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誰の心の中にも、マーニーはいる ~深層心理にみる『思い出のマーニー』の世界~

2016-01-31 19:44:30 | 芸能・映画・文化・スポーツ

『思い出のマーニー』が今年度のアカデミー賞「長編アニメ賞」にノミネートされました。本稿はアニメ作品を昨年見て、いつか書こうと思っていたことをこの機会に書いたものです。文中には、結末を示唆するいわゆる「ネタバレ」があります。映画未鑑賞の場合はご了承ください。 

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●不思議な意識の物語 

『思い出のマーニー』は、不思議な物語である。 

この映画を見た時、これは心の物語だと思った。深層心理が現実へと現れたイメージの世界だと。こういうものを見ると人は、これは架空のものだから起こりえないと言うだろう(原作は児童小説)。あるいは、通常の意識では説明できないから、精神の一種の病からくる幻想だろうと思う。 

例えば、ドッペルゲンガ―というものがある。自分(私)とまったく同じなりをした人間が眼の前に現れ、自分と同じように歩き、友人と語り、飲み食いしたりする。相手はこちらに気が付かず、いかにも自分と同じことをしているのだ。 

―― あいつは、俺か?

その者は、ツケで飲んだり食ったり、賭け事をし、借金を重ねていく。そいつの後をつけて行くのだが、いつも姿を見失ってしまう。いつか正体をつかんでやろうと思えど、その自分の分身と目が合った瞬間から数日後に、本人(私)は死んでしまうという。これは、ドストエフスキーの作品『分身』にも出てくる。今では一種の精神現象としても扱われるが、「マーニー」の物語は最初、それを思わせる。 

マーニーと杏奈(アンナ)は同じ年頃の少女だが、外見は違う。顔も違うが、互いを大好きな友として必要とし、互いを生き写しの自分のように見ている。それは少女期に同性を愛し、自己と同一化(分身)する気持ちに通じる。でもマーニーは、現実の存在ではない。少なくとも、杏奈とともに過ごした金髪の美少女マーニーはその時、現実には存在していなかった。しかし、現実の物や建物、風景はそこにあった。 

現代の脳科学では、長い時間のうちに、人は自分の思い望むように意識や記憶をつくり変えていく機能があるそうだ。(「記憶にございません」と答弁する政治家は、それほど時間がたたないうちにその機能が都合よく働いているのかもしれない。) 

この作品で、杏奈が少女期に一緒に過ごしたマーニーは、幼少期(人の顔も覚えられないほどの幼児の頃)に自分を育ててくれた祖母であり、祖母のこころの語りが、杏奈の深層意識にマーニーという少女を育ませた、というのが順当の解釈であろう。簡単に言えば、杏奈は、自分の祖母(マーニー)が少女だった頃のイメージとひと夏の幻想世界を生きたのだ。 

ただ、こういう解釈だからといって、杏奈とマーニーの不思議な世界が解明されたわけではない。なぜ、杏奈はマーニーと現実世界のように生きることができたか。単なる幻想や想像の世界に、杏奈の意識が遊んでいたのか。 

●少年少女期に誰にも存在する「私」という友だち

ここで、深層心理や脳科学による解釈をこれ以上するつもりはない。先ほどの「分身」のような病理的な現象に近いことは、少年少女期にはたまにあることなのだ。しかも、それが成長して記憶となっていく過程において、脳は事実と幻想を溶解して、その人の成長に必要なものとして醸成していく。 

思い起こせば、僕の心の中にもある。そして、きっとあなたの心の中にもあるだろう。少年の頃、僕のそばにはいつも「白い少女」がいた。その少女は、どこから来たのか、どうやって去って行ったか分からない。けれど、気が付くと時々僕のそばにいた。きっと、風のように現れてきて、そして去って行ったのだ。それは、校庭だったり、路地だったり、公園だったりする。

―― なあーんだ、あんたここにいたの?

少女は道端で、僕を追いかけてきたのか、白い服とスカート、そして子供用の白いヒールを履いて、行き止まりの道でさっそうと細くて長い脚を開いてそう言った。 

さーっ、とひと吹きの風が巻いて、少女の肩の髪を揺らした。ふん、と笑みを浮かべて、彼女は消えて行った。時々、そんなふうに僕の前に現れては、消えた。 

これは、一部は現実だったし、一部はもしかしたら僕の記憶の中の出来事だったかもしれない。しかし、その鮮明さは今でも残っている。歩いていると、坐っていると、ふと気が付くと、そこに彼女がいつの間にそばにいた。そうして僕の少年時代は、その白い少女と過ごしたのだった。 

マーニーもまた、かつては存在していた。しかし、今は存在しない。しないのに、杏奈はマーニーと生き、そこにいた。 

ユング心理学を持ち出すまでもなく、これを深層意識としての映像として語るのは易しい。無意識は、現実と常に深くつながっているわけだ。かつては存在したが、今は存在しない少女(祖母)とどうして心の交流ができたのか。意識というものを、単に事実のみを認識するものと捉えるとわからなくなる。脳が、事実の順序(歴史)を超えて認識するものだと思うしかない。 

杏奈がひと夏を過ごして知ったマーニーとは、杏奈の意識が心の中に実在性をもってつくったものだということである。マーニーと生きた時間は、杏奈がマーニーという少女を求めていたからあるもので、その時の心の空洞を成長していく杏奈の意識が埋めていったのである。 

森、湖、湿地帯、屋敷、霧、雲、風、そして美しい少女――。幻想世界の背景はそろった。こうして、大人は、少年少女期の深層心理の中に、再び入っていく。

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