平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
第16回は生島光貴(体育4・福岡県立福岡)と成沢巧馬(体育4・東邦)です。
是非ご覧ください!
こんにちは。
筑波大学 4年生島光貴です。
平素から筑波大学硬式野球部への多大なるご支援、ご協力誠にありがとうございます。
普段、多くを口にしない私ですがこのブログを通してどのような大学生活を過ごしてきたのか、どのような気持ちで野球と向き合ってきたのか知って頂けると幸いです。
私の大学生活は西浦との出会いから始まりました。
引っ越しの作業を終え、部屋でくつろいでいるとピンポーンとインターフォンが鳴り、ドアを開けると物怖じしない太い眉の凛々しい青年がいました。
「八尾高校から参りました。西浦謙太です。よろしくお願いします。」
これが彼と交わした最初の言葉でした。
お互い寮飯生(アパートで生活をし、朝食と夕食は寮で食べることができる制度)ということもあり、同じアパートの隣の部屋だったのです。
この青年が私の野球人生に大きな影響を与えることを当時の私は知る由もありませんでした。
次の日から野球部での活動が始まりましたが、新型コロナウイルス感染拡大のためかなり制限された練習でした。そして、その日を最後に無期限の活動停止が告げられました。
急にやることがなくなり部屋でボーっとしていると「キャッチボールせーへん?」という西浦からの連絡がありました。
そこから、大貝、大高、西浦の4人で毎朝体を動かし、午後に課題をこなすという生活を送るようになりました(オンデマンド授業のため自分の好きな時間に受講することができた)。
また、この頃から夜は2人で素振りを行うようになりました。どちらかが「終わろう」というまで続き、長いときは1時間近くバットを振っていました。
そんなある日、昼寝でもしようとウトウトしていると隣の部屋から「フォーー、あかん、きつすぎる」といううめき声のような、叫び声のような声が聞こえてきました。一瞬にして眠気は吹っ飛び、隣の部屋をのぞきに行くと上裸でプランク(体幹トレーニング)をしている西浦の姿がありました。
まるで古代ギリシャ彫刻のように筋張った上半身を今でも忘れることができません。大きな事故やケガではなくよかったと安心し眠りにつこうとしたのですが、どうしても眠ることができませんでした。
気が付くと自分も上着を脱ぎ、トレーニングを始めていました。そこからは朝の運動、昼の体幹トレーニング、夜の素振りとハードな生活を送るようになりました。
そんな生活を一か月近く続け、充実と成長を感じていたある日の夜。いつものようにご飯を食べ終え、二人でアパートへ戻っていると西浦が「何のために筑波来たかわからへん、はよ野球したいわ。」と僕に訴えてきました。
この言葉を聞いたとき今の生活に満足していた自分を恥ずかしく思うと同時に自分はつくばで何を成し遂げたいのか、どうなりたいのか深く考えさせられました。
その後、西浦はリーグ戦メンバーに選ばれ、代打の切り札として結果を残していきました。
一緒に頑張ってきた仲間が活躍することはとても嬉しく、誇らしいことでした。が、その反面悔しさもありました。二年になっても結果を残すことができませんでした。グランドで躍動するAチームの選手を眺めながら鳥かごやハウスなど空いたスペースで練習に取り組んだことは今でも自分を奮い立たす経験となっています。
このように内容の濃い下級生時代を過ごし、三年からリーグ戦に出場しました。リーグ戦では野球の難しさと奥深さを感じました。こんなにも色々なプレッシャーが襲ってくるのか。心も体も削られていくそんな感覚がありました。
ですが、試合を重ねるごとに自分たちの野球を理解し、バラバラだったピースが一つ一つ当てはまっていく、チームとして成長していく、そんな貴重な経験をすることができました。
しかし、勝負所で勝ち切ることができず悔しい思いをしてきました。森口ヘッドを中心にどうしたら勝ち切れるのかキャンプやOP戦を通して突き詰めてきました。
そして今、新しい筑波の野球が完成しようとしています。
残すところあと秋のシーズンだけとなりました。
今の僕があるのも西浦の存在が大きかったと思います。彼の野球に対する取り組み方や向き合い方には常に刺激をもらっています。
「西浦に負けたくない」そんな気持ちが僕を突き動かしていたのだと思います。そんな良き友であり、良きライバルに出会えたことを本当に嬉しく思います。ありがとう。
また、多くの人の支えもありここまでやってくることができました。特に東條さんには目標に対して進むべき方向を明確に示していただきました。正しい努力をすることの大切さ、それを通して勝つことの喜び、上手くなることの楽しさを実感することができました。結果で恩返ししたいと思います。
同期のみんな
ここまで平坦な道のりではなかったと思います。上手くいかなかったり、悔しい思いをしたり色々な感情を抱えながらやってきたと思います。それでも続けてこれたのは野球が好きだったから、筑波という組織が好きだったから、かけがえのない仲間と出会えたからだと思います。こんな素晴らしいチームで、最高の仲間と本気で野球に取り組めるのも残りわずかです。今の自分の役割を全うしよう。
粘り強く、泥臭く、相手より少しだけ上回る、そんな筑波の野球を体現していこう。
リーグ優勝、日本一、そして、西浦を胴上げしよう。
体育専門学群4年 生島光貴
福岡県立福岡高校
筑波大学硬式野球部4年、副主将の成沢巧馬です。
日頃より筑波大学硬式野球部へのご支援・ご声援のほど、誠にありがとうございます。
小学校4年生の時に始めた野球も、大学ラストシーズンと共に引退します。
今まで当たり前の生活だった「野球をする」ということが、あと少しで終わってしまうと考えると、すごく不思議な気持ちになります。
僕にとっての野球は、小学校・中学校のクラブチームや、高校・大学の進路など、大きな選択をするときには必ず中心で考えるものでした。そんな野球を通して、良くも悪くも様々な感情を味わわせてもらいました。
今回どんなことを書くかすごく悩みましたが、野球人生における「感謝」というものをこのブログでは書いていこうと思います。
まずは小学校時代から振り返っていきます。
僕は、小学校4年生の時に、友達に誘われて日進デポ少年野球クラブで野球を始めました。この時野球を始めるきっかけを作ってくれた親友には、今でも本当に感謝しています。
この頃は、練習をすればするほど上達し、そのことが嬉しくて、毎日沢山練習していました。
そして、6年生の頃には中日ドラゴンズジュニアに選んでいただき、自分より速い球を投げる人や、遠くに飛ばす人がいることに驚き、さらに努力するモチベーションになりました。
また中学では、野球人生での大きなターニングポイントとなる出来事がありました。
それは豊田リトルシニアに入団し、「唯一やりたくない」と言っていたキャチャーというポジションに出会えたことです。
やりたくなかった理由は、硬式ボールが怖かったことと痛い思いをしたくなかったからです。しかし、キャッチャーというポジションで自分の可能性を見出だしてくださった豊田シニアの指導者の方々に、今となってはとても感謝しています。
そして高校は、「人生において一番輝いていた」と死ぬときにも言えるであろう、“甲子園優勝”という経験をしました。
この時の景色を見て、他のなにものにも代えがたい感情を抱いたのを覚えています。
そして、「努力は報われる」と初めて感じた瞬間でした。
高校時代の恩師である森田監督は、厳しさの中にも人間味のある方で、このブログでは表しきれないほど感謝の気持ちがあります。また、今でも連絡をくださり気にかけてくれる木下コーチ、お互いを高めあえたチームメイトとの出会いは、自分にとっての大きな財産だと思っています。
そんな中で、自分自身に期待して入学した大学では、思い描いていた野球生活とは程遠いものでした。
推薦で入学させていただき、自分の中ではリーグ戦で結果を出すことに対する責任というものは常に感じていました。しかし、自分の肩と肘は全く言うことをきいてくれなくなりました。怪我や手術の影響で、夜中に痛みで何度も起きてしまったり、リーグ戦が迫ると出たいという気持ちが強く、痛み止めの注射を打ってプレーをするという生活。
高校時代にあれほど最高だと思っていた野球が、こんなにも辛く苦しいものになるとは想像もしていませんでした。
しかし、苦しかったことが多かった分、人として大きくなれたのではないかと思っています。これも、なにものにも代えがたい経験でした。野球というスポーツに、本当に感謝です。
このように野球人生を振り返ると、多くの人に出会い、支えられ、本当に恵まれた環境で野球ができていたことを実感しています。
そして特に感謝を伝えたいのは、一番近くで支えてくれた家族です。
いろいろなことを犠牲にして僕の野球を支えてくれました。甲子園で優勝できたことで1つ恩返しができましたが、今度は「12年間の集大成」としての恩返しができるよう、ラストシーズンに挑みたいと思います。
最後にチームメイトへ
ここで多く語ることはあまりしたくないので一言だけ。
神宮で引退しよう。
体育専門学群4年 成沢巧馬
東邦高校
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