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交流

石巻・川開きを想う

2011-07-31 09:46:00 | 徒然なるままに
7月31日(日)

いよいよ、今日の夜行バスで、故郷石巻に向かう。

明日8月1日は、川開き本祭。夜には花火大会がある。

この度の震災で、多くの命も、地元の経済を支えていた花火大会のスポンサーも失った石巻市が、この川開きを目標に、町の復興に尽力し、気持ちの整理を付けてきたと思う。

私は、震災後、まだ一度も帰省していない。
義援金や物資の支援は送っても、私自身がまだ石巻に行っていないのだ。
自分にできることはなんだろう。
いつも自問自答して、身動きの取れない自分の置かれている状況の中で、ジレンマと戦ってきた。

夏休みに入り、部活動のない小学校勤務。個別面談を終え、試験も終わった。
一次試験を受ける前から、もし、二次試験に進めなかったら、ボランティア活動に行こうと思っていた。
万一、合格したとしても、1日でもいいから、何か役に立ちたいと思っていた。

だから、一次試験が不合格だとわかった時、がっかりはしたが、内心、これで心おきなく働いて来れると思った。

川開きが終わったら、ボランティア登録をして、再び千葉に戻ってくる。
8日の日直と研修を終えたら、その日の夜行で再び石巻に向かい、今度は「帰省」ではなく、一ボランティアとして、派遣された被災地で泊まり込んでも働いてこようと思う。

私の第一希望は、渡波地区。
地盤沈下が起きて浸水している地域だ。
危険区域で、復旧が遅れているとのことだ。
私が小学4年生まで暮らした私の父の実家も、土台と水道栓だけを残して、何もかも津波に流されてしまった。
そこに頑張って根を張り、葉を茂らせていると言う、亡き叔母が植えたバラの木に水をやりたい。
通学路の瓦礫撤去を手伝いたい。
いつも遊んでいた、盆踊りをした松林や広場をきれいにしてあげたい。
避難所になっている小学校で、未だ仮設住宅に移れないで大変な思いで生活している人たちを手伝いたい。
亡くなった友人達、お世話になった方々に手を合わせたい。
命が助かり、そこで復興を目指して頑張っている地元の人たちを応援したい。

泣きたくても、泣けない、泣いてもどうしようもない、泣かずに踏ん張って、その日その日を懸命に生きている故郷の人たちと、同じ臭いの空気を吸い、埃にまみれ、ヘドロを片付け、瓦礫を撤去し、豊かな海の幸を育み、活気のある港町渡波が再生するお手伝いをしたい。
たとえ、9日間の短いボランティア活動だとしても、みんなと一緒に頑張りたい。

そして、千葉に戻ってきたら、自分の目で見、耳で聞き、心や身体で身を持って感じたことを、メディアでは放送されない、見ることも嗅ぐこともできない被災地の状況や空気感を、たくさんの人に伝えたい。
今、何が必要か、これからどんな支援を必要としているのか、しっかり聞いてこようと思う。

それはまた、いつか近い将来に必ず起こる、関東・東海大震災への貴重な教訓となることだろう。


ああ、それにしても、8月1日の天気予報は曇りだ。
雲の中に隠れた花火大会になってしまうのだろうか…。
それでも。
雲の上から、あの日亡くなったたくさんの人たちが石巻の心意気の花火を楽しんでくれるといい。
地上の生き残った人たちは、花火の音を聞きながら、来年こそ、夜空を彩る花火大会にするために、また頑張るぞ!と元気を出してくれるといい。
私も、泣きなくなったら、花火の音と一緒に、大きな声で、海を見ながら泣こう。
海に沈む、多くの尊い命と大切な思い出たちに向かって・・・。


51歳の『努力目標』

2011-07-16 13:57:00 | 徒然なるままに
7月16日(土)

3月11日の震災から、4か月が経った。
被災地となった故郷石巻に、いまだ帰省していない私。
夏休みに入ってからも、、保護者面談や研修や出張があり、ようやく休みが取れるのは7月30日からだ。
31日の娘のピアノの発表会が終わったら、その日の夜行バスで故郷に向かう。

着いたその日は8月1日。石巻川開きの本祭の日だ。

今回の帰省は、その日を思うたびに、涙がこみ上げてきてしまう。

でも、弟に言われた。
「姉ちゃん、向こうに行ったら、いろんな人達に会って、いろんな話を聞くだろうけれど、めそめそするなよ。向こうの人たちは、泣きたくても泣けない、泣いたってどうしようもないところを泣かないで頑張っているんだから。
大丈夫な所から遅れてきた人間がめそめそしていたら、失礼だ。
明るくしていろ。おれも、地震直後やG.Wに帰った時は、心がけて明るくふるまってきたんだ。」

そのことを父に言ったら、
「どうしても泣きたくなったら、渡波の海に向かって思いっきり泣けばいい。」
と言ってくれた。

今、こうしてこの文章を打っていても、涙が止まらない。
普段は、忙しくて、石巻のことを思い出している間もないのだが…。
クラスの子どもたちとの会話の中に、生活の中に、自分の小学2年生の頃の思い出や、当時の友達や恩師たちの姿を重ねる時がある。
クラスの子たちも、私の2年生の頃のことをたくさん聞きたがる。
そのたびに、その夜に見る夢の中に、懐かしいふるさとの海や、四季折々の思い出がよみがえってくるのだ。
あの美しい海、砂浜、松林、校舎、校庭、お祭りの神社、港・・・・。
ああ、それが今は水底に沈み、海岸沿いは瓦礫の山、小学校は避難所、通学路の家並みは、地盤沈下の危険区域となっている。

「姉ちゃん、渡波がすっかり片付けられる前に、その目でしっかり見て来いな。」

見て来るだけでなく、しっかりビデオに撮って来て、クラスの子どもたちに被災地の現状を見てもらおうと思う。
あの子たちが私の年になるまでには、必ず起こるであろう震災に備えて。
そして、しっかり供養をしてこようと思う。友人、恩師、知人、故郷の町を・・・。
梅雨明けの猛暑の中で、必死に生き、町の復興に頑張っている故郷のみんなを応援してこようと思う。


明日は、51歳の誕生日を迎える。
もし、私が上京せずに、地元で頑張り続けていたら、私はあの日でこの世にはいない人間だったのかもしれない。
50歳の誕生日を迎えることができなかったたくさんの同学年の人たちのためにも、どんな困難なことも、辛いことも乗り越えて、頑張って生き続け、出会う人たちを、日本を元気にしていかなくてはならない。
そして、我が子達をはじめ、未来を背負っていく子どもたちに本当の『生きる力』を率先垂範して行かなくてはならない。

それが、51歳から先を生きていく私の『努力目標』だ。



追記

現在、20:32
今日は、上記の日記を描いてから、今まで辛くて直視できなかった3月11日の記事や画像、映像をネットで見続けてきた。

私の中でいまだに受け止めきれず、心の整理がつかない出来事。
それは、まだ、現地に行っていないせいでもある。
私の頭ん中には、まだ、平常時の故郷の映像の方が鮮明だから。

見終わって、まさに津波に襲われている壮絶で恐ろしい映像や、直後の痛ましい凄惨な画像、あれから4カ月がたとうとも、いまだ電気もが図も水道も復旧していない地域で必死で頑張っている人たちがいると言う現実を突きつけられた。

そして、それは、けして、他人事ではない、近い将来の自分たちの姿だと言うことを心しておかなくてはならないと思った。

いろいろな人たちのコメントの中に、石巻の人たちの言葉を紹介してあるものがあった。
「この現状を、ありのまま、日本中の人たちに伝えてください」

私にできることは何か。
ずっとそれを考えてきた。
教師として、母として、宮城県出身者として。

震災は今も続いているのだ。
毎日のように地震は続き、台風や大潮の度に冠水し、地盤沈下を起こしている地域もある。
塩水を被った田畑、町ごとなくなった地域、沈んだ瓦礫にスクリューが絡むために船が出せない港町、物資が全く行き渡らない道路も寸断された地域・・・。

仮設住宅に入れず、体育館で避難所生活をしている幼なじみ。
せっかく助かったのに、助かったことを悔やみ、生きる希望を持てない人たちもいる。
「死ぬも地獄、生きるも地獄だよ」
「今度、地震や津波が来る時は、家族がみんな一緒の時がいいなあ。死ぬも生きるも一緒の時がいい。親を亡くした子供は本当にかわいそうだよ」

3月から故郷との電話は、辛い話ばかりだった。
その中で。
石巻の川開きの話は、遠く離れて涙にくれている私をも励ます明るい話題だった。
海があっての石巻。
北上川は、石巻のシンボルだ。
故郷のみんなが泣きながら片付け、盛り上げ、石巻再興の出発点にしようと頑張っている川開き。

悲惨な現状だけでなく、町自体が一生懸命立ち上がろうとしている姿をしっかりと目に焼き付けてこようと思う。
そしてその様子を、このHPでも紹介し、学校に帰って、子どもたち、先生方、保護者、地域の方々にも知らせよう。
被災地には、これからも継続的な支援が必要なんだと言うことを。
この痛ましい被害を風化させず、そこから学び、これからに活かせる多くの教訓を学ばなければならないということを。


50歳最後の日に、自分の原風景故郷の被災の現状と向き合い、どこかで「直視」から逃げていた自分に喝を入れてくれた画像と歌を紹介する。
石巻で泣きたくなったら、この歌を思い出して、私も踏ん張ろうと思う。


http://www.youtube.com/watch?v=MVKWtxXtZ3E&feature=related

山下清 展 ~千葉県立美術館~

2011-07-11 01:45:00 | 徒然なるままに
7月10日(日)

今日は、千葉県立美術館で『山下清 展』を見てきた。http://www.chiba-muse.or.jp/ART/special/110528yamashita/index.html

放浪の天才画家として有名な山下清画伯は、東京浅草に生まれた。
3歳でひどい消化不良の後遺症から、言語障害と知的障害になり、小学校に入学後は障害をバカにされてひどいいじめに遭い、暴力的な犯行をするようになってしまう。
その後、千葉県の八幡学園に入学し、園長先生の勧めで貼り絵と出会い、徐々にその才能を開花させていくのである。

展覧会では、学園時代の貴重な貼り絵作品から、代表作までたくさんの作品が展示してあり、それを描いた当時の日記も紹介してあり、とても興味深かった。

会場では、昭和32年当時の記録映画も上映されており、あの緻密な貼り絵がどのようにして制作されているのか制作風景や、画伯の声で語られる作品への思いは、感動的だった。

今回は、貼り絵の他に、下書きなしでいきなり描いたとは思えないサインペン画も数多く展示されており、力強さと緻密さ、大胆な構図と繊細なタッチが入り混じり、とても迫力があった。

また、後年、陶芸の絵付けでも才能を発揮した作品も展示してあった。

とにかく、八幡学園を逃げだして放浪の旅に出るなど、本格的な美術の勉強などしていないにもかかわらず、印象派を思わせる色使いや、正確な立体表現や奥行きの出し方には驚いた。何より、記憶力の良さと根気強さには脱帽しかない。


人間不信で、虫だけが自分の味方だと思い、虫の貼り絵ばかりだった清少年が、学園にまじり、自己表現手段としての貼り絵を習得し、旅から帰るたびに自分を温かく迎えてもらい、見てきたこと、感じてきたことを自由に画面いっぱいに表現する。

八幡学園との出会いが、天才・山下清を誕生させ、次々に作品を誕生させる『居場所』と『自己肯定感』そして『達成感』を与え続けてきたのだと思う。

そして何より、山下画伯の才能にいち早く気がついた安井曾太郎との出会いや、放浪中の画伯を捜索願を出してまで彼の才能を世にアピールしてくれた、アメリカの雑誌『ライフ』があってこそ、彼の絵は世の認める名画となっていったのだ。

今回、この目であの貼り絵でできた原画を見、まさに『天才・山下清』に感動した。この感動は、印刷物を見ただけではでは味わえない。

と同時に、彼の絵を保管していた八幡学園、傷みや退色を修復したプロジェクトの努力には頭が下がる。

今日は、とにかく目の保養と作品から発されるオーラをたくさん浴びて、実に充実した気持ちで帰ることができた。

またどこかで『山下清展』をやることがあったら、ぜひ出かけていきたいと思う。


最後に、今日7月10日は、40年前の1971年(昭和46年)7月10日に画伯が脳溢血で倒れた日であり、明後日12日は、氏の命日にあたる。
ご冥福をお祈りする。

神田香織 立体講談『はだしのゲン』を聴いてきました。

2011-07-10 13:00:00 | 徒然なるままに
7月10日(日)

昨日9日、講談師・神田香織さんの立体講談『はだしのゲン』を聞いてきた。

『はだしのゲン』は、中沢啓治による、自身の原爆の被爆体験を元にした漫画だ。
原爆投下前後の広島を生きる主人公中岡ゲンは当時9歳。
映画やアニメ化もされたが、講談で聴く『はだしのゲン』は、映像はないのに、ゲンたち親子の仲睦まじさや、親子の絆、子どもたちのい聞きとした姿、原爆の恐ろしさ、過酷な状況を生き抜こうとするゲンと母のたくましさが、迫力のある語り口で、生き生きと描かれていた。

特に、被爆直後の街の情景や、焼けただれた人々の描写は、鬼気迫るものがあった。

神田さんが講談の前にもお話しされていたが、日本の話芸の『落語』は笑いを提供し、『浪曲』は涙を誘い、『講談』は庶民の声、特に怒りを代弁する。
TVもラジオもインターネットもない時代に、命がけで現場を見てきた人が、その状況をつぶさに報告したことから発展して行った講談。
戦記物や英雄伝には誇張がつきものかもしれないが、聴く人の想像力を高めさせ、説得力のある話芸は、メディアなどにはない迫力がある。

つい、さっきまで、当たり前にあった生活や未来を、命を一瞬のうちに奪われてしまった人たちの怒りや無念を、講談という話術で、今の時代の人に思いを代弁する。
私の隣の席に座っていた中学1年生の男の子が泣きながら聞いていた。

ゲンに妹が生まれたところで講談は終わった。
公演が終わってから、
「私はその少年に、このお話には続きがあるのよ。学校の図書室に『はだしのゲン』というマンガが必ず置いてあるから、ぜひ、読んでみてね」
と言った。

ロビーで著書をサイン販売していた神田さんに、購入した本にサインをしてもらいながら、挨拶をした。
「私は、以前、同じこの会場で神田さんの『はだしのゲン』を公演された時のチラシを担当したものです。今回は、当時はまだお腹の中にもいなかった娘と聞きに来ました。
娘は8月7日生まれで、自分の誕生日を嫌っていました。毎年、戦争の話ばかりが放送される8月が嫌いで、戦争の話や映画を極力避けてきました。
でも、私は娘に『はだしのゲン』を聞かせたかったのです。
最後に、自分と同じ誕生日の赤ちゃんが生まれるシーンを、娘はどう感じたでしょう?
今日はありがとうございました。」
それから、ご実家がいわき市だと言う神田さんに、
「私の実家は、石巻です。」
と言ったところ、手を握って、石巻でも公演したこと、お互いに、被災地出身だけれど、自分にできることで故郷を応援すること、頑張ることを語り合った。

帰り、娘と蕎麦屋に入った。
娘は何も言わなかったが、とても穏やかな顔をしていた。

祖父母が住む津波の被害にあった石巻と、原爆投下後の広島がリンクしたのだろうか。
ずっと避けてきた『戦争』の話を、彼女はどう受け止めたのだろう。
聴きたいことは山ほどあるが、彼女の中でじっくりと熟成し、自分から私に話をしてくるまで、そっとしておこうと思う。

ただ、私も、娘と同じ年頃の時に、同じようだったのだが、私が戦争のことをもっと知らなくてはと思った時には、一番話を聞きたかった祖父は亡くなっていたので、その時の私と同じ後悔はさせたくはないと思う。


暑中お見舞い申し上げます。*(風鈴)* カフェ再開しました~*(コーヒー)*

2011-07-10 10:04:00 | 徒然なるままに
ただいま~!*(笑顔)*久しぶりのCafeです。

暑中お見舞い申し上げます。

関東地方は梅雨明けということで、早朝からピーカンで、強い夏の日差しが照りつけています。でも、まだ朝のうちだからか、吹く風はさわやかです。

さて、先週3日に一次試験が終わりました。

結果は、7月下旬~8月初めに出ます。


ここからは、今回の受験の総括を書こうと思います。

良かった事。

・最後までモチベーションを維持して、時間いっぱい頑張れた。

・正解不正解関係なく、マークシートの回答欄を全部埋める事ができた。

・特に1週間前から、論文の書き方がわかってきて、いろいろなことが論理的に書けるようになったこと。(本番は、演習不足で十分力を発揮できなかったが)
これを、免許取得のためのレポート作りに生かしたい。


・故郷が被災地になり、新しい環境の職場で、毎日身も心もボロ雑巾のようになりながらも、1日も仕事を休まず、身体も壊さず、試験当日、遅刻もしないで、体調万全で受験ができたこと。


・一番良かったのは、同志ができたこと。
弱気になったり、挫けそうになったりすると、お互いに励まし合ったり、支え合い、触発し合える仲間がいると言うことは、最後まであきらめない、モチベーションの維持には欠くことのできない存在だった。。
この出会いは、生涯の宝だと思う。
ぜひ、いつかは結果を出して、互いの健闘を喜び合いたい。


反省点

・今回最大の反省は、実技だった。
デッサンは、1日休むと取り戻すのに1週間はかかる。3日休むと1カ月はかかる。1週間休むと3カ月はかかると言われ、美大受験の時は毎日描いていたのに…。
今年はまったく描けなかった。
前日も、本番と同じ時間を設定して描いてはいたのだが…。
モチーフのビニール袋が描けなかった・・・。
 
いや、描けなかったのではない。自分は描いていなくてもいつでも描けるという慢心、根拠のない地震と油断…要するに実技を甘く見ていたのだ・・・。
思えば、4月から小学校の担任になって3カ月、ほとんど描いていなかった。
中学校の美術講師をしていた頃は、なんだかんだ言っても、授業でもなんでも常に何か絵は描いていた。
このたった3カ月のブランクで、こんなに画力が落ちたとは・・・。

万が一、一次試験が受かったとしたら、2次試験でも実技はある。採用されれば、4月からは美術の教員だ。
描けないでは済まされない。
毎日15分でも手を動かして、取り戻さなくては!*(汗)*

・勉強不足や認識不足は言うまでもない。
どんなに過去問題で100点取れるぐらい勉強しても、去年出たところは、今年は出ない。毎年出る分野からは、同じ問題は出ないので、他県の問題などを参考にするなど、試験問題の傾向と対策が不十分だった。
専門外の専門知識の問題は書けなくても、知っている知識を思い出せずに書けないのは悔しい。
もう一度、知識の整理をして、スキルアップを図らねば。

・論文の書き方の習得が遅かった。論理的な文章の書き方の演習と、県教育委員会が求める教師像に沿った文章の書き方ではなく、自分の思いばかりを優先して書いていたことに気がついたのが1週間前だった。*(汗)*

・仕事との両立が難しかった。
小学校担任という、今までとは全く違う環境と仕事内容、仕事量で、その上、2年生という元気いっぱい、かまってオーラいっぱいの子どもたちと全力で生活して、8kgも体重が減った。
そのお陰で、70段の階段を子どもと競争してかけ上がっても、息切れはしなくなったが…。
朝8時から夕方4時まで、座れる時間が給食を食べる10分間しかなく、仕事の要領が悪く、残業し、退勤時間内に終わらない仕事を持ち帰っても、家にたどり着くなり、3秒を待たずに生き倒れ、翌朝、夜明け前に起きだしてシャワーを浴び、出勤前まで○付けと朱書きに追われ、朝食もそこそこに出勤する。
そんな過酷な日々が続き、体重は減っても身体は鉛のように重かった。
平日の勉強時間は、ほとんどなかった。
整体に行けば
「体が悲鳴を上げていますよ、もっと体をいたわってあげてください」
と叱られてばかりだった。

2学期は、先輩の先生方から、就業時間内に仕事を終えられるような効率の良い仕事の仕方と、疲れを翌日に残さない仕事の仕方を学ぼうと思う。



さて、夏休み*(ひまわり)*まであと10日。
暑さに負けずに、ラストスパート、頑張るぞ~!!!