6月18日(日)
友人から、
「『こんなふうな人になりたい』、『こんなことができるようになりたい』という目標や、具体的なイメージを持つことが大切だ。」
というアドバイスをもらった。
「あなたは、自分の『イメージ』をもっていますか?」
と問われた時、パッと浮かんだのが、宮澤賢治の『雨ニモマケズ』だった。
〔雨ニモマケズ〕
宮澤賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
この詩を国語の教科書で習ったのは、小学生のころだった。
あの頃にはわからなかった大切なことが、この詩には書かれている。
いろいろな場面で、自分とリンクすることと、まだまだその域には達していないと思うこともたくさんある。
宮澤賢治はどうだったのだろう?
「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」
と書いた、ということは、賢治自身、『サウイウモノ』にはなかなかなれない人だったのかもしれない。
私は、彼がなりたい『サウイウモノ』にとても惹かれる。
ある時、当時の同僚に、
「あなたは、宮澤賢治の『雨ニモマケズ』に出てくる人のようだね」
と、言われたことがあった。
私は、その深い意味をわかろうともせず、
「一日、一食290円の給食を食べ、
東に具合の悪い子がいれば、熱を計り、熱が高ければ保護者に連絡を取り、
怪我した子にはバンドエイドを貼りながら、『痛いの痛いの飛んで行け~!』と言い、
西に、勉強がわからない子がいれば、行って分かるまでやり方を教え、
南に、泣いている子がいれば、行って慰め、励ましやり、
北に、喧嘩をしているやつらがいれば、「喧嘩両成敗!」と『大岡裁き』をやり、
日照りの時は、熱中症を心配し、
インフルエンザが流行れば、『うがい、手洗い、マスク着用!』と叫びながら、学級閉鎖を心配し、
みんなに、『お人好し病』『空気が読めない』『天然(ボケ)』と言われ、
褒められるところはなく、
迷惑ばかりかけて、ごめんなさい。」
と、おちゃらけてしまった私だった。
同僚には大ウケだったが、彼女が、私のどこをそういうふうに見てくれていたのか、ちゃんと話を聞いてみればよかった。
今回、自分がなりたい人間像を考えた時、尊敬する人はたくさんいるし、私にできないことや私ができるようになりたいことができる人はたくさんいるけれど、私がなりたいイメージの人がなかなか思い当らなかった。
そこで、浮かんできたのが『雨ニモマケズ』だった。
読んでみて、賢治の思いの深さを改めて感じる。小学生の時に読んだ時よりも、若い時に読んだ時よりも、今だからわかるところがいくつかある。それこそが、自分のなりたいイメージ、できるようになりたいことでもある。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
これは、今の私に足りないものだ。健康な体と気力、体力、そして、謙虚な気持ちと、笑顔。
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
これは、私の努力目標だ。
見ていたつもり、聴いていたつもり、分かったつもり、覚えたつもりで、
何を見ていたのか、何を聴いていたのか、分かっていなくて、忘れていることが多い。
立派な人でなくてもいい。お金持ちでなくてもいい。モテなくてもいい。
人の役に立てる人間になりたい。
誠実な人間になりたい。
尊敬される人物、必要な人間、欲しい人材、愛する人でなくてもいい。
「あなたに出逢えて良かった」
「また会いたい人」
「あなたがいるから頑張れる」
と、言ってもらえる人間でありたい。
向日葵のように、凛として、見る人に元気を分けてあげられるような、笑顔が素敵な人に私はなりたい。
友人から、
「『こんなふうな人になりたい』、『こんなことができるようになりたい』という目標や、具体的なイメージを持つことが大切だ。」
というアドバイスをもらった。
「あなたは、自分の『イメージ』をもっていますか?」
と問われた時、パッと浮かんだのが、宮澤賢治の『雨ニモマケズ』だった。
〔雨ニモマケズ〕
宮澤賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
この詩を国語の教科書で習ったのは、小学生のころだった。
あの頃にはわからなかった大切なことが、この詩には書かれている。
いろいろな場面で、自分とリンクすることと、まだまだその域には達していないと思うこともたくさんある。
宮澤賢治はどうだったのだろう?
「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」
と書いた、ということは、賢治自身、『サウイウモノ』にはなかなかなれない人だったのかもしれない。
私は、彼がなりたい『サウイウモノ』にとても惹かれる。
ある時、当時の同僚に、
「あなたは、宮澤賢治の『雨ニモマケズ』に出てくる人のようだね」
と、言われたことがあった。
私は、その深い意味をわかろうともせず、
「一日、一食290円の給食を食べ、
東に具合の悪い子がいれば、熱を計り、熱が高ければ保護者に連絡を取り、
怪我した子にはバンドエイドを貼りながら、『痛いの痛いの飛んで行け~!』と言い、
西に、勉強がわからない子がいれば、行って分かるまでやり方を教え、
南に、泣いている子がいれば、行って慰め、励ましやり、
北に、喧嘩をしているやつらがいれば、「喧嘩両成敗!」と『大岡裁き』をやり、
日照りの時は、熱中症を心配し、
インフルエンザが流行れば、『うがい、手洗い、マスク着用!』と叫びながら、学級閉鎖を心配し、
みんなに、『お人好し病』『空気が読めない』『天然(ボケ)』と言われ、
褒められるところはなく、
迷惑ばかりかけて、ごめんなさい。」
と、おちゃらけてしまった私だった。
同僚には大ウケだったが、彼女が、私のどこをそういうふうに見てくれていたのか、ちゃんと話を聞いてみればよかった。
今回、自分がなりたい人間像を考えた時、尊敬する人はたくさんいるし、私にできないことや私ができるようになりたいことができる人はたくさんいるけれど、私がなりたいイメージの人がなかなか思い当らなかった。
そこで、浮かんできたのが『雨ニモマケズ』だった。
読んでみて、賢治の思いの深さを改めて感じる。小学生の時に読んだ時よりも、若い時に読んだ時よりも、今だからわかるところがいくつかある。それこそが、自分のなりたいイメージ、できるようになりたいことでもある。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
これは、今の私に足りないものだ。健康な体と気力、体力、そして、謙虚な気持ちと、笑顔。
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
これは、私の努力目標だ。
見ていたつもり、聴いていたつもり、分かったつもり、覚えたつもりで、
何を見ていたのか、何を聴いていたのか、分かっていなくて、忘れていることが多い。
立派な人でなくてもいい。お金持ちでなくてもいい。モテなくてもいい。
人の役に立てる人間になりたい。
誠実な人間になりたい。
尊敬される人物、必要な人間、欲しい人材、愛する人でなくてもいい。
「あなたに出逢えて良かった」
「また会いたい人」
「あなたがいるから頑張れる」
と、言ってもらえる人間でありたい。
向日葵のように、凛として、見る人に元気を分けてあげられるような、笑顔が素敵な人に私はなりたい。