わらび座のミュージカル『銀河鉄道の夜』を観た。
市川森一・脚本、朝倉摂・美術というのも楽しみの一つだった。
宮澤賢治研究家の三上満氏の講演会を聞き、わらび座の演出とテーマに強く興味を持っていたので、原作を何度も読んだ。
わらび座の舞台はその期待を裏切らないものだった。
主人公ジョバンニと親友カンパネルラの友情と、二人が母を思う気持ち、『本当の幸い』を探しに行こうと言う純粋な思いに胸を打たれた。
中でもタイタニック号の乗客が列車に乗ってくるシーンでの家庭教師の苦悩の歌に感動した。
最後の救命ボートに教え子を乗せたいのだが、人を押しのけ、わが子と泣きながら別れを惜しんでいる母親を押しのけ、教え子だけをボートに乗せるべきか、ともに船と一緒に沈み、教え子の母の元に旅立つべきか、若い家庭教師は苦悩の末、後者を選び、この列車に姿を現すのだ。
これから天上に行くと言う彼に、ジョバンニが『天上に行かなくたっていいじゃないか、僕たちココで天上よりももっといいところをこさえなきゃぁいけないって、僕の先生が行ったよ!』
と食って掛かるシーンがある。
その天上と神様についてジョバンニと家庭教師が議論しているところに、燈台守が(原作では博士)
「めいめいが自分の神様を本当の神様だと言うだろう。けれども、お互いほかの神様を信ずる人のしたことでも本当にいいことなら、涙がこぼれるだろう。」と言うシーンが印象的だった。
また、家庭教師と一緒に乗ってきた少女かおる子が、さそり座はなぜ赤いかと言う神話を切々と話すシーンも美しかった。
ジョバンニは夢から覚め、カンパネルラの死を知り愕然とするが、夢の中で二人で旅し、二人で語り合い、誓ったことを胸に、カンパネルラの分も生きることを誓って、母の元に走り出す。ポケットに銀河鉄道の切符をしまって・・・。
今回の演出でちょっと残念だったのが、サザンクロスの手前で臨時停車をするシーン。原作にはないこのシーンをあえて入れた意図は、キリスト教信者ではないひとをその人の信ずる神の元へ行く場所で下車させるためと聞いていた。去っていく乗客を丁寧に見送る車掌は印象的だったが、黒っぽい服装で、台詞もなく、最初から目立たないシルエットののような存在だった。せっかくのシーンなのだから、台詞はなくとも、明らかにそれと分かる民族衣装を着て立ち去ってもよかったのではないだろうか。
『雨ニモ負ケズ』をはじめ、賢治の作品には『自己犠牲』的な思いがベースにあるように思う。
自分だけが幸せになるのではなく、皆が幸せにならないうちは本当の幸いとは言わない。
カンパネルラは、いつもジョバンニをいじめていたザネリを助けて自らの命を落とした。
ジョバンニはなぜザネリではなくて、カンパネルラが死ぬと言う不条理に疑問を持たなかったのか?
カンパネルラは、『おっかさんは僕を許してくださるだろうか』『誰だって、本当にいいことをしたら一番幸せなんだ!だから、おっかさんは僕を許してくださると思う!』と言っていた。
ジョバンニも、『僕はもう、あのさそりのように、本当にみんなの幸いのためならば、僕の体なんか百ぺん灼いてもかまわない!』と叫ぶ。石炭袋(ブラックホール)を見ても『僕、もう、あんな大きな闇の中だって怖くない。きっとみんなの本当の幸いを探しに行く』と決意する。
『銀河鉄道の夜』は賢治が亡くなるまで何度も手を入れ、書き直し、原稿も一部紛失し、完成はしていないらしいが、わらび座の舞台は賢治の世界を見事に再現し、まとめてあると思う。
150年前に、今の私たちに欠けているもの、渇望していること、解決しなければならない問題を煌く水晶のような言葉で投げかけている。
『本当の幸い』『めいめいの神様』『天上よりもいいところ』
キーワードはそのままこの物語のテーマであり、賢治自身の生き様だ。
ジョバンニも最初っからこんな気持ちになったのではない。旅の中では、鳥捕りをうざったがり、かおる子に嫉妬したり、結構小心者でやきもち焼きで、意気地がない。旅に出る前は学校ではいじめられっこで、みんなの前からは消えてしまいたいほど自己嫌悪に落ち言ってしまう。
賢治の生涯もそうだったのだろう。
親友との決別や妹との死別を通して、『本当の幸い』『神』を模索していたのだろう。
『銀河鉄道の夜』は子どもには難解なところがあるとは思うが、わらび座は子どもにも分かりやすいように作ってあると思った。
会場いっぱいに広がる星星や、ケンタウルス祭りのカラフルさなど、眼にも美しい舞台と、バラエティーにとんだジャンルの歌がまたよかった。
演技者たちの一生懸命な演技と芸達者ぶりにも関心した。
ラスト近くはもう涙涙で・・・・。
7月2日、子どもたちともう一度観る。
市川森一・脚本、朝倉摂・美術というのも楽しみの一つだった。
宮澤賢治研究家の三上満氏の講演会を聞き、わらび座の演出とテーマに強く興味を持っていたので、原作を何度も読んだ。
わらび座の舞台はその期待を裏切らないものだった。
主人公ジョバンニと親友カンパネルラの友情と、二人が母を思う気持ち、『本当の幸い』を探しに行こうと言う純粋な思いに胸を打たれた。
中でもタイタニック号の乗客が列車に乗ってくるシーンでの家庭教師の苦悩の歌に感動した。
最後の救命ボートに教え子を乗せたいのだが、人を押しのけ、わが子と泣きながら別れを惜しんでいる母親を押しのけ、教え子だけをボートに乗せるべきか、ともに船と一緒に沈み、教え子の母の元に旅立つべきか、若い家庭教師は苦悩の末、後者を選び、この列車に姿を現すのだ。
これから天上に行くと言う彼に、ジョバンニが『天上に行かなくたっていいじゃないか、僕たちココで天上よりももっといいところをこさえなきゃぁいけないって、僕の先生が行ったよ!』
と食って掛かるシーンがある。
その天上と神様についてジョバンニと家庭教師が議論しているところに、燈台守が(原作では博士)
「めいめいが自分の神様を本当の神様だと言うだろう。けれども、お互いほかの神様を信ずる人のしたことでも本当にいいことなら、涙がこぼれるだろう。」と言うシーンが印象的だった。
また、家庭教師と一緒に乗ってきた少女かおる子が、さそり座はなぜ赤いかと言う神話を切々と話すシーンも美しかった。
ジョバンニは夢から覚め、カンパネルラの死を知り愕然とするが、夢の中で二人で旅し、二人で語り合い、誓ったことを胸に、カンパネルラの分も生きることを誓って、母の元に走り出す。ポケットに銀河鉄道の切符をしまって・・・。
今回の演出でちょっと残念だったのが、サザンクロスの手前で臨時停車をするシーン。原作にはないこのシーンをあえて入れた意図は、キリスト教信者ではないひとをその人の信ずる神の元へ行く場所で下車させるためと聞いていた。去っていく乗客を丁寧に見送る車掌は印象的だったが、黒っぽい服装で、台詞もなく、最初から目立たないシルエットののような存在だった。せっかくのシーンなのだから、台詞はなくとも、明らかにそれと分かる民族衣装を着て立ち去ってもよかったのではないだろうか。
『雨ニモ負ケズ』をはじめ、賢治の作品には『自己犠牲』的な思いがベースにあるように思う。
自分だけが幸せになるのではなく、皆が幸せにならないうちは本当の幸いとは言わない。
カンパネルラは、いつもジョバンニをいじめていたザネリを助けて自らの命を落とした。
ジョバンニはなぜザネリではなくて、カンパネルラが死ぬと言う不条理に疑問を持たなかったのか?
カンパネルラは、『おっかさんは僕を許してくださるだろうか』『誰だって、本当にいいことをしたら一番幸せなんだ!だから、おっかさんは僕を許してくださると思う!』と言っていた。
ジョバンニも、『僕はもう、あのさそりのように、本当にみんなの幸いのためならば、僕の体なんか百ぺん灼いてもかまわない!』と叫ぶ。石炭袋(ブラックホール)を見ても『僕、もう、あんな大きな闇の中だって怖くない。きっとみんなの本当の幸いを探しに行く』と決意する。
『銀河鉄道の夜』は賢治が亡くなるまで何度も手を入れ、書き直し、原稿も一部紛失し、完成はしていないらしいが、わらび座の舞台は賢治の世界を見事に再現し、まとめてあると思う。
150年前に、今の私たちに欠けているもの、渇望していること、解決しなければならない問題を煌く水晶のような言葉で投げかけている。
『本当の幸い』『めいめいの神様』『天上よりもいいところ』
キーワードはそのままこの物語のテーマであり、賢治自身の生き様だ。
ジョバンニも最初っからこんな気持ちになったのではない。旅の中では、鳥捕りをうざったがり、かおる子に嫉妬したり、結構小心者でやきもち焼きで、意気地がない。旅に出る前は学校ではいじめられっこで、みんなの前からは消えてしまいたいほど自己嫌悪に落ち言ってしまう。
賢治の生涯もそうだったのだろう。
親友との決別や妹との死別を通して、『本当の幸い』『神』を模索していたのだろう。
『銀河鉄道の夜』は子どもには難解なところがあるとは思うが、わらび座は子どもにも分かりやすいように作ってあると思った。
会場いっぱいに広がる星星や、ケンタウルス祭りのカラフルさなど、眼にも美しい舞台と、バラエティーにとんだジャンルの歌がまたよかった。
演技者たちの一生懸命な演技と芸達者ぶりにも関心した。
ラスト近くはもう涙涙で・・・・。
7月2日、子どもたちともう一度観る。