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私と『漫画』の出逢いから今まで

2009-06-30 01:23:00 | 徒然なるままに
私が最初に漫画本と言う存在を知ったのは、小学校1年生。きっかけは、父が買ってきた『アタック№1』の単行本。当時、TV.アニメ『アタック№1』が放映されており、小学生の女の子たちは皆こぞって鮎原こずえや早川みどりになりきってバレーボールごっこをしていた。
当時中学校の教師(美術)だった父がお土産に買ってきてくれた本。それまでは絵本ばかりだったのに、嬉しいよりも不思議な感じがしたのを覚えている。

その後、12歳年上のおばが読み終えた『少女フレンド』や『マーガレット』をまとめて段ボール箱で送ってきてくれるようになり、少女マンガに目覚めていく。

初めて自分で買った漫画は、小3のときで『少女コミック』だったような気がする。

小4から『小学4年生』を購読するようになり、川崎のぼるの『いなかっぺ大将』が大好きだった。

小5のときはお小遣いは『別マ』『別コミ』『別フレ』3誌購読につぎ込み、母に怒られた。

小6で一条ゆかりにはまり、『りぼん』が愛読書であり、バイブルだった。漫画の影響で本気でデザイナーを目指していたりする。当時は弟も『りぼん』ファンで、弓月光の大ファンだった。この頃の『りぼん』は本当にいろんなジャンルの漫画があって、クオリティが高かった。

中1の時、友達から漫画の似顔絵を頼まれ、見本に借りた『少フレ』『マーガレット』『少コミ』を読みまくり、勉強そっちのけで似顔絵を描きまくる。思えば、これが私の画力を上げる修行だったかもしれない。ゆえに、私は『模写』は大切な練習方法だと思っている。

中2で池田理代子の『ベルサイユのバラ』にはまる。フランス革命には俄然詳しくなってしまった。アンドレが死ぬシーンでは、本屋で立ち読みしながら友達と声を出して泣いてしまった。もちろん家に帰って読み返してまた泣いてしまった。

中3で萩尾望都にはまる。『トーマの心臓』『ポーの一族』は擦り切れるぐらい読んだ。以来、私の絵柄の基本的エッセンスは彼女のキャラクターに近いかもしれない。高校受験を控えながらも、SFと古代文明にはまり、萩尾望都の世界に浸っていた。

高1のとき、幼馴染と文通相手が作った漫画研究会に入った。初めてストーリー漫画を書く。レベルの高い絵を描く友人を多数得て、とにかく描きまくった。(何故か定期テスト前になると無性に描きたくなって、スケッチブック1冊描きつぶさないと勉強に入れなかった)

高2のときに購読していたのは『LaLa』だった。同じ高校に、その後長~い付き合いとなる漫画好きの友達ができ、彼女と幼馴染と私の3人でアニメ会社を作ろうと言う壮大な計画を本気で夢見ていた。

高3のときは、主に気に入った漫画の単行本を買っていた。吉田秋生が好きだった。

大學時代、アニメーター時代、塾講師時代は、忙しかったのだろうか、あまり漫画は買わなくなり、本当に気に入った漫画の単行本だけを買っていたように思う。

高橋留美子の『うる星やつら』は子どもたちが大きくなったら読ませたいと、夫婦で協力して全巻買った。
雁屋哲原作、花咲アキラ作画の『美味しんぼ』を最初に紹介してくれたのは実家の母で、以来、夫が必ず買ってくるようになった。

私が再び漫画に目覚めたのは日渡早紀の『僕の地球を守って』。きっかけはBSアニメ劇場。第1話を見て、すぐに本屋に走り、大人買いをしてしまった。子育て真っ最中で、乳児に幼児に小学生、戦争のような日常の中でオアシスを見つけたようだった。

その後、大和和紀の『あさきゆめみし』にはまり、源氏物語(瀬戸内寂聴・訳)に挑戦。が、いまだ54帖読み終えず・・・

そしてついに運命の出会いが訪れる。井上雄彦の『スラムダンク』だ。きっかけは生徒の書いた美術ファイルの絵。「せっかくだから色を付けたら?」と言ったら、「これは鉛筆描きだからいいんですよ」と返ってきた。その絵が、新聞広告として載った湘北高校のメンバーの一人、三井寿の絵だった。
あの夏、単行本31巻を読破、DVD17巻と映画版2巻も見た。
以来、その熱は冷めることなく、常に私の原動力となっている。

最近大人買いしたのは、手塚治虫の『ブッダ』。『阿修羅展』にちなみ、『仏像を100倍楽しむ見方』と言う授業の参考にと読み始めたら、面白くて一気に読んでしまった。

ここまで書いてきて、果たしてこれを共有・共感してくれる人がどれくらいいるのだろうかと思った。
私にとって、漫画は結構(私の人生の)時代の節目節目に、意味を持って出逢うようになっていたと思う。中には連載中には縁も興味もなかったのに、何かのきっかけで出会うようになっていて、それがそのときの私に大きな影響を与えてくれる。

今はまだ知らない、出逢っていない、縁がなかった名作もたくさんあるだろう。しかし、必要なときには向こうからやってくるような気がする。誰かの紹介だったり、何気なく本屋で手にしたり、昔読んだ本が、新たな意味を持って再び巡り会ったり。

この夏はどんな作品に出逢うのか、楽しみだ。
もちろん、漫画だけでなく、小説を始め他のジャンルの本や映画、ドラマ、舞台、アニメ、歌、人物とかもね。

浮世絵とアニメ ~『漫画の殿堂開設計画』に思う~

2009-06-28 10:28:00 | 徒然なるままに
6月28日(日)

浮世絵とアニメには共通点がいくつかある。

一番の共通点は、共同作業ということだ。
浮世絵は、絵師、彫師、刷師という、それぞれの職人がプライドをかけ、技を競い合って、1枚の作品を完成させる。
アニメも同様で、まずは、脚本があり、作画監督、美術監督の下、原画、動画、彩色、背景部門、CG部門、撮影、編集、音響効果、声優など各エキスパートが技を競い合う。そうして1本のアニメーションフィルムが出来上がる。
しかし、画質や物語のテーマや構成のクオリティーを高めようとすればするほど時間と人材と資金が必要になってくる。
それは、浮世絵も、アニメも、どんな芸術でも共通していることだろう。

2番目の共通点は、一般大衆向けであると言うこと。安価に手に入るという点、等身大の人物が主役だったり、アイドル的な人物が主役だったり、より身近な日常生活から、ファンタジーや歴史的なものまであらゆるジャンルの登場人物や舞台を表現していると言う点は、実に共通している大衆娯楽だ。
新作が出るたびに話題を振りまき、収集家がいて、優れた絵師にはスポンサーが付く。

3番目の共通点は、国内より海外での評価が高いと言うこと。

1873年のウィーン万博に始まった『ジャポニズム』はその後の西洋美術を大きく変えていく。

『ジャポニズム』とは、ヨーロッパで見られた日本趣味・日本心酔のこと。
ジャポニズムは単なる一時的な流行ではなく、当時の全ての先進国で30年以上も続いた運動であり、欧米ではルネサンスに匹敵する、西洋近代的な美意識と科学的パースペクティヴの、大きな変革運動の一つの段階として見られている。特に19世紀中頃の万国博覧会(国際博覧会)へ出品などをきっかけに、日本美術(浮世絵、琳派、工芸品など)が注目され、印象派やアール・ヌーヴォーの作家たちに影響を与えた。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

ゴッホは、パリ万博で広重の浮世絵に出会わなければ、あのゴッホの黄色も青も生まれなかっただろう。
モネやクリムトの絵、エミール・ガレのガラス工芸作品には日本美術の影響が色濃く出ている。

浮世絵(うきよえ)は、江戸時代に成立した絵画のジャンルである。「浮世」という言葉には「現代風」という意味もあり、当代の風俗を描く風俗画である。大和絵の流れを汲み、総合的絵画様式としての文化的背景を保つ一方で、人々の日常の生活や風物などを描いている。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

エキゾチックな文化への憧れもあるかもしれないが、広重や北斎の大胆な構図と緻密で鮮やかな版画表現は、油絵文化に大きな影響をあたえ、変革を起こした。

西欧文化に多大な影響を与え、評価されているとき、本家本元の日本での浮世絵の評価や扱いはどうだったのだろう?

大量の浮世絵海外流出は、日本人の認識不足からくる歴史的大失態と大損失だと思う。
幕末・明治時代、文明開化と廃仏毀釈で、日本古来の美術文化まで軽視され、切り捨てられていた。西洋の美術こそ本当の芸術であり、それを真似し、追いつけ、追い越せという風潮が蔓延していたことだろう。その中で、当時、日本の美術を愛し、守ろう、広めようとした外国人が、本国に持ち帰り、大切に保管していてくれたからこそ、今、完全な状態で私たちの目に触れることができるのだ。

時代を現代に移して。手塚治虫、ジブリアニメ、『ドラえもん』、『ワン・ピース』や『20世紀少年』などの人気はおそらく日本人の想像をはるかに超えるもので、高く評価されており、世界各国語に翻訳され、販売、上映されている。

今、日本のアニメはかつての浮世絵と同じ運命を辿ろうとしている。
いち早く日本のアニメの芸術性を認め、保護しようと立ち上がったのは、やはりフランスだった。
日本の漫画・アニメが量産される中、貴重な原画やフィルム、ゲームの基盤などが、売却、紛失、処分されて、きちんとした補完がされていないことを憂い、危機感を感じて、国費13億円をかけて『漫画館』を設立したのだと言う。
そこに大切に保管され、展示されている日本の漫画の原画やアニメーションフィルムは、まさに文明開化時代の浮世絵と同じ運命を辿ってはいないだろうか?

何年か経ったとき、国立西洋美術館で、『日本の漫画原画・アニメーションの里帰り展覧会』なんてものが催されているのかもしれない。

アニメを通して日本文化を知り、憧れを抱いた海外の人たちが、日本に漫画・アニメグッズの『買い物』旅行や、アニメ技術を学びにやって来ている。
そして驚くのだ。本家本元の日本での漫画・アニメへの偏見と、市民権のなさ、アニメーターたちの悲惨な生活の実態を知って・・・。

これほど海外で認められる文化を持ちながら、その歴史も実績も認識されず、評価もされず、それに従事する人たちの生活も保障されていないと言うのでは、当然のことながら、後進が育つ土壌作りは難しい。
安価な賃金で『外注』として頑張ってもらっていた韓国や中国のアニメーターたちのほうが、日本の技術をしっかり受け継ぎ、今や、自国のハイ・クォリティーなオリジナルアニメを制作している。
間もなく、日本は追い抜かされるかもしれない。

『漫画の殿堂』に、どういう根拠と内訳で120億円もの国費を使うのか分からないが、まずは、日本人の意識改革から始めなければ、ただの『ばら撒き』『国費の無駄遣い』と蔑視されて、廃止になりかねない。
海外で認められてから追随しているようでは、それこそ『猿マネ日本』と蔑まれるだけだ。

浮世絵海外流出の大失態を繰り返さないためにも、国家レベルでの対策を本気で考えてほしい。

中学校の美術の教育指導要領では、日本美術の鑑賞の大切さを謳い、漫画・アニメーションと言う題材は教科書にも載っている。教育現場はまた、思春期で一番漫画・アニメを身近に感じる子どもたちと接する場である。美術に限らず、あらゆる教科での、漫画・アニメの活用が可能な場でもある。

また、制作現場のアニメーターの人たちも、命削って制作している以上、第一線で頑張っているプライドをかけて、世の中の偏見や蔑視を凌駕するような素晴らしい作品作りを目指してほしい。
アニメ全盛期を戦い抜いてきたベテランには、ぜひ、その技術を国内の若きアニメーターたちにしっかり伝授してほしい。

そして、世の「漫画やアニメは、いい大人は読まない、見ない、そんなものに金や時間をかける必要はない」とおっしゃる方たちにお願いです。
ぜひ、良質のアニメを見てください。
まだ歴史の浅い芸術ではありますが、これからの日本を文化的にも経済的にも大きく支えて行ってくれる貴重な活力になるハズです。
思い込みだけで切り捨てないで下さい。
まずいところがあれば、改善点を指摘し、支援して下さい。
国費をかけても遜色のない芸術文化に一緒に育てて行ってください。
命を懸けてそれに応えようと頑張っているアニメーターたちやそれを目指す若者たちを応援してあげてください。
お願いします。

『手紙 ~親愛なる子供たちへ~』

2009-06-27 17:24:00 | 徒然なるままに
6月27日(土)

今日、友人の美容室に白髪染めに行ったら、鏡の前に、1枚のコピー用紙がおいてあった。それには1篇の詩が書きこまれていた。
『手紙 ~親愛なる子供たちへ~』という詩で、手にとって読んでいくうちに胸がいっぱいになり、涙が止まらなかった。
友人は
「泣ける詩でしょう?今、流行っているんだって。この前、娘に見せたのよ。そしたら、私がお母さんたちを最後まで面倒見るんだからね。と言ってくれて・・・。」
と言っていた。

帰宅するなり、インターネットで検索したら、この詩には曲があり、作曲者によって歌われていた。
詩はhttp://www.teichiku.co.jp/artist/higuchi/disco/cg17_lyric.html
歌はhttp://www.youtube.com/watch?v=VIys43kR5S0
をご参照ください。

原詩はポルトガル語の読み人知らず。作曲者の樋口了一氏の友人角智織氏が訳し、樋口氏が補足詩をしてこの歌が生まれた。
アコースティックギター1本で弾き語りで歌われるソフトな歌声に、心が揺さぶられ、込み上げる思いととめどない涙に心まで洗い流されるような感じ。でも、突きつけられる現実に辛くなりながらも、いつか自分も行く道だと覚悟を決めさせられる歌でもある。

1度目は、故郷に老いた両親を持つ身として聞き、感動したのだが、2度、3度と聞くうち、これは介護の現場でがんばっている人たちへの応援歌と言うよりは、子育て真っ最中の若い両親への応援歌と言う感じがしてきた。
この歌に出てくる手紙の書き手は、しっかりと子育てをしてきた人だ。子どもにちゃんとご飯を食べさせ、お風呂にも入れ、絵本も読んであげている。生きていく上で大切なことをちゃんと教え諭す『親』を全うしてきた人だ。
読み手も、そういう風に自分は望まれて生まれ、大切に育てられてきた思い出とともに、老いた親を大切にしなくてはと思い、介護疲れに向き合うことができる人だ。
でも、今の世の中、自分が老いた時に、この書き手の人のように胸を張って子育てをしてきたと言える人はどのぐらいいるのだろうか。自分を含め、今までの子育てを振り返り、これからの親としての責任、子としての役目を考えさせられる詩だと思う。

老いは誰にでも平等にやってくる。
『悲しいことではないんだ 消え去っていくように見える私の心へと 励ましのまなざしを向けてほしい』

両親に限らず、私を、この日本を、この世界を育み、支えてきてくれた高齢者の人々へ、その人たちを支援し、介護で頑張っている世界中のすべての人たちへ、心よりエールを送りたい。



天に召された『ネバーランド』の天才ミュージシャン

2009-06-26 22:15:00 | 徒然なるままに
6月26日(金)

一人の天才が逝った・・・。
詳しいことはまだは判明されていない。
いろいろな憶測が飛び交う。
確かなことは、人類は貴重なアーティストを失ったと言うこと。
彼の新しい歌は二度と聴くことができないと言うことだ。

一連の報道の中で、とても胸が痛くなるのが、『ネバーランド』だ。
彼の夢の王国。彼の夢・・・。
遊園地と動物園、おもちゃと子どもの写真があふれんばかりの部屋・・・。
子どもの頃から天才的な歌声、リズム感,スーパースターとしての生活。人もうらやむ才能と生活の裏側で、彼は本当は何を想い、渇望して生きていたのか・・・。

画像を見ながら、『ピカソ』の生涯とダブった。
小さい頃から『天才』の名をほしいままに才能を発揮し続け、91歳でこの世を去った後もなお世界に大きな影響を与え続けた『巨匠』だ。
でも、彼の晩年の絵はどんどん幼児化し、世間の評判は賛否両論だったそうだが、彼は
「やっと子どもらしい絵が描けるようになった」
と言ったのだそうだ。
事実、彼がパンツ一丁で、アトリエで子どもたちと遊ぶ姿は実に楽しそうで、子どもたちからたくさんのインスピレーションを受けていた様子がうかがえる。
子ども時代に子どもらしい過ごし方をしなかったことが、最大のコンプレックスであり、創作意欲の原点だったとは・・・。

この度亡くなった彼は、子ども時代は、(録音)スタジオの前の公園で遊ぶ同じ年頃の子どもたちをうらやましく思い、スタジオの片隅で涙していたと言うエピソードがあった。
その後で見る『ネバーランド』の彼の部屋。あそこで遊ぶ彼は、童心に返って、同じ年頃の子と遊びたかったことを追体験していたのかもしれない。
いつまでも大人にならなくてもいい、子どものままでいられる『ネバーランド』で。

そして更に彼を追い詰める肌の色に対するコンプレックスと、ストレスとスキャンダルとの戦い。
コンプレックスをはるかに凌駕するほどの才能に恵まれながら、彼を取り巻き、蝕み、侵食するストレスから逃れるすべを薬物にすがるしかなかった彼の内なる叫び・・・。白くなっていく肌の代償として払ったのは、「免疫力」と「抵抗力」だったなんて・・・。

どれほど心残りで、無念だったことだろう・・・。
もっと歌いたかった、踊りたかった、伝えかかった、もっと本当の自分を分かってほしかった・・・。
彼は自分で自分を追い込んで、体が悲鳴を上げ、耐え切れなくなってしまったのではないか・・・。
 
今、彼の魂は、何を思っているだろう。

もしも、また新しい健康な身体を得て、また新しい命を生きることができるのなら、今度こそ、納得いく人生を生きてほしい。そのためにも、今は、安らかに休んで復活するためのエネルギーを蓄えてほしい。

彼の残したものは『+』も『-』もあるが、彼の影響を受けたアーティストや、彼と共に生きてきた世代の思いは、『+』に変換され、伝説となり、昇華されて、歴史は彼の才能とメッセージの『+』の部分を大きく取り上げていくだろう。

晩年、スキャンダラスな話題性が先行し、彼の活動や才能が重要視させなくなったのは本当に残念だ。
皮肉にも、今回の訃報がきっかけとなって、彼の音楽を再評価しようと言う風潮が見られる。
それが彼が命と引き換えに得たものだとしたら、あまりに痛々し過ぎる。


50歳。あまりにも急で、早すぎる死。
でも、彼の歌は永遠に歌い継がれ、語り継がれて行くことだろう。
『キング・オブ・ポップ マイケル・ジャクソン』の名と共に・・・。

彼のご冥福と、彼の忘れ形見のこれからの幸せを心より願う。

年頃の娘を持つお父さんへ、ガンバレメッセージ!

2009-06-22 22:32:00 | 徒然なるままに
6月22日(月)

昨日は父の日。
今日の昼休み、1年生の女の子たちとの会話。
「昨日の父の日はお父さんに何かプレゼントしてあげたの?」
ときいたら、
「何にもあげなかった~」
「私も~」
「だって、何もいらないっていうから~」
「じゃあ、『お疲れ様~』って晩酌してあげたり、、肩揉んであげたりは?」
「え~、そういうことしない~」
「私も何にもしなかった~」
「ねぇ、もしかして、あなたたち、家で『お父さんの洗濯物と一緒に洗わないでね』とか言ってないよね?」
「「「言ってる~!!」」」
「お父さんの入った後のお風呂には入らない~」
「そう!絶対無理~!!」
「え~?普通、お父さんが一番湯じゃないの?」
「一番湯って?」
「沸かしたてのお風呂に一番最初に入る人のことだよ。」
「無理、無理~!絶対無理!!」
「ちなみに最後に入る人は仕舞い湯っていって、浴室がカビないように水気をふき取ったり、窓を開けて換気したり・・・。家では私がいつも仕舞い湯だけど。」
「そうなんだ~」
「あなたたちさぁ、お父さんはあなたたちがお嫁に行くことなんか考えると、滝のような涙流すくらい、娘のことはかわいいモンなんだよ、あまり邪険にしたらかわいそうだよ。」
「え~?!滝のような涙~???」(爆笑)
と言ったところで、昼清掃の音楽が流れて話は中断してしまったが・・・。
 
さてさて、世の中のお父さんたちにとってはどんな父の日だったのでしょう・・・。

ちなみに我が家の末娘(中2)は、パパに手作りクッキー(メッセージ付き)をプレゼントしていましたが・・・。

思えば、思春期の女の子にとって、『お父さん』とはどんな存在なのでしょう?
小さい頃は『パパっこ』で、パパのおひざに抱っこして、頬ずりすれば、『おひげがチクチクして痛いよ』と嫌がり、帰宅すれば、『おかえりなさ~い!』と玄関まで走って出迎えてくれ、お土産を渡せば、『ありがとう!パパ大好き!』なんて、ほっぺにチューをしてくれたり。一緒にお風呂に入って、シャンプーをお風呂用のジョウロで流してくれたり・・・。
ああ、あんなに可愛かった娘に『バイキン』扱いされて・・・(涙涙)

そして悲しみはさらに続くのである。
年頃の娘に彼氏ができたらしい。
それだけでも許しがたく、寂しさと心配よりも、怒りのほうが勝るぐらいの大ショック!相手の男を一発ぶっ飛ばさなくては腹の虫が収まらない!!!
かつて自分も同じことをしたのはこの際棚に上げ、一人悶々とする日々・・・。
そのうち、娘は嫁に行き、姓も変わって、会いたくても会えない寂しい毎日に涙する。
願うはただひたすらに娘の幸せのみ。

娘のほうは、自分も親になってはじめて、親のありがたみと自分のわがままに気づくのである。

そして届く『お父さんありがとう』のメッセージと黄色いバラを添えた父の日のプレゼント。

年頃の娘を持つお父さんたちよ、どうぞ長生きをして、いつか届く心からの感謝の気持ちをこめた『プレゼント』を受け取ってくださいね!

たとえ、娘が未婚でも、親にならなくても、いつかきっと『お父さん』のありがたみは必ず分かる時がくるから、その日を信じてくださいね。


う~ん・・・。本当はもっと違うことを書こうと思っていたんだけど、なんだか世の中のお父さん応援メッセージになってしまった・・・。

ヱヴァンゲリヲンの『序破急』と、『さなぎ』の14歳

2009-06-21 08:30:05 | アニメ


『エヴァンゲリヲン』にハマって一週間。ついにTVシリーズ26話全話と劇場版 『DEATH & REBIRTH シト新生』劇場版『THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に』『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を見た。

TVシリーズについては、物語とキャラクターの設定、演出の仕方は当時としては斬新で画期的だなと思って観ていた。しかし、回が進むに連れて、物語の構成やテーマがだんだん複雑化して、設定を生かしきれていないし、何が言いたいんだか散漫で、独りよがり的な展開になってきた。TV版25話と26話などは止め絵と文字だけで、動画も背景も制作が間に合わなかったのかというような印象を持った。止め絵でキャラクターの口パクだけの動画、声優がセリフを読み上げ、文字だけがフラッシュする演出は、セリフの内容を強調し、登場人物の心理描写に視点を置いているつもりだろうが、アニメーションとしてはただの手抜きである。音声を消したら何も伝わってこない。これはアニメではなく、『紙芝居』だ。
第1話は、製作者側のすごい意気込みやら野望やプライドを感じる画質と演出だっただけに、25話と26話は尻切れトンボの無責任な終り方だなと思った。
劇場版(『シト新生』と『Air/まごころを、君に』)を見て、納得はしなかったけれど、25話と26話を一応映像化はしてみたんだな。とは思った。
それでも、やはり何が『人類補完計画』なんだかさっぱり分からなかった。
おそらく、制作者側も、「とりあえずはできたところまでで公開してしまおう」みたいな見切り発射的な公開の仕方と、不完全燃焼しか残らなかったのではないか・・・。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の『序』とは、『序破急』の『序』から来ているそうだ。『序破急』とは物語の“起承転結”、舞台の“三幕構成”と同義語であると言うことだ。
『新劇場版:序』は6話までの焼き直しと言うか、10年後対応リメイク版という感じった。
TVシリーズと言う低予算とハードスケジュール、テクニック不足でできなかったことを10年後の技術と予算でじっくりかかって制作することができたのだろう。
何度も同じ話をベースに作り替えながら、往年のファンを納得させ、新しいファンを獲得していくのは至難の業だと思う。

『序』で面白かったのは、背景動画だ。TVバージョンではあそこまで凝ったら、逆に怒られてしまう。でも、劇場版だからこそ、細部まで神経の通った『魅せる』背景、動く背景が出来上がったのだろう。
要塞都市『第3東京市』自体が1つの重要なキャラクターとして、『人格』と言うか、『意思』まで持っている感じがした。
リリスを守るために最後は使徒と刺し違えて自爆しても『サード・インパクトを未然に防ぐ装備と覚悟のある都市。
その都市を最終的に破壊するのが、皮肉にも18番目の使徒である『人類』とは・・・。(このラストを『急・FINAL』ではどう表現されるのだろう・・・)

TVシリーズでも、それまでの劇場版でも語られなかったエピソードとして、シンジが葛城ミサトに対し、エヴァに乗ることの恐怖と、ミサトたちは安全な場所で指示を出すだけなんてズルイと抗議するシーンが印象的だった。
ミサトはシンジを連れて、地下に眠るリリスに会わせる。
その時に、この要塞都市第3新東京市の地下空間(ジオフロント)と特務機関NERV(ネルフ)で働く全員が、使途を殲滅するのに命がけで取り組み、万が一使徒進入を許した場合は使徒と刺し違えてでも『サード・インパクト』を未然に防ぐための自爆装置を持っていることを告げる。
三度めのエヴァ搭乗を決意するシンジの手をミサトが強く握ったとき、それに応えるように握り返してくるシンジの指先の動きがとても印象に残るシーンだった。

TVシリーズでは謎のままだった渚カヲル君の活躍が期待されるようなラストシーンだった。
公開が楽しみだ。

『エヴァンゲリヲン』を見ながら、自分のときの14歳、息子や娘たちの14歳、今まで出逢ってきた生徒たちの14歳をずっと考えてきた。

思春期は『さなぎ』の時代とも言う。
さなぎはその硬い『殻』または『繭』の中で、劇的に進化し成長し変化しているのだ。
やがて、時が経ち、『羽化』のときを迎える。自分で殻を脱ぎ捨て、繭を溶かし、中から自力で出てくるのだ。
中には変体の最中に力尽きて、そのままの状態で絶命する者もいる。
せっかく出てこられても、不幸にも他の生物の餌食になってしまう者もいる。
また、奇形で生まれてきて、子孫も残せず排除され、その命を終える者もいる。
「さなぎを破って出てきたら、枝につかまってじっと外の世界の冷たい風に晒されるほどその羽根は力強く鮮やかに色付き、飛び立つときを待つ。
『大空を抱いて輝く』ためにはそういうプロセスを踏まなければならないのだ。
だが、その『時』を大人の都合で勝手に早めたり、待ちきれずに殻を破ったりすると中で幼虫は死んでしまうのだそうだ。
『さなぎ』の時は、周りの大人もじっと見守り、待つ覚悟と余裕と忍耐を試されているのだ。


14歳。その内に秘めた未知数の可能性と繊細で柔らかな感性、危ういバランス。
『逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ!!』(byシンジ)
『自己防衛』と『自己主張』、『自己欺瞞』と『自己肯定』、『自己達成』と『自己完結』・・・セルフコントロールって、難しい・・・。一番苦しいのは『自分と向き合うこと』。『自己満足』も『自己愛』もなければ、自分が生きている証を求め、『自傷行為』や『自暴自棄』に陥ってしまう。
自分を大切にできない人間は、他者を大切にすることはできない。
『自分が嫌い』で苦しむシンジ、それはアスカも同じ。
誰かに認められたい、必要とされたい、愛されたい。そのために人類の夢と希望と未来と命を背負って戦う14歳の姿は、あまりに痛々しい。

だから。
『あなたは死なない。私が守るから』(by綾波レイ)
『僕は君に逢うために生まれてきたのかもしれない』(by渚カヲル)
と言うセリフにシンジはグッとくるのだ。

完結編『急・FINAL』の制作はもう始まっているのだろう。
それに向かう「STEP」としての『破』が「HOP」の『序』を上回り、「JUMP」の『急・FINAL』で制作者も観客も充分に『補完』される作品として更なる進化を遂げていくことを祈る。

ヱヴァンゲリヲンの『序破急』と、『さなぎ』の14歳

2009-06-21 07:47:00 | 徒然なるままに
『エヴァンゲリヲン』にハマって一週間。ついにTVシリーズ26話全話と劇場版 『DEATH & REBIRTH シト新生』劇場版『THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に』『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を見た。

TVシリーズについては、物語とキャラクターの設定、演出の仕方は当時としては斬新で画期的だなと思って観ていた。しかし、回が進むに連れて、物語の構成やテーマがだんだん複雑化して、設定を生かしきれていないし、何が言いたいんだか散漫で、独りよがり的な展開になってきた。TV版25話と26話などは止め絵と文字だけで、動画も背景も制作が間に合わなかったのかというような印象を持った。止め絵でキャラクターの口パクだけの動画、声優がセリフを読み上げ、文字だけがフラッシュする演出は、セリフの内容を強調し、登場人物の心理描写に視点を置いているつもりだろうが、アニメーションとしてはただの手抜きである。音声を消したら何も伝わってこない。これはアニメではなく、『紙芝居』だ。
第1話は、製作者側のすごい意気込みやら野望やプライドを感じる画質と演出だっただけに、25話と26話は尻切れトンボの無責任な終り方だなと思った。
劇場版(『シト新生』と『Air/まごころを、君に』)を見て、納得はしなかったけれど、25話と26話を一応映像化はしてみたんだな。とは思った。
それでも、やはり何が『人類補完計画』なんだかさっぱり分からなかった。
おそらく、制作者側も、「とりあえずはできたところまでで公開してしまおう」みたいな見切り発射的な公開の仕方と、不完全燃焼しか残らなかったのではないか・・・。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の『序』とは、『序破急』の『序』から来ているそうだ。『序破急』とは物語の“起承転結”、舞台の“三幕構成”と同義語であると言うことだ。
『新劇場版:序』は6話までの焼き直しと言うか、10年後対応リメイク版という感じった。
TVシリーズと言う低予算とハードスケジュール、テクニック不足でできなかったことを10年後の技術と予算でじっくりかかって制作することができたのだろう。
何度も同じ話をベースに作り替えながら、往年のファンを納得させ、新しいファンを獲得していくのは至難の業だと思う。

『序』で面白かったのは、背景動画だ。TVバージョンではあそこまで凝ったら、逆に怒られてしまう。でも、劇場版だからこそ、細部まで神経の通った『魅せる』背景、動く背景が出来上がったのだろう。
要塞都市『第3東京市』自体が1つの重要なキャラクターとして、『人格』と言うか、『意思』まで持っている感じがした。
リリスを守るために最後は使徒と刺し違えて自爆しても『サード・インパクトを未然に防ぐ装備と覚悟のある都市。
その都市を最終的に破壊するのが、皮肉にも18番目の使徒である『人類』とは・・・。(このラストを『急・FINAL』ではどう表現されるのだろう・・・)

TVシリーズでも、それまでの劇場版でも語られなかったエピソードとして、シンジが葛城ミサトに対し、エヴァに乗ることの恐怖と、
「ミサトさんたちは安全な場所で指示を出すだけなんてズルイ」
と抗議するシーンが印象的だった。
ミサトはシンジを連れて、地下に眠るリリスに会わせる。
その時に、この要塞都市第3新東京市の地下空間(ジオフロント)と特務機関NERV(ネルフ)で働く全員が、使途を殲滅するのに命がけで取り組み、万が一使徒進入を許した場合は使徒と刺し違えてでも『サード・インパクト』を未然に防ぐための自爆装置を持っていることを告げる。
三度めのエヴァ搭乗を決意するシンジの手をミサトが強く握ったとき、それに応えるように握り返してくるシンジの指先の動きがとても印象に残るシーンだった。

TVシリーズでは謎のままだった渚カヲル君の活躍が期待されるようなラストシーンだった。
公開が楽しみだ。

『エヴァンゲリヲン』を見ながら、自分のときの14歳、息子や娘たちの14歳、今まで出逢ってきた生徒たちの14歳をずっと考えてきた。

思春期は『さなぎ』の時代とも言う。
さなぎはその硬い『殻』または『繭』の中で、劇的に進化し成長し変化しているのだ。
やがて、時が経ち、『羽化』のときを迎える。自分で殻を脱ぎ捨て、繭を溶かし、中から自力で出てくるのだ。
中には変体の最中に力尽きて、そのままの状態で絶命する者もいる。
せっかく出てこられても、不幸にも他の生物の餌食になってしまう者もいる。
また、奇形で生まれてきて、子孫も残せず排除され、その命を終える者もいる。
さなぎを破って出てきたら、枝につかまってじっと外の世界の冷たい風に晒されるほどその羽根は力強く鮮やかに色付き、飛び立つときを待つ。
『大空を抱いて輝く』ためにはそういうプロセスを踏まなければならないのだ。
だが、その『時』を大人の都合で勝手に早めたり、待ちきれずに殻を破ったりすると中で幼虫は死んでしまうのだそうだ。
『さなぎ』の時は、周りの大人もじっと見守り、待つ覚悟と余裕と忍耐を試されているのだ。


14歳。その内に秘めた未知数の可能性と繊細で柔らかな感性、危ういバランス。
『逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ!!』(byシンジ)
『自己防衛』と『自己主張』、『自己欺瞞』と『自己肯定』、『自己達成』と『自己完結』・・・セルフコントロールって、難しい・・・。一番苦しいのは『自分と向き合うこと』。『自己満足』も『自己愛』もなければ、自分が生きている証を求め、『自傷行為』や『自暴自棄』に陥ってしまう。
自分を大切にできない人間は、他者を大切にすることはできない。
『自分が嫌い』で苦しむシンジ、それはアスカも同じ。
誰かに認められたい、必要とされたい、愛されたい。そのために人類の夢と希望と未来と命を背負って戦う14歳の姿は、あまりに痛々しい。

だから。
『あなたは死なない。私が守るから』(by綾波レイ)
『僕は君に逢うために生まれてきたのかもしれない』(by渚カヲル)
と言うセリフにシンジはグッとくるのだ。

完結編『急・FINAL』の制作はもう始まっているのだろう。
それに向かう「STEP」としての『破』が「HOP」の『序』を上回り、「JUMP」の『急・FINAL』で制作者も観客も充分に『補完』される作品として更なる進化を遂げていくことを祈る。

夢と希望がいっぱい詰まった鞄

2009-06-20 18:17:00 | 徒然なるままに
毎朝、登下校指導するたびに、生徒たちの重そうな鞄が気になっていた。
自転車通学の子は荷台に括り付ければいいが、徒歩通学の生徒は重い鞄を身体を反対に傾けながら、それでもニコニコと友達と夢中になって話しながら歩いている。
朝練を終えて昇降口に向かってくる生徒に、
「おはよう!時間だよ、急ごう!!それにしても重そうな鞄だね、何がそんなにいっぱい入っているの?」
と声をかけたら、思いがけず
「夢と希望です!」
という答えが返ってきた。
「そっかぁ!!じゃあ、その背中には『遥か遠い未来目指すための羽』がついているんだね」
と言ったら、彼は笑って昇降口に消えていった。

高校、中学時代の私の鞄は昔ながらの革の学生鞄で、全教科詰め込んだ上に辞書まで持ち歩いていたので、鞄の底が起き上がりこぼし状態に間歩丸くなって、コロンコロン転がっていたっけ・・・。
今思えば、あの中には『夢と希望』がいっぱい詰まっていたんだなあ・・・。

重たい鞄と言えば、子育て最中のマザーズ・バック。
子どもたちが乳幼児の頃は、手作りのマザーズバックに、オムツに着替えにミルクに水筒、オムツ替えシート、絵本におもちゃにおやつを詰め込んで、おんぶに抱っこにたくましく子育てしていたっけ・・・。
あの中にも『夢と希望』がたくさん詰まっていたんだなぁ・・・。

今の私の鞄の中身は・・・。
今の私の精神状態と一緒のようなごちゃ混ぜで整理がついてない状態。
はっきり言って、必要なものも、不要なものも一緒くたに入っていて、いつか整理しようと思いながら、とりあえず詰め込んで、無駄に重くなっている。いざと言うときに必要なものがすぐに取り出せず、探してモタモタしてしまう。入れていたつもりで『携帯しない携帯電話』やら、レジでさがしてもたつくポイントカードとか・・・。
仕事関係の道具メモ帳、趣味の本やら化粧ポーチ、医者からもらった薬、コンビニ払いのダイレクトメールまでいろんなものが入っている。ダッシュしなきゃならないときに、重くてスタートダッシュが切れず、途中で息切れして、乗らなきゃならない電車に乗り遅れて・・・。
はなはだしいときは、置き忘れて、お店の人に預かってもらっていたりして・・・。

なんだか余裕が無くて、無駄が多い私の生活そのものみたい・・・。

大は小を兼ねるって言うけど、大きければいいってものじゃない。
TPOに合わせて、服装に合わせて、その日の気分に合わせて、お気に入りの鞄で出かけてみよう!必要なものだけ詰め込んで、出かけた先で見つけた素敵なものを入れるスペースを残して、フットワーク軽く出かけてみよう!

♪さぁ、出かけよう!
 一切れのパン、ナイフ、ランプ
 鞄につめこんで


中学生の重い鞄。教科書もノートもお便りもジャージも体操服も一緒くたになって入っている重たい鞄。
持ち手のところにはかわいいマスコットやお気に入りのキーホルダーがジャラジャラぶら下がっていて・・・。
でもあの中には『夢と希望』がいっぱい詰まっているのかぁ・・・。
がんばれ!中学生!!

月曜日は、私も『夢と希望』がつぶれて迷子にならない程度に整理された鞄を持って出勤しよう。

子どもネット八千代定期総会

2009-06-14 22:50:00 | 徒然なるままに
6月14日(日)

今日は、子どもネット八千代の定期総会に出席してきた。

息子が4歳のときから会員になって、16年が経つ。3人の子どもたちは、ここで育った。いや、育ててもらったのだ。そして、私自身も。

出産のために千葉に引っ越してきてから、私は子育てを通して友人関係を作ってきた。結婚してからは、新姓で呼ばれ、○○さんの奥さん、子どもが生まれてからは、△△ちゃんのママという呼び方になり、そのたびに、新たな友人関係が生まれた。
でも、子どもネットには、親としてだけではなく、私個人としての関わりというか、居場所であったように思う。
新米ママだった私が、地域の子どもたちとも関わりを持つようになり、志を同じくするいろいろな地域やさまざまな世代のお母さんたちと一緒にいろいろな活動をしてきたことは、人生の宝物である。
一緒にがんばってきたお母さんたちは、生涯の友でもある。

特に、長女が不登校のときには、子どもネットが唯一の彼女の居場所であり、心の支えだった。これは彼女自身も、私も本当に感謝している。
彼女が紆余曲折の末志した『保育士』の夢の原点は、彼女の通った幼稚園と、この子どもネット八千代にあると思う。

今日、各地の活動報告や、子どもたちの発表を見ていて、すごく元気をもらった。
だが、現実問題は、少子化と世代交代なのか、会員がずいぶんと減ってきているのだ。
子どもと一緒に関わろう、思い出を作ろう、地域ぐるみで子育てをしよう、生の舞台を地元で見ようという趣旨に賛同してくれる親が少なくなってきているのだ。
ちょっと前は、それでも、一緒には関われないけど、お金なら出すから、うちの子見てちょうだい的な、託児所代わりにしている人たちもいて、それはそれで大変なときもあったのだが・・・。
今は、未収園児を預けてまで、働かねばならない若いお母さん方が増え、会費を払って、子どもたちと生の舞台を見たり、キャンプやレクをやろうという時間や経済的に余裕のある人が少なくなってきているのだ。
実際、私自身がそうだ。
朝の7時前から出勤し、深夜帰宅で、土日も出勤という状況で、会員を続けるのがやっとで、とても役員などを引き受ける時間的余裕がない。

今までお世話になった分、子どもたちが大きくなった今こそ、スタッフになって会を盛り立てて行きたいと思っていたのだが・・・。

蓋を開ければ問題は山済みだけど、みんなで諦めずに、まずは自分たちが楽しめる場として、居場所として会が存続していけるよう、がんばって行きましょう!
親が楽しければ、子どもたちもついてくる。親が負担に思い、不満ばかり言っていれば、子どもたちも離れていく。
親子で楽しめ、親子が別々でも楽しめる貴重な『居場所』をみんなで守っていきましょう!

子どもネット八千代公式ホームページ
http://konet.ciao.jp/

ヱヴァンゲリヲンに思う ~14歳・立志の時~

2009-06-14 21:38:00 | 徒然なるままに
今更ながら、「新世紀ヱヴァンゲリヲン」にハマってしまった。

作品自体は以前から知っていたし、カラオケでも『残酷な天使のテーゼ』を歌ってはいたが・・・。

今回、6月29日から上映される映画版に先駆けて、第1話~8話まで無料配信されていたので、一気に8話分を見、最終話までのあらすじを読んだ。

まだ、キャラクターや物語の構成に分からないところがたくさんありすぎるが、10年前、社会現象になるぐらいの大ヒットになったのは分かるような気がする。

主人公が14歳というのは、子ども向け漫画の定番という感じだが、今、中学生を教える立場に立ってみると、この年齢設定は実に興味深い。

『海のトリトン』のトリトンも13歳。
ジブリアニメに出てくる主人公たちも13~15歳ぐらいが多い。
この思春期真っ只中にいる少年少女たち。
好むと好まざるとに関わらず、戦いに巻き込まれ、組み込まれ、人類の命運まで担わされて最前線で戦う運命に翻弄されていく主人公たちは、人生経験がないまま、『正義』を振りかざして戦っていくうちに、相手の『正義』に気づかされ、苦悩する。
勧善懲悪だけではないストーリーと、完全無欠・無敵ではない、どこにでもいそうな少年少女が主人公という設定は、さまざまな人間ドラマを生む。主人公の心の葛藤と成長が同世代の共感を呼ぶのかもしれない。
14歳。そういえば、セーラームーンの月野うさぎも同い年だった。
劇場版『銀河鉄道999』の星野鉄郎も14~15歳の設定だったと思う。

14歳。
とても純粋でありながら、子どもでもなく、大人でもない。善悪の判断も、自己コントロールもずいぶん危ういところがある。
小さい頃からの夢がどんどん現実味がなくなって、先が見えなくなってきて、いや、逆に、先が見えてしまっているから、夢を見ることをやめてしまうのかもしれない。
絶対的な存在だった大人たちの、ズルイところや情けないところばかりが目に付いてきて、『憧れ』る事もなくなってきて・・・。ついつい、反抗ばかりしてしまう。

未知数な彼らではあるが、自分も周りの人間もまだ気がつかない、『原石』を持っている。
失敗もするし、自信もない、怖気づいて、いざというときに力が発揮できないときもあるだろう。
でも、何かをきっかけに、飛躍的に伸びたり感性が豊かで、いろいろな影響を受けたり、学習能力や運動能力が高まる時期なのだ。
地球や人類の未来を背負って立つのは、今はまだ幼く多感な子どもたちなのだ。

中学生を教えていて、ピカソのゲルニカを通して第2次世界大戦を考えさせたり、『ファンタジア』で環境問題を考えさせたり、『ゴッホ』や『北斎と広重』でジャポニズムを考えさせたり、『仏像の見方』で、廃仏毀釈や文化財保護を考えさせると、すごい反応が返ってくる。
教える方が逆に生徒たちからたくさんのことを教えられ、気付かされる。それがたまらなく刺激となり、教える意欲につながってくる。

「吾十有五にして學に志す」有名な孔子の言葉だが、この15は、数え年であれば14歳のときに孔子は志を立てたのだ。
一般的には、江戸時代、武士の子どもが14歳で元服したということだ。
満14歳という年齢は、現在では、「少年法」の適用を受ける年齢でもあるが、やはり、14歳という歳は「自分を見つめ」、「自分の生き方を考える」大切な人生の岐路なのだろう。
その大切な時期に、教師という立場で立ち会えるというのは、とても光栄なことなのではないだろうか。
ピア・サポートでも、中学2年生のテーマは『セルフ・コントロール』。

碇シンジが、ピンチのときに言うセリフにグッと来た。
『逃げない!』
死んでしまっては元も子もない。危険からは逃げることも必要。『退路』を確保しておくのも兵法の一つだ。
でも、『自分自身から逃げない』覚悟と勇気は必要だ。

我が家にも、この8月7日で14歳を迎える中学2年生がいる。
彼女と一緒に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を見に行こう。