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交流

カッコイイということ

2007-01-05 07:08:00 | 徒然なるままに
昨日、TVで全国高校サッカー大会を見た。
滋賀県代表野洲高校VS千葉県代表八千代高校。
我が息子は、高校3年間サッカー部。彼らの『夏』は去年の7月30日の敗戦で終わってしまった。
息子は、TV画面に映る同じ3年生の活躍に、惜しみない声援を送っていた。

前年の優勝校野洲高校に4点リードのまま、八千代高校の快進撃は止まらない。
ロスタイムに入り、残り時間あとわずかというときに、野洲高校の乾選手が一矢報いた。その瞬間
「乾、カッコイイ!」
と息子が叫んだ。

地元八千代高校の奮闘振りに興奮しっぱなしだった息子が、最後の1点を決めた乾選手を絶賛した。


「カッコイイ」
その後、私はずっとその言葉の意味を考えていた。
男の子が同性に「カッコイイ」と思うときはどういうときだろう。
女の子が男の子に「カッコイイ」と思うときはなんとなく分かる。
長女がジャニーズ系のイケ面たちにキャーキャー言っているのは、まずはビジュアルが先に来ているのだろう。

一昔前、「高倉健」の任侠もの映画を見た男の人たちが映画館から出てくるときには、みんな目つきが悪く、肩で風切るような感じで出てくるという話を聞いたこともある。

でも、昨日、息子が叫んだ
「乾、カッコイイ!」
は今までわたしがこういうのが「カッコイイ」と思っていたどの定義にも当てはまらないような気がした。

朝、息子に、
「昨日の乾君は、あなたから見て、どういうところがかっこよかったの?」
と聞いてみた。
1.見た目の容姿
2.最後のゴールの決め方
3.彼のサッカーセンス
と3択問題を出したのに、息子の答えはどれでもなかった。(しいて言えば2番?)
要約すると、
『乾選手は、18歳チーム(名前忘れた)という20歳前の優秀選手の試合を飛び越して、その上のクラスのチーム(これも名前を忘れた)に選ばれてその試合に出るほどの実力を持った選手。俺たちの年代でそんな選手は乾選手だけ。今回の大会でも1,2回戦と期待に応える大活躍をしてきた。今回の試合では、八千代高校に徹底的にマークをされ、思うように動けないまま、4点取られたままロスタイムに入った。このまま時間切れで、1点も入らないまま負けたら、「何だよ、乾~」で終わってたかもしれない。そこを最後の最後まであきらめないで、ディフェンスを突破して一矢報いたところが、カッコイイ!』

確かに同じ負けでも、あのまま1点も取れないで、負けたのと、一矢報いる1点を取って負けたのとでは、同年代のサッカーマンのみならず、後に続く後輩たちの意識が違ってくるだろう。それは敵校八千代高校の1,2年生に対しても同じ。

試合終了後、その場に泣き崩れる野洲高校イレブンたちに手を差し伸べる八千代高校の選手の姿や、乾君の背中をポンポンとたたき、お互いの健闘を称え合い、笑顔で言葉を交わすライバル同志の姿を見て、本当に爽やかな気持ちになった。

高校3年間のみならず、小さな頃からサッカーに打ち込んできたであろうその努力と情熱を、思う存分出し切って戦い終わった後の泣き顔も笑顔も最高だった。

八千代高校にはここまで来たらぜひとも頑張って優勝旗を持ち帰ってもらいたいとは思うが、高3の受験生を持つ親としては、ちょっと心配も・・・。
でも、大学受験は来年もチャンスはあるけれど、現役高校生の全国大会の優勝を勝ち取るチャンスは今年しかない。
ぜひ、最後の最後まで諦めずに自分が納得のいく「サッカー」をして帰ってきてほしい。
自分自身のためにも、後に続くサッカー少年たちのためにも。

昨日、息子の部屋に洗濯物を置きに行ったとき、机の上に『逆襲』とマジックで書かれた板を見つけた。
何に対しての『逆襲』なのか・・・。
日付は2007.1.1になっていた。
「乾、カッコイイ~!」
と叫んだ息子は、本当に彼に憧れ、賞賛したのだろう。

朝、息子の話を聞いて、
「そうだね。本当にかっこいいっていうのは、『有言実行』であり、時には『不言実行』であっても、『決めるときに決める』ことができることができる人の事を言うんだろうね。」
と言った。
それがどれほど難しいことか。

これから受験に向かって、サッカー三昧だった高校生活に、『やる時はやるねえ』と言うくらい、夏から巻き返して必死に受験勉強に励んでいる息子。
今日から学校が開くからと、早朝から弁当を持って颯爽と自転車を走らせて行った。

春になったら、志望大学で充実したキャンパスライフ』をスタートできるように、今が頑張りどころだね!

『諦めたら、そこで試合終了ですよ。ホッホッホッ』(by安西先生)



新年の誓い

2007-01-03 19:16:00 | 徒然なるままに
2007年。千葉県は穏やかなお天気で年が明けた。
私は、年末に襲った激痛もようやく和らぎ、何とか元気に新年のスタートを切った。

年頭にあたって、新年の目標を書こうと思う。

「頑張りどころ」と「頑張り方」を考えて頑張ろう!

去年の反省は、「無駄な頑張り」で体を壊してしまったこと。
古い携帯電話の充電器のようになった体を過信しすぎ、ぎりぎりまで酷使し、たびたび充電切れになってしまったり、肝心なところで使い物にならない頑張り方をしてしまった「ツケ」が、年末に私を襲った。

ここが頑張りどころというときに、体が悲鳴をあげ、言うことをきかなくなってしまった。

そんな頑張り方は、誰もほめても認めてもくれない。

みんなに心配をかけ、迷惑をかけ、自分自身が、痛くてしんどくて、情けなくて落ち込むだけだった。

「お姉ちゃんは、100か0しかないからさ、100のときはカリスマ的にオーラ発して回りも元気にさせるけど、0のときは周りを巻き込んでドロドロボロボロになっちゃうから気をつけなよ」

以前に妹に言われた言葉。


「優先順位」を間違った頑張りは単なる「自己満足」。
先を読み、周りの状況・空気を読み、ここが頑張りどころというタイミングを逃さず、そのときに的確な判断と最善が尽くせるようペース配分を考えなくては。

何年か前の同級会で、ガンの手術を終えた恩師が、
「これまでの努力も、これからの未来も、健康であってこそ」
という言葉を私たちに送ってくださった。

まさにその言葉が、その重みが自分の中にしっかりと刻み直される思いがする。

私一人の身体や時間ではない。
親として、子として、社会人としての責任がある。
今回のことは、自分の不摂生・不養生が周りにもたらす影響を冷静に考える機会を得たのだと思う。

太く、短く、今だけのことに一生懸命になるのではなく、近い未来、遠い将来の「一期一会」のために、今の時間を、今の自分の体を大切に生きていかなければならないのだと思う。

病院での待ち時間で読んだ本の中に、たくさんの「生きるヒント」と「答え」が書かれてあった。
こういう本を読む時間、自分を見つめる時間、身体を休める時間という「充電」を定期的に、たとえ強制的にでも持つようにしなくてはならないと思った。

限られた人生。「なりたかった自分になる」ために生まれてきたのだ。
そのために何が大切か、何をなすべきか、自分を見失わないよう、その自分の意思の入れ物である身体を粗末にしないよう、人生の折り返し地点から先の1日1日を大切に生きていこう。

昇る太陽を見て心に誓った。