泥出し、瓦礫撤去作業のボランティア活動が主だった。
 今年は、帰省期間が短いため、仮設店舗での買い物や食事などをし、商売を立て直そうとしている人たちへの応援をしてきた。
 昨年、ボランティア活動を共にした人が言うには、瓦礫の分別作業などは、被災された人たちが、とりあえず現金収入を得るための仕事なので、今は、ボランティア活動としては、被災地に来て、作業ではなく、観光をしてほしいのだそうだ。被災地の商品を買い、食事をして、泊って行ってもらえることが、産業、商業の復興につながるということだった。

 
私は、それを千葉に戻ってからも実践した。
 8月25日、長生、茂原地区の宮城県人会の人たちと一緒に、千葉県茂原市での祭りに宮城県物産展の売り子として参加した。
 仙台の萩の月、石巻の白謙の笹かまぼこ、渡波の長寿味噌、奥松島の海苔、仙台の牛タン、松島の地ビール、銘酒「浦霞」と「一の蔵」、芋煮、そして、被災地の婦人会の手作りグッズなどを、石巻弁丸出しで、声を枯らして販売した。
おかげさまで、売り上げは上々。笹かまぼこは昼前に完売した。

お客様も、宮城県不出の「萩の月」や「白謙の笹かまぼこ」が、ここで買えるなんて!とたくさん買っていく人や、食べてみた途端、気に入ってお土産に買っていく人や、被災地支援として買って行って下さる人たちなど、売りがいがあった。

このことは、県人会の人たちだけでなく、その様子を知らせるだけでも、故郷の両親、友人、ボランティア仲間を感動させ、励ましたと思う。
こういう形の被災地支援もあるのだなあと思った。

石巻帰省レポート その2 石巻市立門脇小学校

2012-01-07 21:04:00 | 石巻ボランティア日記
1月3日(火)

今日は、高校時代の友人と、石巻の初売りに行った。
仙台や石巻の初売りと言えば、福袋や景品が豪華で有名なのだが、今年は、震災の影響で、石巻の中心街の商店街も開いている店が少なかった。私達は、それでも頑張って開店している店を探し歩いて、もりや食堂でカレー南蛮そばを食べ(美味しかった!!*(グッド)*)、珈琲館でマンデリンを飲み、観慶丸でおわんを買い、白松もなかでお土産を買い、白謙(しらけん)で笹かまぼこを買った。
どのお店も、夏に来た時よりはきれいに片付いていたし、通常通り営業はしていたが、夏は川開きもあってそれなりにお客さんはいたのだろうが、せっかくの初売りなのに、本当に客がいなかった。
『復興』『石巻再興』の難しさを痛感した。入ったお店の方に、震災当時のお話を伺いながら、「昨年の分以上、良いことがたくさんありますように。頑張ってください!」と声をかけると、みなさん、深々とお辞儀をしてくださっていた。
石巻を離れてしまった私が言うべきことではないが、同じ石巻市民が、ああやってかつての中心街で頑張っている老舗を、なじみの店を支えてあげてほしい。
ただでさえ、震災前からドーナツ化現象でシャッター街化していた商店街ではあったとしても。
特に、石巻出身者のみなさん!石巻でお金を使いに帰ろう!!石巻を元気にしに行こう!!!かつてエンドーチェーンがあった駐車場には、仮設店舗があった。そこから皆で立ち上がろうとしている。どうか、心折れずに、踏ん張って、再起を図ってほしいです。
おだづなよ、津波!(ふざけるなよ、津波!)負ねげねど頑張る!石巻!!(負けないで頑張る!石巻!!)友人と北上川沿いを河口に向かって走り、日和山の麓に広がる門脇地区に行った。大晦日に長淵剛さんが『ひとつ』を歌った石巻市立門脇小学校に行った。
photo by toliton717 from OCNフォトフレンド
津波に打ちつけられた瓦礫に、船や車の油が引火し、炎上して、小学校は全焼。校庭に押し寄せた瓦礫はきれいになくなっていたが、校舎の中はあの日のまま、焼けて止まったままの時計と一緒に時が止まったままだった。 焼けただれた校舎の外壁や、ボロボロのカーテン、煤けた天井…。どれほどの猛火がこの校舎を焼き尽くしたのか…。地震と津波だけでも壊滅状態なのに…。まるで、原爆ドームのようだった。
長淵剛さんが、昨年の紅白歌合戦で、この角のわき小学校の校舎を背にして歌った時、漆黒の闇と言った場所の昼間の様子がこの写真だ。
photo by toliton717 from OCNフォトフレンド
遠くに見える防波堤のようなものは、何台も積み重ねられた津波で流された車だ。ズームアップで撮った写真を見てほしい。
photo by toliton717 from OCNフォトフレンド
小学校の近くに、TVに良く映る『がんばろう!石巻』の看板があった。
photo by toliton717 from OCNフォトフレンド
この看板は、セブンイレブンがあった跡地に立てかけてあるのだそうだ。店長夫妻と18歳のアルバイトの女の子が被災し、夫妻は行方不明。女の子は、数日後、そこからほど近いガソリンスタンドの屋根の上で自衛隊によって発見されたのだそうだ。

 私はこの地区の南浜町という地域に、幼稚園に入る前まで住んでいた。
川沿いを歩いて行くと海になるのだが、こちら側の海は、当時東北パルプ、または石巻パルプ(現在は日本製紙)と言った大きな製紙工場があり、その向こうは工業港だ。小学生の時、父と弟と、工業港に停泊している大型貨物船を描きに行き、展覧会で賞を取ったことを覚えている。
 石巻は、北上川を境に、左右に大きな港があり、牡鹿半島側は東洋一の魚市場がある新漁港(かつては美しい砂浜と松林が続く海水浴場もあった。)、仙台方面側は釜工業港だ。そして、河口には造船所が建ち並ぶ、典型的な港町だ。
この門脇地区に住んでいた高校時代の友人の息子さんとお姑さんが、震災9日後、瓦礫の中から奇跡的に救助された。夏にその友人から聞いた当時の話は、本当に過酷で奇跡的で、感動した。人間、最後まで諦めてはいけないのだ。息子さんのおばあさんを助けたい一心で、凍傷の足で瓦礫の隙間から屋根に這いあがり、何時間も叫び続けて救助してもっらたという話は、今でも涙がこみ上げてくる。
この地区にはまた、母の友人が、最初の津波の時は、犬の散歩中で、ご主人と避難できていたのに、引き波の時に自宅に戻ったまま、未だに行方不明だ。
見渡す限りの荒野には、何千人もの当たり前の生活があったはずだ。友人は、
「日和山から見下ろしただけでは分からない、感じられない、この状況を見てほしかったの・・・」
と言っていた。
門脇小学校の児童は、今、日和山にある門脇中学校で一緒に勉強をしている。かつての学び舎をどんな思いで眺めて暮らしているのだろう…。
どうか、子どもたちの未来に、明るい光がたくさん差し込んできますように…。
子どもたちが安心して、安全に、健康で、楽しく、勉強できる環境を保障してあげるのは、私たち大人の責任と役割だ。
夕闇せまる門脇小学校の前で、私はこれから自分の成すべきことを考えていた。

石巻帰省レポート その1

2012-01-04 14:49:00 | 石巻ボランティア日記
1月2日(水)夜明け前、*(バス)*石巻駅到着。小・中・高校時代の友人と日和山に登り、神社に参拝した。photo by toliton717 from OCNフォトフレンド3月11日の大津波は、北上川の河口に架かる日和大橋を越え、石巻の市街地を襲った。日和大橋のてっぺんにいた車4台を残し、石巻工業港を襲い、ひばり野海岸から襲った門脇地区南浜町の住宅街の瓦礫を巻き込みながら、北上川を遡上し、何度も津波は高さを増しながら石巻を破壊して行った。この鳥居の広場で、夏に雨の中、長淵剛さんが「Try again」を歌ってくださった。鳥居向かって左には、『救援、ありがとう』の横断幕が掲げられていた。photo by toliton717 from OCNフォトフレンド日和山から望む、石巻市街地。ここは、石巻市民や石巻出身者のパワースポットだ。この、何もなくなった中瀬から、昨年8月1日川開き祭りの花火を打ち上げたそうだ。「こんな時にお祭りなんて!」「こんな時だからこそ、供養の意味でも、石巻再興の一歩として、花火を打ち上げるんだ!」という市民の賛否両論が続いたそうだ。実際、大手スポンサーが被災してしまい、花火大会の開催自体が危ぶまれていたのだが、全国の花火協会からの協力を得、2000発の花火が集まり、1日だけの花火大会が開催された。特に、新潟県長岡市から寄贈された花火は、北上川の河口サイズに合わせて、『ミニ・フェニックス』として、エンディングを盛大に飾った。この川開き開催に向けて、全国、海外からまでたくさんのボランティアが集まり、石巻の町のがれき撤去が精力的に行われたのだという。石ノ森章太郎漫画館の周りにあった瓦礫も、内海橋にひっかかかり、通行を遮断していた瓦礫も、震災・津波襲来直後を知っている人ならだれでも、『良く、ここまで片付けた』と感動するほどの当時の惨状と、撤去後の喪失感で胸がいっぱいになるのだという。私は、真夏に帰省し、ボランティア活動をした際の最終日に、神社の境内とこの場所を掃除した。全国各地から駆けつけてくださったボランティアの方に、在りし日の石巻の様子を語りながら…。この写真を撮っていた時に、ウォーキングに来ていた60代ぐらいのおじさんが話しかけてきてくださり、震災当時の様子を話してくださった。そのあまりの凄惨さに胸が詰まり、えぐられるようだった。と同時に、おじさんが教えてくれた、全国からの救援隊、自衛隊、米軍の『トモダチ作戦』などの精力的で丁寧な救援活動の様子を聞いて感動した。日和山公園と言えば、石巻随一の桜の名所だ。今年もすでに、かたい蕾を付けながら、やがて来る春に備えている桜の木々…。昨年の桜満開の時期には、誰もお花見をする人がいなかったということだ。当時、全国的にお花見自粛ムードではあったが、確かに、瓦礫を見ながら誰も花見などしたくはないだろう。ああ、いつになったら、この公園で、満開の桜を目で、幸せな気持ちで和やかなお花見ができるのだろう…。photo by toliton717 from OCNフォトフレンド夜、石巻市立蛇田中学校の同期会に出席した。参加者は、卒業生36名と恩師1名で、和やかに楽しく、お互いの無事と再開を喜び合った。幹事の話によると、連絡を取り合った中では、同期生にはこの震災で亡くなった方はいなかったらしい。実家のある地域も地震の被害は受けても、津波による被害は少なかった。ただし、家族や親戚、友人、同僚、知人を亡くした方、家や会社が半壊、全壊、津波で消失した人もたくさんいて、過酷な現実を受け入れ、向き合わざるを得ない現実を皆は必死に生きていた。特に、行政を担当している同級生は、その責任の重さと、これからの課題の多さに沈痛な面持ちだった。「300%頑張っている」と語る彼にこう言った。「石巻は頑張っている。泣きながら、泣きたいのを我慢して、頑張っている。本当に頑張らないといけないのは、石巻を出て行った人間。帰ってきてボランティアをする、石巻の物を買う。石巻にお金や物資を送る。自分のできることでいいから、立ち上がろうとしている、倒れないように踏ん張っている故郷の人たちを支えるのは、石巻出身者だ。全国から、海外から救援、応援に駆け付けてくれている。本当にありがたくて、涙が出る。夏に一緒に活動したボランティアの人たちに、どれだけエールとエネルギーをもらったことか。石巻の行政を司り、これからの復興に向けて頑張る○○君にお願いがあります。助かった人の分だけ生き残るKnow howがある。亡くなった人の数だけ解決しなければならない課題がある。地震から津波到達までの間の時間、何が生死を分けたのか…。これを分析してまとめたものをこれから必ず起こると想定されている、南海、東南海、東海地震で石巻と同じような被災地になる可能性のある市町村へ、そのレポートを送ってほしいの。失敗から学ばなければ、進歩はない。亡くなった方たちは浮かばれない。辛い作業だとは思うけれど、子ども達の未来のために、震災や津波に強い街づくりのために、この被災体験を生かしてほしいの。阪神や中越から駆け付けてくれたボランティアの人たちが、言っていたの。『自分たちが被災した時は、小学生だった。何も分からなくて、助けててもらった人たちに恩返しもできなかった。今、僕たちはあの時にもらった元気を石巻の人に分けてあげられる機会を得たんです。』そうやって、徹底的に泥出し、瓦礫撤去してくれている姿を見て、近所のおじさんは、『今は自分たちのことで精いっぱいだけど、いつか、日本のとこかで、こいな災害が起きたら、今度はおらだぢが助けにいがねくてね!(自分たちが助けに行かなくてはならない)』って言ってたよ。だから、私は、千葉に帰ったら、見できたこと、聞いてきたこと、石巻が今必要なこと、皆に知らせるから。私にできることがあったら遠慮なく連絡頂戴ね!」その後、みんなからのリクエストに応えて『海のトリトン』を熱唱して、みんなを笑顔にし、夏の再会を約束して、降るような星空の下を歩きながら実家に帰った。

負けねど、がんばる、明日を夢見て!

2011-08-30 06:33:00 | 石巻ボランティア日記
8月18日(木)

今日は、いよいよ千葉に戻る日。

一昨日の朝、東京から帰省した弟は、私と入れ替わりに今日からボランティア活動を始めた。
弟は、震災直後に石巻に来て、避難所がいっぱいだったので、壊れた自宅にいた両親を見つけてくれたものの、私達には電話が通じず、仙台まで戻ってきたところでやっと連絡が取れ、私達は両親の無事を知ることができた。
「家が無事なのに、自分たちだけ東京に避難できない」
と、石巻に留まると言う両親に、
「東京に戻って、もっと必要な物資を満載して石巻に帰ってくる」
と言い残して、東京に向かう途中、福島原発の爆発事故が起き、避難する住民の大渋滞に捲きこまれてしまった。
とるものもとりあえず、石巻まで来たものの、帰りのガソリンを積んでいなかった弟は、震災後のガソリン不足で、栃木県に入ったところで、ついにガソリン切れになってしまい、宇都宮付近の民家の庭先に車を置かせてもらって、新幹線で東京に戻ったのだ。
それから2週間、その車を取りに行こうにも、原発の事故は続き、ガソリンはなかなか手に入らず、ようやく車を取りに行った時、なんと、その民家の方が、ガソリンを満タンにして置いてくださった上に、米まで下さって、お金を払おうとした弟に、
「こういう時です。困った時はお互い様です。お米をご両親に届けてあげてください」
と、言って、お金は受け取らなかったそうだ。
本当に、本当に、その方には感謝している。

弟はその後、G.Wにも1週間近く帰省し、家を直してくれた。
父は、
「若いって素晴らしいなあ。力仕事も、高いところの修理も、耐震グッズの取り付けも全部やってもらった。」
と感心し、母も、
「4月の余震の時、水がなくて苦労したことを叱られて、いろんなものをどっさり買ってってくれたの。助かった~。」
救援物資は、避難所にいる人達には配られても、自宅難民には支給されないようだった。

弟は、中越地震の時、2週間ボランティア活動に出かけたが、車で寝泊まりしているうちにエコノミー症候群になり、途中で活動をやめて帰るしかなかったことを今でも悔いている。
今回も、家のためには迅速に動いて、やるべきことをやったが、そのために休みをたくさんとってしまっていたので、石巻の街自体にはまだボランティア活動をやっていないことを気にしていた。
そこに、私と姪っ子たちのボランティアの話を聞き、俺も!と思ったらしい。
昨日、両親と、大川小学校や、5か月経った今も津波で公民館の屋根の上にバスが乗っかったままの雄勝地区の方を回ってきた弟は、
「3月~5月の時は、まだ瓦礫だらけで、そこには街があったんだという実感があったけど、それらを全部撤去されてしまうと、本当に何もなくなって、ここに街があって、誰かが生活していたなんて信じられないような更地になっていた。あそこにポツンと立っているる建物は?と思ったら、それが、あの大川小学校だった。雄勝なんて、誰も住んでないよ。」
雄勝の雄勝硯伝統産業会館には、父が回顧展を開いた時に飾ってもらった油絵の大きな作品が20点以上収蔵されていたのだが、今回の津波で、全部流されてしまったのだ。父は、絵はもちろんだが、額縁もだめになってしまったことにがっかりしていた。どれほどの損害だろう。
雄勝は、日本有数の硯石の産地で、たくさんの素敵な硯が展示されていた。

疲れるから新幹線で帰れと言う母の言うことを聞かず、昼のバス*(バス)*で東京に向かった。それは、どうしても、福島のサービスエリアで桃を買いたかったからだ。安達太良サービスエリアの売店で桃を買った時、売店の人が、
「いつもは、店先に3列ぐらい桃を並べて露天販売してたんだけど、店の中のここでしか売れなくて、売れ行きも去年の3分の1ぐらいなんです」
と言っていた。
「毎年、ここで桃を買って帰るので、心配していました。学生時代、山梨で桃の出荷のバイトをしていたので、桃をここまでに育てて出荷する大変さを知っているだけに、農家の人たちの無念がよくわかります。頑張ってください」
「ありがとうございます。農家の人に伝えます」
と言っていた。
サービスエリアの売店には、『絆』『東北人魂』と書かれたTシャツが売ってあり、福島への義援金と思って、2枚買った。
窓に広がる緑の山々田園風景は、いつもと変わらぬ美しい『うつくしま・福島』の風景だ。ここが、放射能で汚染されているだなんて・・・。人間だけでない、森の生物や川にだって湖にだって生き物はいる。この自然は、どこにも避難できない。ただ、黙って、放射能を浴び続けるしかないのだ。
津波で流されたわけでもないのに、自宅に戻れずに5カ月も着の身着のままで避難所生活をしている福島の人たちの苦しみや無念は、私の想像をはるかに超えているものだろう。
原発事故の一日も早い収束と、福島の人たちの心と体の健康を心よりお祈りいたします。なんだかんだと、帰宅した時には日付が変わっていた。

明日は成田で研修だ。その後も土日なしで研修続きだ~!