3月20日(日)
宮城県石巻市の両親、自宅無事でした。
皆さまにいろいろご心配を頂き、また、励ましのお言葉や、安否確認の方法などを教えていただき、本当にありがとうございました。
この10日間と言うもの、本当に、悲喜こもごもの波乱万丈の10日間だった。
両親を探しに行ったまま、連絡が途絶えていた弟から入った知らせで、両親と自宅の無事を知ることができた。
でも、その弟も、現地に残ると言う両親を実家に置いて、
「東京に一旦戻って、支援物資を満載してまた来るから」
と言って飛び出したものの、宮城県内ではガソリンを入れることはできず、福島では原発から避難してきた人達の渋滞にはまり、ついに栃木県でガソリンが尽きてしまった。
そこで、車を駐車場に置き、新幹線で帰京した。
その弟からの電話で、両親の様子や、石巻の様子を詳しく知ることができたのだが…。
両親は、本当に、たまたま、その時間に一緒にいることができたのだ。
もし前日の同じ時間だったら、もし午前中だったら、二人が今無事にいる可能性はかなり低かっただろう。
たとえ、自宅は無事だったとしても、どこで震災に遭うのかで、状況は天と地ほど違ってくるのだ。
幸い、家はプロパンガスなので、煮炊きはできていたらしい。
裏の用水路も道路すれすれまで水位は上がっていたが、家が水に浸かるほどではなかったらしい。
家の中はぐちゃぐちゃだが、片付ければ住めるということで、避難所は混んでいて、家が水に浸かった人たちや、一人暮らしのお年寄りたちに譲って、自宅が無事な人たちは、自宅に帰って行ったのだそうだ。
5日目、メールがつながるようになってから、友人からSOSが届いた。
小学校の教師をしている友人は、津波のあった日、子どもたちと職員と屋上に避難し、次の朝まで屋上から降りられなかった。翌朝、水が引いた中を批難し、日和山の避難所に行ったが、4つの学校の避難所に1万人以上の被災者が避難していて、ほとんどの人が、地震以来、何も食べていないのだと言う。
赤ちゃんのミルクを届けて!このメールをみんなに知らせて!
6日目、雪の石巻を見た。上空から撮影された、石巻の惨状・・・・。
ここにはまだ行方不明の方たちが生き埋めになっているのだろうか・・・・。
7日目、父とメール交換ができた。弟が無事に東京に着いたかを心配していた。
夕方には母と携帯で話すこともでき、電話口で二人で泣いた。
でも、その時には、弟の無事を伝えるだけで、まだ情報のない両親に、石巻の町が半分以上津波に流されたことは告げられなかった。
8日目、電話のつながった両親に、連絡が取れていない友人の一人暮らしのお父さんの安否確認を頼んだ。
友人のお父さんは、一人暮らしのお年寄りばかり集めた避難所にいらした。
夜、次々と安否確認をし合う中、気になっていたのが、地元の友人がお姑さんと次男を津波で流され、毎日、ヘドロの中を探し続けているというのだ。
それが・・・・!
9日目。前日の気になっていた友人のお姑さんと次男が、奇跡的に救助されたというではないか!
ニュースでも流れて、その信じられない瓦礫の中から、助け出された80歳の女性と、16歳の少年。
本当によかった!!!
毎日、死者の数がものすごい勢いで増えていく中、大きな希望の光だ。
全国から温かい支援の輪が広がり、救援部隊をはじめ、ボランティアの方々のご活躍には本当に頭が下がる。
そして、地元の人たちの、前向きで、ひたむきな姿勢と、報道や救援隊、ボランティアの方たちへの腰の低さ・・・。
何もかも失った上、安否の分からない家族を思い、心はもう絶望でボロボロなはずなのに、
「ごくろうさまです」
「お世話様です」
「お陰さまで」
「お互い様です」
「ありがとうございます」
と言う、相手を思いやる言葉が、自然に出てくる、その素朴な温かさが胸にしみる・・・。
そして、地元に残った同い年ぐらいの人たちが
『頑張ろう!石巻!!』
のスローガンのもと、元気に立ち上がった。
私にできることは何だろう…。
先日、1年生と2年生の授業で、私が石巻出身だということを伝えたところ、みんな、よく知っていて、私がそこの出身だということで、家族や家の心配をしてくれた。
私は、両親や弟、友人たちから聞いた石巻の現状を話し、自分も宮城県沖地震の経験があることを話した。また、阪神淡路大震災や、中越地震のことについても話した。
皆、真剣に聞いてくれた。
防災についてと、今被災地の人たちのために自分ができることを話し合った。
もし、自分たちの町が同じような災害にあったとしたら…という具体的にシュミレーションした。
そうして、生徒会が募金活動に立ち上がってくれた。
職員室でも、こまめに節電するようにみんなで声かけ合っている。
現地に行って、ボランティア活動はできないが、一人ひとりが自分にできることは何か、意識して生活するだけでも違ってくるはずだ。
ところが、金曜日の夜から、ひどい風邪をひいてしまった。
花粉症だと思って油断していたのと、寝不足や疲れが、両親の無事を知って、気が抜けたのか、ペットボトルのふたも開けられないくらいの体調になってしまい、3連休の初日は1日中寝込む羽目になった。
弟には、
「被害のない地域の人たちが元気にしていることも、最初のボランティアなんだぞ。被災地はただでさえ薬のないところに、具合悪い人たちがたくさんいても薬が供給されないんだから!」
と、叱られてしまった。
被災地の両親が元気で頑張っているのに、私が風邪で寝込んでどうする!反省*(汗)*
宮城県石巻市の両親、自宅無事でした。
皆さまにいろいろご心配を頂き、また、励ましのお言葉や、安否確認の方法などを教えていただき、本当にありがとうございました。
この10日間と言うもの、本当に、悲喜こもごもの波乱万丈の10日間だった。
両親を探しに行ったまま、連絡が途絶えていた弟から入った知らせで、両親と自宅の無事を知ることができた。
でも、その弟も、現地に残ると言う両親を実家に置いて、
「東京に一旦戻って、支援物資を満載してまた来るから」
と言って飛び出したものの、宮城県内ではガソリンを入れることはできず、福島では原発から避難してきた人達の渋滞にはまり、ついに栃木県でガソリンが尽きてしまった。
そこで、車を駐車場に置き、新幹線で帰京した。
その弟からの電話で、両親の様子や、石巻の様子を詳しく知ることができたのだが…。
両親は、本当に、たまたま、その時間に一緒にいることができたのだ。
もし前日の同じ時間だったら、もし午前中だったら、二人が今無事にいる可能性はかなり低かっただろう。
たとえ、自宅は無事だったとしても、どこで震災に遭うのかで、状況は天と地ほど違ってくるのだ。
幸い、家はプロパンガスなので、煮炊きはできていたらしい。
裏の用水路も道路すれすれまで水位は上がっていたが、家が水に浸かるほどではなかったらしい。
家の中はぐちゃぐちゃだが、片付ければ住めるということで、避難所は混んでいて、家が水に浸かった人たちや、一人暮らしのお年寄りたちに譲って、自宅が無事な人たちは、自宅に帰って行ったのだそうだ。
5日目、メールがつながるようになってから、友人からSOSが届いた。
小学校の教師をしている友人は、津波のあった日、子どもたちと職員と屋上に避難し、次の朝まで屋上から降りられなかった。翌朝、水が引いた中を批難し、日和山の避難所に行ったが、4つの学校の避難所に1万人以上の被災者が避難していて、ほとんどの人が、地震以来、何も食べていないのだと言う。
赤ちゃんのミルクを届けて!このメールをみんなに知らせて!
6日目、雪の石巻を見た。上空から撮影された、石巻の惨状・・・・。
ここにはまだ行方不明の方たちが生き埋めになっているのだろうか・・・・。
7日目、父とメール交換ができた。弟が無事に東京に着いたかを心配していた。
夕方には母と携帯で話すこともでき、電話口で二人で泣いた。
でも、その時には、弟の無事を伝えるだけで、まだ情報のない両親に、石巻の町が半分以上津波に流されたことは告げられなかった。
8日目、電話のつながった両親に、連絡が取れていない友人の一人暮らしのお父さんの安否確認を頼んだ。
友人のお父さんは、一人暮らしのお年寄りばかり集めた避難所にいらした。
夜、次々と安否確認をし合う中、気になっていたのが、地元の友人がお姑さんと次男を津波で流され、毎日、ヘドロの中を探し続けているというのだ。
それが・・・・!
9日目。前日の気になっていた友人のお姑さんと次男が、奇跡的に救助されたというではないか!
ニュースでも流れて、その信じられない瓦礫の中から、助け出された80歳の女性と、16歳の少年。
本当によかった!!!
毎日、死者の数がものすごい勢いで増えていく中、大きな希望の光だ。
全国から温かい支援の輪が広がり、救援部隊をはじめ、ボランティアの方々のご活躍には本当に頭が下がる。
そして、地元の人たちの、前向きで、ひたむきな姿勢と、報道や救援隊、ボランティアの方たちへの腰の低さ・・・。
何もかも失った上、安否の分からない家族を思い、心はもう絶望でボロボロなはずなのに、
「ごくろうさまです」
「お世話様です」
「お陰さまで」
「お互い様です」
「ありがとうございます」
と言う、相手を思いやる言葉が、自然に出てくる、その素朴な温かさが胸にしみる・・・。
そして、地元に残った同い年ぐらいの人たちが
『頑張ろう!石巻!!』
のスローガンのもと、元気に立ち上がった。
私にできることは何だろう…。
先日、1年生と2年生の授業で、私が石巻出身だということを伝えたところ、みんな、よく知っていて、私がそこの出身だということで、家族や家の心配をしてくれた。
私は、両親や弟、友人たちから聞いた石巻の現状を話し、自分も宮城県沖地震の経験があることを話した。また、阪神淡路大震災や、中越地震のことについても話した。
皆、真剣に聞いてくれた。
防災についてと、今被災地の人たちのために自分ができることを話し合った。
もし、自分たちの町が同じような災害にあったとしたら…という具体的にシュミレーションした。
そうして、生徒会が募金活動に立ち上がってくれた。
職員室でも、こまめに節電するようにみんなで声かけ合っている。
現地に行って、ボランティア活動はできないが、一人ひとりが自分にできることは何か、意識して生活するだけでも違ってくるはずだ。
ところが、金曜日の夜から、ひどい風邪をひいてしまった。
花粉症だと思って油断していたのと、寝不足や疲れが、両親の無事を知って、気が抜けたのか、ペットボトルのふたも開けられないくらいの体調になってしまい、3連休の初日は1日中寝込む羽目になった。
弟には、
「被害のない地域の人たちが元気にしていることも、最初のボランティアなんだぞ。被災地はただでさえ薬のないところに、具合悪い人たちがたくさんいても薬が供給されないんだから!」
と、叱られてしまった。
被災地の両親が元気で頑張っているのに、私が風邪で寝込んでどうする!反省*(汗)*