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負けねど、がんばる、明日を夢見て!

2011-08-30 06:33:00 | 石巻ボランティア日記
8月18日(木)

今日は、いよいよ千葉に戻る日。

一昨日の朝、東京から帰省した弟は、私と入れ替わりに今日からボランティア活動を始めた。
弟は、震災直後に石巻に来て、避難所がいっぱいだったので、壊れた自宅にいた両親を見つけてくれたものの、私達には電話が通じず、仙台まで戻ってきたところでやっと連絡が取れ、私達は両親の無事を知ることができた。
「家が無事なのに、自分たちだけ東京に避難できない」
と、石巻に留まると言う両親に、
「東京に戻って、もっと必要な物資を満載して石巻に帰ってくる」
と言い残して、東京に向かう途中、福島原発の爆発事故が起き、避難する住民の大渋滞に捲きこまれてしまった。
とるものもとりあえず、石巻まで来たものの、帰りのガソリンを積んでいなかった弟は、震災後のガソリン不足で、栃木県に入ったところで、ついにガソリン切れになってしまい、宇都宮付近の民家の庭先に車を置かせてもらって、新幹線で東京に戻ったのだ。
それから2週間、その車を取りに行こうにも、原発の事故は続き、ガソリンはなかなか手に入らず、ようやく車を取りに行った時、なんと、その民家の方が、ガソリンを満タンにして置いてくださった上に、米まで下さって、お金を払おうとした弟に、
「こういう時です。困った時はお互い様です。お米をご両親に届けてあげてください」
と、言って、お金は受け取らなかったそうだ。
本当に、本当に、その方には感謝している。

弟はその後、G.Wにも1週間近く帰省し、家を直してくれた。
父は、
「若いって素晴らしいなあ。力仕事も、高いところの修理も、耐震グッズの取り付けも全部やってもらった。」
と感心し、母も、
「4月の余震の時、水がなくて苦労したことを叱られて、いろんなものをどっさり買ってってくれたの。助かった~。」
救援物資は、避難所にいる人達には配られても、自宅難民には支給されないようだった。

弟は、中越地震の時、2週間ボランティア活動に出かけたが、車で寝泊まりしているうちにエコノミー症候群になり、途中で活動をやめて帰るしかなかったことを今でも悔いている。
今回も、家のためには迅速に動いて、やるべきことをやったが、そのために休みをたくさんとってしまっていたので、石巻の街自体にはまだボランティア活動をやっていないことを気にしていた。
そこに、私と姪っ子たちのボランティアの話を聞き、俺も!と思ったらしい。
昨日、両親と、大川小学校や、5か月経った今も津波で公民館の屋根の上にバスが乗っかったままの雄勝地区の方を回ってきた弟は、
「3月~5月の時は、まだ瓦礫だらけで、そこには街があったんだという実感があったけど、それらを全部撤去されてしまうと、本当に何もなくなって、ここに街があって、誰かが生活していたなんて信じられないような更地になっていた。あそこにポツンと立っているる建物は?と思ったら、それが、あの大川小学校だった。雄勝なんて、誰も住んでないよ。」
雄勝の雄勝硯伝統産業会館には、父が回顧展を開いた時に飾ってもらった油絵の大きな作品が20点以上収蔵されていたのだが、今回の津波で、全部流されてしまったのだ。父は、絵はもちろんだが、額縁もだめになってしまったことにがっかりしていた。どれほどの損害だろう。
雄勝は、日本有数の硯石の産地で、たくさんの素敵な硯が展示されていた。

疲れるから新幹線で帰れと言う母の言うことを聞かず、昼のバス*(バス)*で東京に向かった。それは、どうしても、福島のサービスエリアで桃を買いたかったからだ。安達太良サービスエリアの売店で桃を買った時、売店の人が、
「いつもは、店先に3列ぐらい桃を並べて露天販売してたんだけど、店の中のここでしか売れなくて、売れ行きも去年の3分の1ぐらいなんです」
と言っていた。
「毎年、ここで桃を買って帰るので、心配していました。学生時代、山梨で桃の出荷のバイトをしていたので、桃をここまでに育てて出荷する大変さを知っているだけに、農家の人たちの無念がよくわかります。頑張ってください」
「ありがとうございます。農家の人に伝えます」
と言っていた。
サービスエリアの売店には、『絆』『東北人魂』と書かれたTシャツが売ってあり、福島への義援金と思って、2枚買った。
窓に広がる緑の山々田園風景は、いつもと変わらぬ美しい『うつくしま・福島』の風景だ。ここが、放射能で汚染されているだなんて・・・。人間だけでない、森の生物や川にだって湖にだって生き物はいる。この自然は、どこにも避難できない。ただ、黙って、放射能を浴び続けるしかないのだ。
津波で流されたわけでもないのに、自宅に戻れずに5カ月も着の身着のままで避難所生活をしている福島の人たちの苦しみや無念は、私の想像をはるかに超えているものだろう。
原発事故の一日も早い収束と、福島の人たちの心と体の健康を心よりお祈りいたします。なんだかんだと、帰宅した時には日付が変わっていた。

明日は成田で研修だ。その後も土日なしで研修続きだ~!

石巻ボランティア日記 6日目 ヒマワリの花と『木蘭の歌』

2011-08-28 06:55:00 | 徒然なるままに
8月17日(水)

ボランティア活動最終日。

今日は、2か所で活動した。
前半は、大街道地区の民家のヘドロだし。
前回の泥出し作業をしたお宅のすぐ近所だった。
だが、こちらはまだ築5年の最新住宅。
一番の違いは、基礎工事だった。

前回の築30年の住宅は、ベタ基礎だったので、同じ床下のヘドロだしでも、水分は地面に吸い取られ、ヘドロだけが乾いた粘土質となって土の上に堆積していたので、その表層をすくい取ればよかった。奥の方まで丁寧に掻き出した後は、床下を洗浄する必要もなかった。

ところが、今回のお宅は、コンクリートで床下が固めてあり、湿った粘土質のヘドロを掻きだした後は、床下を洗浄しなくてはならないのだ。
その床下に溜まった洗浄水をポンプで汲み出しては、また洗い、また汲みだしては洗い、それが、一階部分でけっこう広い坪数あるのだ。
ヘドロは乾いてあれば、マスクをしていてさほど臭いは気にならないのだが、水分を含んだとたん、猛烈なにおいを発する。
その上、胡麻ペースト状というか、コールタール状の粘り気というか、油分を含んだベトつきがあり、洗剤を使っても、ブラシでこすっても、簡単には落ちない。
ガラスにこびりついたのは、洗剤やタワシより、新聞紙で強くこすった方が取れるのだが、ものすごい力がいる。
これでは、体力と時間の無駄と思い、薬局に換気扇用マジックリンを買いに行った。

それにしても、床上2m以上の浸水となってしまったこの地区の津波が、あんな真っ黒なべとついたヘドロが、この辺り一面を飲み込んだのかと思うと、本当に恐ろしい。
工業港のヘドロなんて、何年分の工場の廃液が堆積していたことか。
それにはどれほどの危険な化学物質が含まれていたことだろう?
2階に逃げて、溺れずに済んだ方は助かったが、平屋にいらして逃げ遅れた方はみなさん亡くなったらしい。
まして、場所によっては、木造家屋の2階建てでも、跡型もなく流されている。
こんな真っ黒なドロドロのヘドロの中を泳いで逃げた方はこの泥水をどれだけ飲み込んでしまったことだろう。
また、この地区は、日和山に続く道が渋滞し、それらの車が津波でドミノ倒しの駒のように前方エンジン部分を下に車が次々と押し流され、その車中でたくさんの方が無くなっている。
近くにはそのぐちゃぐちゃにつぶされた車が何台も積み重なって、まるで長い塀のようになって、ずっと続いているのだ。

依頼主の方と話したら、その方は、たまたま仕事でご自宅にはいらっしゃらず、命は助かったものの、築5年のローンはあと30年残ったうえに、これを直す費用は別に借りねばならず、2重ローンとなるそうだ。
震災後、家を直す気になったのはごく最近で、まずは、床上の瓦礫やヘドロ、壊れた家財道具などの撤去に1カ月もかかり、分厚いフローリング(床暖房!)をはがすには、大工さんに頼まねばならず、その順番待ちが長い!
やっと床をはがし終わって、ボランティアを要請できるまで2カ月かかったのだそうだ。

その時も、これまでも、今も大変だが、これからも二重ローンを抱え、女性一人では大変だと思う。ぜひ、お身体に気を付けて、頑張ってほしい。

男性は、水で戻ってべとべとの真っ黒なヘドロにまみれながら、床下の洗浄作業を中心に行い、女性は主に、庭先の乾いたヘドロのさらい出し、外壁やガラス窓(2重サッシ!)の汚れ落としをやっていたが、洗剤がないのと、蛇口が1か所しかないところに、人数が多すぎて、作業がはかどらないため、後半は、人数の半分は昨日の日和山清掃作業のつづきに回った。


日和山に着き、まずは、参拝して、今日の清掃場所の川村孫兵衛重吉爺の石像付近に向かおうとした時に、一人のおばあさんが、私に向かって歩いて来て、
「家まで送ってって」
とおっしゃった。
「おばあさん、どっから来たの?」
と聞くと、
「流留(ながる)。おじいさんも亡くなって、日和山に気晴らしに来たの。来る時はタクシーで来たんだげっと、あるがいね(歩くことができない)・・・。家まで送ってってけろ(ちょうだい)…。」
と、具合悪そうな顔で訴えてくる。
「おばあさん、ごめんね、私、今日、車で来てないんだ。どうしよう。」
と困っていたら、後ろから歩いて来た神奈川から来ているメンバーが、
「僕が送って行きますよ。」
と名乗り出てくれた。
でも、流留は渡波と女川の中間の万石浦の岸辺の町だ。ここから車で1時間半近くかかる。
「駅まで行けば、ディーゼルカーの代わりの女川行きの代行バスが出てるから、駅まで送って行ってあげて」
と言って、メンバーにおばあさんを託した。

しばらくたってもそのメンバーが戻らないまま、作業はどんどん進んで行った。
今日の場所は、石巻市街を一望に見渡すことができる絶好の撮影スポットだ。
私達石巻出身者の『原風景』ともいえる景色が広がる場所だ。
いつもなら、河口にたくさんの船が停泊し、造船工場の活気や、街のにぎわいが感じられる石巻のパワースポットだ。
桜の名所でもあり、夜景もとても美しい。
実際、今日のメンバーの中には、この場所で奥さんにプロポーズしたと言う人もいた。

あのおばあさんも、この場所にはおじいさんとの思い出がいっぱいあったんだろうなあ…と思っていたところへ、さっきのメンバーが帰ってきた。

「ずいぶん遅かったね。おばあさんは大丈夫だった?」
「それが、車に乗ってから、『本当は、死に場所を探してたの』って、言われて・・・。家まで送ろうと思ったんだけど、何を言ってるのかわからなくて・・・」
「で、どうしたの?」
「『女の川』って書くところまで送ってきました。」
「え~っ?!女川(おながわ)まで行ってきたの?!流留よりずっと先だよ?」
「そこの町立病院におばあさんの友達がいると言うので、そこまで送ってきました。あの、崖の上に立ってる病院」
「ご苦労様~。○○君、最大のボランティア活動だったね。お疲れ様~。」

センターに帰ってから、3月からずっとボランティア活動をしているNPOの方に、このことを話したところ、その方が、
「それ、まずいよ。一人にして置いて来たの」
と真剣な顔をしておっしゃった。
「自殺兆候のある人をボランティアが気がついたら、すぐに、ボランティアセンターに連絡するか連れて来て、常駐している臨床心理士に診てもらわなくちゃいけないんだ。」
と言われた。

知らなかったこととはいえ、そのおばあさんの名前も住所も知らず、連れて行ってくれた神奈川のボランティアの人ともさっき別れたばかりで、もう、どうすることもできない。
後は、そのおばあさんの無事と、生き残ったことを悔やむことなく、おじいさんの分まで幸せに長生きしようと前を向いて生きていってほしいと願うことしかない。

そう言えば、阪神から来て3月からずっと石巻でボランティア活動をしている人がこう話してくれていた。
「避難所にいた人が、仮設住宅に入ったとたん、自殺することが多いんだよね。
避難所暮らしは大変だけど、自分と同じ境遇の人同士、煩わしいことがあっても、挨拶ぐらいは交わしていた。
でも、仮設に入ったら、本当に誰とも口をきかず、独りぼっちだ。
隣からは、家族団欒の声が聞こえてくる。
この仮設住宅もいずれ出て行かなくてはくてはならない。
ここを出ても帰る家もない、家族もない、仕事もない。なぜ、自分だけ置き去りにされたのだろう。
その孤独に耐えかね、生き残ったことを悔いて、自ら命を絶ってしまう人が少なくない。
だから、俺たちは、『ひまわりゲリラ作戦』として、そういうおじいさん、おばあさんのところに、ヒマワリを植えに行くんだ。
最初は、
『お花植えさせてくださいな』
と言って、庭に、ヒマワリ*(ひまわり)*の種を植えさせてもらう。ヒマワリ*(ひまわり)*は塩害に強いから、津波の後の土でも元気に育つ。
今度は、毎日
『お水をやりに来ました。水かけさせてもらってもいいですか?』
と言って、通わせてもらっているうちに、顔見知りになり、話をするようになって、そのうち、心待ちにしてくださるようになる。
その頃には、何度も同じ話を聞かされるようになってくるので、新しくボランティアに来た人で、被災者の話を聞きたい人を連れて行き、話をしている間、お風呂を使わせていただくんだ。」

最初、
「お風呂はどうしているんですか?」
という私の質問に対しての答えだったのだが、石巻の街のあちこちにヒマワリ*(ひまわり)*が咲いている理由を初めて知った。
生育に差があるのは、ボランティアが入った順に植えているからなのだ。
阪神大震災の復興のシンボルのヒマワリ*(ひまわり)*の種は、石巻の各小中学校にも配られ、校庭に咲いている。

泥出しや、瓦礫、壊れた家財撤去も、街や寺社仏閣、公園の清掃も人の手が足りないくらいのお仕事だが、こういう、生き残った人たちへのきめ細かい心のケアも、『人』でなくてはできない大切なボランティアだと思う。

被災者である友人たちに何人か会ったが、皆、明るく元気だ。
被災した当時のことを、淡々と、時にユーモアを交えながら明るく話す。
でも、その笑顔の下に、どんなに辛く、厳しい惨状を目の当たりにし、絶望を乗り越え、過酷な現状を日々困難に立ち向かってきているのか、そして、どれだけの心の大怪我を負っているのかと思うと、胸がえぐられ、目頭が熱くなってくる。

ボランティアに来る前に、弟に言われた。
「姉ちゃん、被災した人たちの前で、メソメソすんなよ。みんな、泣きたくても泣かないで、泣いたってしょうもないと思って一所懸命やってるとこに、無事な所から来て無事な所に帰る人が話きいてメソメソされっと、イライラするだけだから。
でも、向こうから話してきたら、じっくり聞いてやって。」
そして、父にも言われた。
「どうしても泣きたくなったら、渡波の海に向かって泣けばいいさ」

こちらに帰って来てから、Cafeで知り合った方から教えてもらったサイトで見つけた歌を紹介します。

全ての被災者の方に贈ります。

http://www.youtube.com/watch?v=SkNSWbleLJ4

石巻ボランティア日記 5日目

2011-08-26 01:19:00 | 徒然なるままに
8月16日(火)

ボランティア活動をするために帰省して今日で一週間。
毎日が一期一会だ。
石巻を元気にするために、石巻の復興のために、どんな小さなことでもやってきたい一心で帰ってきた。
ところが、元気をもらうのはむしろ私の方で、こんな過酷な状況の中で、立ち上がろう、顔を上げよう、前に進もうとする故郷の人たちの姿に励まされ、また、日本中、世界中の人たちが石巻に駆けつけ、自腹を切り、手弁当で、本当に徹底的に片づけ、清掃をしてくださる気持ちに、ただただ感謝の気持ちでいっぱいだ。
はっきり言って、一銭にもならないことだ。鼻ももげそうな、息も詰まりそうなヘドロの匂いやべたつき、目をそむけたくなるようなあの日のままの惨状を、ただひたすらに、黙々と、てきぱきと瓦礫を片付け、泥出しをし、家を洗浄する。一日中ヘドロにまみれ、汗だくになって働いても、どこからもお金なんてもらえない。
なのに。
本当に、みんな、一生懸命なのだ。
徹底的にきれいにするのだ。
誰も文句も言わず、誰から命令されたわけでもなく、自分にできること、というか、自分がやりたいことをただひたすら、時間いっぱい一生懸命やるのだ。

ただ、それの報酬は、お金以上のものがある。
依頼主の笑顔と感謝の言葉だ。
そして、共に、ミッションを達成した仲間の笑顔と達成感だ。
この充実感は、どんなにお金を積んでも手に入れることはできない。
この、自分を突き動かすエネルギーはどこから来るのだろう?

休憩時間にボランティアのメンバーが互いに名乗り合う時、どこから来たのか、どんなきっかけや理由でボランティアをやろうと思ったのか、これは、どんな小説や道徳の教科書よりも胸を打つ。
来て良かった、参加して良かった!出会えて良かったと、心の底から思い、この縁と絆に感謝する。


さて、今日の活動場所は、日和山神社の境内の掃除だった。

私は、震災後まだ日和山には登っていなかった。
あの、石巻の中高生の卒業アルバムに必ず載る日和山からの眺めが、どう変わってしまったのか、自分の目で確かめるのが怖かったのかもしれない…。
案の定、日和山から見た日和大橋方面を望む景色も、中瀬を望む風景も、かつての風景を知っているだけに、この変貌してしまった北上川河口のあり様は、筆舌に尽くし難い。
メンバーの中に、津波直後の様子から現在の姿に至るまでを知っている人がいて、
「だいぶ片付いたんだよ」
というつぶやきに、どれほど大変な作業だったかを思い、そのご苦労とここまでにしてくださったボランティア精神に、心から敬意をはらいたい。

11時から、境内で、イタリアからコーラスグループが慰問に来て、奉納コンサートを開くと言うので、みんなで必死になって、草刈りをした。

出羽三山を奉納して歌ってまわっているというそのグループは、イタリア民謡だけでなく、『さくら』も歌ってくれて、桜の名所日和山にとって、何よりもの奉納曲だった。

また、そのグループは、イタリアと日本の国旗を刺しゅうしたユニフォームを、石巻各地の少年少女サッカーチームに寄付してくれたのだ。
チームを代表して来ていた子どもたちや保護者も大喜びだった。

社務所の裏で昼食を食べる時、千葉の教え子の梨園に注文して届いた梨をメンバーの皆さんに差し入れした。
夏バテ予防にはなんてったって、梨が一番だ。
みんな、喜んで食べてくれた。

午後からは、本格的に境内を掃除した。蜘蛛の巣を掃い、高床の下に堆積した落ち葉を描きだし、砂利の間から生えている雑草を抜き・・・。
30人を超すメンバーで、徹底的に掃除した。
明日初詣でも*(OK)*なぐらい*(キラキラ)*にした*(びっくり1)*

石巻にとって、日和山はシンボルであり、最大のパワースポットだと思う。
石巻に住んでいたって、この場所をこんなふうに掃除をするなんてできないことだ。
今日、ここでこのメンバーたちと境内を掃除したこと、はるばるイタリアから来てくださったフォークグループの生歌を聞けたことは、本当に得難い経験だった。


帰り道、来た時とは違う車に乗って帰ろうとしたら、静岡から来たという青年たちが、石巻でいまだに当時の惨状のままの場所を見たいと言ったので、3月からずっと活動をしてくださっている阪神出身の方が、案内をしてくださった。
地元出身の私は、そこがそんな惨状になる前の姿を知っているナビゲータ役だった。

もう、胸がえぐられるような見るも無残な廃墟を通り過ぎながら、『復興』という言葉の軽さと、その理想へのはるかな険しい道のりを思った。
その無尽蔵な困難の前では、自分たちのやっていることなんて、空しくなるほどちっぽけなことだ。
でも、どんなに小さなことだって、
「昨日よりはまし」
そうやって、できることを一つ一つやって行くしかない。


専修大学を出た時、自転車に乗ったボランティア帰りのような人に
「お疲れさまでした」
と声をかけた。
すると、その人は、私に近寄って来て、
「ボタンティアに個人で参加するにはどうしたらいいのですか?」
と聞いてきた。
ボランティアをしようと思って帰省したが、個人の受け入れがないと聞き、困っていたのだと言う。
実家は我が家の近くだというので一緒に帰りながら、手続きの取り方や、準備するものなどをアドバイスした。
家に帰る途中、すごい夕立に降られ、家で雨宿りをしてもらった。

その方は、現在、静岡県に住む石巻高校出身の人で、父の後輩にあたるのだが、今回、帰省して、石巻グランドホテルで友人といた時に、たまたま石高(鰐陵)同窓会会長(父の後輩)に声をかけられ、個人のボランティア活動は、専修大学のボランティアセンターでやっていることを教えて頂き、様子を見に来たところで、私に会ったということだった。

同窓生同士、父と話がはずんだ後、その人が帰った後、母が、その人の名字を聞いて、父が会長を務める絵の会のメンバーの息子さんでは?と話をしていたところ、果たして、そのご本人から電話がかかって来て、
「息子がお世話になりました。明日からのボランティアを一緒にさせていただけるようで、どうぞよろしくお願いいたします」
と言われた。

本当に、不思議な御縁だ。

石巻ボランティア日記 盆休み(8月13日~15日)

2011-08-24 01:38:00 | 徒然なるままに
8月13日(土)

今日は、お盆ということでボランティア活動はお休みした。
実際は、ニーズもあり、リーダーに連絡すれば活動はあるのだが、身体を休めることも残りの活動を元気にやるためには必要だと思い、久しぶりに朝寝坊した。

午前中は、仏壇掃除をし、お墓の掃除に行った。
石巻霊園に行く途中、震災当時浸水した地域を通った。
瓦礫置き場も通った。
石巻は片付いたようには見えるが、その一方で、100年分という瓦礫の山は増え続け、3月11日以来まだ手付かず状態の場所がまだまだたくさんある。

夕方、一緒にボランティアをしたメンバーの青年が、釣り*(つり)*に行って、鰈を釣ってきたそうで、おすそ分けに来てくださった。
少し早い夕飯に、ムニエルにして頂いた。
美味しかった~!
私があげたおにぎりが、こんなに美味しい鰈になって帰ってきた?!


8月14日(日)

夜、母が手伝う町内の盆踊りに行った。
母校の小学校で、近くの仮設住宅の方たちにも呼び掛けての盆踊り大会だった。
思ったより参加者が少ない中で、一生懸命盛り上げている係の方にご挨拶をし、踊りの輪の中に入った。

陽気なおばさんと一緒に踊っていたら、そのおばさんは、ご自宅もご実家も、ご主人のご実家も流されたとおっしゃっていた。

話の外で見ていた小さい子たちやお母さんの手をとって、踊りの輪の中に誘うと、はずかしそうに笑いながらも、踊りに加わってくれた。
子どもの笑顔って、見ているだけで、元気になり、幸せな気持ちになる。

昔踊った『仙台七夕祭り』や『炭坑節』を踊っていたら、私のすぐ後ろで踊っていらした踊りのお師匠さんのようなご年配の方に、
「あんだ上手いごだ。来年は浴衣きて踊りさございんよ」(あなた上手だわね。来年は浴衣を着て踊りにいらっしゃいね)
と褒められた。*(チョキ)*

おばあちゃん家に泊まりに来たという、亀を釣った子どもたちと話をした。
我が家にもみどり亀がいるので、餌や飼い方を教えると、
「ありがとうございました!」
と、何度もお礼を言ってくれた。

小学校4年生ぐらいだろうか?
久しぶりに小学生に会って、クラスの子たちが恋しくなった。
みんな、元気でいるかなあ…。

8時で盆踊りが終わった後、係の人たちに混じって片づけをした。

仮設住宅の方たちは、今年の盆踊りは踊る気持ちになれなかったかもしれないが、来年は、仮とはいえ、同じ地域に住む人同士、一緒に夏祭りを楽しめるといいなあと思った。


8月15日(月)

今日は友人と、昼間の石巻の町に出かけた。
前回の帰省では、夜の川開きの時にしか街中を歩かず、後は、ボランティア活動に行く時に車で通り過ぎるだけだった。
今回、駅前に車を止め、駅前から達街通り、橋通り、中央通りなど、まさに私の青春時代を過ごしたかつての繁華街を歩いた。
道路や店の中の泥出しはほぼ終わったようだが、盛り上がり、地割れした道路や、歩道が痛々しく、べコベコに凹んだシャッターは、開けることがあるのだろうか…?

商店街で、かなり壊れたショーウィンドーのお店があった。
そこはジュエリー店で、震災後、強盗に会ったのだそうだ。
コンビニのATMはほとんど破壊され、現金強奪が横行したのだそうだ。
そればかりではない。道端で亡くなっている人の服から財布を抜き取り、指を切ってでも指輪を向いて行ったなどという話を聞くと、本当に、震災なのか、戦災なのか、人の心は極限ではこんなにも非常になれるのかと思って、胸がえぐられるようだった。

食料や衣類は、生きていく上で、仕方がないかと思えないでもない。それほどの非常時だった。
でも、火事場泥棒の手口は、けして素人ではないだろう。
遺体確認さえ難しい、行方不明者の指輪をそんな残酷な手口で奪って行くなんて・・・。
戦国時代の盗賊のようではないか…。

2度と再開しないかもしれない、かつて足しげく通った店々の変わり果てた姿に絶句しながら、石巻でも有名な陶器の専門店観慶丸本店http://homepage3.nifty.com/kankeimaru/の前を通ったら、営業しているようだったので、入ってみた。
お店の人に、1階部分が天井まで水につかり、水が引くまで2回が動けなかった時のことや、もう、お店をやる気もなくなるくらいぐちゃぐちゃのヘドロだらけにななった時に、屈強な外国人のボランティアの方たちが、まっ黒で臭いヘドロをどんどん書きだして言って下さって、やッよ、もう一度お店を始めようかという気持ちになれたことなどを話してくださった。

私は、2階で、ヒマワリ柄のマグカップと湯のみを買った。
ヒマワリは、ボランティア活動の思い出の花だ。
塩害に強い、復興のシンボルだ。

石巻の街中は、いまだに信号が壊れたままで、交差点ごとに、日本全国からの県警の方が交通整理に立ってくださっている。今日は、愛知県警の方だった。
気温35℃のアスファルトの上は40度近くあるのではないだろうか。
制服制帽で、炎天下を交通整理してくださる姿にただただ頭が下がる思いだった。

友人は、自衛隊の方も、陸上には遺体はない。といいきれるぐらい、瓦礫の中からご遺体やその一部に至るまで、また、思い出の品など、丁寧に捜索してくださった。
あの方たちは、トラウマにならないだろうかと心配していた。


石巻は、少しずつだが太陽を見上げて、明日を夢見て立ち上がろうとしている。
そのためには、まだまだ人の手が、他人の力が必要なんだと思った。
それも、見ず知らずの人たちが、ここまでやってくださるなんてという懸命な姿を見て、勇気づけられ、励まされ、支えられてやっとの思いで一歩踏み出そうとしている。

このままではだめだ。片付けようと言う気持ちになれたのは、川開きだったり、お盆があったからだろう。
でも、瓦礫を片付けた後の石巻は、本当にさみしい光景になってしまった。
あの町に、かつての活気がよみがえるにはまだまだ時間がかかるかもしれない。
でも、きっと、復興する。させなくてはいけないと思う。


私の盆休みは今日まで。
明日からまた、新たな気持ちでボランティア活動に出かけよう。

石巻ボランティア日記 4日目

2011-08-23 06:48:00 | 徒然なるままに
8月12日(金)

今日は、素敵な仲間が千葉から駆け付け、一緒にボランティアに参加してくださった。

先日、千葉県の女性教員の有志で出かけた研修旅行のバスの中で、一人ひとり自己紹介をした際、石巻にボランティア活動をしに行くことを話したら、香取市の小学校の先生が声をかけてくださった。
「私もボランティア活動をしたい」
と・・・。

それがきっかけで、はるばる千葉から、娘さんと一緒に、ご親戚もご友人もいらっしゃらない石巻まで来てくださり、1日一緒にボランティア活動をしてくださった。

今日の作業は、大街道東地区の民家の泥出しと家屋洗浄だった。
その家は、ご主人を亡くされ、子どもたちも独立して家を出た、現在入院中の一人暮らしのおばあさんの家だった。
その息子さんが、お盆には自宅に帰りたいと言うお母様のために、ご実家を少しでも元の状態にしたいということで、ボランティアを要請したのだそうだ。

息子さんは、私たちと一緒に泥出し作業をしながら、ヘドロの中から発見される、どこの誰のものかもしれない写真などを確認する作業もしてくださった。
自分の家にあったものは流され、自分の家のものではないものが家の中に散乱し、堆積してしている。
お盆を自宅で過ごせることはできなくても「家に帰りたい」おっしゃる、あの震災後、自宅がどうなっているかまだ一度も見たことがないお母様をお迎えするために、少しでもショックが少なくなるように、息子さんはじめ、みんなで必死に頑張った。
私は前半は床下の泥出し、後半は今日も、洗面所とお風呂場だった。
洗面所の時計は2時56分を指していた。
工業港のすぐそばにあるこの家の、私の身長より高い位置にあるこの時計のところまで津波による浸水が届くのに、わずか8分ということなのか?!

周囲の家は、平屋にお住まいの方はほとんどなくなっており、わずか100mほど行った隣の区域の木造家屋の何十件家は、土台ごと流されて、跡型もない。

ここにお母様が戻られても、長年の付き合いのあったお友達のほとんどの方が亡くなられているのではないか…。
そのショックと悲しみを思うと、胸が詰まった・・・。
でも、この家には、家族の思い出がたくさん詰まっている。
来年のお盆には、この家から独立して行った子どもたちの家族が集まってくれるだろう。
生き残ったご近所の方たちと励まし合って、助かった命を大切に生きていってほしい。
そう願いながら、お家をきれいにし続けた。


今日は、昨日、お弁当を忘れてきたメンバーに私のおにぎりを分けてあげたら、お礼に送り迎えをしていただくことになっていたので、今日は、その人の分と、ずっと真空パックのごはんに、ビニール袋に入ったお惣菜をかけて食べているという若者に、お弁当(おにぎり)を作ってきた。
帰りは、千葉から来てくださったお二人もいっしょに乗せて頂いて、家まで送ってもらった。

私の両親も、わざわざ千葉からボランティアにいらしてくださったことに感激し、現職時代JRC(青少年赤十字活動)の顧問をしていた父と、その先生もお話が合うようだった。

前回の帰省の時に、石巻で教員をしている友人に連れて行ってもらった、吉浜小学校や相川小学校の被災した校舎やその周辺の地域の画像などを見てもらい、災害時の対応や、安全対策、子どもたちの心のケアなどを話し合った。

その先生の勤める学校やお住まいの地域も、今回の震災で大きな被害を受けたうえに、福島の原発の影響を受けて、深刻な状況になっているということだった。


不思議なご縁で、はるばる千葉から石巻にいらして、今、こうして我が家にいらっしゃることは、ただの一期一会ではないと感じた。
私たちのボランティア活動は短い期間でしかないが、ここで見聞きし、肌で感じたことを、千葉に帰ったら、多くの人に発信していかなくてはならないという、新しいミッションを自覚した。

先生、娘さん、本当に、ありがとうございました。
また、お会いしましょう!

石巻ボランティア日記 3日目

2011-08-21 07:24:00 | 徒然なるままに
8月11日(木)

今日で、東日本大震災から5カ月目を迎える。

私は、その時刻、午後2時46分を被災地石巻市渡波で迎えた。

何故か私は、その時間に「黙祷」の号令をかけることになった。
リーダーが、私が小4までこの地域に住んでいて、当時住んでいた父の実家が津波で土台ごと流されたことを知っての配慮だった。

今日のボランティア活動は、渡波新沼地区の泥出しと家屋の洗浄だった。

総勢20名ほどで床下のヘドロ(この地域は工業港ではないので、さほど匂いはなかった)を出し、傾いたテラスハウスを直して、きれいに拭きあげた。

私は前半は、次々に出る床板や壁板をはがした瓦礫を通りのゴミ置き場まで運ぶ役目だったのだが、気温35℃を超える猛暑の中は、きつかった。
後半は、台所、洗面所、お風呂場と言った水回りの磨き方だった。
特にお風呂場は、4年前にリフォームしたばかりということもあって、入った時は、泥だらけだったが、磨き上げるとピカピカになった。
壁に残る浸水の縞模様を消しながら、カビもシミもない天井を見て、この家の人がどれだけ大事にこのお風呂場を使っていたかがうかがわれた。

休憩時間に、この家のおばあさんが、アイスコーヒーを差し入れてくださった。
津波当時は首まで水に浸かってしまい、先日まで入院していたそうだ。
2回めの休憩時間には、お腹の大きなお嫁さんがスイカの差し入れをしてくれた。9月に2人が目生まれるのだと言う。

家の中から瓦礫を撤去する時に、勝手口付近の泥を瓦礫を取り除いていたら、三つ葉が生えていた。
モンゴルの留学生が
「そこ気を付けて」
と言った。
また、家の中を洗浄し終わった後、外回りを片付ける時も、テラスに飛び散ったガラスの破片を、砂利石をよけながら、一つ一つ丁寧に拾っていた。
「もうすぐ赤ちゃん生まれます。小さなお兄ちゃんもいる。安心して庭で遊ばせたい。」
思わずじわっと来て、時間いっぱいまで一緒にガラスを拾った。

最初に片付けたテラスハウスに、この家のおじいさんとご近所のお友達がいて、私たちの作業を見守っていた。
おじいさんは、目が不自由で、津波がきた時は二階にいて逃げられなかったそうだ。
「ボランティアさんの働きぶりには本当に感心する。私は、目がこんなだから、何にもできないのに、こんなに一生懸命やってくださって、感謝します」
と深々と頭を下げてくださった。

たしかに今日の作業は、徹底していた。
高圧洗浄機で、床、壁、扉、窓にこびりついた泥を落とし、雑巾で拭き上げ、磨き上げ、終わった頃には、後、床を貼り、畳を敷き、襖を入れればすぐにでも生活できそうなくらいだった。
ここまで徹底的にやると、ものすごい達成感がある。

終了時間を1時間もオーバーして機材を片付け終わった後、息子さんが仕事から帰ってきた。
ご家族揃ってお礼を行ってくださった時に、
「あの時も、今も、これからも大変でしょうが、新しい家族を迎えて、みなさんで頑張ってください。」
と言ったら、目にいっぱい涙を浮かべていらした。

休憩中に、ご近所の方とも話をした。
渡波小学校に避難する車が渋滞する中、逆走して祝田地区に逃げ、助かったという奥さんは、万石橋を渡る時、頭のはるか上を波とその上には船が見えたと言う。無我夢中で橋を走り抜けたと言う。
私が子どもの頃、祝田の友達の家に行く時、いつも渡っていた橋だ。あの橋を飲み込む波って・・・・。鳥肌が立った。


また、すごい偶然があった。
なんと、現勤務校の保護者の方が、ボランティア活動にいらしていたのだ。
ドーベルマンを連れていらしたその方は石巻とは縁もゆかりもないそうなのに、震災直後から石巻に来て、瓦礫や遺体で足の踏み場もなく、車も通れない頃から活動されているとのことだった。

その犬の飼い主かと思えるほど仲の良い中学生とも話をした。
彼は、私も2,3歳の頃住んでいた南浜町の家が流され、今はアパートで暮らしているとのことだった。
その日の午前中は卒業式で、津波の時間は友達と遊んでいたので、家からは何も持ち出せなかった。
小学校は津波でぶつかった船からの重油に火がついて燃え、中学校は避難所となり、バスケット部だが、ずっと部活動はできなかった。先日の中学校総合体育大会はボロ負け。

訥々と語る彼の顔は、口元は笑みを作っていたが、目は一点を見つめ、何かをあきらめたような、耐えているような、悲しい色をしていた。

「大変だったね。生きていてくれてありがとう。石巻はきっと復活するよ。みんなで助けに来るよ。一人じゃないからね。
来年、最後の中総体、今年の分まで頑張って!『諦めたら、そこで試合終了ですよ。』」
と言ったら、初めて笑ってくれた。
そこに、ボランティアメンバーから、
「そこは『先生、バスケがしたいです~』じゃないすか?」
と突っ込みが入り、そこからしばらく『スラムダンク』の話で盛り上がった。

その話を、千葉の梨園の教え子に、梨の注文のFAXに書いて送った。
「今、普通にバスケができると言う当たり前の幸せに、感謝だね。受験、頑張って!」


ところで、長女は、友達のお父さんに連れられて、3人で女川に行き、『高政』というかまぼこ工場、避難所、小学校を慰問し、石巻市役所にも行って、職員の皆さんを激励してきたそうだ。

長女の友達は、津波に遭う前の女川に行ったことがなかったのをとても残念がっていた。
私が高校生時代好きだった人が女川の人だという話を、大きな眼でじっと見つめながら、熱心に聞いてくれた。
その人の家は湾のすぐそばだったから流されただろうし、本人とは22歳の時に偶然会って以来、消息はしらず、Googleで尋ね人検索をしても情報は得られなかったことをいうと、大きな眼はウルウルしていた。

明日、仕事やバイトがあると言う娘たちは、夜行*(バス)*で東京に帰って行った。
帰り際、
「またボランティアに来たいです!」
と言ってくれたのが、本当にうれしかった。

是非、ここ↓にアクセスしてください!ダウンロードしてくださると、義援金として寄付されるそうです。

http://www.youtube.com/watch?v=2hZn7upG_nA

石巻ボランティア日記 2日目

2011-08-17 07:05:00 | 徒然なるままに
8月10日(水)

今日は、一緒に石巻に来た娘二人と長女の友達という、若い娘たちを連れてボランティア活動に参加した。

現場は昨日と同じ場所。
今日は、モンゴルから来た留学生5人を加えて総勢16名だ。
昨日以上の暑さの中、娘たちは、文句も言わず、鼻が曲がる様な異臭を放つヘドロ出しを手伝った。
昼食も、わずかな日陰を求めれば、津波直撃の後のまま放置されている家を眺めながら、群がる大きな黒いハエをぼいながら、おにぎりを食べた。
キャンプに連れていけば、虫が寄って来ればキャーキャー言っていたような娘たちには全く見えない。

私は、キッチンの床下に潜って、最後のヘドロ出しをしていて、娘たちとは離れた場所だったが、指示待ちではなく、自分から積極的に仕事を見つけ、メンバーを手伝い、サクサク仕事をしている様子は伝わってきた。

特に、末娘は、ボランティアは原則として高校生の参加は不可なのだが、保護者同伴の家族参加として無理に認めて頂いたという自覚もあってか、人一倍働いていた。
休憩時間のドリンクも、進んでみんなに配り、常にだれかの仕事をサポートし、最後まで使った道具を洗っていたのも末娘だった。

また、モンゴルの留学生の心の優しさには感動した。
朝青竜張りのガタイのいい、無表情な雰囲気に、ちょっと近寄りがたい感じがあったのだが、外回りの泥出しや瓦礫撤去の際に、向日葵が邪魔なのでどうするかという話の時に、
「ヒマワリ、守ります。抜きません。気を付けて泥運びます。」
と、向日葵を傷付けないように一生懸命運ぶ姿に、娘たちも感動していた。


帰宅した後の娘たちの話は実に面白かった。
娘たちは、口数少なく黙々と仕事をしながらも、鋭い人間ウォッチングをしていた。
誰が本当のリーダーか、誰が一番仕事が出来るか、ボランティア精神とは何か、娘たちの視点は実に厳しかった。だが、的確に的を得ていて、逆に大変勉強になった。

作業は大変だったけれど、昼食に依頼主の方のお友達が差し入れて下さった冷たいキュウリの漬物が美味しかった事や、依頼主の方が、片付いた家の中を見て、嬉しそうに笑って下さった笑顔を見れて、今日頑張ってよかった、という感想を聞かせてくれた。

なにより、お父様が女川の長女のお友達が、
「父と一緒では、こんな体験はできませんでした。連れて行って下さってありがとうございました」
と言われた時は嬉しかった。
熱中症や破傷風も心配だったが、初めてのボランティア活動がヘドロ出しだなんて、東京生まれの世田谷成城育ちのお嬢様にはあまりにも過酷な現場だった。
何かあったら、ご両親に申し訳が立たないと思って、ヒヤヒヤしていたのだ。
なのに、彼女は、また来てボランティアをやりたいとまで言ってくれた。
その気持ちだけで、十分すぎる。

夕方、彼女のお父様が実家に挨拶に見えた。
彼も石巻に来て、これから高校の同窓会に参加し、明日は娘たちと女川に行くということだった。
故郷の町が壊滅状態の被害を受け、実家が無くなってしまったお父様と一緒に見る女川の町は、娘たちにとっても、忘れられない思い出になる事だろう。

今日は、母としても、娘たちの成長ぶりを垣間見られたとても充実した有難い一日だった。

石巻ボランティア日記 1日目

2011-08-17 06:15:00 | 徒然なるままに
8月9日(火)

昨夜、新宿発の夜行バス*(バス)*に乗り、早朝、石巻の実家に到着。朝食を頂いて、いざ、ボランティア活動へ出陣。

石巻専修大学構内にある災害ボランティアセンターで登録後、大街道地区の民家の泥出し作業をするグループに混ぜてもらった。
大街道地区は、石巻湾の工業港からの津波をまともに受けて半壊全壊した家屋が多く、製紙工場や飼料工場からの瓦礫や、大型トラックなどが流れてきて破壊された家や、自動車の流失被害の大きい地区だ。

周囲には、土台ごと流され、更地に近い状態になった場所もあるが、辛うじて残っている家屋は5カ月近く経ってもあの津波にあった日のまま、手つかず状態でそのまま放置されている家が沢山あり、そのほとんどは、再建不能で撤去を待つ家か、そこのご家族が全員亡くなっている場合が多い。

築7年目というそのお宅は、辛うじて家の原型は保っているが、2階の床上50?まで水に浸かった家だ。
床下のヘドロを描き出すだけで、9:00~3:00まで10人がかりでやっても終わらなかった。
ヘドロは、工業港の海底に長年堆積していた化学薬品の匂いなのか、独特の異臭を放ち、うっかり皮膚に付着したら「ヘドロ焼け」になると言われ、長袖にアームカバー、長ボム手袋、長ズボンの上にレインパンツ、ゴーグルに、防塵マスク、ほっかぶりの上に帽子といういでたちで、気温35℃の中での作業だった。

作業は、きつかったが、メンバーには恵まれた。
というか、ボランティアに来ている人達の心意気や、作業ぶりに感謝、感激、感動しながらの作業だった。
自宅も被災しているのに、全国各地から駆けつけて懸命にボランティア活動をしている人たちに感激して、自分もボランティア活動を始めたという地元の人
阪神大震災の時は、自分は小学校低学年だったが、その時、全国からたくさんの人たちが来てボランティアをしてもらったり、支援物資を送っていただいて助けられたので、今度は自分がボランティアをする番だと思って石巻に来てくれた人、
海外留学中にニュースで震災の事を知り、自分にもできることはないかと駆けつけてくれた人
きっかけや思いはそれぞれだが、その丁寧でエネルギッシュな仕事ぶりには本当に頭が下がるし、元気をもらえる。

休憩中に、お隣のおじいさんとお話をした。
津波が来た時には逃げ遅れ、2階に通り残されたが丈夫な鉄骨住宅だったので、(木造家屋はすべて流されている)2階まで浸水し、水が引くまで2日間閉じ込められていたそうだ。
そのおじいさんが、
「今は、自分の家の事で精いっぱいだけど、あんだ方ボランティアの人たちの仕事ぶり見でっと、今度どごがでこいな事あったら、今度は自分がそごさ行って役に立だねくてねえなと思うよ。ほんとに、ありがだいことです。」
とおっしゃって下さった。
その家だけでなく、周囲の家の庭には向日葵が植えてあった。その事を聞くと、
「ボランティアさんが植えでってけだのっしゃ。向日葵は塩害に強いんだと」
見れば、おそらく綺麗なお庭だった時に植えられていた木や草花は、塩水やヘドロをかぶり、赤茶けて枯れ、根こそぎ倒れている。その中で元気に葉を広げ、つぼみを付けている向日葵は、見ているだけで元気になる。
家々によって生育がずれているのは、ボランティアが入った順番の差らしい。

とりあえず今日の作業が終わり、明日は、残りのヘドロ出しと外回りをすることになって、引き上げた。

ボランティアセンターの資材倉庫前で片付け作業している時、全身を水洗いしている学生たちがいたので声をかけると、牡鹿半島の富貴浦という町自体が壊滅状態になった地区の側溝の泥出しをしてきたのだという。そればかりか、明日は福島のダムの決壊現場のボランティアに行くという。
三重県から来たという息子の様な年頃の若者の屈託のない笑顔に、思わず胸が熱くなって、
「熱中症や怪我に気を付けて、がんばってね!あと、放射能にも。」
と言って別れた。

こういう人たちが、故郷を綺麗にしてくれ、石巻が一日も早く復興する様に応援してくれているのかと思うと、本当にありがたくて涙が出る。
専修大学の広い駐車場に駐めてある全国各地のナンバープレートの地名を見ながら、身体は疲れているのに、心はすごく元気になって家路に着いた。

帰省日記 ~被災地石巻に帰って~ 1日目と2日目

2011-08-06 11:39:00 | 徒然なるままに
8月1日(月)

早朝、夜行バスにて石巻入りした。

私の実家がある向陽町は、津波の被害も、北上川の浸水の被害もなく、実家も、直して住めるようになっていた。
両親が無事なこと、自分の実家が現存することが、どんなにうれしいことか。
この、当たり前のことが当たり前にある奇跡のありがたさを痛感した。

家は、津波も浸水も免れたが、3月11日と4月7日の地震で、被害は受けたがG.Wに帰省した弟が、壊れたり傷んだところをだいぶ直して、家具にも耐震金具を付けてくれていた。

午後から仙台で被災した、小学校教諭をしている友人と会い、当時の様子などを聞いた。
教員という職業柄、災害発生時ばかりでなく、その後の多種多様な対応など、実際に体験した人でないとわからないいろいろなことを聞いた。

夜、川開きの花火大会を見た。
昼間、石巻河北新聞社の震災写真集を見ていたので、石巻の町がどんなふうになっているのか本当に心配だった。

行ってみると、あちらこちらに津波の爪痕は生々しく残って入るものの、町は、メインストリートだけでなく、裏通りまで瓦礫もヘドロもきれいになくなっていた。
みんな、この川開きを目標に、一生懸命頑張って、街をきれいに片づけたんだなあと思うと、感謝と感動で涙が出た。
日和山の陰になって、瓦礫に吹きだまりになって、いまだに電気は通じず、最後まで片付かなかった地区の店のショーウインドーに
「ボランティアの皆さんへ
私たちの街をきれいにしてくださって、ありがとうございました。」
という貼り紙があった。

空は薄曇りで、心配された雨はなく、花火はきれいに見えた。
かのまたやのご主人の話では、花火大会開催についてはギリギリまで賛否両論あったということだ。
なんと言っても、大口スポンサーの漁協、商工会、造船所、製紙工場が甚大な津波の被害を受けているのだ。
「こんな時に、晴れるかどうかも分からないのに、花火に金を使うより、他に使うべきところがあるだろう」
「こんな時だからこそ、供養の花火大会をやって、石巻の再興への奮起を図るんだ!」

本来なら、今年は、石巻が全国花火大会の会場だったのだそうだ。
震災・津波の被害で、川開き花火大会の開催が危ぶまれているのを聞きつけた、全国8か所から、花火の寄贈があったのだそうだ。
長岡からは、石巻の会場に合わせた「ミニフェニックス」が寄贈されたそうだ。
本当にありがたいことだと思う。
来年は、ぜひとも全国花火大会の会場として、恩返しの花火がたくさん打ち上げられるように、一緒に頑張りましょう!

果たして、皆の願いを聞き届けてくれたように、当日は雨は降らず、美しい花火が中瀬から石巻上空に上がり、8月1日の夜空を彩った。
きっと、天国に昇ったたくさんの人たちも、空の上からきれいな花火を楽しんでくれたことだろう。
花火の映像はこちらをぜひご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=MrCifbhwlEQ



8月2日(火)

朝から両親と妹と一緒に、渡波~女川、鹿妻、新漁港、湊地区、門脇、南浜町という、私たち一家が関わりのあった地区で、壊滅的な被害を受けた場所を車で回った。

行く途中、石巻女子商業高校の校庭に、信じられないほどの高さに積み上げられた瓦礫の山を見た。

松原町にあった父の実家は、土台と水道栓だけ残して、家の残骸すらも残っていなかった。
家の跡地には、どこからか漂着したわけのわからないよその家の残骸が砂に埋もれて散乱していた。
庭には、亡き叔母が娘時代に植えた薔薇の木が花の時期を終え、緑の葉を茂らせていた。
持って帰ることはできないので、持ってきた水をかけてあげた。

瓦礫と無人の半壊の家々が建ち並ぶ国道沿いに、1件だけ、きれいにして営業しているケーキ屋さんがあった。
それに感動して、その元気を分けてほしいというか、応援したくて立ち寄ったら、その店は、私が乳飲み子の時に母が働いていた製菓店だった。
自宅もまだ半壊状態なのだが、店の鉄骨だけは残ったので、ヘドロを出し、修理して、店を再開したのだと言う。
母は、その話に甚く感動していた。

女川は、まさに、壊滅状態だった。
土台ごとひっくり反された4階建てのビルや、1階に泥だらけの車が飛び込んだまま放置されていた。
かなりの高台にある町立病院の1階まで浸水したという津波の水位は、何メートルあるのだろう。
駅は跡形もなくなっていて、女川線の復旧は全く目度がつかないそうだ。

美しい漁業の町女川の、一日も早い復興と行方不明者の方々の安否確認ができますように…。

再び、渡波に戻り、海沿いを行くと、あの美しかった松林は、塩害で赤茶けていた。津波の直後は、松林のてっぺんまで、わけのわからないものが枝枝に引っかかって、もっと無残な姿だったらしい。

かつて東洋一を誇った石巻新漁港は、まともに津波の被害を被って、たくさんの人が仕事中に被害に遭い、犠牲になったと聞いた。
瓦礫と残骸の中で、全国の漁協から支援を受けて、立ち上がって元気に営業を再開しているブースがあって、逆にこちらが勇気づけられた。

新漁港から日和大橋を渡り、その橋上から石巻を見降ろすとその痛ましい姿に胸がえぐられるようだった。
かつて街並みがあったところは更地となり、その脇には残骸と瓦礫の山、津波でぐちゃぐちゃに潰された自動車が何台も積み上げられて壁のように道路脇に続いていた。

石巻パルプはいつから操業できるのだろう。
津波と火災で壊滅状態になった門脇地区は、電気が通じていないらしく、信号が点滅していないので、交差点では皆が譲り合って走行していた。


その日の家に帰るという妹を見送った後、専修大学のボランティアセンターに行って、9日~17日までのボランティア活動の申請をして来た。


夕方、両親と3人で映画を見た。
「ロック~わんこの島~」という、三宅島の大噴火の時の犬とその家族の話だった。
http://www.rock-wanko.com/
公開中の映画なので内容には触れないが、ぜひ、被災地の人たちに見てほしい、タイムリーな映画だと思った。