TOLITON's WEB SITE

日記中心
 
情報提供(アニメ・映画・美術関係)

交流

『いじめをどう考え、乗り越えさせるか』

2012-10-28 10:51:44 | 担任雑記
10月28日(日)

昨日は、『いじめをどう考え、乗り越えさせるか』というテーマのディスカッションに参加してきた。

いじめとは、文部科学省の定義によれば、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」とされている。

大きく分けると、異質排除(無視、シカト、仲間はずれ、差別、蔑視など)と同質強要(パシリ、万引き仲間など)、そして、その傍観者たちという『いじめの3構造』になる

これは、子どもの世界、教育現場だけでなく、集団があれば、古今東西、どこにでも起こりうることで、それは、絶対に無くならないものだと思う。
家庭内でも、地域でも、社会の中で、国際間で、あらゆるところで起きているのだ。
まして、『変化の激しい、先行き不安な厳しい時代』、刺激的文化が氾濫する現代、いじめの形は多様化し、陰湿化している。

一方で、人とのコミュニケーションツールが乏しい、我慢や人の痛みを想像することができる成長過程を持たない生育歴の子どもたちは、自分が『いじめをしている』ことも『いじめを受けている』感覚も、他人に言われないと気づかないことが多い。
悪質なのは、『いじめをしている』のはわかっていて、あえて、ターゲットを定め、その子が不登校になるまで追い詰めると、次のターゲットを探す。
ターゲットにされたくないものは、率先していじめに加担する。と言う陰湿ないじめが実際に起きている。
いじめられる前に誰かをいじめれば、自分はいじめられないという自己防衛からのいじめもある。
時には、いじめていた側が、何かの瞬間にいじめられる側になるという、いじめの逆転が起こることもある。人を責めるというのも『いじめ』だということを知らない正義感の強い人たちによって。

また、いじめられた子は、そのうっ憤を、また別の、自分より弱い立場、甘えられる人への暴力となって表現するか、それすらもできない時は、自虐的行為となって自殺にまで至ってしまう。この虐待の連鎖はあまりに痛ましい。


昨日のディスカッションの中で、自分は、いじめられたことや、いじめをしたことはあるかという体験談コーナーがあった。
いろいろな体験談を聞きながら、いじめられたことも、自分がいじめたことも、辛い嫌な思い出ではあるが、それも成長過程、人格形成の中で、避けては通れなかった、貴重な体験として語っていらっしゃる方もいた。
今、教師となり、また、親となって、子ども達に教え導き育む大人として、いじめられた経験も、いじめた経験もないのは、何を持って『いじめ』の指導ができるのだろうか。
いじめられた辛さ、それを乗り越えることができたのは、どんなきっかけがあったのか、
いじめる側の気持ち、なぜ、そういうことをしてしまったのか、そのことを後後どう思って生きてきたのか。どうすれば、いじめなくてもすんだのか。

いじめは撲滅はできない。でも、深刻化を防ぐことや、乗り越えることはできるはず。
己の辛い体験は、その時に役に立つ。

トラブルは、その子自身が追い詰められている背景やそこから生まれる発達要求を理解したうえでの指導でなければ、その場はおさめられても、必ず同じことが繰り返される。
強い指導をすれば、今度は、教師の見えないところで、陰湿化して行くのだ。

トラブルは、やられている子どもだけでなく、トラブルを起こす子どものSOSだという視点を持つべきだ。
・その子は、教室に居場所があるか?みんなから浮いてはいないか?
・その子はその子を取り巻く環境(家庭、学校、塾、習い事、友人関係など)で、虐待を受けてはいないか?
・特に、家庭では、ネグレクト(育児放棄)されてはいないか?

どれかに当てはまっているなら、その子の問題行動はSOSなのである。
・大人や、周りの子どもから厄介者扱いされているSOS
・教師に支援を受けたい、構ってほしいための「入場券」としてのSOS
・たすけて!気がついて!どうしていいかわからない!HELPを求めるSOS
・自分の欲求が満たされない、抑圧されていることへの自分の心のバランスを保つための「安全弁」としてのSOS
・自分自身の不安や問題を解決する他の「問題解決手段」としてのSOS

これだけ追い詰められている子どもは、問題行動を起こしているときは、周りが見えていない。自分が何をしているのかも分からない。どうしてそんなことをやるのか問い詰めても説明できないし、謝ることも、反省することもできない。もし、わかっていてやっているとしたら、そういうことをやっている自分に対しての自己嫌悪でいっぱいになってしまうだろう。

目の前で起こっているいじめについて、その場その場の対応に追われるのでは、いたちごっこになってしまう。
まずは、問題を起こしている子どものSOSを受け止め、そのSOSにどう対処できるか。一人では無理な場合、家庭や学年間、学校間の連携、相談機関や医療機関との連携も必要になってくるだろう。
その年齢になるまでの生育歴や環境が要因になっている場合は、短期間での改善は難しいし、短期間で立て直せるなどという考えは、むしろおこがましい。
今できる最善を尽くす。せめて、クラスが、学校が自分の居場所なんだと思えるようにしてあげられるような努力はしなくてはならないと思う。
また、学習について行けない不安や不満の場合は、学習面でも自信がつくような見立てと支援も必要になるので、家庭や学校間での連携、協力体制も考えて行かなくてはならない。
特別なニーズを必要とする児童の場合は、担任が一人で抱え込むと、教師自体が疲弊し、自信を失い、余裕がなくなってしまうので、特別支援の専門家と相談して対策と手立てを考える必要がある。


いじめを乗り越えるには、いじめられてエネルギーが0以下になっている子どもに、「立ち上がれ」も「立ち向かえ」も「耐え忍べ」も「立ち直れ」も、一人ではできないことを理解しなくてはならない。
まずは、共感的理解。支援、応援。「一人じゃない」「守られている」という安心感を与えて、不安を取り除くこと。

リーダー集団を育てること。問題を起こしている者と、まじめにやっている者との間にいる、どっちにもなびきそうな者たちを正義の方に引き寄せられるリーダー集団を育てる。正義が通らないクラスにしない。真面目にやっている者が損をしない、被害を受けないクラス作りを目指す。


クラスからいじめをなくす。いじめのないクラスづくりとは?
いじめることよりも、もっとおもしろいこと、友達と仲良く遊ぶこと、勉強することのほうが、ずっと楽しいと思えるようなクラスづくりをする。これが結構難しくて、手間がかかる。
家や塾や習い事で嫌なことがあっても、クラスのみんなに受け入れられている、ここには自分の居場所があると思えれば、クラスの子に八つ当たりや暴言、暴力をふるったりはしないのでは?
何でもいいから、自分にはこれがある、これが好き、これが得意と思える教科や一芸を誉め、みんなから認められ、励まされる場と雰囲気を作る。
保護者や、他の先生方と連携を取り、いじめは芽のうちに迅速に対処し、深刻化させない。アンテナを高くする。

いろいろな本を読み、講演会や講習会、学習会、研修会で実践報告を聞きに行って勉強はしているつもりだが、やはり、例は例。
今、目の前の自分が受け持っている子ども一人ひとりと向き合っていかなければ、クラスからいじめはなくならないだろう。


教師の指導力とは?
強い指導で、言うことを聞かせ、規律正しくきちんとさせることだろうか?そう言う時も必要だろう。
でも、子どもは同じ間違いを繰り返しながらも、少しずつでも子どもの内面を良い方向に変えていくことではないだろうか。
人の道からはずれずに、なりたい自分になるための方向性を指し示し、教え導くのが指導者ではないだろうか?

「子どもはけして退化しない。たとえ、去年できたことができなくなっていても、わき道にそれて歪んだ性格になっていたとしても、子どもは日々成長している。自分で判断し、自己決定、自己実現ができるように、自己肯定感が持てるように、教え導くのが教師だ。」
「ギャングエイジを乗り越えてこそ、人間になる」
「教えるとは、未来を共に語ること
 学ぶとは、真実(まこと)を胸に刻むこと ルイ=アラゴン「ストラスブール大学の歌」より」
「学校とは、人間の大切さを学ぶところ」市川・不二女子高等学校壁画

たくさんのパワーをもらい、大切なことを学んだ貴重な時間だった。
ここで学んだことを、自分の学級経営に生かして、子どもたちも私自身も、明るく元気で楽しいクラスになるようにがんばりたい。

そのためにも、早く怪我を治して、心身ともに健康で、時間的、肉体的、精神的に余裕のある生活を心がけよう。
私が弱っていては、子どもたちのSOSもキャッチできず、受け止めて(共感的理解)立ち向かう気力体力がエネルギー不足になってしまうから。

「北風と太陽」

2012-10-21 18:14:14 | 担任雑記

10月21日(日)

昨日は授業参観だった。
国語は、「わすれられないおくりもの」。算数は、「ふたけたのわり算」を展開することになった。
当初の予定が、私の怪我のために大幅に変更になってしまった。

前夜、当日の授業で使う教材を作りながら、どのように授業を展開すべきか考えていた。

「わすれられないおくりもの」では、この物語を通して学んだことを、アナグマへの手紙を書いて、それを発表し合う。その手紙の感想について、良かったところを発表し合う。
そして、自分にも、家族や友だちにもらった「忘れられない贈り物」があったら、それを発表し合う。

そのために、教室の壁に「わすれられないおくりもの」の絵本のカラーコピーを貼って、保護者が見てもストーリーがわかるような「わすれられないおくりもの」コーナーを作った。


急きょ、内容変更してやることになった算数も、仕掛けがたっぷりの掲示物教材を作った。

他の教室では、いろいろな掲示物が貼ってあり、そのクラスの特徴や個性が出ている。
うちのクラスの特徴や個性は…?
保護者は、どんなクラスの様子を見たいと思ってくるのだろう?
いろいろ考えて、私が出した結論は…。

先日、クラスでトラブルがあった時、私は予定していた授業を取りやめて、「言われてうれしい言葉といやな言葉」という授業をやった。
クラス全員に、その言葉を言わせ、黒板に書きだした。
言われてうれしい言葉は、ひらがな、漢字、カタカナで。
言われて嫌な言葉は、あえて全部カタカナで。
書き出された言葉を読んだ子どもたちは、様々な反応を見せた。
なるほどとうなずく子、自分もそうだと同意する子、でも、中には、嫌な言葉の文字を見るだけでその時の気持ちを思い出し、気分が悪くなったり、泣きだす子もいた。
その一方で、その嫌な言葉をわざと声に出して読み上げたり、黒板に勝手に落書きをしに来るようなお調子者まで現れた。
そうしたら、いつもは元気で笑顔いっぱいの子が、大声で泣き出したのだ。
ある子が、面白がってその子が嫌だと発表した言葉をその子に向かって連呼したのだ。
「何のための授業なの?よく考えて!」
泣きながら、その子はふざけていた子たちに向かって叫んだ。

言葉には魂が宿る。文字にすれば、その文字に意味があり、読む人の目を通してその人を励まし、生きる希望を与えることもできるし、その人の心を深く傷つけることもある。
だから、私は、言われて嫌な言葉をあえてカタカナで書いたのだと言った。
でも、それを読み上げた途端、その言葉は凶器となって人の心を刺してしまうのだ。

文字にしたらうれしい言葉でも、言い方によっては、不快な言葉、人を傷つける言葉になることもある。私は、「言われてうれしい言葉」をわざと意地悪そうな言い方嫌みたっぷりな言い方で読んでみせた。
それを聞いた子どもたちは、思いっきり不快な、傷ついた表情になった。

相手の心に届くような、言われた相手がうれしくなるようなフワフワ言葉は、いい方も大事だということを子どもたちが感じ取ってくれたらうれしい。

私は、その言葉を模造紙いっぱいに書いた。それも、「ワン・ピース」のチョッパーの絵を書いて、吹き出しとして。その掲示物を、教室の背面上部に貼った。

チョッパーは、いつもみんなが頑張ったプリントや宿題のノートに「がんばったね」はんことして押している.
運動会では、黒板一杯にルフィーと一緒に描いて、クラスを応援させた。
今回は,クラスのみんなを後ろからいつも見守り、応援してくれているイメージで。

そしてもう一つ。来週は席替えをするので、今のお隣の席の友達のいいところを見つけて、カードを書いてもらったのを「見つけたよ、友だちのいいところ!」と題して、模造紙いっぱいに貼り付けて、黒板に貼っておいた。

翌朝、登校してきた子どもたちは、大騒ぎ!
「先生、どうしてチョッパーが焦げているの?」
「ごめんね、絵の具が渇いたら、色が濃くなってたの」
「先生、この間の学級会の時の「言われてうれしい言葉」だよね、私が言ったの書いてあった!」
「先生、○○君は、私にちゃんと手紙書いてくれたかなあ」
「探してごらん。わざとばらばらに貼ってあるから。結構いいこと書いてあったよ」
そして、桜色の色画用紙に貼ったみんなのメッセージをチョッパーの模造紙の隣に貼った。
この掲示物が、功を奏したのか、授業参観で、たくさんの保護者が観に来て下さったせいか、この日一日、席を替わりたいだの、隣の子にちょっかいを出したり、嫌がらせをする子が一人もいなかった。国語や算数の発表の時も、お互いの発表の良いところを発表し合えたり、拍手や「(答えが)同じです。」という反応がいつもよりたくさんあった。
掲示物一つで、こんなに平和に和気藹藹と活発な授業ができるなら、もっとはやく取り組んで貼ればよかった、と思った。

と、同時に思った。
みんな、誰でも誰かに認められたがっている。
勉強やスポーツで目立つことができない子ほどそれは切実で、担任は常に、そうじや係活動、挨拶など、事あるごとにいいところを見つけては褒めたり励ましたりする努力を怠ってはいけない。
いつもやんちゃをして問題を起こす子も同じ。怒られたがっているというより、担任を試しているのだ。
でも、それ以上に、3年生ぐらいになると、教室での自分の立ち位置、ランク付け、居場所、グループなど、友だち関係が複雑になってくる。特に、男女別対抗意識も出てくる。
そんな中で、あまり話したことのない子や、いつもケンカばかりしている子が、実は自分のいいところを認めてくれて、励ましのメッセージを書いてくれたなんて、どんなにうれしいことだろう。
そういうメッセージを書いてくれた子に嫌がらせをしたり、暴力をふるう気持ちはなくなるのではないだろうか。

私の10のお説教よりも、友だちの一言メッセージの方がずっと効力があった。
私の指導は、「北風と太陽」の北風のように、自分の言うとおりにさせたくて、どんどん厳しく、追い込む指導になってはいなかったか?
正論や理詰めでたたみかけ、その場しのぎの謝り方をさせてはいなかったか?
だから、毎日同じことの繰り返しで、良くなるどころか、どんどんクラスの雰囲気が悪くなり,人間関係がギスギスしていってはいなかったか?
「言われてうれしい言葉」や「見つけたよ、友だちのいいところ」のメッセージは、まさに太陽に日射しだった。
自分は認められている。受け入れられていると思ったとたん、かたくなな心や、さびしい心が温かくなり、人にやさしく、穏やかに接することができるのだ。

その日一日、みんなの目はキラキラしていて、優しくて、帰りのあいさつの声も元気で、ニコニコ帰って行った。

とりあえず、嵐の一週間は過ぎ去り、台風一過の澄み渡った青空のような一日だった。

モチモチの木

2012-10-21 14:41:54 | 担任雑記


10月21日(日)

先週は、まさに、嵐のような一週間だった。
その前の週に、ムチ打ちになってしまい、4日間も安静状態だった病み上がりの身体には、かなりきつい毎日だった。
なんと言っても、子ども県展に出品する作品は下書きのまま。
金曜日には転校して行く児童のためのお別れ会の準備や半試合もやりかけのまま。
土曜日には授業参観があるのに、2日間も授業を休んで自習にさせたため、授業内容を変更しなくてはならない。
もう絶対に休めない!
はずだったのに、悪い時には悪いことが重なるもので、月曜日の夜、末娘が感染性胃腸炎のため発熱。5日間の出席停止になってしまった。



今回の図工作品『モチモチの木』は、先週、私がけがで休んだために、3時間ぶっ通しの図工の時間で仕上げなくてはならない。
私は、前夜のうちに、段取り良く進められるように事前準備を万端整えておいた。

にもかかわらず、絵の具道具を忘れてきた子がいた。
その○○君に私の絵の具を貸し、やり方を教えると、どんどんいい絵になっていった。
それを見たクラスのみんなが「すごい!」{きれい!」とほめながら、自分もはやくスクラッチをやりたい!と集中してやり始めた。
△△君がふざけっこをしかけて来ても、○○君は
「静かにしてくれる?俺、これやってんだから。△△君も、自分のを早くやれば?」
と注意したのだ。
これには周りの子も、△△君もびっくり。
普段のやんちゃぶりとはまるで別人のように、絵に集中する○○君に、△△君はふざけっこをしかけるのをやめて、○○君の絵を見ていた。
その後、○○君の絵はどんどん仕上がり、
「先生、この後、どこをどうすればもっといい絵になるんですか?」
と聞いて来たので、仕上げのためのいろいろな手法を教えると、自分で配置や色遣いを考えながら、自分でも満足できる絵に仕上げていった。
それを見ていた△△君は、先週下書きの紙を破ってしまい書き直しを渋っていたのだが、
「先生、俺にも紙ください」
と言ってきたので、新しい紙を渡したら、なんとか頑張って描きだした。
ざっと書いてすぐスクラッチをしたがるのを、○○君が
「ちゃんと塗りつぶさないと、削った時にきれいな色が出ないよ。」
と教えてくれ、それからの△△君はものも言わずに塗りつぶしに専念していた。

みんなも仕上げに入ってきて、仕上げのスタンピングのやり方をバラバラに聞いて来た時に、私が
「○○先生に教えてもらって。上手にできていたから」
と言ったら、みんなに
「○○先生、教えて~」
とか言われて、○○君はすっかりその気になって、みんなに上手にスタンピングの仕方を教えていた。

△△君をはじめ、みんなも3時間で仕上げ、片付けまで終わらせることができた。
特に、○○君は、私から借りた道具を全部きれいに洗って、
「ありがとうございました」と言って返してくれたのだ!!!
それを周りの子どもたちが、ビックリしながらもちゃんと見てくれていた。

最後に、
「子ども県展の出品申し込みに、もう一人追加できるのだけれど、誰か出す人はいますか?」
と聞いたら、みんなが
「○○君出せば~!上手に描けてるよ~!」
と、○○君を推薦してくれたのだ。
○○君は、
「先生、俺、子ども県展に出す!どうすれば出せんの?」
と、真顔で聞いて来たので、
「申込用紙に書いて、出品料150円払うんだけど、お母さんに相談してみてくれる?先生からもお母さんにお願いしてみるけど。」
と言ったら、
「俺も、お母さんにお願いしてみる!」
と言ってくれた。

果たして、夕方、お母さんに電話をしてお話をすると、○○君からすでに話を聞いていたのか、二つ返事でOKしてくださった。
お母さんは、絵が上手にできたことだけでなく、○○君が自分から「県展に出したいから、150円を払ってください」と言ってきたことや、授業中に集中して絵を描いて仕上げ、先生の手伝いをし、遊びをしかけてきた子に対して注意をしたり、友達にやり方を教えてあげたということがうれしかったらしい。


このところ、私は鬱状態で、自分の指導力の無さや、教師としての資質の無さに、自信喪失→自己肯定感の喪失→自己嫌悪の負のスパイラル状態から抜け出せないでいた。そこに自分が怪我をし、娘が病気になり、悪いことが次から次へと重なってばかりいた。
身体が弱ると、心まで弱り、心身ともにボロボロだった。
いろいろな人に、心配や迷惑をかけ、私はいつも、誰かに会うと謝ってばかりいた。

図工の授業は、自分としては満足できる状態ではなく、むしろかえって自信を失くしてしまうくらい、授業自体は成り立っていなかった。
けれど、夜、みんなが描いた絵を見ながら、本当によく3時間でこんなにいい絵に仕上げてくれたと、みんなの絵を見ながら涙が出てきた。

せめてもの自分の専門分野で頑張ろうと、意気込みすぎて挫折していた私を救ってくれたのは、またしても子どもたちだった。
私はまだ終わってはいない。
諦めたらだめた。
逃げてはいけない。
まだ、ベストを尽くし切っていない。

物言わぬ子どもたちの絵は、私にたくさんのエールをくれた。
 

つづく…

注意一秒、怪我一生

2012-10-13 15:35:38 | 徒然なるままに
10月13日(土)

怪我をした。頸椎捻挫。いわゆるムチ打ちだ。
初期の対応が、私の判断ミスのために遅れ、症状が悪化した。

幸い、最悪の事態は免れたが、周囲に多大な心配と迷惑をかけてしまった。

この怪我で学んだことは、忘れずに今後に生かしたい。
痛くて高い授業料となった。

顎下からの衝撃でも、その衝撃度が強ければ、脳しんとうを起こす。
その場合は、安静にし、けして頭を下に寝かせてはならない。
頭に血が上ると、血管が拡張し、頭に激痛が走る。特にこめかみ。

頭痛がする場合は、頭を冷やす。
首が痛む場合は、ムチ打ちになっている場合があるので、早めに整形外科に行って、レントゲンを撮ってもらう。
打ったその時に、痛みがなくても、後になるほど痛みが出てくる。
ムチ打ちの場合は、まず、首、肩、肩甲骨、背中、腰、骨盤、臀部と、痛みが日が経つにつれて下にさがってくる。
首を固定したり、腰にコルセットをする、痛み止めを飲む、湿布を貼るなど、ひどくなる前に医師の指示に従い養生する。

風呂は厳禁。特に頭痛がする場合は、身体を温めることで、頭に血が上り、頭痛がひどくなる。
マッサージもだめ。打った後の痛みは、炎症を起こしているので、炎症が治まってから施術を受けるようにする。

とにかく、安静にする。
頭を冷やして、身体をまっすぐにして仰向けに寝る。


怪我した状況については支障があって触れられないが、いろいろな人の助けがあって大事に至らなかったことに感謝し、とりあえず、舌を噛み切らなかったことを不幸中の幸いと思う。

いずれにしても、病気でも怪我でも、初期段階の冷静な判断と適切な対応が必要だと身を持って感じた。