『竹取物語』は、誰もが知っている物語である。学校の「古文」の授業でも読んだし、少年の頃の週刊漫画誌の特集でも宇宙人説として組み込まれていた。かぐや姫は宇宙人で、地球を偵察するために遣わされたのだと。最後にかぐや姫を迎えに来る乗り物は、じつは宇宙船(UFO)だったのだ、と。
高畑勲監督の映画『かぐや姫の物語』については、公開1週間で早くも絶賛の声が相次いだ。画面の余白を描かずスケッチのように白地を残す描画手法、筆描きによる人物の輪郭線の濃淡描写などは、確かに専門家の言うように斬新である。テレビ予告でも繰り返されている、かぐや姫が満開の桜の下で歓喜のあまり円舞する描写、月光のもと十二単を1枚1枚剥いで疾走していく場面は、これまでアニメでは見たことのない手法だ。
技術的には高畑監督自身が語っているように、現在のアニメ技術の極致、行き着くところまで来ているという言葉を信じていいかもしれない。それはそれとして、僕がこの作品を評価するとしたら、『竹取物語』をすっきりさせてくれたことである。高畑監督は、極楽浄土思想を持ってきたと僕は思う。月は、清浄澄明な極楽土であって、地球上の人間の魂は輪廻転生して、地球(地上)と月(天上)を循環する。地球は肉体と物質の制約を受ける世界で、月は純然たる魂の世界である。(ここから先は結末をある程度書いてしまいますが、映画の内容は『竹取物語』にほぼ忠実なので、ネタ晴らしにはならないと思います。)
人間が肉体の死を迎えると、魂はいったん、この世である地球を離れ、天上界である月に還る。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道をめぐり、悟りを開くまで地球(地上界)と月(天上界)を往復する。ただし月に仮宿りする魂は、レベルの高い「天」以上であろう。かぐや姫は、のちに見るように地上界に未練を持つ魂であることから「人間」と「天」の中間の魂と思われる。「畜生」以下は月には行けず、地球の地下深く、地獄界や餓鬼界を経廻る。
清浄な魂を持ったかぐや姫であったが、まだ悟り切らず、前世である地球の人間界に未練を残していた。姫は月(天上)から地球(地上)を眺め、美しい山野風景の中でともに生き、笑い、泣き、遊び、走りまわった情感豊かな暮らしを懐かしむようになった。魂は、ひとたび地上の肉体を抜けると、その瞬間に前世の記憶を一切なくすのだが、前世の記憶が姫の魂の底にかすかに残っていたのだろう。
月の大王(阿弥陀仏と思われる)は、それを姫の「罪」として地球に堕とした。「天人」になりきれない「人間」を引きずった魂は、もう一度地上の世界で修行しなければならない。それが、かぐや姫への「罰」である。高畑監督は、ここまでは言いきっていない。でも、僕にはそのように理解できる。地上は、魂の修行の場である。自由への制限がある地球で、魂は「人間」という形をもって生き、やがて成長し天界へと昇る(還る)。姫は、かなた将来には衆生を救済する「菩薩」候補なので、父王(魂に父子関係があるならば)はあえてその修行を「契り」と課したのだ。
幼少期のかぐや姫の生活は、確かに月から憧れていたように、笑い、泣き、食べ、歌い、走り、そして獣、虫、魚、鳥、草木、花とともに生きる。しかし、やがて「罰」がある。姫は美しく育ち、都へ住まわされる。御殿に引きこもった、退屈で閉塞した生活、言い寄る婿候補の貴族、そして帝まで。欲望と穢れの世界。あの頃の自然の暮らしは・・・。
「いやだ」――。帝に抱かれて、そう叫んだ。その言葉が、罰の解ける時だった。この世の不浄を悟って罰が解ける、それは嬉しいことのはずなのに、かぐや姫にとっては悲しい出来事の始まりである。この地球を去る時が来たのだ。地球を去る、それは地上の人間界での記憶を一切失うことである。
この世は不浄である。苦の世界である。煩悩があるから喜怒哀楽、四苦(生老病死)がある。そこから抜けたところに解脱(さとり)がある。仏教思想では、あらゆるものへの執着があるからこそ、それに捉われ、苦しみが伴う。かぐや姫は、その無常を悟ったのだ。悟ること、それが罪の償いとなったからこそ、月に還れる。ああ、この矛盾。地球で生きることが罰というなら、もっと罰を受けたい。翁や媼、帝への愛らしき芽生え、そして生きとし生きるものと、もっとこの地球で生きていたい。それがかぐや姫の矛盾となり、悲しみとなった。
高畑監督はおそらく、かぐや姫の美しさに象徴されるように、この世の生の深い歓びや哀しみにまだまだ捉われていたいのだろう。この作品をつくる意味がそこにあったように思う。作品の根本には「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしつかいじょうぶつ)、この世の生きとし生けるものすべてに仏性が宿っているという法華思想に通ずるものがある。一見、浄土思想と違うともとれるが、この世そのままが仏土(浄土)になりうるという考えからすると、逆に、この地上で生きるものすべてを愛し、生を全うすることが生身の人間としての生きる意味なんだと。
美しい、姫よ――、その感情さえ魂の捉われというなら、いくらでも捉われればいい。
天上に還るため羽衣を掛けられた瞬間、地上での記憶から解かれて「人間」の表情をなくし、「天人」となったかぐや姫。それでもかすかに地球を顧みる、その一瞬の眼が忘れられない。
最終場面の「極楽来迎図」は、現代感覚からするといささか唐突に思われるかもしれない。しかし、『竹取物語』の時代背景として仏教思想が全盛だったことに照らせば、不思議はない。極楽往生(魂の昇天)は、人間の肉体の死をもってなされる。だからかぐや姫は、「月に還るくらいなら死んでもいい」と翁と媼に何度も漏らした。かぐや姫が肉体の死を遺さなかったのは、姫にとってこのたびの地上界は、いわば「追試」だったのだ。父王と交わした契りである「追試」だから、肉体の成長(再履修)も早かった。かぐや姫が天衣をかけられた瞬間、それこそ地上界での死であった。
映画『かぐや姫の物語』を観た後、僕は口語訳で『竹取物語』を一気に読んでみた。そして、その思想の深さ、物語(小説)としての完成度に衝撃を受けている。『源氏物語』よりもはるかに短い物語ではあるが、今なお現代性を持っている。かぐや姫の昇天は魂の変遷の物語であり、現代においても宗教、超心理学のテーマとなっている。
思えば、この物語が成立したと言われる平安時代に中心的思想となった密教において、月は蓮華と並んで清浄の象徴。したがって、もし月の世界というものがあるならばそれは浄土、即ち仏の世界。そこからやって来た人がそこへ帰って行くのならばまさしく輪廻。
月からの迎えが阿弥陀聖衆という、現代人にとっては飛躍とも思える解釈も、当時この物語を読んでいた階層の人々にとっては至極当然だったのかも知れません。平家物語にしろ今昔物語集にしろ、仏教的死生観を抜きにして当時の説話を読み解くことはできないでしょう。
「大蓮寺」というお寺の住職さんが、「近年、これほど日本人の無常観を訴えた映画を、私は知らない」と書いていらっしゃいました。
http://www.dairenji.com/archives/%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%80%8C%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%80%8D/
ただ少しまだ釈然としないのが、公式サイトの「監督の言葉」にある、「“昔の契り”、すなわち『月世界での約束事』とは、いかなるものだったのか」という問いかけです。これが「『天人』になりきれない『人間』を引きずった魂は、もう一度地上の世界で修行しなければならない」という天上界の掟のことだとすれば全体の整合はとれますが、ー方で「契り」という個人的な約束を表す語句を使う以上は別のことを指しているのではという気もします。
その一点だけ何かもやもやしていて、「監督の言葉」にある「月世界を出発するかぐや姫と父王との会話シーン」が見たくて仕方ありません。
父王は阿弥陀仏とすると、かぐや姫はゆくゆく菩薩となる候補姫で、ようやく「人間」から「天人」になるところまで来たのかもしれません。
将来、衆生を救済する菩薩となる者が、いまだ「人間」と「天人」の中間にいる姫を、父王はじれったく思い、もう少し人間の愛や無常を悟ってくるよう修行して戻ってきなさい、という契なのかもしれません。