『不毛地帯』といい、『官僚達の夏』といい、戦後の日本の高度成長期がどのように発展してきたのかを省みる『ドラマ』が多く制作されている。
私も、来年50歳を迎える。
今までは、自分のことで精一杯だった。
が、長男が就職活動を始め、長女が自立しようとしている今、自分の通ってきた道を振り返る時期に来ているのかもしれないと思った。
自分が通ってきた道とは、すなわち、両親が私達兄弟を生み育ててきてくれた時代を振り返ることであり、また、祖父母が戦後、その両親達を一人前に育て上げてくれた時代に思いを馳せることにもなる。
祖父母の話は、小さい頃は『昔話』だった。両親が現役で頑張っていた時代の話は、『大人の話』だった。子どもだった私は、学校で習うことだけを学び、ニュースはTVで流れ、新聞に書かれてあることで、地方で育った私にとっては、何の現実味もなかったことだった。
中学3年生の時、日本は『戦後30年』を迎えた。
秋の弁論大会で、私はその年の夏休みにNHKのTVで見た『被爆者が描いた原爆の絵を見て』と言う題で発表をした。その原稿を祖父に読んで聞かせたことがある。祖父は、じっと聞いていてくれて、
「お前だぢが大人になっても、あいな戦争なんかねえ世の中にすんだど」
と言ってくれ、静かに涙を流していたのを思い出す。
その祖父は、翌年、私の高校受験の前々日に癌で亡くなった。
祖父は陸軍として出兵し、馬方役として、陸路で物資を前線まで運ぶ役目だったと聞いている。だから、銃を持って人は殺していないと聞いたときは、子ども心にホッとしたものだった。
南方ではマラリアに罹って大変だったそうだ。
出征前は、東京の神田で大きな製本工場を経営していたが、機械は供出させられ、工場は東京大空襲で焼け、私の父は春日部の疎開先から祖父の実家の宮城に疎開し、祖母とまだ乳飲み子だったおばは、線路伝いに故郷の宮城を目指したのだと言う。
祖母は、『アメリカ』と『チョコレート』が大嫌いだった。
小さい頃は、それが何故だか不思議で仕方がなかったが、私が東京の小平市で一人暮らしを始めた年に、初めてアパートに泊まりに来た時、自衛隊の飛行機が飛び去る音を聞いて、おびえている祖母を見たとき、すべてが理解できた。
祖母は、東京大空襲の火をくぐり抜けた人だった。
あの晩、祖母とたくさんの話をした。祖父との出会いや、祖父が出征していた間のこと、祖父が生きて帰ってきた時のことなど。それまでに聞いた事のない内容の話だったが、祖父が生きていた頃は喧嘩ばかりしていたのに、その時の祖母は、まるで少女のようにはにかんで、いろいろなことを話してくれた。
今の私にとっての『30年前』は、今の長女と同い年で、初めて東京で一人暮らしをはじめたとしだ。あらゆることがつい、昨日のことのように鮮明に思い出される。
祖父母にとっても、たとえ、30年、40年経っても、あの戦時中のことはつい昨日のことのように、覚えていたことだろう。
でも、子どもの頃の私はそんな『昔話』に聞く耳を持たず、何かといえば、「戦時中はね・・・」と切り出されると、今の言葉で言う『ウザイ』と思っていた。
本当に申し訳なく、もったいなかったと思って後悔している。
『不毛地帯』や『官僚達の夏』を見ながら、その時代背景に、自分の生い立ちが重なる。
ああ、両親はこういう時代に、私達家族のために働き、家を建て、私達兄弟を独立させてくれたのだなあと、当時の両親の年齢と、自分の年齢とを重ね合わせながら見ている。
いわゆる『高度成長期』と言われ、敗戦国日本が、アメリカに追いつけ追い越せと企業戦士となって頑張っていた時代だ。
『東京オリンピック』はまだ小さくてあまり良く覚えていないが、『アベベ』の名前と『東洋の魔女ブーム』は覚えている。
世界は米ソ2大大国の冷戦状態で、朝鮮戦争、ベトナム戦争、日本国内でも大学紛争など、動乱の時代だったと思う。
そんな中で、米ソの宇宙開発競争は、私達『アトムの子ども』達にとっては明るい未来を想像させる出来事だった。その象徴が、アポロ11号の月面着陸であり、その時に持ち帰ったと言われる『月の石』を展示した大阪万国博覧会だった。
ドラマを見ていると、あの頃の日本がどんな状態だったのか、世界という視野や歴史と言う観点から見た時の、当時の日本を客観的に見ることが出来る。
と同時に、戦後、ここまでの日本にして下さった諸先輩への感謝の気持ちと畏敬の念を抱きながらも、敗戦と復興の代償に、『負の遺産』を残さざるを得なかった、祖父を含めたくさんの方々の無念と反省を私達は学び、解決していかなければならないと思う。
それが、今、『忘れたい、葬り去りたい過去』とあえて向き合い、2度と同じ間違いを犯さないようにとさまざまな形でメッセージを送り続けてくださっている人生の先輩方から、私達がしっかり受け継がなければならないことなのだと思うのだ。
『現在』は良くも悪くも『過去の集大成』から成り立っている。過去に戻ってやり直すことは出来ない。
『未来』は、『現在』の延長線上にある。『明るい未来』にするのも、『暗い未来』にするのも、常に『現在』のあり方にある。
予測はつくはずだ。そのために必要なのは、『過去から学ぶこと』。まさに、『温故知新』だ。と同時に、今、何が世界に、地球に起きているのかを知ることも大切だ。
『まだ、間に合う未来』のために。
ドラマを見ていて、今の日本は、本当に、物質的には恵まれ、いや、恵まれ過ぎている世の中になったと思う。
でも、なんだか、私が小さい頃に思い描いていた未来にはまだ立っていないと思う。何かが決定的に足りない気がする。
かつて、人類で始めて宇宙空間から地球を見たガガーリンは言った。
『地球は青かった』と。
あの、『国境』が描かれていない、宇宙の青い宝石のような地球を初めて見たあの気持ちを、これからもどんな時代になっても忘れずに生きていこうと思う。
祖父が私に託していった言葉を胸に・・・。
私も、来年50歳を迎える。
今までは、自分のことで精一杯だった。
が、長男が就職活動を始め、長女が自立しようとしている今、自分の通ってきた道を振り返る時期に来ているのかもしれないと思った。
自分が通ってきた道とは、すなわち、両親が私達兄弟を生み育ててきてくれた時代を振り返ることであり、また、祖父母が戦後、その両親達を一人前に育て上げてくれた時代に思いを馳せることにもなる。
祖父母の話は、小さい頃は『昔話』だった。両親が現役で頑張っていた時代の話は、『大人の話』だった。子どもだった私は、学校で習うことだけを学び、ニュースはTVで流れ、新聞に書かれてあることで、地方で育った私にとっては、何の現実味もなかったことだった。
中学3年生の時、日本は『戦後30年』を迎えた。
秋の弁論大会で、私はその年の夏休みにNHKのTVで見た『被爆者が描いた原爆の絵を見て』と言う題で発表をした。その原稿を祖父に読んで聞かせたことがある。祖父は、じっと聞いていてくれて、
「お前だぢが大人になっても、あいな戦争なんかねえ世の中にすんだど」
と言ってくれ、静かに涙を流していたのを思い出す。
その祖父は、翌年、私の高校受験の前々日に癌で亡くなった。
祖父は陸軍として出兵し、馬方役として、陸路で物資を前線まで運ぶ役目だったと聞いている。だから、銃を持って人は殺していないと聞いたときは、子ども心にホッとしたものだった。
南方ではマラリアに罹って大変だったそうだ。
出征前は、東京の神田で大きな製本工場を経営していたが、機械は供出させられ、工場は東京大空襲で焼け、私の父は春日部の疎開先から祖父の実家の宮城に疎開し、祖母とまだ乳飲み子だったおばは、線路伝いに故郷の宮城を目指したのだと言う。
祖母は、『アメリカ』と『チョコレート』が大嫌いだった。
小さい頃は、それが何故だか不思議で仕方がなかったが、私が東京の小平市で一人暮らしを始めた年に、初めてアパートに泊まりに来た時、自衛隊の飛行機が飛び去る音を聞いて、おびえている祖母を見たとき、すべてが理解できた。
祖母は、東京大空襲の火をくぐり抜けた人だった。
あの晩、祖母とたくさんの話をした。祖父との出会いや、祖父が出征していた間のこと、祖父が生きて帰ってきた時のことなど。それまでに聞いた事のない内容の話だったが、祖父が生きていた頃は喧嘩ばかりしていたのに、その時の祖母は、まるで少女のようにはにかんで、いろいろなことを話してくれた。
今の私にとっての『30年前』は、今の長女と同い年で、初めて東京で一人暮らしをはじめたとしだ。あらゆることがつい、昨日のことのように鮮明に思い出される。
祖父母にとっても、たとえ、30年、40年経っても、あの戦時中のことはつい昨日のことのように、覚えていたことだろう。
でも、子どもの頃の私はそんな『昔話』に聞く耳を持たず、何かといえば、「戦時中はね・・・」と切り出されると、今の言葉で言う『ウザイ』と思っていた。
本当に申し訳なく、もったいなかったと思って後悔している。
『不毛地帯』や『官僚達の夏』を見ながら、その時代背景に、自分の生い立ちが重なる。
ああ、両親はこういう時代に、私達家族のために働き、家を建て、私達兄弟を独立させてくれたのだなあと、当時の両親の年齢と、自分の年齢とを重ね合わせながら見ている。
いわゆる『高度成長期』と言われ、敗戦国日本が、アメリカに追いつけ追い越せと企業戦士となって頑張っていた時代だ。
『東京オリンピック』はまだ小さくてあまり良く覚えていないが、『アベベ』の名前と『東洋の魔女ブーム』は覚えている。
世界は米ソ2大大国の冷戦状態で、朝鮮戦争、ベトナム戦争、日本国内でも大学紛争など、動乱の時代だったと思う。
そんな中で、米ソの宇宙開発競争は、私達『アトムの子ども』達にとっては明るい未来を想像させる出来事だった。その象徴が、アポロ11号の月面着陸であり、その時に持ち帰ったと言われる『月の石』を展示した大阪万国博覧会だった。
ドラマを見ていると、あの頃の日本がどんな状態だったのか、世界という視野や歴史と言う観点から見た時の、当時の日本を客観的に見ることが出来る。
と同時に、戦後、ここまでの日本にして下さった諸先輩への感謝の気持ちと畏敬の念を抱きながらも、敗戦と復興の代償に、『負の遺産』を残さざるを得なかった、祖父を含めたくさんの方々の無念と反省を私達は学び、解決していかなければならないと思う。
それが、今、『忘れたい、葬り去りたい過去』とあえて向き合い、2度と同じ間違いを犯さないようにとさまざまな形でメッセージを送り続けてくださっている人生の先輩方から、私達がしっかり受け継がなければならないことなのだと思うのだ。
『現在』は良くも悪くも『過去の集大成』から成り立っている。過去に戻ってやり直すことは出来ない。
『未来』は、『現在』の延長線上にある。『明るい未来』にするのも、『暗い未来』にするのも、常に『現在』のあり方にある。
予測はつくはずだ。そのために必要なのは、『過去から学ぶこと』。まさに、『温故知新』だ。と同時に、今、何が世界に、地球に起きているのかを知ることも大切だ。
『まだ、間に合う未来』のために。
ドラマを見ていて、今の日本は、本当に、物質的には恵まれ、いや、恵まれ過ぎている世の中になったと思う。
でも、なんだか、私が小さい頃に思い描いていた未来にはまだ立っていないと思う。何かが決定的に足りない気がする。
かつて、人類で始めて宇宙空間から地球を見たガガーリンは言った。
『地球は青かった』と。
あの、『国境』が描かれていない、宇宙の青い宝石のような地球を初めて見たあの気持ちを、これからもどんな時代になっても忘れずに生きていこうと思う。
祖父が私に託していった言葉を胸に・・・。