『罪と罰』(光文社文庫・亀山郁夫)を再読しました。訳者の亀山氏は、同文庫の『カラマーゾフの兄弟』の新訳をすでに出しており、今でもこの手の翻訳文庫ではベストセラーになっているようで、本屋でも平積みになっています。
『罪と罰』を今度読んでみて、学生時代に読んだ感覚と何か違うな、という思いが続いています。読んだ時代の環境によるのでしょう。当時の私は、主人公ラスコーリニコフと同じように、屋根裏部屋みたいな所に住んでいました。日経新聞の奨学生として、新聞販売店に住み込み、新聞配達をしながら、大学に通っていたのです。学費は奨学金で全額出してもらえたし、食と住については賄い付きで心配なく、配達・集金手当てをそれなりにもらっていたので、贅沢ではないけれど生活に貧窮することはありませんでした。
友人たちからは、「いいなあ、オレなんか、小遣い、親からいくらももらってないよ」と言われたものです。それに対して何とも答えようがありませんでした。「え? 仕送りしてもらっているんだろ? どちらが裕福なんだろ」と心中、反論したものでした。私は毎朝4時に起きて2~3時間の朝刊配達、そのあと眠い頭で大学に行き、講義が終われば、みんなが喫茶店や麻雀、デートや飲み会に行くのを尻目に、急いで夕刊の配達に間に合うように帰らなければならない。お目当ての彼女を誘って、付き合いのきっかけもつくりたいのに・・・。夜は、翌朝配達のチラシ折込の作業、月の下旬には日曜の集金。そうした環境で3畳間に本棚とコタツだけがある屋根裏のような部屋(イエス・キリストの死体を納める棺桶の意味があると亀山氏は指摘している)で、ドストエフスキーに読みふけっていたのです。
社会正義の実現のためには、眼の前の害ある虫けらのような人間は殺しても罪にならない――。大雑把に言えば、これが主人公ラスコーリニコフの思想です。そして、その行為が許されるのは天才である自分。これがナポレオン思想なのです。私は、若い頃、少なからずこの主人公の思想に共鳴しました。といっても、そうそう、人を殺したりはしませんけど。観念的な部分で感銘を受けたのです。閉塞状況の中、若者は自分を打開するために、自我と社会正義を強引に結びつけるものです。
今回、読み直してみて、以前ほど主人公と同期化出来なかったのは、当時に比べて、今は仕事も家族もあって、それなりにゆとりがあるからなのか? いや、相変わらず、おかね的に裕福に遠いし、こころ的にもストレスが多くて、ゆとりがあるとは思えない。もしかしたら、漠然と将来への不安はあったけれど、自分の主義で生きていこうと「野心」を持っていた当時の自分のほうが、ストレスもなく、幸せだったのかもしれない、と思えてきます。
『罪と罰』は、確かに面白い。一歩間違うと、通俗に陥りそうな面白さがある(これは、ほかの代表作にもいえる)。そこを、ドストエフスキーは、あと一歩のところで踏みとどまらせている。踏みとどまって、一段も二段も高いところへ超えていくのが、「神」の問題につながるところです。ただ、学生時代に、そんな「神」の領域につながる部分まで読みきれるものではありません。
――ああ、ラスコーリニコフか、オレと似ているなあ。今に、自分の主義、思想で生きられる時が、きっと来る。
そんな思いが、若い頃、『罪と罰』を読み進めさせた力なのです。
前より夢中になれなかったのは、「神」の問題はさておき、今では、自分が手を抜いて楽して生きようとしているせいなのだろうか、いろんな意味で。また、もしかしたら、ドスト氏の文章は、あの古臭い、古典調の、ちょっと、おどろおどろした米川正夫訳のほうがぴったり来るのかも、と思ったりもしました。
それにしても、ドストエフスキーの作品によく出てくる「どんちゃん騒ぎ」(飲み食いして大騒ぎする場面で、カーニバルと言われている)、こういう場面を書かせたらドストエフスキーは天下一品ですね。彼自身、酒好き、賭博好き、女好きのうえ、病気持ちでしたから、「どんちゃん騒ぎ」の場面になると、筆が急にヒートアップし、スピードを増し、生き生きしてきます。酒・賭け・女に狂う血が大いに騒ぐのでしょう。
『罪と罰』を今度読んでみて、学生時代に読んだ感覚と何か違うな、という思いが続いています。読んだ時代の環境によるのでしょう。当時の私は、主人公ラスコーリニコフと同じように、屋根裏部屋みたいな所に住んでいました。日経新聞の奨学生として、新聞販売店に住み込み、新聞配達をしながら、大学に通っていたのです。学費は奨学金で全額出してもらえたし、食と住については賄い付きで心配なく、配達・集金手当てをそれなりにもらっていたので、贅沢ではないけれど生活に貧窮することはありませんでした。
友人たちからは、「いいなあ、オレなんか、小遣い、親からいくらももらってないよ」と言われたものです。それに対して何とも答えようがありませんでした。「え? 仕送りしてもらっているんだろ? どちらが裕福なんだろ」と心中、反論したものでした。私は毎朝4時に起きて2~3時間の朝刊配達、そのあと眠い頭で大学に行き、講義が終われば、みんなが喫茶店や麻雀、デートや飲み会に行くのを尻目に、急いで夕刊の配達に間に合うように帰らなければならない。お目当ての彼女を誘って、付き合いのきっかけもつくりたいのに・・・。夜は、翌朝配達のチラシ折込の作業、月の下旬には日曜の集金。そうした環境で3畳間に本棚とコタツだけがある屋根裏のような部屋(イエス・キリストの死体を納める棺桶の意味があると亀山氏は指摘している)で、ドストエフスキーに読みふけっていたのです。
社会正義の実現のためには、眼の前の害ある虫けらのような人間は殺しても罪にならない――。大雑把に言えば、これが主人公ラスコーリニコフの思想です。そして、その行為が許されるのは天才である自分。これがナポレオン思想なのです。私は、若い頃、少なからずこの主人公の思想に共鳴しました。といっても、そうそう、人を殺したりはしませんけど。観念的な部分で感銘を受けたのです。閉塞状況の中、若者は自分を打開するために、自我と社会正義を強引に結びつけるものです。
今回、読み直してみて、以前ほど主人公と同期化出来なかったのは、当時に比べて、今は仕事も家族もあって、それなりにゆとりがあるからなのか? いや、相変わらず、おかね的に裕福に遠いし、こころ的にもストレスが多くて、ゆとりがあるとは思えない。もしかしたら、漠然と将来への不安はあったけれど、自分の主義で生きていこうと「野心」を持っていた当時の自分のほうが、ストレスもなく、幸せだったのかもしれない、と思えてきます。
『罪と罰』は、確かに面白い。一歩間違うと、通俗に陥りそうな面白さがある(これは、ほかの代表作にもいえる)。そこを、ドストエフスキーは、あと一歩のところで踏みとどまらせている。踏みとどまって、一段も二段も高いところへ超えていくのが、「神」の問題につながるところです。ただ、学生時代に、そんな「神」の領域につながる部分まで読みきれるものではありません。
――ああ、ラスコーリニコフか、オレと似ているなあ。今に、自分の主義、思想で生きられる時が、きっと来る。
そんな思いが、若い頃、『罪と罰』を読み進めさせた力なのです。
前より夢中になれなかったのは、「神」の問題はさておき、今では、自分が手を抜いて楽して生きようとしているせいなのだろうか、いろんな意味で。また、もしかしたら、ドスト氏の文章は、あの古臭い、古典調の、ちょっと、おどろおどろした米川正夫訳のほうがぴったり来るのかも、と思ったりもしました。
それにしても、ドストエフスキーの作品によく出てくる「どんちゃん騒ぎ」(飲み食いして大騒ぎする場面で、カーニバルと言われている)、こういう場面を書かせたらドストエフスキーは天下一品ですね。彼自身、酒好き、賭博好き、女好きのうえ、病気持ちでしたから、「どんちゃん騒ぎ」の場面になると、筆が急にヒートアップし、スピードを増し、生き生きしてきます。酒・賭け・女に狂う血が大いに騒ぐのでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます