FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

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『ブラック・スワン』 二重人格と分身 ~ ナタリー・ポートマン

2011-10-09 21:56:35 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 

経済で「ブラック・スワン」といえば、突然起こりうるリスクの発現のようなことをいいます。たとえば、「100年に1度」のリーマン・ショックとか。ちょうど、何万羽の白鳥の中に、突然変異で現れた黒い白鳥のように。

 

映画『ブラック・スワン』は、文字通り「黒い白鳥」のこと。チャイコフスキー・バレー劇『白鳥の湖』における白鳥に対する黒鳥。この映画での『白鳥の湖』は、魔法で白鳥にされた恋人が元の姿に戻り王子の愛を得ようとするまでの物語です。白鳥が元の姿に戻るためには真実の愛を得なければならない。しかし、黒鳥が王子をたぶらかし王子の愛を奪い取ってしまい、絶望した恋人の白鳥は自ら命を絶つ。この白鳥と黒鳥は同じバレリーナが演じるのです。

 

その主役を射止めたバレリーナの心の葛藤を描くストーリーです。清純なバレリーナ・ニノ(ナタリー・ポートマン)は清らかで美しい白鳥を演じることはできても、官能的で男をたぶらかす黒鳥を、しかも白鳥との二役で演じる(踊る)ことがとてもできそうにないという絶望感と精神的な相克から人格が崩壊していきます。

 

今、「精神的な相克」(あるいは「超克」とも)などと難しい言葉で書きましたが、これは単に「プレッシャー」という言葉では表現しづらく、むしろ哲学的あるいは精神分析学的な用語で言った方がふさわしいからです。あるべき自分を追求して表現するためには、今ある自分を抹殺しなければならない。極端にいけば、これは自殺という形になります。映画の終盤でも、ニノは幻覚から相手を殺すつもりで自分を「殺して」しまいます。

 

今の自分を乗り越えるためには、それだけすさまじい精神的な闘いがあるのです。この闘いはしばしば肉体を傷つけることを伴います。そこから逃れるためには、闘わなければすむ。しかし闘わなければ、それはそれで自己の滅びを意味する。自分という他人と闘い勝つためにはその他人を殺さなければならない。それは自分を傷つけることと変わらない。自分の中の他人を殺してこそ、新しい自分が生まれる。

 

芸術や学問、スポーツでは、こうした壮絶な精神あるいは肉体との闘いが常にあるのでしょう。これが新しい自分を創造するということなのです。この映画では、そうした主人公の精神の移ろいがよく描写されています。ナタリー・ポートマンの清純な女性から官能的な女に変貌する(要するに一皮むける)演技も見ものです。

 

付け加えますと、この映画を日本では「サスペンス」と形容していることにどうも違和感があります。そんな形容はなくても、この映画は興業的に成功したでしょうし、ナタリー・ポートマンの演技も素晴らしく、アカデミー主演女優賞を取ったのもうなずけます。主人公の精神的な変貌の過程を実感できれば、いかにサスペンスという言葉が軽いかがわかります。

 

たびたび、主人公ニノは幻覚を見るようになります。しかも自分の分身を。これは精神分析学的には「ドッペルゲンガー」といわれるものです。小説ではドストエフスキーの『分身』という作品があります。自分とまったく同じ人間、同じ顔、同じ声、同じ背格好で、同じ町にいて、しかも同じ仕事をしている。自分と同じ人間をたびたび見かけ、その人間の正体を暴こうとするのですが、いかんせん、相手は自分自身ですから、どうにもこうにも・・・。こういう分身を見た者はやがて死を迎えるなどといわれたりしています。

 

単に比喩的な意味で、旧い自分を乗り越えるためにその自分を「殺す」ということにとらわれると、それこそ安っぽい「サスペンス」になります。実体験的にこの映画を少しでも感じることができれば、けっこう面白い映画です。

 

 



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