―― この柔らかい、熱い血潮がみなぎってくる、私の身体に触れようともしないで、ただただ、我が行く道を説こうとする君よ、さびしいことよ
ドストエフスキー研究家で『カラマーゾフの兄弟』の新訳を出して話題になったロシア文学者亀山郁夫さんが、日曜の日経新聞にドストエフスキーに関するコラムを連載しています(「ドストエフスキーとの旅」)。その中で、フランスの哲学者サルトルに少し触れていました。サルトルの「アンガージュマン」(社会参加への行動という意味)には、学生時代ついていけそうもなかった、と。
私も学生時代、人文書院のサルトル全集を全巻そろえて、片っ端から読みふけっていました。英米文学科なのに、読んでいるものはサルトルとかドストエフスキーの翻訳全集ですから、私の英語力なんて知れたものです。
サルトルの実存哲学の書『存在と無』は、難解ではありましたが、非常に刺激的でかなり影響を受けました。続いて、ハイデッガー『存在と時間』も読みふけりました。哲学書がこれほど面白いものかと当時は感じたものです。サルトルの「アンガ―ジュマン」は、確かに疲れてしまうところがありました。疑問を感じながらもそこから避けて通ることさえ、「自己欺瞞」として自分に跳ね返ってくる考え方なのです。
むしろ、私がとても魅せられたのは、「まなざし」の概念です。弱い自分は常に「他者」の「まなざし」にさらされている。他人に見られることによって、自分の存在は縛られる。その自分を守るためには、逆に「他者」への「まなざし」によって、「他者」を支配することである。他者を見つめることで、他者の存在を束縛できる。大雑把に書くとこのようなものです。
私はサルトルの存在論に夢中になって、自己流の存在論をつくったものです。
「僕は、僕の存在論を確立した。君を変えてみせる」
こんなことをまるで真剣に、まだ付き合ってもいない彼女に言ったりしました。
しかし、しょせん、紙の中の思想なんて、生身の相手に通用しなかったのです。特に、女性には。
―― やわ肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや 道を説く君
眼の前の熱い血潮を抱いてあげることもできずに、思想を語ったところで、どうして世の中を変えることなどできようか。まして、女の心を変えることなんて。
のちに、与謝野晶子のこの歌にうちのめされました。
青春期の脆さでした。
最新の画像[もっと見る]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます