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交流

私と「赤毛のアン」

2014-04-13 07:18:25 | 担任雑記
私と「赤毛のアン」の出会いは、小学校1年生の春休み。
父が買ってくれた本でした。
ばあちゃんと鳴子温泉の湯治場の部屋で、夢中になって読んだのを覚えています。
子どもの頃、頬っぺたが真っ赤っかでよくいじめられていた私と、髪の毛が真っ赤っかでいじめられるアン。
空想好きで、口から先に生まれてきたみたいに話し好きなところとか、自分と共通点がいっぱいのアンの物語を、暗唱できるくらい何度も読みました。

中学2年生の時、TVで当時大ファンだった天地真理がアンの役、西城秀樹がギルバート役をしていた番組を見たのがきっかけで、赤毛のアンシリーズを読みふけりました。

「赤毛のアン」には続編があるのを知ったのも中学時代で、「アンの青春」「アンの愛情」と読み進むうちに、アンの影響で、当時の私の将来の夢は、中学校の国語の教師でした。

思えばそれが、私の今の仕事の原点になっているかもしれません。
教科は美術ですが…。

その頃、私が行きたい外国はカナダのプリンスエドワード島のグリンゲイブルズでした。
簡単には行けない場所なので、いつか私に娘ができたら、一緒に行ってみたいなぁと憧れていました。

高校生の時に、日本アニメーションが「赤毛のアン」をTVアニメ化しました。
第一話をみた時の感動は、今でも忘れられません。
小さ頃から繰り返し読んでいたシーンが、見事に想像通りでした。
実際にグリンゲイブルズまで取材に行った成果が、背景画の全てに表現されていました。

4月からNHKの朝ドラで「花子とアン」が始まりました。
村岡花子さんは、第二次世界大戦中も、女学校時代にお世話になった先生に頂いた「赤毛のアン」の原書を肌身離さず持って逃げたそうです。
その努力があってこそ、今私たちは「赤毛のアン」に親しむことができているのです。
花子さんと「赤毛のアン」がどのように出会い、花子さんがどんな思いで「赤毛のアン」を訳したのか、今後のドラマの展開が楽しみです。

ドラマを楽しみながら、もう一度「赤毛のアンシリーズ」を読み返そうと思っています。

明日から夏休み!~1学期の反省(汗)~

2013-07-19 19:36:23 | 担任雑記
7月19日(金)

今日は、終業式。ようやく、長いようで短い1学期が終わった。
昨日は、成績付けの間できなかった、3年生の水墨画&篆刻作品の掲示物を、美術部に協力してもらって、頑張って作った。結局、できあがったのは深夜になってしまった。(途中で頭痛がひどくなって来て、途中で学校の近くの整体屋さんに駆け込んで、施術をしてもらい、また学校に戻って最後まで頑張った。)
本当は、朝のうちに3年生の廊下に貼ってあげたかったのだけれど、朝から忙しくて、結局、みんなが通信簿をもらっている時間になってしまった。(下校時には、みんな、掲示物見てくれたかなぁ・・・)

「自分を励まし、観る人を励ます絵、言葉、文字」と言うテーマで、みんなの決意がたくさん込められている作品は、掲示物を作成している間、誰よりも私が励まされた。
全ての部の総体やコンクールには応援に行けないけれど、みんなの健闘を心から祈っています。

1学期は、とにかく時間にも心にも、身体にも余裕がなかった。新しい職場、新しいシステム、マンモス校の授業は、人数も授業時数も多かった。
・2学期は、1学期の反省を生かして、先を見通した年間計画と授業準備・評価をできるように頑張ろう。
常にアンテナを高く、潤滑油として周りへの気配り目配りができるように頑張ろう。
・生徒にやらせたいことと、やれること、やれないことの実態を見極めた題材選びと、授業計画をもう一度練り直して、もっと効率よく、充実した作業時間が確保できるように頑張ろう。
・学年チームとして、自分の仕事だけでも、期日を守って誰かに迷惑をかけないようにしなくては。できれば、自分だけの仕事で手いっぱいにならないよう、チームのために貢献できるように頑張ろう。
・忙しさにかまけて、家のことを後回しにすることが多く、いろいろ溜めてしまったことを、夏休み中にはなんとか解決できるように頑張ろう!
・今回も頑張りすぎて、身体がボロボロになってしまったので、夏休み中にしっかり体のメンテナンスをやり、心身ともにリフレッシュさせて、2学期に備えよう。

夏休みは出逢いの時であり、再会の時でもある。
この夏休みには、どんな出逢いや再会が待っているだろう。わくわくやドキドキ、ときめきがいっぱいありますように。

一年前の私と一年後の私へ   誕生日の前に送る手紙

2013-07-15 06:28:42 | 担任雑記
7月15日(月)

さっき、丁度1年前の日記を読み返してみた。
そして、その51歳だった私へ、もうすぐ53歳になる私からの手紙という形で、近況を書こうと思う。


もうすぐ52歳を迎える私へ

読み返すだけで、当時の大変さが蘇ってきました。
本当にお疲れ様でしたね。
今の私は、当時のように毎週整体に通うこともなく、声も元のソプラノに戻りました。

生活は、この1年間で激変しました。
2月に引越し、4月からは中学校の美術の先生をしています。
5月には旧姓に戻り、第三の人生を踏み出しました。
長男は、入社三年目を迎え、今や新入社員の教育係。昨年知り合った可愛い彼女とも仲睦まじく、今年の母の日には、彼女がアレンジメントしれくれたカーネーションに、泣けるようなメッセージカードを書いてくれてプレゼントしてくれました。
長女は、公私ともに順風満帆。実際にはいろんな紆余曲折はあるみたいだけど、公私ともに良きパートナーや、スタッフ、ブレーンに支えられて、今、人生の岐路に立っています。私は親として彼女の幸せを願い、最強の応援団長であり続けたいと思っています。
末娘は、ようやく自分の進むべき道を見出し、その未来にコンパス(指針)を合わせて、ようやく出航の準備を始めたところです。
担任の先生も応援してくれています。まるで私自身の高校3年生の夏休み直前にそっくりです。8月4日には一緒にオープンキャンパスに行ってきます。

両親は元気です。
去年の秋には、二人で軽のワンボックスカーで岡山の美術館まで絵を搬入に行きがてら四国巡りをし、かじ坊さんのミカン畑まで行ってかじ坊さんにお会いしてきました。道中はまさに『やじきた道中膝栗毛』よろしく、いつまでも元気で仲良く行動的な2人です。

石巻は、復興への道はまだまだ遠く、あの日のまま手付かずの被災地もあるし、全くの更地になってしまったところも多いです。
更地に新しい建物を建設するには、新しく盛った土が落ちつくまで2~3年はなにも建てられないのだとか。
6月に石女の同期会があり、高校卒業以来久しぶりに会った友達と、再会を喜び合いました。
みんな、それぞれ波乱万丈の日々を『あまちゃん』(今ハマっているNHKの朝ドラ)に出てくるおばちゃんたちバリの元気さ、明るさで頑張っています。皆の大変さに比べたら、私の大変さなんて物の数にも入りません。

ところで、昨日は採用試験でした。結果は、7月末か8月初めに発表されます。
今年は、試験対策用に老眼鏡を買いました。おかげで、マークシート(答えが合っているかどうかは別として)もデッサンもバッチリでした。
面接は・・・微妙かな。
とりあえず、自分的には、今できる自分のベストは尽くしたつもり。
これで不合格でも悔いはありません。
もし不合格だったら、私にはこの仕事は不向きで、千葉県には私は必要ない教員なのだと割り切ることができます。
でも、もし、二次試験に進むことができたなら、全力で勝ちに行きます。

今の学校では、去年の経験(失敗や挫折も含めて)があらゆる場面で役に立っています。
小学校での担任の経験は、自分にとってはのスキルアップと土台になっています。
どんな苦労も無駄なことはないのですね。
我が子たちの成長ぶりを見てもそう思います。
逃げない、ブレない、諦めないで、自分を信じて努力を続けて行けば、必ずプラスに転化する時が来る。
弱音を吐かず、マイナスをプラスに変えて行けば、夢は叶う。
7月に入ってから全く受験勉強できなかったけれど、685人の成績付けは過去最大の過酷な作業で、採用試験の前日の夜までかかったけれど、やり遂げた達成感と反省こそが最強の自己PRだと自負できます。
生徒たちの答案用紙や作品こそ、私の授業の長所や欠点を教えてくれ、自分の教師としての適性や課題を指摘してくれるからです。
去年の小学校での学級担任経験は、普段の生徒指導だけでなく、今回の面接でも、大いに役に立ちました。
あなたの身体を張った頑張りは、けして無駄にはしませんでしたよ。心からありがとうを言います。
合格したら、誰よりも、去年と一昨年の受け持ちだった子どもたちとお世話になった先生方にに知られせてあげたいです。


ここからは、来年この日記を読むであろう私を意識して描きますね。

もうすぐ54歳を迎える私へ

相変わらず、毎年激動の波乱万丈な人生を送っていることでしょう。

26年度は仕事はどこで働いていますか?教員は続けていますか?
教諭になれて、去年と同じ学校に勤務できているなら、成績付けは今年は去年の経験を生かして、みなさんにご迷惑をかけることなく、効率良くできましたか?
常勤講師なら、また新たなシステムでの成績付け、お疲れ様でした。夏休みを有効に使って2学期も頑張ってね。
非常勤講師なら、何校かかけもちで教えているのでしょうが、くれぐれも交通事故だけは気を付けてね。
教員免許更新の勉強は順調ですか?スクーリングでまた新たな出会いがあり、スキルアップができますよう祈っています。

子どもたちは元気ですか?
末娘は、大学生?予備校生?彼女はきっと大丈夫。自分の道を見極めたら、あの集中力と根性で何年かかったって自分のやりたいことをとことんやる子だから。その代わり、やりたくないことはとことんやらないけどね。
もし、念願叶って志望校に進学して花の女子大生になっていたら、一緒には暮らしていないのかな?
子どもたちがみな手元から巣立って行って、旧姓に戻って、身軽になった分、寂しさはそれ以上かな?
でも、私もそうだけど、親が元気でいてくれるからこそ、子どもは自分のやりたいことができる。
子どもたちには何も残してあげられないけれど、せめて、元気で、誰かが疲れてちょっと帰りたくなった時には、いつでも温かく迎えてあげれられる様な心と時間の余裕を持っていてあげてね。

両親は元気ですか?
石巻の復興は進んでいますか?
あなたの元気が両親の元気であり、石巻の皆の元気の素です。
でも、頑張りすぎて疲れてエネルギー不足になっていたら、また石巻の空気を吸って水を飲んで米や野菜や魚を食べてリフレッシュして来よう!

マチュピチュへ行く計画は進んでいますか?
気力、体力、時の運?
貯金も、スペイン語の勉強も毎日の努力です。
55歳の誕生日を目指して頑張ろう!ほら、来年の今頃はもうリマに降り立って、ケーナの練習と高山病に備えて準備万端かな?
両親や家族に向かって、マチュピチュから写メを送っている自分や、アンデスの人たちと一緒にフォルクローレをセッションしている自分をシュミレーションして頑張ろう!

第三の人生は、波乱万丈の出航だったけれど、大津波にもひるまず直進して行って浮上したマグロ遠洋漁船のように、人生の荒波に立ち向かって行こう!
きっとそうしなければ、見られない景色がきっと見えてくるはず。

願わくは、あなたが今の私以上に心身ともに健康で、充実した、ときめきいっぱいの日々を送っていますように…。

                                 
                                         もうすぐ53歳を迎える私より

『いじめをどう考え、乗り越えさせるか』

2012-10-28 10:51:44 | 担任雑記
10月28日(日)

昨日は、『いじめをどう考え、乗り越えさせるか』というテーマのディスカッションに参加してきた。

いじめとは、文部科学省の定義によれば、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」とされている。

大きく分けると、異質排除(無視、シカト、仲間はずれ、差別、蔑視など)と同質強要(パシリ、万引き仲間など)、そして、その傍観者たちという『いじめの3構造』になる

これは、子どもの世界、教育現場だけでなく、集団があれば、古今東西、どこにでも起こりうることで、それは、絶対に無くならないものだと思う。
家庭内でも、地域でも、社会の中で、国際間で、あらゆるところで起きているのだ。
まして、『変化の激しい、先行き不安な厳しい時代』、刺激的文化が氾濫する現代、いじめの形は多様化し、陰湿化している。

一方で、人とのコミュニケーションツールが乏しい、我慢や人の痛みを想像することができる成長過程を持たない生育歴の子どもたちは、自分が『いじめをしている』ことも『いじめを受けている』感覚も、他人に言われないと気づかないことが多い。
悪質なのは、『いじめをしている』のはわかっていて、あえて、ターゲットを定め、その子が不登校になるまで追い詰めると、次のターゲットを探す。
ターゲットにされたくないものは、率先していじめに加担する。と言う陰湿ないじめが実際に起きている。
いじめられる前に誰かをいじめれば、自分はいじめられないという自己防衛からのいじめもある。
時には、いじめていた側が、何かの瞬間にいじめられる側になるという、いじめの逆転が起こることもある。人を責めるというのも『いじめ』だということを知らない正義感の強い人たちによって。

また、いじめられた子は、そのうっ憤を、また別の、自分より弱い立場、甘えられる人への暴力となって表現するか、それすらもできない時は、自虐的行為となって自殺にまで至ってしまう。この虐待の連鎖はあまりに痛ましい。


昨日のディスカッションの中で、自分は、いじめられたことや、いじめをしたことはあるかという体験談コーナーがあった。
いろいろな体験談を聞きながら、いじめられたことも、自分がいじめたことも、辛い嫌な思い出ではあるが、それも成長過程、人格形成の中で、避けては通れなかった、貴重な体験として語っていらっしゃる方もいた。
今、教師となり、また、親となって、子ども達に教え導き育む大人として、いじめられた経験も、いじめた経験もないのは、何を持って『いじめ』の指導ができるのだろうか。
いじめられた辛さ、それを乗り越えることができたのは、どんなきっかけがあったのか、
いじめる側の気持ち、なぜ、そういうことをしてしまったのか、そのことを後後どう思って生きてきたのか。どうすれば、いじめなくてもすんだのか。

いじめは撲滅はできない。でも、深刻化を防ぐことや、乗り越えることはできるはず。
己の辛い体験は、その時に役に立つ。

トラブルは、その子自身が追い詰められている背景やそこから生まれる発達要求を理解したうえでの指導でなければ、その場はおさめられても、必ず同じことが繰り返される。
強い指導をすれば、今度は、教師の見えないところで、陰湿化して行くのだ。

トラブルは、やられている子どもだけでなく、トラブルを起こす子どものSOSだという視点を持つべきだ。
・その子は、教室に居場所があるか?みんなから浮いてはいないか?
・その子はその子を取り巻く環境(家庭、学校、塾、習い事、友人関係など)で、虐待を受けてはいないか?
・特に、家庭では、ネグレクト(育児放棄)されてはいないか?

どれかに当てはまっているなら、その子の問題行動はSOSなのである。
・大人や、周りの子どもから厄介者扱いされているSOS
・教師に支援を受けたい、構ってほしいための「入場券」としてのSOS
・たすけて!気がついて!どうしていいかわからない!HELPを求めるSOS
・自分の欲求が満たされない、抑圧されていることへの自分の心のバランスを保つための「安全弁」としてのSOS
・自分自身の不安や問題を解決する他の「問題解決手段」としてのSOS

これだけ追い詰められている子どもは、問題行動を起こしているときは、周りが見えていない。自分が何をしているのかも分からない。どうしてそんなことをやるのか問い詰めても説明できないし、謝ることも、反省することもできない。もし、わかっていてやっているとしたら、そういうことをやっている自分に対しての自己嫌悪でいっぱいになってしまうだろう。

目の前で起こっているいじめについて、その場その場の対応に追われるのでは、いたちごっこになってしまう。
まずは、問題を起こしている子どものSOSを受け止め、そのSOSにどう対処できるか。一人では無理な場合、家庭や学年間、学校間の連携、相談機関や医療機関との連携も必要になってくるだろう。
その年齢になるまでの生育歴や環境が要因になっている場合は、短期間での改善は難しいし、短期間で立て直せるなどという考えは、むしろおこがましい。
今できる最善を尽くす。せめて、クラスが、学校が自分の居場所なんだと思えるようにしてあげられるような努力はしなくてはならないと思う。
また、学習について行けない不安や不満の場合は、学習面でも自信がつくような見立てと支援も必要になるので、家庭や学校間での連携、協力体制も考えて行かなくてはならない。
特別なニーズを必要とする児童の場合は、担任が一人で抱え込むと、教師自体が疲弊し、自信を失い、余裕がなくなってしまうので、特別支援の専門家と相談して対策と手立てを考える必要がある。


いじめを乗り越えるには、いじめられてエネルギーが0以下になっている子どもに、「立ち上がれ」も「立ち向かえ」も「耐え忍べ」も「立ち直れ」も、一人ではできないことを理解しなくてはならない。
まずは、共感的理解。支援、応援。「一人じゃない」「守られている」という安心感を与えて、不安を取り除くこと。

リーダー集団を育てること。問題を起こしている者と、まじめにやっている者との間にいる、どっちにもなびきそうな者たちを正義の方に引き寄せられるリーダー集団を育てる。正義が通らないクラスにしない。真面目にやっている者が損をしない、被害を受けないクラス作りを目指す。


クラスからいじめをなくす。いじめのないクラスづくりとは?
いじめることよりも、もっとおもしろいこと、友達と仲良く遊ぶこと、勉強することのほうが、ずっと楽しいと思えるようなクラスづくりをする。これが結構難しくて、手間がかかる。
家や塾や習い事で嫌なことがあっても、クラスのみんなに受け入れられている、ここには自分の居場所があると思えれば、クラスの子に八つ当たりや暴言、暴力をふるったりはしないのでは?
何でもいいから、自分にはこれがある、これが好き、これが得意と思える教科や一芸を誉め、みんなから認められ、励まされる場と雰囲気を作る。
保護者や、他の先生方と連携を取り、いじめは芽のうちに迅速に対処し、深刻化させない。アンテナを高くする。

いろいろな本を読み、講演会や講習会、学習会、研修会で実践報告を聞きに行って勉強はしているつもりだが、やはり、例は例。
今、目の前の自分が受け持っている子ども一人ひとりと向き合っていかなければ、クラスからいじめはなくならないだろう。


教師の指導力とは?
強い指導で、言うことを聞かせ、規律正しくきちんとさせることだろうか?そう言う時も必要だろう。
でも、子どもは同じ間違いを繰り返しながらも、少しずつでも子どもの内面を良い方向に変えていくことではないだろうか。
人の道からはずれずに、なりたい自分になるための方向性を指し示し、教え導くのが指導者ではないだろうか?

「子どもはけして退化しない。たとえ、去年できたことができなくなっていても、わき道にそれて歪んだ性格になっていたとしても、子どもは日々成長している。自分で判断し、自己決定、自己実現ができるように、自己肯定感が持てるように、教え導くのが教師だ。」
「ギャングエイジを乗り越えてこそ、人間になる」
「教えるとは、未来を共に語ること
 学ぶとは、真実(まこと)を胸に刻むこと ルイ=アラゴン「ストラスブール大学の歌」より」
「学校とは、人間の大切さを学ぶところ」市川・不二女子高等学校壁画

たくさんのパワーをもらい、大切なことを学んだ貴重な時間だった。
ここで学んだことを、自分の学級経営に生かして、子どもたちも私自身も、明るく元気で楽しいクラスになるようにがんばりたい。

そのためにも、早く怪我を治して、心身ともに健康で、時間的、肉体的、精神的に余裕のある生活を心がけよう。
私が弱っていては、子どもたちのSOSもキャッチできず、受け止めて(共感的理解)立ち向かう気力体力がエネルギー不足になってしまうから。

「北風と太陽」

2012-10-21 18:14:14 | 担任雑記

10月21日(日)

昨日は授業参観だった。
国語は、「わすれられないおくりもの」。算数は、「ふたけたのわり算」を展開することになった。
当初の予定が、私の怪我のために大幅に変更になってしまった。

前夜、当日の授業で使う教材を作りながら、どのように授業を展開すべきか考えていた。

「わすれられないおくりもの」では、この物語を通して学んだことを、アナグマへの手紙を書いて、それを発表し合う。その手紙の感想について、良かったところを発表し合う。
そして、自分にも、家族や友だちにもらった「忘れられない贈り物」があったら、それを発表し合う。

そのために、教室の壁に「わすれられないおくりもの」の絵本のカラーコピーを貼って、保護者が見てもストーリーがわかるような「わすれられないおくりもの」コーナーを作った。


急きょ、内容変更してやることになった算数も、仕掛けがたっぷりの掲示物教材を作った。

他の教室では、いろいろな掲示物が貼ってあり、そのクラスの特徴や個性が出ている。
うちのクラスの特徴や個性は…?
保護者は、どんなクラスの様子を見たいと思ってくるのだろう?
いろいろ考えて、私が出した結論は…。

先日、クラスでトラブルがあった時、私は予定していた授業を取りやめて、「言われてうれしい言葉といやな言葉」という授業をやった。
クラス全員に、その言葉を言わせ、黒板に書きだした。
言われてうれしい言葉は、ひらがな、漢字、カタカナで。
言われて嫌な言葉は、あえて全部カタカナで。
書き出された言葉を読んだ子どもたちは、様々な反応を見せた。
なるほどとうなずく子、自分もそうだと同意する子、でも、中には、嫌な言葉の文字を見るだけでその時の気持ちを思い出し、気分が悪くなったり、泣きだす子もいた。
その一方で、その嫌な言葉をわざと声に出して読み上げたり、黒板に勝手に落書きをしに来るようなお調子者まで現れた。
そうしたら、いつもは元気で笑顔いっぱいの子が、大声で泣き出したのだ。
ある子が、面白がってその子が嫌だと発表した言葉をその子に向かって連呼したのだ。
「何のための授業なの?よく考えて!」
泣きながら、その子はふざけていた子たちに向かって叫んだ。

言葉には魂が宿る。文字にすれば、その文字に意味があり、読む人の目を通してその人を励まし、生きる希望を与えることもできるし、その人の心を深く傷つけることもある。
だから、私は、言われて嫌な言葉をあえてカタカナで書いたのだと言った。
でも、それを読み上げた途端、その言葉は凶器となって人の心を刺してしまうのだ。

文字にしたらうれしい言葉でも、言い方によっては、不快な言葉、人を傷つける言葉になることもある。私は、「言われてうれしい言葉」をわざと意地悪そうな言い方嫌みたっぷりな言い方で読んでみせた。
それを聞いた子どもたちは、思いっきり不快な、傷ついた表情になった。

相手の心に届くような、言われた相手がうれしくなるようなフワフワ言葉は、いい方も大事だということを子どもたちが感じ取ってくれたらうれしい。

私は、その言葉を模造紙いっぱいに書いた。それも、「ワン・ピース」のチョッパーの絵を書いて、吹き出しとして。その掲示物を、教室の背面上部に貼った。

チョッパーは、いつもみんなが頑張ったプリントや宿題のノートに「がんばったね」はんことして押している.
運動会では、黒板一杯にルフィーと一緒に描いて、クラスを応援させた。
今回は,クラスのみんなを後ろからいつも見守り、応援してくれているイメージで。

そしてもう一つ。来週は席替えをするので、今のお隣の席の友達のいいところを見つけて、カードを書いてもらったのを「見つけたよ、友だちのいいところ!」と題して、模造紙いっぱいに貼り付けて、黒板に貼っておいた。

翌朝、登校してきた子どもたちは、大騒ぎ!
「先生、どうしてチョッパーが焦げているの?」
「ごめんね、絵の具が渇いたら、色が濃くなってたの」
「先生、この間の学級会の時の「言われてうれしい言葉」だよね、私が言ったの書いてあった!」
「先生、○○君は、私にちゃんと手紙書いてくれたかなあ」
「探してごらん。わざとばらばらに貼ってあるから。結構いいこと書いてあったよ」
そして、桜色の色画用紙に貼ったみんなのメッセージをチョッパーの模造紙の隣に貼った。
この掲示物が、功を奏したのか、授業参観で、たくさんの保護者が観に来て下さったせいか、この日一日、席を替わりたいだの、隣の子にちょっかいを出したり、嫌がらせをする子が一人もいなかった。国語や算数の発表の時も、お互いの発表の良いところを発表し合えたり、拍手や「(答えが)同じです。」という反応がいつもよりたくさんあった。
掲示物一つで、こんなに平和に和気藹藹と活発な授業ができるなら、もっとはやく取り組んで貼ればよかった、と思った。

と、同時に思った。
みんな、誰でも誰かに認められたがっている。
勉強やスポーツで目立つことができない子ほどそれは切実で、担任は常に、そうじや係活動、挨拶など、事あるごとにいいところを見つけては褒めたり励ましたりする努力を怠ってはいけない。
いつもやんちゃをして問題を起こす子も同じ。怒られたがっているというより、担任を試しているのだ。
でも、それ以上に、3年生ぐらいになると、教室での自分の立ち位置、ランク付け、居場所、グループなど、友だち関係が複雑になってくる。特に、男女別対抗意識も出てくる。
そんな中で、あまり話したことのない子や、いつもケンカばかりしている子が、実は自分のいいところを認めてくれて、励ましのメッセージを書いてくれたなんて、どんなにうれしいことだろう。
そういうメッセージを書いてくれた子に嫌がらせをしたり、暴力をふるう気持ちはなくなるのではないだろうか。

私の10のお説教よりも、友だちの一言メッセージの方がずっと効力があった。
私の指導は、「北風と太陽」の北風のように、自分の言うとおりにさせたくて、どんどん厳しく、追い込む指導になってはいなかったか?
正論や理詰めでたたみかけ、その場しのぎの謝り方をさせてはいなかったか?
だから、毎日同じことの繰り返しで、良くなるどころか、どんどんクラスの雰囲気が悪くなり,人間関係がギスギスしていってはいなかったか?
「言われてうれしい言葉」や「見つけたよ、友だちのいいところ」のメッセージは、まさに太陽に日射しだった。
自分は認められている。受け入れられていると思ったとたん、かたくなな心や、さびしい心が温かくなり、人にやさしく、穏やかに接することができるのだ。

その日一日、みんなの目はキラキラしていて、優しくて、帰りのあいさつの声も元気で、ニコニコ帰って行った。

とりあえず、嵐の一週間は過ぎ去り、台風一過の澄み渡った青空のような一日だった。

モチモチの木

2012-10-21 14:41:54 | 担任雑記


10月21日(日)

先週は、まさに、嵐のような一週間だった。
その前の週に、ムチ打ちになってしまい、4日間も安静状態だった病み上がりの身体には、かなりきつい毎日だった。
なんと言っても、子ども県展に出品する作品は下書きのまま。
金曜日には転校して行く児童のためのお別れ会の準備や半試合もやりかけのまま。
土曜日には授業参観があるのに、2日間も授業を休んで自習にさせたため、授業内容を変更しなくてはならない。
もう絶対に休めない!
はずだったのに、悪い時には悪いことが重なるもので、月曜日の夜、末娘が感染性胃腸炎のため発熱。5日間の出席停止になってしまった。



今回の図工作品『モチモチの木』は、先週、私がけがで休んだために、3時間ぶっ通しの図工の時間で仕上げなくてはならない。
私は、前夜のうちに、段取り良く進められるように事前準備を万端整えておいた。

にもかかわらず、絵の具道具を忘れてきた子がいた。
その○○君に私の絵の具を貸し、やり方を教えると、どんどんいい絵になっていった。
それを見たクラスのみんなが「すごい!」{きれい!」とほめながら、自分もはやくスクラッチをやりたい!と集中してやり始めた。
△△君がふざけっこをしかけて来ても、○○君は
「静かにしてくれる?俺、これやってんだから。△△君も、自分のを早くやれば?」
と注意したのだ。
これには周りの子も、△△君もびっくり。
普段のやんちゃぶりとはまるで別人のように、絵に集中する○○君に、△△君はふざけっこをしかけるのをやめて、○○君の絵を見ていた。
その後、○○君の絵はどんどん仕上がり、
「先生、この後、どこをどうすればもっといい絵になるんですか?」
と聞いて来たので、仕上げのためのいろいろな手法を教えると、自分で配置や色遣いを考えながら、自分でも満足できる絵に仕上げていった。
それを見ていた△△君は、先週下書きの紙を破ってしまい書き直しを渋っていたのだが、
「先生、俺にも紙ください」
と言ってきたので、新しい紙を渡したら、なんとか頑張って描きだした。
ざっと書いてすぐスクラッチをしたがるのを、○○君が
「ちゃんと塗りつぶさないと、削った時にきれいな色が出ないよ。」
と教えてくれ、それからの△△君はものも言わずに塗りつぶしに専念していた。

みんなも仕上げに入ってきて、仕上げのスタンピングのやり方をバラバラに聞いて来た時に、私が
「○○先生に教えてもらって。上手にできていたから」
と言ったら、みんなに
「○○先生、教えて~」
とか言われて、○○君はすっかりその気になって、みんなに上手にスタンピングの仕方を教えていた。

△△君をはじめ、みんなも3時間で仕上げ、片付けまで終わらせることができた。
特に、○○君は、私から借りた道具を全部きれいに洗って、
「ありがとうございました」と言って返してくれたのだ!!!
それを周りの子どもたちが、ビックリしながらもちゃんと見てくれていた。

最後に、
「子ども県展の出品申し込みに、もう一人追加できるのだけれど、誰か出す人はいますか?」
と聞いたら、みんなが
「○○君出せば~!上手に描けてるよ~!」
と、○○君を推薦してくれたのだ。
○○君は、
「先生、俺、子ども県展に出す!どうすれば出せんの?」
と、真顔で聞いて来たので、
「申込用紙に書いて、出品料150円払うんだけど、お母さんに相談してみてくれる?先生からもお母さんにお願いしてみるけど。」
と言ったら、
「俺も、お母さんにお願いしてみる!」
と言ってくれた。

果たして、夕方、お母さんに電話をしてお話をすると、○○君からすでに話を聞いていたのか、二つ返事でOKしてくださった。
お母さんは、絵が上手にできたことだけでなく、○○君が自分から「県展に出したいから、150円を払ってください」と言ってきたことや、授業中に集中して絵を描いて仕上げ、先生の手伝いをし、遊びをしかけてきた子に対して注意をしたり、友達にやり方を教えてあげたということがうれしかったらしい。


このところ、私は鬱状態で、自分の指導力の無さや、教師としての資質の無さに、自信喪失→自己肯定感の喪失→自己嫌悪の負のスパイラル状態から抜け出せないでいた。そこに自分が怪我をし、娘が病気になり、悪いことが次から次へと重なってばかりいた。
身体が弱ると、心まで弱り、心身ともにボロボロだった。
いろいろな人に、心配や迷惑をかけ、私はいつも、誰かに会うと謝ってばかりいた。

図工の授業は、自分としては満足できる状態ではなく、むしろかえって自信を失くしてしまうくらい、授業自体は成り立っていなかった。
けれど、夜、みんなが描いた絵を見ながら、本当によく3時間でこんなにいい絵に仕上げてくれたと、みんなの絵を見ながら涙が出てきた。

せめてもの自分の専門分野で頑張ろうと、意気込みすぎて挫折していた私を救ってくれたのは、またしても子どもたちだった。
私はまだ終わってはいない。
諦めたらだめた。
逃げてはいけない。
まだ、ベストを尽くし切っていない。

物言わぬ子どもたちの絵は、私にたくさんのエールをくれた。
 

つづく…

夏休み突入! 個別面談を終えて

2012-07-28 13:03:24 | 担任雑記
7月28日(土)

暑中お見舞い申し上げます


連日のうだるような猛暑、やっと夏らしくなった。

でも、7月も終わりというのに、蝉の声を聞かない。

梨も、8月20日を過ぎないと食べられないと言う。

6月は、水温気温が低すぎてプールの授業ができなかった。

季節が少しずつずれているのだろうか…。


先日、個別面談があった

私の個別面談のテーマは、暑い中、仕事の休みまで取って面談に来てくださった保護者の方に、

・来て良かった。

・話が聞けて良かった。

・話を聞いてもらってよかった。

・今日は、子どもの好物でも作ってあげよう。

というような、明るい元気な気持ちで帰ってもらうための面談を目指している。

35人中、ほとんどの保護者の方々とそのような面談ができたのでは?という自負はあるが、今回も、むしろ、私の方が励まされる場面がたくさんあった。

教室では、大人しい子ほど家ではおしゃべりで、教室では活発な頑張り屋さんが、家ではたれパンダ状態なのだと言うことだった。

大人しくてあまりめだたない子
「教室では、決まりを守って大人しくしていることが多いです。その分、お家ではのびのびして、お母さんには学校であった事を、ランドセルを下す時間も惜しんでたくさん話してくれているなんて、安心しました。2学期は学校でものびのびと、友達と一緒に、いろんな活動ができるように、声をかけていきます」

頑張りすぎるくらい頑張っている子
「教室で頑張っているくらい、家でも頑張っていたらどうしようと心配していました。家に帰った時に、ダラーっとなれたり、安心できたり、我がまま言えたりできるから、学校では頑張りすぎるくらい頑張ることができているんだと思います。
お家でもあんなに頑張っていたら、どこで「気を抜く」ことができているのかしらと心配していました。学校では、ちゃんとお掃除も勉強も頑張って、給食も残さず食べていますよ。
 お家に帰った時に、ダラーっとなれたり、安心できたり、我がまま言えたりできるから、学校では頑張りすぎるくらい頑張ることができているんだと思います。
お家でも頑張っていたら、どこで「気を抜く」ことができているのかしらと心配していました。学校では、ちゃんとお掃除も勉強も頑張って、給食も残さず食べていますよ」

下に小さい弟や妹がいて、一生懸命お兄ちゃんお姉ちゃんしている子
「○○君は、お母さんが家族のために頑張っていることも、自分を大事に思ってくれていることも分かっています。下のお子さんが眠っているような時や、月に1日だけでも、○○君にお母さんを独り占めさせてあげてくださいね。まだ3年生です。まだまだ、お母さんのだっこや、添い寝、一緒のお風呂は大事です。一杯いろんなことを我慢していると思うので、1日1回は抱き締めてあげて、安心させてあげてください。
兄弟を比べるのではなく、『お兄ちゃんはすごいねえ、お兄ちゃんがいるから、あなたもできるようになったんだね』と兄を立ててください。そうすると、お兄ちゃんもプライドにかけて頑張るし、下の子も、お兄ちゃんを目指して頑張れるのです。
『どっちがお兄ちゃんだかわからない』とか、『お兄ちゃんでしょ!我慢しなさい』『お兄ちゃんのくせに!情けない』なんて、否定的な叱り方をすると、言った通りの情けないお兄ちゃんになってしまいます。そうなると、目標とするべきお兄ちゃんが自分より劣っていると思う弟は、兄をないがしろにし、お兄ちゃんに追いつこう、負けないぞと言う向上心は育たなくなってしまいます。
その上、『弟なんかいらない』『お兄ちゃんなんか俺よりできないくせに』という、仲の悪い兄弟になってしまいます。」



なんて、自分の子育てを振り返り、子育てSOSオーラを発しているお母さん方のガス抜きをしてあげられるように面談をした。

子ども授かった喜び、子どもが元気でいてくれるありがたさ、当たり前の日常の幸せが、日々の喧騒や慌ただしさの中に埋没し、心はささくれ、お互いを傷つけあうような、とんがった会話しかできなくなっていることに、ちょっと気づくきっかけを作ってあげる。

これが、私が教員を続けている要因の一つになっている。(カウンセラーとも違う)

40日間、夏休みに子どもが家にいるということは、うれしい半面、お互いにストレスも相当たまる。下手をすると、毎日バトルだったりする。
面談の中で、子どもたち一人一人に合わせた、夏休みの勉強法やおすすめ自由研究のヒントを伝えたところ、お父さん、お母さんの方がノリノリだった。
頑張れ、お母さんたち。今、我が子が手元にいてくれる幸せな時間を大切に過ごしてほしい。子どもは、やがて親元を巣立っていくもの。
しっかり、子どもの目を見て、子どもの声を聴いてあげて。
「忙しいから、あとでね」
というのは、嘘。取り込み中だったら、
「これが終わったら、お話きかせてね」
約束したら、必ず守る。そうすれば、話したい人の様子を見てから話しかけられる人に育つ。
小さな手を握って。まだまだきゃしゃな体を1日1回は「大好き」と抱き締めてあげて。
そうやって育まれた子どもたちは、自己肯定感を持って、自己実現のために努力し、自己達成感を感じて、自立して行くことができるでしょう。


私の人生大成功!

私も3人の子を育てているが、いつも失敗ばかり。
でも、いつか3人それぞれに、
「ママの人生は、あなたたちに出逢えたことで、半分は成功している。一緒に泣き笑いして、あなたたちが、それぞれ自分のやりたいことを見つけて、私の元をちゃんと巣立って行けたなら、ママの人生の90%は大成功だよ。後の10%は、あなたたちに迷惑をかけないように、自分のやりたいことをやって大往生できたら、完璧だね!」
と言ったら、泣かれてしまった。
10年前の私は、自分の子育てに自信をなくし、
「私があなたたちのママでごめんね…。私じゃなかったら良かったのに」
なんて本気で思っていた。
5年前の私は、自分の子育てに行き詰まり
「なんで私がこの子たちの母親なんだろう。どんな因果関係があるんろう」
と現実逃避していた。
そして今、お互いに思いやり、労わり合い、応援し合える親子関係になって、やっと、今まで言えなかった『ありがとう』の言葉を素直に言えるようになった。
子どもたちも成長したが、私も親として、少しは成長できたのかもしれない。

クラスの子も同じ。人生の中で、あの子たちに出逢えた喜び、幸せをかみしめ、そして私が担任であることの意味と責任をしっかり自覚して、後8カ月を、1日1日大切に、ドラマチックに過ごそう!
皆、2学期、楽しみにしていてね!
元気で、楽しくておもしろい夏休みになりますように。

雨ニモマケズ ~なりたい自分~

2012-06-17 06:31:30 | 担任雑記
6月18日(日)


友人から、
「『こんなふうな人になりたい』、『こんなことができるようになりたい』という目標や、具体的なイメージを持つことが大切だ。」
というアドバイスをもらった。
「あなたは、自分の『イメージ』をもっていますか?」
と問われた時、パッと浮かんだのが、宮澤賢治の『雨ニモマケズ』だった。


〔雨ニモマケズ〕

宮澤賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩


この詩を国語の教科書で習ったのは、小学生のころだった。
あの頃にはわからなかった大切なことが、この詩には書かれている。
いろいろな場面で、自分とリンクすることと、まだまだその域には達していないと思うこともたくさんある。
 
宮澤賢治はどうだったのだろう?
「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」
と書いた、ということは、賢治自身、『サウイウモノ』にはなかなかなれない人だったのかもしれない。

私は、彼がなりたい『サウイウモノ』にとても惹かれる。

ある時、当時の同僚に、
「あなたは、宮澤賢治の『雨ニモマケズ』に出てくる人のようだね」
と、言われたことがあった。
私は、その深い意味をわかろうともせず、
「一日、一食290円の給食を食べ、
東に具合の悪い子がいれば、熱を計り、熱が高ければ保護者に連絡を取り、
怪我した子にはバンドエイドを貼りながら、『痛いの痛いの飛んで行け~!』と言い、
西に、勉強がわからない子がいれば、行って分かるまでやり方を教え、
南に、泣いている子がいれば、行って慰め、励ましやり、
北に、喧嘩をしているやつらがいれば、「喧嘩両成敗!」と『大岡裁き』をやり、
日照りの時は、熱中症を心配し、
インフルエンザが流行れば、『うがい、手洗い、マスク着用!』と叫びながら、学級閉鎖を心配し、
みんなに、『お人好し病』『空気が読めない』『天然(ボケ)』と言われ、
褒められるところはなく、
迷惑ばかりかけて、ごめんなさい。」
と、おちゃらけてしまった私だった。
同僚には大ウケだったが、彼女が、私のどこをそういうふうに見てくれていたのか、ちゃんと話を聞いてみればよかった。

今回、自分がなりたい人間像を考えた時、尊敬する人はたくさんいるし、私にできないことや私ができるようになりたいことができる人はたくさんいるけれど、私がなりたいイメージの人がなかなか思い当らなかった。
そこで、浮かんできたのが『雨ニモマケズ』だった。
読んでみて、賢治の思いの深さを改めて感じる。小学生の時に読んだ時よりも、若い時に読んだ時よりも、今だからわかるところがいくつかある。それこそが、自分のなりたいイメージ、できるようになりたいことでもある。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

これは、今の私に足りないものだ。健康な体と気力、体力、そして、謙虚な気持ちと、笑顔。

ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

これは、私の努力目標だ。
見ていたつもり、聴いていたつもり、分かったつもり、覚えたつもりで、
何を見ていたのか、何を聴いていたのか、分かっていなくて、忘れていることが多い。

立派な人でなくてもいい。お金持ちでなくてもいい。モテなくてもいい。
人の役に立てる人間になりたい。
誠実な人間になりたい。
尊敬される人物、必要な人間、欲しい人材、愛する人でなくてもいい。
「あなたに出逢えて良かった」
「また会いたい人」
「あなたがいるから頑張れる」
と、言ってもらえる人間でありたい。

向日葵のように、凛として、見る人に元気を分けてあげられるような、笑顔が素敵な人に私はなりたい。


運動会 最高だった「WE GO!」 

2012-06-02 21:26:56 | 担任雑記
6月2日(土)

運動会が終わった。
朝から運動会日和となり、昨夜の雨がちょうどいいお湿りになった。

正味2週間の練習と準備の成果が存分に発揮された、いい運動会だった。
特に、リレー競技は、低学年も、高学年も見せ場があって、見ごたえのあるいいレースだった。
最後まで諦めないでベストを尽くせば、必ず願いは叶う。ラストスパートでゴールを目指すアンカーに、それを必死で応援する子ども達に、改めて教えてもらった。

3,4年生の「WE GO!」のダンスも、どの子もみんな一生懸命で、かわいかった。
海賊の衣装もバッチリ決まっていて、動きも大きく、キラキラテープのなびき方がとってもきれいだった。
何度も失敗していた、時間差ポーズのもピタッときまり、ウェーブもタイミングが合っていてかっこ良かった。
思わず母親目線で見てしまい、不覚にもウルウル来てしまった。

勝敗はともかく、小学生の一生懸命さとその可愛さには、見ているだけで元気がもらえる。

運動会が終わって、クラスで皆にダンスの感想を話した時の、みんなの嬉しそうな、誇らしげな、達成感たっぷりのいい笑顔は、最高だった。

朝、黒板いっぱいに、ルフィーの絵とチョッパーの絵を描いて、皆へのエールの言葉を描いていたのだが、
「先生、黒板はまだ消さないで!」
というので、そのままにして今日は帰ってきた。
でも、4日の振り替え休日が明けたら、黒板を元通りにして、気合いを入れて授業をしないと…!

そのためにも、明日は整体に行って、頭のてっぺんからつま先まで、スペシャルコースで徹底的にもみほぐしてもらってこようっと!

スキルアップ

2012-05-27 06:06:29 | 担任雑記
5月27日(日)

 今年度は、土日は、小学校の先生方が中心に開催されている勉強会に参加している。

 中学校勤務の時は、週末は部活動があったり、自分の専門教科の教材研究や授業の準備などをしていた。
だが、小学校の、それも担任となると、土日は、まさにその週のうちにできなかった仕事の整理と、翌週の授業の準備、教材研究をしっかりやっておかないと、どんどん授業が遅れてしまう。
 ベテランの先生方は、たくさんの引き出しやスキル、資料やプリントを持っていらして、先を見通した授業の組み立てができていらっしゃる。
 講師の私には、初任者研修担当の先生がついてくださるわけでも、公費や出張で研修を受けられるわけでもないから、自力と自腹を切って研修に出かけていくしかない。
 昨年は、それができなかった。いや、しなかった。その反省のもとに、今年は、積極的、意欲的に各学習会に出かけて行っている。
 そこではまた、新たな出会いがあり、充実した時間を過ごさせてもらっている。
 中学校美術の教員としてのスキルしかなかった私が、小学校全教科の指導方法や、学級づくりのコツを学ぶことは、どれも新鮮で、興味深いことばかりだ。
 特に、先日の金環日食の授業のヒントは、私自身がワクワクして、学習会の後は、早くそれを子どもたちに実践してあげたくて、うずうずしていた。その結果は、まさに大ヒット!子どもたちの観察日記も、力が入った出来だった。

 先週は、『大きなかぶ』の勉強だった。小学校1年生の教科書では、この話の訳には2種類あると言うことを知り、驚いた。
一般的には、A.トルストイ『おおきなかぶ』内田莉莎子訳、佐藤忠良絵、福音館書店が有名だが、小学校1年生の国語の教科書には、西郷竹彦訳の『大きなかぶ』というのが主流になっているのだそうだ。
 大きな違いは、かぶを引っ張る登場人物の書き方の順番だ。

〈内田訳〉
ねずみが ねこをひっぱって ねこが 犬をひっぱって 犬が まごをひっぱって まご
が おばあさんをひっぱって おばあさんが おじいさんをひっぱって おじいさんがか
ぶをひっぱって

〈西郷訳〉
かぶを おじいさんがひっぱって おじいさんを おばあさんがひっぱって おばあさん
を まごがひっぱって まごを 犬がひっぱって 犬を ねこがひっぱって ねこを ね
ずみがひっぱって

 1年生を迎える会などでこれを劇にして演じる場合は、西郷訳でやり、最後に、
『6年生から2年生まで頑張ってもできないけれど、1年生のみんなが協力してくれたらできることがたくさんあります。一緒に頑張りましょう!ご入学おめでとうございます!』
と結ぶと、1年生はとても喜ぶのだそうだ。
 敵対関係にあるネズミが猫を引っ張ること自体も面白いが、小さな力の弱い者が加わることで、『とうとう』かぶは抜けるということに視点を置いているところが興味深い。
 それを印象付ける訳としては西郷訳の方が、印象に残るということだった。。

 小学1年生が初めて出会う本格的な文芸作品として、『おおきなかぶ』が選ばれている理由がわかったような気がした。
う~ん、『国語』は、なかなか奥が深い教科だ!勉強になりました~!


 昨日はまた、自己PR文の書き方や、集団面接の受け方についての講義、模擬面接と集団討論会を体験してきた。
 自己PRは、文章で書くのも、1分間で話すのも本当に難しい。 私は、書くのも話すのも、一文が長くなってしまうので、要点を端的にまとめて話すことが課題だ。そして、書くには、誤字脱字はあってはならない。これもまた大きな課題だ。話す時は、姿勢、表情、目線、声の大きさや速さに気を付けて、1分間以内で言いたいことを言いきらなくてはならない。これは、本当に訓練が必要だと思った。
 集団面接と討論会は、自分がやるより、他人がやっていることを面接官の視点で傍聴していると、すごくよくわかる。
これもまた、自分にとっての課題を見つけ、スキルアップするためにも、必要な訓練だと思った。

 勉強会に参加して思うのは、職場とは違う志を同じくする『同志』達と出会い、成長し合える時間を共有できることの大切さだ。
そこにいらっしゃる講師の方も、たくさんの『引き出し』を持っていらして、若い、意欲のある『後進』達に、惜しげもなく教えてくださるのだ。
 職場でも、毎週のように研修会があり、研究授業についての取り組みがあり、管内での教育研究会もある。でも、それは、『仕事』として『やらされている』感がぬぐえない。それは私の意識が低く、認識不足から来ているだけかもしれないが…。

 『求めよ、さらば与えられん』
 自分から出かけて行って門をたたけば、そこには私の求めるものがあり、それだけでなく、そこには私を待っていてくれた人がいたという、ありがたい、充実した週末を過ごすことができている幸せに感謝する。

 この充実感を、月曜日にはクラスの子どもたちに還元し、いつかは、これから教師を目指す若い人たちに伝授できるような教員になりたいと思っている。