新笠通信 奄美電信版

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もう一句むすめ

2008-08-25 10:16:06 | Diaries
おはよう

野球の3位決定戦は滅多にみることのできないいい試合でした

65年にドラフト会議が始まりました
優れた野球選手が中学や高校時代に活躍しますとプロ野球球団は選手としての入団してもらうことを強く望みます

選手はプロリーグへの入団を希望します

フィールドプレーヤーは希望する球団への入団を望みます

選手に人気のある球団とそうでもない球団といった違いが出てきます

特に優れた選手が人気の高い球団だけに入団してしまうと
人気の高い球団が特に優れた選手だけを入団させてしまうと

チーム力に大幅なかたよりがでてくるものです

年間を通じてレースにならなくなってしまうわけです

圧倒的なチーム力を誇る球団が人気の高くない球団に完勝するゲームを

年間を通して楽しむというのは

弱いものいじめを無意識のうちに楽しむ趣旨が興行に含まれていくようになります

どのスポーツでも最初に競技界全体の健全な成長が望まれます

プロチームが形成されるまでに成長した競技はほんのごくわずかです

競技界全体の成功として位置づけられる筆頭のものが野球になります


興行として採算のあう、継続の可能なスポーツ競技界を生み出すことはほとんど不可能です

祝日平日を問わず、競技場まで足を運ぶ観戦希望者

が存在するか否か

興行としての成否はこれに尽きます


業界全体に対する期待や信用というのがあります

業界が(業界の関係者が)失望や疑念を与えてしまうようなことは問題外です

期待されて、支持されて興行界全体が中断することなしに業界であり続けてきているわけです

見たいという人がいないと始まらない事業なのです

興行界というのはいち事業なわけです

事業の成否には信用が強くかかわってくるわけです


ゲームには結果がついてきます

結果が意図的に操作されるようなことがあるとゲームにはならなくなるわけです

結果が予定されている芝居を見せられたというようなことが起こると業界の信用は地に堕ちてしまいます

競走馬によるレースなどの公営ギャンブルの業界でも同じです

着順を意図的に操作するような不正の存在は期待を失わせることにつながります

不正によって着順が予定されていて、期待を持っているほとんどすべての人は意図された着順を知ることはできない

そんな興行につきあうのは無意味なことだと不正を知った人はあらためて思いを強くするわけです


世代交代というのは確実に訪れます

時間がたつだけで人々が抱く期待の対象というのは移り変わっていくものです

30年以上たったあとに、引退世代の入れ替わりも確実に起こり

ある競技の業界全体の責任者の顔ぶれも変わってきます

20代30代の現役世代が引退世代となった時に

どの競技界に強く期待を抱くものでしょうか


地方では、出身者が大相撲界で活躍することに大変期待が持たれています

ありとあらゆる競技界というのが存在しますけれど、

その中でも力士への期待は群を抜いているといえます

地方というのは誰かといえば、自治体となるわけです

地方でメッセージを発信するのは自治体ぐらいしかありません

自治体の長が期待していると述べるわけです


自治体はよくしゃべるというようなニュアンスは正確なものではありません

自治体は誰かにしゃべらせるから意向を伝えることができるわけです

とにかく、この地方では自治体に絡む世代の人が大相撲に期待をしていると言っているわけです

業界を代表して応援しているといっているわけですから

応援しているという代表をみれば、どういった業界が応援しているかというのがわかるわけです

地方では自治体という業界に並ぶ業界というのがありません

自治体以外の業界による支援というものがなかなかイメージされることはありません


野球やサッカーなどプロリーグの公式試合を継続的に実現するにはバックアップ体制が十分に整っていなければなりません

地方に自治体ぐらいしか業界といわれるようなものがないとすれば、このような興行費用を試算するのは自治体ぐらいしかありません

適当だといえる特別な措置はいくらでも考えられるわけです


世代が変わり引退世代になった人々がどのような競技に期待しているかというのは重要です

大相撲や野球といった競技界は完全に防衛的地位にあるといえます

人口はそう大変動するものではないので、競技界に期待を持っている人の数はあまりかわらないわけです

「楽しめるから競技場に行く」から「競技が行われているから見に行った」に変わってしまうと

「競技が行われていても見なかった」に変わってしまうのはあっというまです

期待をもたれるというのはとても大切なことです

どっちもベストを尽くしていて、競技後の結果は事前にはわからない

これはもっとも大事なことです


競技を見てなにかをとりもどす

というようなことは大事なことです

競技を見たらいろんなことに気づけるものだと思います

戦争の作戦行動と競技の作戦行動との違いを探ってみることは有意義なことです

平和のために戦争に勝つと言っているような行動と比較してスポーツの神聖さを再確認することはよいことです

公正な競技、公正な競争などと言ってられないというようなところから戦争の肯定が起こります

公正な経済取引を行うという哲学をもたないところに略奪が発生します

腕力で充足を充たすというのはとても原始的なことでまた自然摂理でもあります

原始的な人間同士では闘争しか起こりません

自然な食物連鎖の原理で生きてしまうと

本能の原理だけで行動してしまうと

公正な環境を実現するために考案されてきたほとんどのルールを無視するようになります

ルールの異なるグループと接触することで腕力による意思表示を行うことを検討してしまいます

ルールの異なる相手との対話を武力でしか図れないということが起こってきます


世界を知るということはルールの異なるグループとの対話能力を身につけるということになります

ルールの異なるさまざまなグループとの接触を可能にしていく能力を身につけるということになります

グループ内でのみ対話が行われる

というのは古来の様式です

グループ内だけに通用しているルールにしか対応できていないため

グループ外との接触に武力にかわるものを歴史経験的に携えてしまうということがあるかもしれません

未知の概念との接触は手ぶらでは行えないというのがあるかもしれません

ルールの異なるグループとは接触しないという絶対確実だと考えられる選択が選ばれやすいものかもしれません

世間が狭いというのは関係しているグループのルールしか知らないということだと考えられます


オリンピックというのは世界共通のルールが実現される貴重な機会です

スポーツ以外の業界で世界共通のルールを実現することはとても困難なことです

異なるルールとルールが接触し戦争までもが検討されてしまいます


原始的と考えられる本能的な行動が目立つグループには

武力を持たせてはいけないと

理性的な現代人は考えます

欲のままに行動してしまうグループに武力が備わると

似たような欲の強いグループが存在しなくなるまで

実際の戦闘を行ってしまいます

戦闘相手のグループがなくなっても

グループの内部で殺し合いが始まってしまいます

欲のままに行動してしまうグループが武力を確保したらきりがなくなります

次から次へ欲のままに行動してしまうグループの模倣が全体で繰り返されます

生き残るには武力に頼るしかないのが常識となってしまいます

そういう時代を経験しているわけですけれど

人が殺戮しあうということの恐ろしさをよくわかっていない人が新しく増えていってしまうと

日常社会の中に擬似的な戦争が発生していってしまうのかもしれません


無差別殺人はある意味戦争行為です

武力の調達手段がないなりの実戦活動であるといえます

誰かが気づくにしても気づかないにしても

誰も相手にしてくれないという最終評価を自分に下しています

アピールしたところで自己に対する扱いというのが一定化している環境にあると断定しているわけです

儀式として象徴的な演出は必要であったのです

いろんな意味での卒業式だといえるわけです

決別式を派手に行っているわけです

人間には残酷なところがありもともと面倒を見る気がないのにあれこれ意見するというところがあります

かかわりたくない相手には意見しないという行動を無意識にとっているわけです

ここまでやっても一考だにしないつもりかとも言っているといえます


共通しているのは自爆をしていないタイプのテロ行為だといえます

自殺者と共通項としてもよいといえます

同じ共通項としたとき

普通の例では自殺しているものであろうともいえます

自殺という行為に帰結すると考えられる要因を抱えている者が自殺という手段をとらずにかわりになんらかの行為をなすようになるとすればそれはどのようなものになるか

といったせっぱづまったテーマになります

自殺直前にはいろんなものに動かされやすい状態になっているといえます

よくない内容のものを受信してしまうと

殺人者へと容易に変貌してしまいやすくなるとも考えられます

すでに死んでいる者として自己を認識している者が持つ現実感は理解が容易でないものとなっていると考えられます

現実と死後の世界の境界があいまいになってくると自分や他人の生死はほとんど問題がないものとなってきているといえます

生きているも死んでいるもなくなっているものに所有の概念はありません

不特定の対象者に怨みがあってもなくても殺傷した相手の生死とははじめから無関係の存在なわけです

私が殺傷したから死んでしまったとはなっていないものです

私と死亡者は最初から最期まで無関係となっているわけです

この名義がこの名義を殺傷したというのは社会が記録したものによることだとなっているわけです

本人は自分がなんという名前を持っていてもこのような状態に陥るしかなかったと考えているわけです

自分のなんとかなんとかという名前にはまったく束縛されていないわけです

社会に記録され認識されている名義には何も負っているところがないとしているわけです

武器を持って錯乱している者が自分を傷つけていない

というところが重要です

化けているものに接触した死傷者の犠牲だけは避けることができない

という事実だけはあるわけです

化け物に変わっている間は人間として認識してはいけないわけです

ひととおり殺傷を終えても落ち着かないということはまずありません

殺傷を終えても我に返ることができていないとすれば息絶えるまで殺戮を継続するでしょう

捕獲されて化けの皮を剥がしてもらえるという願望が充たされるわけです

これから先、恐怖感を与えたり、正しい教えを施すといったことがまったく無意味なものとなるわけです

正しい教えに導かれたことを確認しあったのち死んでもらう

生きている間は恐怖を覚えた人々の思いを味あわせ続けられなければならない

といったことがほとんど効を成さないわけです

それこそ儀礼的、儀式的といったものになってしまうわけです

これから施す処置が誰のためになるか

誰の役にもなりようがないのです

殺人者へ処置を行うことが役に立つと考えられるはずだった人はもう死んでしまっているのです

犠牲をださないためには殺傷を予定している者の自己申告しかありません

無差別殺傷しか思いつかないと考えていることを耳に入れる役の人が必要なわけです

相手をしてくれないと犠牲者の発生もやむをえないといった旨のメッセージをキャッチしやすくしなければなりませんし発信しやすくもしなければなりません

人を殺したといった虚偽の自白への対応

収容先の確保が必要なわけです

異常を自己申告してもらい隔離された環境が提供されなければならないわけです

殺人者は自己の名義に対してなんら負っていないというのは他の主体に対して因果関係を認められないということになります

他の主体に対して責任関係を負えていないということは主体として無能力な状態にあるといえます

他の主体に対する責任関係能力を持たないものに対しては前処理というものと後処理というものがあります

他の主体との間で負の因果関係がひきおこされてしまうことがないようにと前処理が行われるわけです

前処理が行われていない無能力者がひきおこしたものが負の因果関係といわれる無差別殺傷事件といえるわけです

メディアの影響は大きいため慎重さはとても重要になります

無差別殺傷事件のようなものをひきおこす引き金として精神状態が不安定なものに不要な刺激を与えてしまう機会と遭遇し続けているといえます

一時的におかしくなっている人がいっせいに暴走してしまうような編成も手法次第だといえるわけです

無差別の犠牲者となってしまう人が発生することを誰一人望んでいないという大きな軸があるわけです

おかしくなっている人を挑発することはおかしな行為を誘発させてしまうことにもなるわけです

起こるべくして起きた不幸ではないと証明することは誰にもできません

人物を知った気になるというのは大変な過ちです

誰一人として他者の深層を知ることはできないから共通ルールの確認を行っているわけです

共通ルールの確認作業ののち対話の決裂を一方的に宣言したものが武力での対話への切り替えに移行します

共通ルールの確認後対応可能性を断念したものが不特定の多数に対して報復行動へと向かってしまいました

共通ルールに対応できないとする自己申告は重要です

共同体の中にルールに適応できない人物を扱う部門があることは重要です

不適応者の完全追放を社会が実現しようとすれば、追放されたと認識した不適応者の常軌を逸した行為によって無駄な犠牲者が発生してしまいます

接触することによって実害の発生が予測されるから一般の人には対応できないとされるわけです

対応できる人と対応できない人にはっきりとわかれるわけです

一般の事業所ではあまりにも無力であるといえるわけです

そもそも事業所というのは適応性を特に重要視してコストがかかる可能性を前もって除去しているわけです

コスト面で際立った被害をもたらす可能性があるかどうかを気にしているわけです

毒にも薬にもならないタイプのほうがよいことが多いわけです

よその団体と負の因果関係をひきおこしてくれるような人物はいらないわけです

よその団体に実害を加えたら、自己の団体は謝罪し弁償しなければならなくなります

一般事業所がかかえられる災難にも限度があるといえます

無差別殺人者はしゃかいびととしては死んでしまったけれど、親は社会ビトとして死んではいないわけです

親が生き残ってしまっているともとれます

親が生きていくのにこの犠牲は避けられない性質のものとなっていたということもあります

何かを見て育ったことにはかわりありません

今まで見たなにかの中からでしか人格の形成は行なわれえません

提供された環境をみて感じ取り方を形成していったわけです

誰がどのように感じているかを想像できる能力は大事です

誰かがこのように感じているということについてまったく無関係を決め込む

刺されて痛みとともに死を予感していくという感覚は当事者にとってまったくひとごととなっているわけです

一方的に他者にいろんな感情をいっぺんに与えているわけです

喜怒哀楽の共有にはそれなりの礼儀というものが必要です

喜怒哀楽を共有するためにはまず関係性の構築が必要となってきます

日常ではグループの内部でしか喜怒哀楽の交換は行なわれません

喜怒哀楽の交換すら行なわれないグループではグループ外活動に喜怒哀楽交換の場を求めます

喜怒哀楽の交換にふさわしい対象との関係性というのもあります

通常喜怒哀楽は従であって主ではありません

感情を扱う商売というのが例外的にはありますが

本能的感情では産業は成立しません

ものがたりは心理を扱っています

最初から最期まで心理であることがほとんどです

脚本屋のフィルターを通してしまえばどのような人物であっても心理をひょうしゅつされてしまいます

さかなをさばくように題材に選んだ者の脳みそをさばくわけです

このような人物だと描かれてしまったら誤りである点については否定をしなければなりません

人物の心理を完全に知るというのは不可能です

人々に支持されることについては理由をつけなければ表現できません

その逆もそうです

人物像というのは社会が持っている期待、願望に適わされていくということがしばしば起こります

誇張すればきりがありませんが、丸裸にすれば市場への供給には向かなくなるという性質があります

自伝と他者が残した人物評があるとすれば

他者の残す人物評の史料価値が大勢だといえます

他者が描く人物評眼というものが描いた時期における社会評となります

他人の口からしゃべらせるというように

社会が漠然と抱いている主張というものをキャラクターにになわせることもあります

誰かが評を残すというのは大事です

ある業界としての評が残されるというのは大事です

自己評は権威とはならないからです

評価を残す業界というのは評に責任を負っているわけです

はくがついてしまうことをわかっていて評を行っているわけです

責任をもって箔づけを行っているわけです

広告事業は受け取る報酬の範囲で可能な限りの責任を持ちます

事業なので労力が投入されています

受け取った対価に見合う範囲内でしか責任をとれないわけです

商業は宣伝広告にかかるウェイトが非常に大きいわけです

宣伝広告はある意味力ずくといえます

資金力の有無が決定力となります

事業として成り立ってきているのは収支構造が数値化されているからです

動いてはいけない案、動かなければならない案というのがはっきりしてくるわけです

評価を交わすには業界との関係が明確にされていなければならないわけです

どの業界にも上下官構造があります

どの業界とも関係性がないというのは上官の影響を受けないとなります

業界グループ内で上下構造に組み込まれたら

上官の指示はほとんど絶対です

業界の意向にほとんど影響を受けます

説得する相手をまちがえたり

望ましからぬ人物に気づかれたりすると

既成の台本が届くようになります

実際に構成している人がことばを握っているわけです

業界が評を残すということはとても重大なことなのです


次回は日本での銀行業の興り
プロジェクトファイナンスとは何か
どの団体とどの団体の間でプロジェクトファイナンスの検討が行われるか
融資規模はどれくらいか
ほとんどは国外事業か

について
このような大プロジェクトに参加するにはどのような団体に所属していなければならないか
を学生のうちに知ることができるでしょうか


終戦と同時に帰国手段を失った日本人が大量に発生しました
帰ることができた人帰ることができなかった人
それぞれ国内と国外という異なる生活環境の中で同じ時代を生きたわけです
帰国できた人が帰国できなかった人をどう扱ったかというのは重要です
敗戦直後に捕虜として生きていくことになったわけです
捕虜でなくても人身売買され労働力として持ち込まれた人間と同様の境遇に置かれることもあるわけです
大陸から帰れないで現地で差別的な地位におかれあたらしくできた子孫も優先的に教育を与えられてきていないとすると
国外に対しての自力での接触はほとんど不可能になっていると考えられます
教育を受けないとグループの外との対話を実現することはほとんど不可能です
接触手順を知らない人を要所要所で門前払いする
社会はそうでなくてはいけない性格も有しています
国外への移動費用を工面できない労働環境というのがいたるところにあります
条件のよい土地へ人間が流れるのは自然なことです
労働力がどっち側を向いているかを知っている団体主体が流出を促進することはありません
土地に縛るというのは自然に発生してきている傾向とみることができます