8月18日(木)
今日は、いよいよ千葉に戻る日。
一昨日の朝、東京から帰省した弟は、私と入れ替わりに今日からボランティア活動を始めた。
弟は、震災直後に石巻に来て、避難所がいっぱいだったので、壊れた自宅にいた両親を見つけてくれたものの、私達には電話が通じず、仙台まで戻ってきたところでやっと連絡が取れ、私達は両親の無事を知ることができた。
「家が無事なのに、自分たちだけ東京に避難できない」
と、石巻に留まると言う両親に、
「東京に戻って、もっと必要な物資を満載して石巻に帰ってくる」
と言い残して、東京に向かう途中、福島原発の爆発事故が起き、避難する住民の大渋滞に捲きこまれてしまった。
とるものもとりあえず、石巻まで来たものの、帰りのガソリンを積んでいなかった弟は、震災後のガソリン不足で、栃木県に入ったところで、ついにガソリン切れになってしまい、宇都宮付近の民家の庭先に車を置かせてもらって、新幹線で東京に戻ったのだ。
それから2週間、その車を取りに行こうにも、原発の事故は続き、ガソリンはなかなか手に入らず、ようやく車を取りに行った時、なんと、その民家の方が、ガソリンを満タンにして置いてくださった上に、米まで下さって、お金を払おうとした弟に、
「こういう時です。困った時はお互い様です。お米をご両親に届けてあげてください」
と、言って、お金は受け取らなかったそうだ。
本当に、本当に、その方には感謝している。
弟はその後、G.Wにも1週間近く帰省し、家を直してくれた。
父は、
「若いって素晴らしいなあ。力仕事も、高いところの修理も、耐震グッズの取り付けも全部やってもらった。」
と感心し、母も、
「4月の余震の時、水がなくて苦労したことを叱られて、いろんなものをどっさり買ってってくれたの。助かった~。」
救援物資は、避難所にいる人達には配られても、自宅難民には支給されないようだった。
弟は、中越地震の時、2週間ボランティア活動に出かけたが、車で寝泊まりしているうちにエコノミー症候群になり、途中で活動をやめて帰るしかなかったことを今でも悔いている。
今回も、家のためには迅速に動いて、やるべきことをやったが、そのために休みをたくさんとってしまっていたので、石巻の街自体にはまだボランティア活動をやっていないことを気にしていた。
そこに、私と姪っ子たちのボランティアの話を聞き、俺も!と思ったらしい。
昨日、両親と、大川小学校や、5か月経った今も津波で公民館の屋根の上にバスが乗っかったままの雄勝地区の方を回ってきた弟は、
「3月~5月の時は、まだ瓦礫だらけで、そこには街があったんだという実感があったけど、それらを全部撤去されてしまうと、本当に何もなくなって、ここに街があって、誰かが生活していたなんて信じられないような更地になっていた。あそこにポツンと立っているる建物は?と思ったら、それが、あの大川小学校だった。雄勝なんて、誰も住んでないよ。」
雄勝の雄勝硯伝統産業会館には、父が回顧展を開いた時に飾ってもらった油絵の大きな作品が20点以上収蔵されていたのだが、今回の津波で、全部流されてしまったのだ。父は、絵はもちろんだが、額縁もだめになってしまったことにがっかりしていた。どれほどの損害だろう。
雄勝は、日本有数の硯石の産地で、たくさんの素敵な硯が展示されていた。
疲れるから新幹線で帰れと言う母の言うことを聞かず、昼のバス*(バス)*で東京に向かった。それは、どうしても、福島のサービスエリアで桃を買いたかったからだ。安達太良サービスエリアの売店で桃を買った時、売店の人が、
「いつもは、店先に3列ぐらい桃を並べて露天販売してたんだけど、店の中のここでしか売れなくて、売れ行きも去年の3分の1ぐらいなんです」
と言っていた。
「毎年、ここで桃を買って帰るので、心配していました。学生時代、山梨で桃の出荷のバイトをしていたので、桃をここまでに育てて出荷する大変さを知っているだけに、農家の人たちの無念がよくわかります。頑張ってください」
「ありがとうございます。農家の人に伝えます」
と言っていた。
サービスエリアの売店には、『絆』『東北人魂』と書かれたTシャツが売ってあり、福島への義援金と思って、2枚買った。
窓に広がる緑の山々田園風景は、いつもと変わらぬ美しい『うつくしま・福島』の風景だ。ここが、放射能で汚染されているだなんて・・・。人間だけでない、森の生物や川にだって湖にだって生き物はいる。この自然は、どこにも避難できない。ただ、黙って、放射能を浴び続けるしかないのだ。
津波で流されたわけでもないのに、自宅に戻れずに5カ月も着の身着のままで避難所生活をしている福島の人たちの苦しみや無念は、私の想像をはるかに超えているものだろう。
原発事故の一日も早い収束と、福島の人たちの心と体の健康を心よりお祈りいたします。なんだかんだと、帰宅した時には日付が変わっていた。
明日は成田で研修だ。その後も土日なしで研修続きだ~!
今日は、いよいよ千葉に戻る日。
一昨日の朝、東京から帰省した弟は、私と入れ替わりに今日からボランティア活動を始めた。
弟は、震災直後に石巻に来て、避難所がいっぱいだったので、壊れた自宅にいた両親を見つけてくれたものの、私達には電話が通じず、仙台まで戻ってきたところでやっと連絡が取れ、私達は両親の無事を知ることができた。
「家が無事なのに、自分たちだけ東京に避難できない」
と、石巻に留まると言う両親に、
「東京に戻って、もっと必要な物資を満載して石巻に帰ってくる」
と言い残して、東京に向かう途中、福島原発の爆発事故が起き、避難する住民の大渋滞に捲きこまれてしまった。
とるものもとりあえず、石巻まで来たものの、帰りのガソリンを積んでいなかった弟は、震災後のガソリン不足で、栃木県に入ったところで、ついにガソリン切れになってしまい、宇都宮付近の民家の庭先に車を置かせてもらって、新幹線で東京に戻ったのだ。
それから2週間、その車を取りに行こうにも、原発の事故は続き、ガソリンはなかなか手に入らず、ようやく車を取りに行った時、なんと、その民家の方が、ガソリンを満タンにして置いてくださった上に、米まで下さって、お金を払おうとした弟に、
「こういう時です。困った時はお互い様です。お米をご両親に届けてあげてください」
と、言って、お金は受け取らなかったそうだ。
本当に、本当に、その方には感謝している。
弟はその後、G.Wにも1週間近く帰省し、家を直してくれた。
父は、
「若いって素晴らしいなあ。力仕事も、高いところの修理も、耐震グッズの取り付けも全部やってもらった。」
と感心し、母も、
「4月の余震の時、水がなくて苦労したことを叱られて、いろんなものをどっさり買ってってくれたの。助かった~。」
救援物資は、避難所にいる人達には配られても、自宅難民には支給されないようだった。
弟は、中越地震の時、2週間ボランティア活動に出かけたが、車で寝泊まりしているうちにエコノミー症候群になり、途中で活動をやめて帰るしかなかったことを今でも悔いている。
今回も、家のためには迅速に動いて、やるべきことをやったが、そのために休みをたくさんとってしまっていたので、石巻の街自体にはまだボランティア活動をやっていないことを気にしていた。
そこに、私と姪っ子たちのボランティアの話を聞き、俺も!と思ったらしい。
昨日、両親と、大川小学校や、5か月経った今も津波で公民館の屋根の上にバスが乗っかったままの雄勝地区の方を回ってきた弟は、
「3月~5月の時は、まだ瓦礫だらけで、そこには街があったんだという実感があったけど、それらを全部撤去されてしまうと、本当に何もなくなって、ここに街があって、誰かが生活していたなんて信じられないような更地になっていた。あそこにポツンと立っているる建物は?と思ったら、それが、あの大川小学校だった。雄勝なんて、誰も住んでないよ。」
雄勝の雄勝硯伝統産業会館には、父が回顧展を開いた時に飾ってもらった油絵の大きな作品が20点以上収蔵されていたのだが、今回の津波で、全部流されてしまったのだ。父は、絵はもちろんだが、額縁もだめになってしまったことにがっかりしていた。どれほどの損害だろう。
雄勝は、日本有数の硯石の産地で、たくさんの素敵な硯が展示されていた。
疲れるから新幹線で帰れと言う母の言うことを聞かず、昼のバス*(バス)*で東京に向かった。それは、どうしても、福島のサービスエリアで桃を買いたかったからだ。安達太良サービスエリアの売店で桃を買った時、売店の人が、
「いつもは、店先に3列ぐらい桃を並べて露天販売してたんだけど、店の中のここでしか売れなくて、売れ行きも去年の3分の1ぐらいなんです」
と言っていた。
「毎年、ここで桃を買って帰るので、心配していました。学生時代、山梨で桃の出荷のバイトをしていたので、桃をここまでに育てて出荷する大変さを知っているだけに、農家の人たちの無念がよくわかります。頑張ってください」
「ありがとうございます。農家の人に伝えます」
と言っていた。
サービスエリアの売店には、『絆』『東北人魂』と書かれたTシャツが売ってあり、福島への義援金と思って、2枚買った。
窓に広がる緑の山々田園風景は、いつもと変わらぬ美しい『うつくしま・福島』の風景だ。ここが、放射能で汚染されているだなんて・・・。人間だけでない、森の生物や川にだって湖にだって生き物はいる。この自然は、どこにも避難できない。ただ、黙って、放射能を浴び続けるしかないのだ。
津波で流されたわけでもないのに、自宅に戻れずに5カ月も着の身着のままで避難所生活をしている福島の人たちの苦しみや無念は、私の想像をはるかに超えているものだろう。
原発事故の一日も早い収束と、福島の人たちの心と体の健康を心よりお祈りいたします。なんだかんだと、帰宅した時には日付が変わっていた。
明日は成田で研修だ。その後も土日なしで研修続きだ~!