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交流

ほっこりするお話

2011-09-26 15:46:00 | 徒然なるままに
9月25日(日)

朝、自治会の公園掃除に参加した時、ご実家が阪神の方と、偶然に話をする機会があった。

私が、夏休みと先週石巻でボランティアをして来たことを話すと、その方のお姉さんが、26日から仙台にボランティアに行かれるとおっしゃった。
播州赤穂市にお住まいのその方のお姉さんが、発起人となり、着古したセーターをきれいにしてほどき、一人10足の靴下を編んで、200人で2000足編んだ靴下を持って、仙台の被災者の方々に、手渡しで届けに行くのだそうだ。

最初は、仲良しの方たちと、自分たち高齢者でもできるボランティアはないかという茶飲み話から口コミで伝わり、200人を超す参加者が集まったそうだ。
阪神大震災の経験から、一次的な支援ではなく、長期にわたっての支援が必要なのだと言うことで、今年は仙台。来年は釜石。再来年は、陸前高田。というように、継続して仮設住宅の人たちを励ましに行こうと言うボランティアなのだそうだ。

高齢者がはいても滑って転ばないように、ちゃんと滑り止めも縫い付けたのだそうだ。
支援物資として送ると、どこかの倉庫で眠らされてしまうから、自分たちで、避難所や仮設住宅を一軒一軒回って、手渡しするのだそうだ。
買ったものではない、一目一目に心を込めて、復興を祈願して編みあげた靴下は、どんなに温かいことだろう。
話を聞いていた時もそうだが、これを打っている今でも、私の心も目頭も熱くなってくる。

阪神の方々や、中越の方々の支援は、同じように大震災を経験した時の教訓が生かされ、本当に的確で、きめが細かい。
そして、本当の現実の厳しさをよくご存じだと思う。
『長期に渡る支援が必要』
これは、物資の配給や、瓦礫撤去などではない。
『孤独死』を出さないために、自治会づくりの支援や、親を亡くした子どもたちへの就学援助、仕事を亡くした人たちへの就職支援、二重ローンを抱えて苦しい人たちへのファイナンシャルプラン、家族を亡くした人たちへの傾聴ボランティア、車を失くし交通手段がない、持病を持ったお年寄りへの訪問看護、などなど…。


     *(紅葉)*      *(紅葉)*     *(紅葉)*     *(紅葉)*     *(紅葉)*

先日の『無事だった人同期会』で、故郷の石巻高校出身で、ご実家は女川にあった中村雅俊さんの『ふれあい』という歌をみんなで歌いながら、まるで、今の故郷の人たちのために歌ったような歌だなあとしみじみ思った。

これからの支援のテーマは、『ふれあい・ぬくもり』だと思う。

http://www.youtube.com/watch?v=SuHzH05ygzE&feature=related


石巻ボランティア、第2弾 今の被災地に必要なものは・・・。

2011-09-25 21:44:00 | 徒然なるままに
9月24日(土)

9月19日の午前中、石巻でボランティア活動をして来た。
今回は、『傾聴ボランティア』をすることになっていたのだが、当日、相手のおじいさんが、疲れてお休みになっているということだったので、急遽、救援物資の仕分けや運搬、解体予定の建物の中から、まだ使えそうなものの運び出しなどの手伝いをした。

最後に、石巻市立湊中学校のボランティア活動をしている拠点にお邪魔して、東日本大震災の復興祈願仏画制作に参加させていただいた。
横浜からボランティアにいらしてくださったKEIさんが、各地でボランティア活動をしている方々や被災者の方々に描いていただいた仏画で、日本列島を埋め尽くすという壮大なスケールの仏画だった。


photo by toliton717 from OCNフォトフレンド

2:46地震発生時のまま時を止めてしまった電波時計と、復興のシンボル・フラワーひまわり
昇降口の1階の天井まで水に浸かったことが分かる。


photo by toliton717 from OCNフォトフレンド

震災直後から炊き出しをしていた『みなと食堂』が閉店した時に植えた、『旅立ちの木・絆』と名付けられた桜の記念樹
この桜が大きく育って満開の桜を咲かせる頃には、この学区の人たちの生活も元通りになっていますように…。


photo by toliton717 from OCNフォトフレンド

山梨県の仏画師の安達原千雪様の仏画を参考に、日本列島全部に復興祈願の仏画を制作しているところ。

今回のボランティアを通して感じた事は、活動内容がずいぶん変わってきたことだ。

被災地は、半年経って、津波に遭わず、ほぼ通常の生活を取り戻せた地域と、あの日のまま手付かずの状態で、瓦礫撤去、解体を待つだけの地域とでは、天と地ほどの差があると言うこと。
未だに避難所暮らしの被災者の方もあれば、半壊状態の家で暮らす人、住みなれた街を離れ、仮設住宅で過ごす人・・・。
普段の生活に戻ったとしても、未だにあの震災を現実のものとして受け入れられない感があり、秋になって、体のだるさや、疲れを感じるようになっているらしい。
ましてや、家族も家も、仕事も失ってしまった人たちの、絶望感や孤独感、不安や『助かった』ことへの罪悪感など、心の傷は未だ癒えない。

そして、そんな過酷な状況で、粉骨砕身、手弁当自腹を切ってはるばるボランティアに来てくださっている、特に震災直後の3月からずっと活動をしてくださっている方ほど、かなり心が疲弊してきていると感じた。

それにはいろいろな要因があるとは思うのだが、一番は、ボランティアを『道具』やただ働きしてくれる便利な人たち、使いっぱしりぐらいにしか思わないようなぞんざいな態度で依存している被災者の人たちがいることだ。
やってもらって当たり前。
救援物資はもらって当たり前。足りないと文句を言う。
我がままで、自己中心的な人たちに、いいように利用されて、疲れが倍増している実態がある。

そんな我儘な人たちも、本来の平常時だったら、「お陰さまで」、「困った時はお互いさま」、何か頂いたら空の入れ物では返さず、気持ちばかりのお返しをするなど、今の日本人が忘れている温かい感謝の気持ちの表し方を知っているはずの人たちなのだ。
人の善意や、誠意をちゃんと受け止め、感謝の気持ちや態度を表す、こんな当たり前のことが、こういう非常時ではできなくなっているのだろう。
心に余裕がなく、将来への希望もビジョンも持てず、不安で、気が回らなくなると、心がささくれて心ない、周囲の人たちへの配慮の足りない言葉を投げてよこしたり、優しくしてくれる人に当たったりしてストレスを解消するようになるのかもしれない。



長期でボランティアをされている方は、時々は、普通の自分の生活の場に戻り、本来の自分の心と体の健康を取り戻して、リフレッシュするべきだと思った。
また、たまったストレスを上手に抜くために、ボランティアのためのカウンセリングボランティアが必要だと思った。
心に余裕のない人たちによって傷つけられたボランティアの人たちに、感謝の気持ちを伝え、労り、励ます、地元の本当の声を代弁する声かけが必要だ。


石巻ボランティアセンターが、近々閉鎖すると聞いた。
被災地の自立を促すためということらしいが、逆に、これから長期にわたって、さまざまな形の『支援』が必要になってくる時期なのではないだろうか?

『傾聴ボランティア』には、高齢者の言葉を理解すための、『通訳』的なボランティアも必要だ。


『復興』は、ライフライン、交通の復旧、建物解体、ヘドロ出し、瓦礫撤去など、力仕事の段階から、メンタル面のケアが重要になって来ている。

被災者の心の復興には、『傾聴』と『自立支援』と『仕事』が必要だと思った。


『頑張れ、石巻』ではない。頑張るのは、被災地以外の日本人だ
やっと立ち上がって頑張っている人たちを応援しよう!。
被災地の農産物、銘菓など、何でもいい、震災復興支援商品を買おう!
義援金に協力しよう!
被災地に出かけて行って、食べたり、泊まったり、商品を買って、お金を使ってこよう!
そして、『差別』はやめよう!
たまたま、東日本が震災にあったのだ。
たまたま、福島原発がそこにあって爆発が起きたのだ。
明日は、我が身だ。
日本中、どこで地震、津波が起きてもおかしくないのだ。
自宅にいつ戻れるかわからない、着の身着のままで避難してきた福島の人たちを差別しないでほしい。
空き家になった家を荒さないでほしい!!

石巻は頑張っている。泣きたいのを泣かないで、笑い飛ばして、カラ元気で頑張っている。
あれだけ悲惨な目に遭ったことが、今でも現実感が伴わないのだと言う。
これは現実ではなく、まだ悪夢の中にいて、目が覚めたら、いつも通りになっているかもしれないと思ってしまうのだと。
身近な人たちが亡くなったこと、
帰る家も街もなくなったこと、
去年までと同じように迎えるクリスマスもお正月もけして訪れないこと、
そこにあった『当たり前の生活』が、本当の幸せだったこと
それを思い知らされる現実が、事あるごとに訪れては、胸をえぐられるよな、身を斬られるような思いをするのだろう。
11日を迎えるたびに、「あれからちょうど○か月…」と、2;46になるたびに、黙祷しながら、あの瞬間を思い出すのだ。
こんな辛い思いを乗り越えるのに、どれくらいの時間と支援が必要なのだろう。
生き残ったことを悔いることなく、これだけのことを体験して生き残ったのだから、生きられなかった人の分まで、幸せになることが、生かされている意義だと知ってほしい。

お彼岸を過ぎると、石巻は一気に寒くなる。
心がほっこりするような温かい心のやり取りが、被災地に広がっていくことを祈る。

『人生の扉』

2011-09-23 18:25:00 | 徒然なるままに
9月23日(金)

台風一過、秋晴れの1日だった。
でも、身体は動かず、休日出勤も、陶板浴にも行かずに、1日じっとしていた。

起きた時間は、8時半。いつもなら1時間目が始まる時間だ。
身体が、ゴキブリホイホイの粘着シートに貼り付けられているみたいに金縛りにあったみたいに動かない。

枕元の携帯電話から、メールやら電話が入り、しゃべったり、返信しているうちにだんだん覚醒してきた。

昨日、校長先生に
「連休は身体を休めなさい。疲れていては、笑顔もなくなり、いい授業ができませんよ」
と言われた。

8月の末からピーンと張って、張り詰めてきた糸が昨夜、切れた。

切れた糸は今のところ1本で、それは、いい意味での決壊だった。
おかげで、体重の半分ぐらいいが軽くなった思いだった。
「一人で頑張らないで。気づいてあげられなくてごめんね。苦しい時は、頼っていいんだからね。あなたのせいではないんだからね。一緒に頑張ろう」
職員室で、そう声をかけてもらった時に、一気に涙があふれてきた。
今、これを書いていても、涙が止まらない。

大変な時には、大変なことが重なって起きるものだ。
これを試練と言うなら、
「神は乗り越えられる試練を与える」
という言葉を信じて、前に進むしかない。
今までも、そうしてきた。
でも、今回は、自分の力ではどうしようもない『困難』『試練』が津波のようにこれでもかと押し寄せてくる。
想定されたことでもあり、自分だけが困難を抱えているわけではないのはわかっているが、精神的にも、肉体的にも、かなりキツい。


でも、そんな時、暗闇に一筋の光のような『言葉』が、私を救ってくれる。
今日も、朝から友人たちからのそういう言葉に励まされた。


先日、運動会が終わったその晩の夜行*(バス)*で石巻に向かい、翌日参加した『無事だった人同期会』は、ボロボロの私に、喝を入れてくれ、16~18歳の頃の若さとパワーをよみがえらせてくれた。
370人の同期生のうち、74名の参加だった。
50歳~51歳という、参加したい気持ちはあっても、そうそう家を簡単には空けられない主婦や、責任ある仕事を持つ世代であり、あれだけの震災、津波の被災者で家も流された人たちが多い中で、幹事たちや先生方もこんなに集まってくれるとは思わなかったとおっしゃっていた。

現時点で亡くなったことが分かっている同期生は2名いらっしゃった。
その被災時の様子は、あまりにも壮絶で、痛ましかった。
心よりご冥福を祈ります。

亡くならないまでも、九死に一生を得た恩師・友人たちの話は、本当に想像を絶するものだった、本当に、よく生きていてくれたと、抱き合って泣いた。

1次会では、恩師の先生方が、被災したわけでもない私を励まし、いたわってくださり、恐縮した。
私が送った暑中見舞いに、石巻でボランティアをしたことを書き送ったからだろうか。
ありがたかった。
先生方のご無事を喜び、ますますのご活躍とご健康をお祈りいたします。

3次会では、みんなでカラオケで10代の娘になって若返り、盛り上がった。
最後に、友人が紹介してくれた、竹内まりやの「人生の扉」を聞き、今度の55歳の同窓会まで、みんなでこの歌を覚えて来て歌おうと誓った。


   人生の扉


春がまた来るたび 一つ歳を重ね
目に映る景色も  少しずつ変わるよ
陽気にはしゃいでた 幼い日は遠く
気がつけば五十路を 超えた私がいる
信じられない速さで 時は過ぎ去ると 知ってしまったら
どんな小さなことも 覚えていたいと 心が言ったよ
I say it's fun to be 20
You say it's great to be 30
And they say it's lovely to be 40
But I feel it's nice to be 50

満開の桜や 色づく山の紅葉を
この先いったい何度 見ることになるだろう
ひとつひとつ 人生の扉を開けては 感じるその重さ
ひとりひとり 愛する人たちのために 生きてゆきたいよ
I say it's fine to be 60
You say it's alright to be 70
And they say still good to be 80
But I'll maybe live over 90
君のデニムの青が 褪せてゆくほど 味わい増すように
長い旅路の果てに 輝く何かが 誰にでもあるさ

I say sad to get weak
You say it's hard to get older
And they say that life has no meaning
But I still believe it's worth living
But I still believe it's worth living

http://www.youtube.com/watch?v=5pkgLhu3XAg&feature=related

この歌が使われているCMの映像です。
http://www.youtube.com/watch?v=DEqk08OGwD4


同窓会から帰って来て、今度は、敬老の日に石巻のじいちゃんばあちゃんに震災以来初めて会いに来た息子と、居酒屋に行った。
いろんな話をしながら、息子とこういう話をするようになったんだなあと、彼の成長ぶりを頼もしく、まぶしく思った。
我が家の今後について話しながら、
「あなたたち3人に出会えたこと、私の子どもに生まれて来てくれたこと、こんなにいい子に育ってくれたことをうれしく思うよ。感謝している。」
と言ったら、息子は目をしばたかせていたっけ。
「ママは、もう十分頑張ってきてくれたよ。これからは、自分の人生を生きて。」
これは、去年、50歳の誕生日の時に、長女にも言われた言葉だった。

*(音符)*But I feel it's nice to be 50

51歳になって2カ月。なんと濃い2カ月だっただろう。
まさにこれからのパワーの源になる出会いをたくさん経験した。
これから、もっともっと厳しい現実や過酷な運命が待っているだろう。
大変さ比べをしているわけではないけれど、みんなだって頑張っていることが私の励みであり、私の元気がみんなの元気の素になっているらしい。

『ピンチをチャンスに!』


「忙しい」とは、心を亡くすと書く。

「慌ただしい」とは、心が荒れると書く。

彼岸を過ぎて、寝苦しい夜も去り、日に日に長くなっていく夜には、心穏やかに過ごしたいものだ。

子どもたちの前で、いつも笑顔で、元気でいるために。
記憶に残るいい授業をするために。
28人全員が私のかわいい生徒たち。健気で愛しい私の宝物たち。

『心と体を休めることも仕事』ですね。
この連休に、しっかり睡眠と栄養を取り、診察も受けて、ちゃんと心身のメンテナンスをして充電しておかなくっちゃ!


長くなったので、翌日のボランティア活動報告は、別件で書くことにします。

震災半年・・・。『ひまわり』*(ひまわり)*のように…。

2011-09-11 10:34:00 | 徒然なるままに
9月11日(日)

今日で、東日本大震災から半年が経つ。
朝から、TVで震災の特集が流れている。
夏休みに、私がボランティア活動で草取りをした日和山からのNHKの放送を見た。
いまだに地盤沈下で大潮の度に浸水して、復興の目途が立たない石巻新漁港で、再建に向かって頑張っている人や、何もやらないでいては落ち込むだけと、床屋業を開始した人、企業の支援を受けられると知り、硯職人たちが地元の特産の硯石を削り出した様子を紹介していた。。

売るものが何もなくなった洋服店では、オリジナルTシャツを売り出した。そこに書かれているのは、
「おだづなよ、津波」(ふざけるな、津波)
津波なんかに負けない!という、意地と気概があふれ出てくる。
逆に津波をネタにして、それを踏み台にして立ちあがって行こう!
その売り上げで、みんなに、秋冬物を提供してあげたい。
そのお店の方の
「今からです!」
という、力強く、ギリギリのところで踏ん張っている言葉に、心から応援したいと思った。

岩手の『かもめの玉子』の社長さんや、女川のかまぼこ工場『高政』の社長さんも、被災直後の食料のない時に、自社工場も被災しているにもかかわらず、在庫の商品を避難所に届けて回ったそうだ。
渡波の洋菓子店『エクレール』の、
「地域の人たちに育てて頂いたお店です。遠くにバラバラに避難されていったみなさんが、この町でまた頑張ろうと思って、みんなが戻ってこられるように、瓦礫に中で頑張っています」
と、店内をきれいに片づけ、店を再開した言葉にも、すごく励まされた。

震災直後から、石巻をはじめとして、各被災地では様々なボランティア活動が展開されている。
日本各地から、世界各国からたくさんのボランティアの方たちが駆け付けてくださり、中には長期滞在してくださって、被災地の復興に尽力してくださっている。
そういう方々と一緒にボランティア活動を一緒にしてみて、みなさんのその志の高さと、豊かさと、優しさには、本当に頭が下がり、感謝の気持ちでいっぱいです。

番組の中で、家を流され、家族を亡くし、仕事も失って、帰る場所もなく、仮設住宅で避難生活を余儀なくされているお年寄りのお話を聞く、心のケアのボランティアをしている愛知県の若者を紹介していた。
被災者の方は、
「○○君が来てくれるのを楽しみにしているの。○○君が来てくれると、元気になるの」
とおっしゃっていた。

今、被災地が求める支援とは。
今、私たちができる支援とは。
今、自分たちがしなければ、考えなければならないことは。

今日は、各被災地では、たくさんの催しが行われると聞いている。
一方で、未だ行方不明の家族をあきらめきれない方々も、今日を仮の葬儀の日とされるご家庭も多いと聞く。
どこかで気持ちの『区切り』を付け、前に進むためにも、今日一日が、全ての被災者の方たちのための大切な『一歩』を踏み出せる日となりますように…。

私ごとになるが、私自身も、震災から半年、『心の震災』を抱え、この度、また大きな『余震』に遭っている。
9年前にも起きた『心の震災』から、少しずつ立ち直ってきたところに、また再び襲ってきた『震災』。
でも、この夏、帰省し、ボランティア活動に参加できたおかげで、故郷で出会ったいろいろな人たち、震災から復興しようと頑張っている故郷石巻自体から、私はたくさんの元気と勇気をもらってきた。
9年前は、今よりも若く、時間も行動力もあったが、今は年もとり、時間が全くない。ただ、幼かった子どんたちも成長し、私には職業がある。
被災地の同級生達を想ったら「大変」の「た」の字も言えない。

人生の中で、『区切り』は大切だ。
明日へ一歩踏みだすために、『過去』を引きずらないこと、『見切り』を付けること、『ピンチ』を『チャンス』に変えるプラス思考で、とにかく前進あるのみ!
落ち込んでいると、顔も老けこみ、食欲も落ちて、身体もガタガタになり、気力も体力もどんどん落ちて来る。
起き上がることもできず、立ち上がる力も踏ん張る力もなくなってしまう。

♪苦しいこともあるだろさ
 悲しいこともあるだろさ
 だけど僕らはくじけない
 泣くのは嫌だ 笑っちゃおう!
 進めー! 

頭の中を、今日も『ひょっこりひょうたん島』のテーマ曲がぐるぐる回っている。

『おだづなよ!津波!!』

私も、「今から」です。

『負げねど、頑張る 明日を夢見て』

来週の『無事だった人同窓会』には、なんとしても参加して、被災地で頑張る同級生たちを励ましに行きたいと思う。

夏は終わってしまうけれど、心の中にはいつも、塩害に強く、放射能まで吸収して元気に咲く『ひまわり』のように、見る人を元気にするような、凛とした気持ちを忘れずにいたい。

『ひまわり』は、復興のシンボル・フラワーなのだそうだから。


『頑張れ』という文字を『顔晴れ』と書くと言うことをおっしゃっていた方がいらっしゃった。

「顔晴れ!」という人の顔が笑顔であれば、言われた人の顔も笑顔になるのでは?

子どもたちの屈託のない笑顔に、どれだけ励まされ、癒されることか。

笑顔のあるところには、活気がある。
活気が生まれれば、元気が出る。
元気が出てくれば、やる気が出てくる。
やる気が出てくれば、やることが出てくる。
やることをやっているうちに、気持ちの整理がついて来て、できることが増えてくる。
一人ひとりのやる気とできることが増えて行けば、きっとみんなで、今よりももっとましな明日へ近づくことができる。
未来は、今日の延長線上にあるのだから。

calling ~天命・召命~

2011-09-04 12:20:00 | 徒然なるままに
9月3日(土)

朝、起きがけに、うつらうつら夢を見ていた。
夢の中で、なんだかすごく納得できたような気がした途端、バチッと目が覚めた。
夢だったのか、と思うより、探していた最後の絵札が見つかったとたん、全部の絵札がパーっと次々ひっくり返って、1枚の絵が完成するような、1つ1つバラバラだったビーズが、最後のビーズをつなげたとたん、一連の首飾りが出来上がったような、爽快感があった。

どんな夢だったのかというと、夢の中で、私は、今回の帰省で見聞きしたことや、ボランティア活動の体験をどうまとめようかと悩んでいて、いろいろなことを試みていた。
そのうち、そこは誰もいない体育館の舞台で、私は、自分が見聞きした様子を、私が撮ってきた画像をバックに朗読劇のような一人芝居をしていたのだ。

装置は何もない。
ただ、一人で、あのとき起きた地震の恐怖を、小学校の屋上に逃げて津波から子どもたちを守った友人の話を、舞台で再現していたのだ。

震災・津波当時の怖さだけでない、子どもたちが元気で当たり前に生活していた頃を明るく再現し、今現在の子どもたちの様子を代弁し、未来の視点でこの震災を振り返る姿を。自分で書いた脚本に、自分で動いてみてはあーでもない、こーでもないと試行錯誤して自分で演じているのだった。


去年は秋に、広島の被爆者の手紙をまとめた読劇『あの夏を忘れない』を中学生たちに、国語科、図書館司書、演劇部の顧問で上演した。
夏休みに、「ヒロシマ」をテーマに、いろいろ調べたり、朗読劇『この子たちの夏』を見に行ったり、堀絢子さんの一人芝居『朝ちゃん』を見に行ったり、戦争を忘れない、2度と戦争を起こさないための活動や授業を一生懸命考えて取り組んだ。

そして、今年、3月に故郷石巻が被災地になってしまった東日本大震災が起きた。
私は、故郷で、あの日一体何が起きたのか、いまだに続いている惨状を、温度差のある、風化しつつある故郷から離れた地でどう発信し続け、故郷で頑張っている人たちに、どんなエールを送るのか、あの地震が起きた日からずっと考えてきた。

絵を描く、文を描く、話す、演じる、歌を作る、現地で泥出しはできなくても、被災した人たちと話せなくても、私にできるボランティアはいろいろあるはずだ。

今、クラスの子どもたちにいろいろな場面で、私が伝えたいことを話している。
皆、真剣に聞いてくれる。
この子たちの記憶に残る話をしてあげよう。
自分が私の話の中で、あの恐怖を疑似体験し、私の話の中で、未来に希望が持てるような気持になれるお話をしてあげたい。
それはきっと、実際に怖い思いをし、未来に絶望した子どもたちへのエールになるのではないだろうか…。

ボランティア活動をしていた時、阪神から来ていた青年が、
「僕が阪神大震災を経験した時は小学校低学年でした。家も家族も無事だったので、学校が避難所になって、休みになっていた時は喜んでいました。
でも、大人になるにつれ、どんなことが起きたのか、あの時にどれだけ自分たちは日本中の人に助けられたのか分ってきました。そして、いつかどこかで災害が起きた時に、今度は自分がかけつけようと心に決めていました。
それで、東北で地震があった時に、あの時の恩返しができると思ってボランティアに来ました。」
と言って、人一倍責任感が強く、一生懸命働いていた。

私は、いつか千葉にも起きるかもしれない災害に備えながらも、自分たちが大きくなった時には、私や私の話を思い出して困っている人を助けに行ってくれる教え子が一人でもいたら、本当にうれしいなあ・・。
危険も伴うことでもあり、ボランティアはけして強制ではない。
気持ちがあっても、スケジュールの問題だってある。

初日に担当した家の泥出し作業を見ていた隣の家のおじいさんが、
「今は、自分の家のことでいっぱいいっぱいだけど、落ち着いたら、その時、日本のどこかで同じような災害が起きたら、今度は自分が手伝いに行こうと思う」
と言ってくれたことがうれしかった。


私の小学校2年生の頃の記憶は、いつ、だれとどんな話をしたのか、誰とどこに行ったか、クラスのみんなでどんなことを話したり、遊んだり取り組んだか、断片的ではあるが、オールカラーのフルネームで鮮明に思い出すことができる。
それだけインパクトが強かったのだろう。
私も、子どもたちが10年経っても、20年30年経っても覚えているような、記憶に残る授業をし、2年生の担任の先生がこう言ってたんだよなあと覚えていてくれるような先生でいたい。


子どもたちに、何をどう伝えるのか。

今まで、絵を描いて来たこと、アニメの仕事をしていたこと、芝居をしていたこと、人形劇をしていたこと、教師をしていること、母親であること・・・。いろんなことが、全部今につながっている。

そして、私は、これからどうしたいのか、どう生きたいのか。

夢の中で、私は、ストンと心に何かが落ちたような、頭に何かが降りてきたようなそんな感じで目が覚めたのだ。
身体の底から何か湧き出てくるような感じ。
毛穴という毛穴からアイディアが噴き出してくるようなピリピリと発火している感じなのだ。
まだ漠然として、形を成さないのだが、それを形にするには、まだまだ足りないものがたくさんある。
その足りないパーツを慎重に、かつエネルギッシュにかき集めながら、早く形にして、微力ながらも故郷復興の力になりたいと思う。


『キツネとぶどう』

2011-09-04 06:02:00 | 徒然なるままに
9月2日(金)

今日の道徳の時間に、『キツネとぶどう』(坪田譲治・作)の学習をした。

お腹をすかせた子狐のために、母狐が命がけでブドウを取りに出かけ、苦労してようやく巣まで戻ってきたのに、漁師に打たれてしまう。母狐が残したブドウの実が、やがて、大きなぶどうの木となって、古巣に帰ってきたかつての子狐が、母の愛情に気がつくと言うお話。
http://www.city.okayama.jp/museum/tsubota-joji/dowa_01.html

親は、自分が食べなくても、子どもに食べさせるために、一生懸命なんだと言う話をしながら、先の東日本大震災の避難所での話をした。

命からがら避難所に逃げてはきたものの、食料も水もなく、二日間で配られた食料は、あめ1個。その後ようやく支給されたおにぎり1個をめぐって、大の大人が殴り合いのけんかだったそうだ。それは、自分が食べたいからではなく、おなかをすかせた子どもに食べさせたくて・・・。
赤ちゃん連れのお母さんたちはもっと大変だった。ミルクもおむつもないのだ。
避難所の小学校の屋上に、いろいろなものを集めて、「SOS!ミルク」と書いたところもあった。
携帯電話がつながるようになって、全国から粉ミルクが送られたが、道路は寸断、瓦礫が沈んでいるうえ、余震が続いて津波の危険があり、船も近付けない。
ヘリコプターは、けが人の搬送に忙しく、食料を運ぶ余裕がない。
飲まず食わずの状態で、暖房もなく、ヘドロの海を泳いで助かったものの、風呂にも入れない状態で、せっかく助かったのに、ノロウィルスや風邪で亡くなった人もたくさんいたのだそうだ。

子どもたちに、なんとか食べさせてあげたい。温かい物を食べさせてあげたい。
清潔な服を着せてあげたい。
大人たちは、一生懸命だった。
津波で家族を亡くしてしまった子どもたちに、先生方も一生懸命だったと言う。

8月22日から2学期が始まり、ようやく、給食が始まったのだそうだ。
みんなと一緒に食べられる温かい給食。
3月11日までは、当たり前に食べられていた給食が、給食センターも津波で壊されてずっと給食がなかったのだ。

みんなでそろって食べる給食はどんなに美味しいことだろう。
その給食も、放射能のお影響で、栄養士さんが一生懸命安心安全な食材を調達し、調理してくださっているのだ。
けして好き嫌いや、無駄にすることなく、感謝していただかなくてはならない。

子どもたちにひもじい思いをさせないよう、丈夫な身体に育ってもらいたくて、ご両親だけでなく、大人の人たちは一生懸命なんだ。

果たして、子どもたちの心にはどれだけのことが届いたのか…。

今日の給食はカレーということもあり、残飯はほとんどなかった。


キツネつながりで、『ごんぎつね』の話もした。
http://www2.saga-ed.jp/edq12801/hiranoHP/hirano-el/gongitune.html
病気のおっかさんに食べさせたくて、ウナギを捕っている兵十に、狐のごんがいたずらをして、せっかくとったウナギを逃がしてしまう。

最後に、罪滅ぼしの栗の実を届けてくれていたのがごんだと気がつかずに、兵十がごんを銃で撃ってしまうシーンでは、子どもたちはシーンとなり、
「あ~あ・・・」
と涙ぐむ子もいた。

我がクラスは、元気いっぱいでうるさいくらいなのだが、道徳や、読み聞かせ、特に、今回の震災・津波に関しての話をするときは、すごく真剣に集中して静かに話を聞く。
質問や、意見や感想も、ふざけたりしないで、一生懸命考え、応えてくれるる。

今年は、縁があって小学校の担任をすることになり、『美術』を教えられない寂しさはあったが、小学校2年生の全教科を教え、特に、『道徳』では、子どもたちに『大人になっても大切なこと』を、自分の体験談を交えながら伝える授業ができると言う機会を得たことを、本当に幸運に思う。


学校が始まったぞ~*(ダッシュ)*

2011-09-02 06:17:00 | 徒然なるままに
9月1日(木)

今日からいよいよ学校が始まった。
昨日、よりによって、夏休み最終日に熱を出し、扁桃腺まで腫れあがって、寝込んでいたのだが、病院の薬で復活し、なんとか出勤できた。

教室に入るや、待ってましたとばかりの子ども達に取り囲まれ、夏休みの報告合戦!
とにもかくにも、全員無事に登校してくれたという、「当たり前」の幸せを痛感した。
子どもたちにも、私が石巻で見て感じたことを伝え、この教室が、学校が、夏休み前の通りに「当たり前」にあって、みんなと一緒に勉強や運動会に向かって頑張れる「当たり前」の生活を、元気に頑張ろう!という話を、真剣に聞いてくれた。*(ダッシュ)*

でも、やっぱり、40日ぶりのやんちゃ坊主たちのやんちゃぶりには、声が出ない私にはきつく、今日は午前授業だったが、集めた物の整理や、昨日休んだ分できなかった明日からの準備が終わって、家に着いたのは夜10時を回っていた。

来週からは、17日の運動会まで毎日2時間ずつ体育がある。
体力のない2年生が、熱中症にならずに、疲れて勉強にならなくならないように、体調を良く見ながら元気に運動会を迎えられるように心がけなば!
そのためにも、私自身の体調管理は必須義務である(猛省*(汗)*)


石巻ボランティア日記は8月18日に千葉に戻ってきたところで、ひとまず終わったが、千葉に戻ってからも、ボランティア活動つながりでたくさんの人たちと出会い、とても励まされた。
そのことを石巻の友人たちや両親に話したところ、みんな喜んでくれた。

私は、現地に残って、ボランティア活動はできないけれど、自分が見て聞いて肌で感じたことを、たくさんの人たちに発信することはできる。
TV報道がだんだん少なくなってくると、向こうは落ち着いて来たのだろうと世間の興味関心が薄れて来る。
たしかに、現地の状況は刻一刻と変化し、ボランティアのニーズも変化してきている。
だからこそ、私達は「忘れてはいけない」のだ。
今も、あの3月11日のままの惨状のままの地域がたくさんいて、体にも心にも大きな傷を受け、いまだに行方不明の方たちがたくさんいるのだ。

9月に入り、敬老の日や、お彼岸を迎える。
昨日、石巻のボランティア活動でお世話になった人からの電話では、
「これからのボランティアは、泥出しよりも、お年寄りの話を聞いてあげると言うボランティアが必要なんです」
ということだった。
生き残った自分を責め、思い出も、将来の見通しも持てない人たちが、毎日厳しい現実と向き合って、必死に生きている。
これから、涼しくなって、夏の疲れが出る頃、ただでさえ体調が崩れやすい時に、お彼岸を迎えるのだ。
お盆まではと、気を張って頑張ってきた人たちにとっては、辛いお彼岸になることだろう。
ましてや、かわいい孫たちを津波で失ってしまったおじいちゃんおばあちゃんたちは、去年の敬老の日を思い出して、どんなに辛いことだろう。


17日の運動会が無事に行われれば、その日の夜行バスで石巻に向かい、翌日の高校の同期生による『無事だった人同窓会』に出席する。
翌日は、できればお年寄りのお話を聞くボランティア活動をしてから千葉に戻ってこようと思う。